闘志桃児
県昭政
第1話 闘志桃児
第一章 宇喜多(うきた)家
「掃部(かもん)様、もう腹が減りまくりでございますよ。飯屋は、まだですか」
「左衛門(さえもん)、もう少し我慢致せ。我らはキリスト教信者だ。例え、今が厳しくとも、主が必ずやお守り下さる。それに贅沢を言ってはならぬ。世の中では、今も飢えに苦しんでいる人々が大勢いるのだ。その方々のことを必ずや忘れぬように致せ」
「しかし、私が腹が減っているのは、ごまかせませぬよ。お腹の中で、音が鳴っておりますよ」
「やれやれ、左衛門はまだまだ修行不足だな」
「修行不足であっても、腹は減ります」
「まあ、歩いて行けば、いつかは、飯屋が見つかろう」
「そうだと良いのですがね」
このような話のやり取りをしているのは、あるじの侍とその家臣である。場所は、山の峠であった。あるじの方は、明石掃部頭(かもんのかみ)全登(たけのり)といい、豊臣秀吉が天下の権を握っていた頃、備前(びぜん)、美作(みまさか)、備中(びつちゆう)半国、播磨(はりま)三郡の五十七万四千余石を治めていた大大名宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の家老であった。
掃部は、髪型は総髪で、肌は浅黒く、小顔で顎が細い。瞳は茶色で穏やかな感じがしている。鼻は高かった。そして、よく微笑んでいる。口と顎の髭は豊かであり、特に顎髭(あごひげ)は長くて艶があり美しい。齢(よわい)は四十三歳だ。身丈は五尺五寸。体の重さは十二貫である。短槍を手に持っている。槍先は、人を刺さないように厚い白布で包んでいる。
家臣の方は、明石軍で忠義と勇敢さが、軍一番と言われていた犬山左衛門利家(いぬやまさえもんとしいえ)である。左衛門は、髪型は大月代で二つ折髷(おりまげ)であり、眼光が鋭く鼻は高く、匂いに鋭い。一里先の匂いも嗅ぐことができるらしい。戦場で、気づかれないように敵が近づいてきていたり、伏兵がいたりする時も、匂いで、すぐに分かってしまう。これは誰にも真似ができない左衛門の特技であった。顎は尖っている。口髭と顎髭が薄かった。体毛が薄いのである。齢は三十九歳である。身丈は五尺八寸。体の重さは十六貫である。どちらも江戸時代初期で言えば、大男で、痩せてもおらず太ってもおらずの、程よい体格であった。従って、歩いている時は、よく目立つ。すれ違う者が振り返るほどである。
二人は京の都を目指していた。掃部は、山の峠で、関ヶ原の戦いのことを思い出していた。まさに激しい戦であった。
秀家の父親は、宇喜多直家と言い、戦国の世で手段を選ばずに、敵や味方を次々と暗殺していった、極めつけの下克上の男であった。斎藤道三、松永久秀と並ぶ三大姦雄(かんゆう)の一人とも言われていた。直家亡き後、先の太閤豊臣秀吉の養子になり、幼少の頃から秀吉に溺愛されていた。
そして、父とは全く異なり、謀(はかりごと)などをせずに誠実に生きる一本気な青年へと育った。秀家は、可愛がってくれた秀吉に、深く恩義を感じている。若年ではあるが、豊臣家を支える五大老の一人に選ばれたほどである。
掃部は、文禄五年(一五九六)に、大坂城の改修工事を命じられ、差配を行っていた時に、掃部の従兄である宇喜多左京亮詮家(さきようのすけ あきいえ)(秀家の従兄でもある)に熱心にキリスト教信者の受洗に誘われた。
「掃部殿、イエス様は、愛と平等を説いておいでになさる。このような素晴らしい教えは他にはないぞ。是非、信仰なされよ」
「いや、折角のお誘いで申し訳ございませんが、私は、代々明石家で信仰している曹洞宗で、禅を極めとうございます故、お断り申す」
初めは、このように断っていた掃部であるが、左京亮の熱心な誘いに負け、教会に行き、司祭の説教を聞いて、礼拝に参加して、受洗したのである。
洗礼名をジョアンと言う。最初は、キリスト教にあまり熱が入っていなかった掃部も、その教えに触れ、次第に信仰熱心になった。人々が皆平等と説かれてあること、イエス・キリストの愛を説くことに、心が奪われたのである。聖書も懸命に学んだ。旧約も新訳もである。原書の聖書が書かれてあるラテン語も勉学に努め、聖書をラテン語で読むことができるようになった。そして、自ら、キリスト教を領内で熱心に布教し、掃部の家臣の多くが、キリスト教信者となった。
秀吉が慶長四年(一五九八)に亡くなった後、宇喜多家では、お家騒動が起こった。秀家は正室豪姫とともに、豪奢に暮らし、朝鮮攻めでも、幼少の頃から可愛がってくれていた秀吉の恩に報いるために、他の大名と比べても、より大規模な軍勢を率いて、長年戦った。そのせいで、宇喜多家は、財政が逼迫した。そして、豪姫が実家の加賀前田(まえだ)家から連れてきた中村次郎兵衛(じろうべえ)を重用した。次郎兵衛は、政務に優れていたからである
重臣だった戸川肥後守(ひごのかみ)達安(たすやす)、岡越前守(えちぜんのかみ)貞綱(つなさだ)たちは、宇喜多家の財政の逼迫の問題などを秀家に何度も換言したが、秀家は、太閤様(秀吉)のためだと言って、考えを一切改めなかった。そして肥後守たちは、新参者なのに専横していた中村次郎兵衛と対立していた。そして、それまで秀家を保護していた秀吉の死によって、重しが取れたのである。
戸川たちは、中村次郎兵衛の処分を秀家に迫るが、秀家はこれを拒絶した。次郎兵衛は、故郷の前田家に逃れ、戸川たちが大坂の宇喜多屋敷を占拠する。
秀家は、この騒動の首謀者を戸川肥後守として、肥後守の処分を要求した。しかし、秀家と従来から対立していた従兄弟の宇喜多左京亮詮家が、肥後守を庇って大坂の自分の屋敷に立て籠もる。両者は緊張状態となる。
豊臣家から慌てて、調停が入った。調停は最初、越前敦賀(つるが)城主の大谷(おおたに)刑部(ぎようぶ)吉継(よしつぐ)と徳川家康の重臣である榊原(さかきばら)式部大輔(しきぶだゆう)康政(やすまさ)が請け負ったが、康政は、宇喜多家の弱体化を図る徳川家康によって、いらぬことをするなと注意されて、呼び戻された。
秀家と肥後守護たちの対立は解消されず、大谷刑部も手を引かざるをえなくなった。そして、家康が間に入り、宇喜多家の内紛は避けられた。肥後守たちは他家にお預かりになり、蟄居処分となった。肥後守よりも前に、秀家と揉めていた花房志摩(しま)守(かみ)正成も宇喜多家を出ていった。
このお家騒動で宇喜多左京亮、戸川肥後守、岡越前守、花房志摩守たちの宇喜多直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが、宇喜多家を退去した。この四名は、その後、家康の家臣となった。そのことで、宇喜多家の軍事力は大幅に落ち、政治力も衰えた。家康の目論み通りになったのである。天下を取るために、秀吉一途で邪魔な忠義者の宇喜多秀家の力は落ちた。そこで、それまで、父明石伊予(いよ)守行雄以来、宇喜多家の客将であった明石掃部全登が、仕置家老として、国政、軍事全般を取り仕切ることとなったのである。
掃部は、益々忙しくなった。朝鮮攻めで疲弊していた領内をくまなく巡り、民情を自分の目で確かめた。宇喜多家の民は、想像以上に貧しかった。そこで、掃部は年貢を軽くした。そのようにすれば、宇喜多家の財政の方に負担がかかるのは明白であったが、民を豊かにしなければ、宇喜多家の復興は、為されぬと掃部は考えていたのである。
そして、軍備の方でも、鉄砲隊と長槍隊の訓練に力を入れた。この二つは、戦場で必ず役に立つと考えていた。徳川家康が、秀吉が健在の頃に取り交わした約定を次々と破り、秀吉生前から誓いを立てて禁じられていた、勝手な婚姻を次々と行ってきた。そして、五大老の一人前田利家(まえだ としいえ)亡き後の前田家に難癖をつけ、屈服させた。掃部は、この不穏な動きを見て、近々、大きな戦が行われると考え、準備をしていたのである
また、宇喜多左京祐、戸川肥後守、岡越前守、花房志摩守たちが
お家を立ち去り、有用な人物が足りなくなったので、掃部は、大坂で浪人を雇おうとした。格別に厳しい面談を経て、数人の人物を雇ったが、正木左兵衛(まさき さへえ)という者が特に優れていた。総髪で右の目が左より少し高い。かと言っても、異様な姿ではなく、穏やかな眼差しである。あと槍を持たせれば、柄の握り方、穂先の付き方を見ても、美しく素速い。鼻は高く、唇はしまっている。肌は茶色で焼けている。論語、韓非子、孫子、貞観政要、資治通鑑を諳んじており、誤りがない。掃部の厳しい問いにも全く動じない。これは、数少ない逸材だと掃部は思った。掃部は左兵衛に尋ねた。
「左兵衛殿、今までは、どのお家にいらっしゃったのですか」
「はい、実は拙者は、徳川内府様に仕えておる本多(ほんだ)佐渡守(さどのかみ)正信(まさのぶ)の次男でございます。実の名は本多政重と申します。父が悪名が高いので、本多と言う名を憚って、この名を使っておりました。前は大谷刑部吉継様の馬廻りでございました」
徳川と聞いて、面談場の面々が騒ぎ始めた。宇喜多家では、既に、徳川内府が、幼き秀頼が当主である豊臣家から天下を奪うつもりだという考えが広まっていたからだ。秀家は、内府のやり方に、かなり激怒している。掃部は政重に問うた。
「何故、大大名の内府様の懐刀として有名な、本多佐渡守殿の側を離れられたのですか」
政重は涼しい顔で言った。
「拙者は、一度は、徳川家の一家臣の養子となったのですが、秀忠(ひでただ)様の乳母の息子と争いとなり、斬り殺してしまいました。訳は、父本多佐渡守を内府様の君側の奸と言われて、父を侮辱し、決して許せぬと思ったからでした。皮肉にも、その父とも、その斬り殺しで喧嘩してしまい、勘当を喰らい、それで徳川家には、いられなくなり出奔致しました。その後は、越前敦賀郡を治められている大谷刑部様にお仕え申しておりましたが、刑部様から、二万余石しかない自分の元では、お前は力を持て余し、実に勿体たいない。自分も、若き時に、亡き秀吉様から言われたことがあるから、よく分かる。刑部様は、キリスト教信者であり、同じキリスト教信者が多い五十七万四千石の大大名である宇喜多備前宰相(さいしよう)秀家様の元で力を振るうがよいと言われまして、こちらに参ったのでございます。宇喜多家では今、お家騒動が起こり、人手が足りぬから、そなたが宇喜多家を懸命に奉公してくれとも言われました。ここに刑部様からの紹介状がございます。ご覧下され」
そう言って、政重は書状を宇喜多家の家臣に渡した。掃部が、書状を見る。紛れもなく,大谷刑部の書状であった。 隣にいる家臣の一人が掃部に囁いた。
「掃部殿、もしや、徳川内府が宇喜多家を取り崩そうと企み、この者を送ってきたのかもしれませぬぞ。先のお家騒動で調停をして下された榊原式部大輔様を調停から外し、その後、出奔した者たちは、徳川家の元に次々と付きました。しかも、謀略で悪評高い本多佐渡守の息子でございますからな。油断召されないほうが宜しいかと」
掃部は、政重の瞳を見た。政重は目を逸らさずに、掃部を見つめている。そして微笑んだ。
「分かったぞ。政重殿の目を見れば、すぐに分かる。この方は誠の者である。信じるに足る。それに、このような文武優れた方者は滅多にいないのである。宇喜多家で大勢の者が立ち去った今、政重殿がいれば、大いに助かる。我が宇喜多家で重用すべきである」
また、家臣が囁いた。
「ほ、本当に、宜しいのですか。徳川の企みかもしれませぬぞ。危うきことかもしれないので、ご用心下され」
「いや、政重殿は重く用いるべきだ。本多政重殿、これから宇喜多家を宜しくお願い致します」
家臣たちは驚いた。しかし、宇喜多家での掃部の言葉は重かった。本多政重の登用が決まった。政重は、掃部に深々と頭を下げた。
「必ずや、宇喜多家の為にお役立ち致しまする。元主君の内府様と言えでも、豊臣家に害を為されるならば、決して許しておきませぬ」
第二章 関ヶ原
掃部は、宇喜多家にその人ありと言われ、慶長五年(一六〇〇)九月十五日の関ヶ原の戦いでは、宇喜多軍一万七千余の大軍の先陣を率いて、その激しい戦ぶりで、鉄砲を自在に操り、長槍で相手を叩き、激突していた徳川方の軍の福島正則(ふくしま まさのり)などの諸侯を大いに恐れさせたのである。
関ヶ原の戦いという、この激しい戦いを、実際に行って現地で見ていた者がいる。信長公記の著者で有名な太田牛一だ。慶長記において、次のように記している。
敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟(とどろ)かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、錣(しころ)を傾け、干戈(かんか)を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う。
合戦は、徳川方側は、先陣が福島正則と決まっていた。正則が先陣を自分が行うと、激しく主張したのである。家康は、豊臣家恩顧の大名を取り込むためにも、その代表格である正則の主張を飲んだ。
それにも関わらず、徳川が天下の権を持つかどうかの大事な戦に、徳川が先陣を務めるべきと主張していた家康四男の松平忠吉(まつだいら ただよし)とその舅である井伊直政が、鉄砲を撃つという抜け駆けを行おうとした。そして実際に、忠吉と直政が率いる鉄砲隊の銃撃によって、関ヶ原の戦いは開始された。当時、関ヶ原では霧が濃くて、周りが、よく見えなかった。そのために、忠吉、直政は、味方の軍の中を隠れて進み、抜け駆けをすることが出来たのである。それに怒った福島正則が続いた。福島勢は、正面の宇喜多軍に向け、銃撃戦を仕掛けた。明石掃部も、負けずに鉄砲を撃たせた。
石田三成(いしだ みつなり)軍には黒田長政軍、細川忠興(ほそかわ ただおき)軍が攻めかかった。石田軍を始めとする石田方は、この戦の前に、関ヶ原の防御を固めていた。関ヶ原で、戦が行われると見ていたのである。巷で言われているような、決して、家康が、関ヶ原を素通りして、三成の本拠地である佐和山城を目指していると噂を流し、それに三成が恐れを抱き、釣られて、関ヶ原に出てきたのではなかったのである。
関ヶ原を通る北国街道(ほつこく かいどう)は、他の地が山がちだったのと異なり、平地であった。そして、その道を抜ければ、近江(おうみ)に出ることが出来るので、軍事的にかなり重要なところである。
石田方では、徳川方がそこに集中して攻め寄せて来ると、予想されていた。石田三成は、危険を承知の上、そこを守るために、自らが布陣した。石田方は、北国街道が通る、笹尾山と天満山との間の平地を守るための土塁を、合戦の前に築いていた。石田、島津、宇喜多、大谷たちは、神社の前や近くに陣を敷いた。特に、宇喜多軍は、神社の境内に本陣を敷いた。諸軍は、神の力で敵を討とうとしていたのである。当時は、このように神仏の力を借りて戦うという考えは、当たり前であった。キリスト教信者である小西(こにし)は異教の場所に陣を敷くことは出来ないと、そこには加わらなかった。
キリスト教信者である明石掃部は、複雑な気持ちであった。異教の力を借りることには、とても抵抗があった。しかし、これは、主命どころか、石田方全体の陣触れである。掃部は、仕方なく従うしかなかった。石田軍には木柵、土塁、そして土塁の前には水堀があった。かなりの堅固な防御態勢である。そこで敵勢を防ぎつつ、鉄砲、大筒などを用いて、必死に徳川方諸隊を抑えていた。石田軍は、先陣の猛将島左近の見事な采配で敵の弱き所を突き、黒田家を打ち負かしていた。後に、黒田家の家臣たちの夢に出て、うなされるほどの鬼神のような戦いぶりである。そこで、左近の采配を止めるべく、黒田隊の狙撃兵が、左近を狙い負傷させた。石田軍の先陣が退却すると、その隙を目がけて、黒田軍と細川軍は攻撃を強めてきた。それに対して、石田軍は大砲の発射で応戦した。
石田方で一万七千と、一番兵力が多く、秀吉への恩義を深く感じていた秀家率いる宇喜多軍は、士気が一番高かった。お家騒動で、重臣の大部分がいなくなったのは致命傷ではあるが、それを補うほど、強かった。なぜならば、明石掃部がいたためである。先手の掃部が采配を振るって、先ず、日頃から鍛錬していた鉄砲隊で、福島軍に痛手を負わせた。次に長槍隊が出てきて、相手の頭上を強く叩く。犬山左衛門は特に凄まじかった。相手を長槍で素速く叩いた。そして、怯んだ敵の腹を突き、上に持ち上げて、空に飛ばしていった。それが何人も続く。左衛門は叫ぶ。
「どうだ。参ったか! 逃げ出せよ。福島の者どもめ」
本多政重の働きも凄まじかった。政重の槍隊も、一度大きく後ろに引いて、それから真っ直ぐに相手を鋭く突き刺す。政重の軍は、声などは一切発しない。黙ったままである。政重が采配を振るって、槍が縦横に動くだけである。福島軍が何度来ても、また突き倒す。掃部はそれを見て思った。
(やはり、あの男は本物であったな。徳川からの間者などではない。真の三河武士とは、このような男を言うのか。この者を仕官させて良かった)
福島軍は恐れおののいた。将兵が次々と倒れていく。始終、掃部は、空から関ヶ原を眺めるような感覚で、戦の進み様を見ていたのである。福島軍の将を見つければ、そこに銃弾を浴びせる。次々と武将が倒れていく。そして、怖じ気づいた兵に向かって、槍を突きつける。福島軍は、疲労困憊であった。
大谷吉継軍には、藤堂高虎(とうどう たかとら)軍、京極高知(きようごく たかとも)軍が攻め寄せて来た。実際に動いている兵の数では、徳川方側が圧倒していたが、吉継は、三倍近い藤堂軍、京極軍を何度も押し返した。小西行長(こにし ゆきなが)軍には、古田重勝(ふるた しげかつ)軍、織田有楽斎長益(おだ うらくさい ながます)軍が、それぞれ討ちかかった。石田方が粘り、徳川方の将兵には、疲れと焦りが見えてきた。
しかし、石田方の松尾山には、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)軍が、南宮山には、毛利秀元、吉川広家(きつかわ ひろいえ)、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)、長宗我部盛(ちようそかべ もりちか)親、長束正家(なつか まさいえ)の軍がいたが、全く動かなかった。九州での戦いや朝鮮攻めで、強兵で恐れられた島津義弘軍は、石田軍の隣に展開しているが、島津の陣に入ってきた者には、敵味方問わず銃弾を浴びせたり、槍で突く。それ以外には、全く動かなかった。
三成は驚いた。遠くの本陣にいる家康も全く理解が出来ずに、首を傾げた。掃部も、島津の動きが謎で仕方がない。しかし、島津のことを考える余裕はなかった。福島軍を倒すのに懸命であった。
松尾山では、小早川秀秋が、合戦の前に黒田甲斐(かい)守長政を通じて、家康に寝返ると約定していた。合戦の前に松尾山にいた小大名の伊藤盛正を無理矢理追い出し、小早川秀秋は陣を敷いた。徳川家に寝返るために、重要な松尾山を占拠したのである。松尾山は堅固な城として築かれていた。秀秋の松尾山入城は、三成にとって予想外であった。
しかし、秀秋は、関ヶ原での石田方の意外な奮闘ぶりに、どちらに付くか、迷っている。慎重に事を進めばならぬ時に、勇敢で突進したり、早く物事を決めねばならぬ時に、優柔不断になるのが、秀秋の性分であった。秀秋は、関ヶ原に辿り着く前に、近江でのんびりと布陣して動かずにいたり、伊勢の攻略でも、動きが鈍かった。 だから、石田三成も大谷吉継も秀秋には不信感を抱き、秀秋の動きには注意しており、合戦の前に、三成自身が、松尾山に駆けつけ、説得を試みている。秀頼様ご成人までの間は、金吾(きんご)様が関白に就くように致しますと述べた。その時は、秀秋は、このように言った。
「治部(じぶ)よ、心配せずともよい。私は豊臣家の一族であるぞ。お前も知っての通り、私は高台院様(おね)の甥である。秀頼様の御為に尽くすのは、当たり前のことではないか」
しかし、三成は、その言葉を信じていなかった。秀秋がまことの言葉を話す者ではないと思っていたからだ。今までも愚行、虚言が多い人物であった。そこで、三成は、関ヶ原で小早川軍と隣の軍となる大谷刑部吉継と話し合い、小早川秀秋への備えをすることにしていた。
南宮山では、吉川広家が、これまた黒田長政を通して、徳川家康と内通しており、戦いが始まっても、毛利の兵を一歩も動かさないと約定していた。広家が、南宮山の麓にいて、その上にいる他の諸軍の関ヶ原への通り道を塞いでいた。そのために、南宮山の諸軍は、動くことが出来なかったのである。
島津義弘軍は、元々徳川方に付く約定を家康としていた。しかし、ことの成り行きによって、石田方に巻き込まれ、徳川方の籠もっていた伏見城を攻め落としてしまい、石田方に仕方なく付いた。 義弘は、この戦いに至るまで、徳川方側に付きたい気持ちと、寝返りなどは薩摩武士たるものがやることではないとの気持ちで、思い悩んでいた。そこで、どちらにも組せず、合戦中は本陣から全く動かなかった。
このように、石田方の大部分が動かなかったのにも関わらず、関ヶ原にいた石田方諸軍は善戦している。
三成は焦っていた。先に述べた通り、石田方の大軍の大部分が、戦に加わっていないからである。戦が始まってから四刻を過ぎた。松尾山や南宮山にいる、参戦していない諸軍に、山を下りて戦に加わるように促す狼煙をついに打ち上げた。さらに隣の島津軍にも、戦に加わるように使者を出した。石田方は全ての将兵のうち、戦さに加わっているのは三万三千ほどである。しかし、防御の陣を前もって作っていたので、地形的に有利である。そして戦局をやや優位に運んでいった。
しかし、石田方は宇喜多、石田、小西、大谷とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って、徳川方と戦っているだけであった。
徳川方は、部隊の数、実際に動いている兵力の数で、石田方を大いに凌駕していた。そして幾つもの徳川方が、石田方一部隊に対し、同時に包囲し攻撃していった。
徳川方は、入れ替わり立ち代り、攻めてきたのである。それが長い間続いた。掃部は宇喜多軍の先手として、その攻撃をはね除け続けている。
「撃て! 狙いを外すな。福島軍を押し返すのだ!」
左衛門は、相変わらず長槍で、多くの福島の兵を倒していった。そして大声で叫んだ。
「福島には、大した奴はおらんのか!」
「な、何じゃと。許せん!」
「わはは、来た。来た」
福島の将兵は、左衛門を目がけて突進してくるが、逆に左衛門の槍の餌食となっている。左衛門の挑発に乗ってしまったのである。
徳川方は、遊撃部隊として待機していた寺沢広高(てらさわ ひろたか)、金森長近(かなもり ながちか)が援軍として加わったため、時が経つにつれて、徐々に戦局は徳川方が優位となっていた。特に、北国街道を守る石田三成軍は集中的に攻撃を受けて、柵の中に一時退却していた。しかし、防御施設が万全な石田方主力の抵抗も凄まじく、決着をつけることはできなかった。
掃部は思った。
(何故、小早川、毛利や島津は動かないのだ。今が好機だというのに)
そして、気づいた。
(はっ。奴らは、徳川方に内通しているのだ。これはいかん。これでは石田方は負けてしまう)
相変わらず、松尾山の軍勢、南宮山の軍勢、島津軍は、動かない。今、関ヶ原にいる石田方が粘っている時に、松尾山の小早川秀秋軍一万五千と南宮山の毛利秀元軍一万五千、毛利(実質的には、吉川広家)に塞がれている、栗原山の長宗我部盛親軍六千六百たち、計約三万六千六百の将兵が、石田三成たちを攻めていて、伸びきっている徳川方の側面と背後を攻撃すれば、石田方の勝利に必ずなるはずであった。しかし、島津は援軍要請を拒否した。島津義弘の甥で、陣頭指揮を執っていた義弘の甥豊久が、三成の使者に激昂して言った。
「治部少輔(じぶしようゆう)の使者よ。何たることだ。何故下馬しないのだ。甚だ無礼であるぞ。この場で叩っ切るぞ!」
慌てて戻ってきた使者からの返事を聞いた三成は、頭を抱えた。
(何故、島津は動かぬ。あの強兵が加われば、こちらが優勢になり、松尾山や南宮山の軍も動くであろうに)
まだ、毛利秀元、長宗我部盛親、長束正家、安国寺恵瓊たちは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できずにいた。、最後まで南宮山の毛利軍らの大軍は、参戦が出来なかった。
徳川方有利のはずなのに、なかなか石田方を切り崩せない様子を見て、家康が苛つきだした。爪を噛む。苛ついている時の癖である。
(内応している奴らが一向に動かぬ)
家康の苛つきは、益々高まってきた。
(金吾め。このままでは許さぬ。急ぎ、使者を遣わそう。よし、使者には、こやつを選ぼう。弁の立つ者より、よほど金吾を動かすことが出来るぞ)
家康は、徳川家でも、強面で知られる奥田太郎兵衛(たろうべえ)に命じ、松尾山へ向かわせた。太郎兵衛は、六尺一寸もある大男で、肌は、かなり黒く、目が釣り上がっていた。口は大きい。
「分かり申した。急ぎ、金吾めの所に行き、目を覚まさせてやりまする」
豊臣家にとって、陪臣の太郎兵衛が、豊臣家連枝の大大名の小早川秀秋を金吾と呼び捨てている。そして急いで大きな馬に乗り、松尾山に向かった。徳川方と石田方が槍を突き合わせたりしている混乱の最中、太郎兵衛は駆けていく。急ぎに急いだ。太郎兵衛の体の重さと、無理な早駆けで、馬はとても苦しそうだ。しかも大きな山を登っていくのである。そして太郎兵衛は、松尾山へ辿り着くと、小早川秀秋の重臣稲葉正成と平岡頼勝、そして、目付として、黒田長政から派遣されている大久保猪之助、(おおくぼ いのすけ)家康から派遣されている奥平貞治(おくだいら さだはる)らと話をした。
「金吾様は、まだご決断なされぬのか」
「左様。ほとほと困っておりまする。内府様にお味方して下されと再三申しあげても、まだ、待つのじゃと言われるだけでございます。石田方の意外な奮戦を見て、迷っておられると思われまする」
「お主たちでは頼りないわ。わしが直々に金吾様にお目通りする」
そのように言って、太郎兵衛は、金吾の陣まで、荒々しく、やって来た。そして、鉄砲や大砲の轟音でやかましい戦場でも、聞こえる程の大声で叫んだ。
「こらっ、金吾様! ここで動かぬと、内府様から、豊臣家五大老筆頭の名で、後で手厳しく処罰されますぞ! 豊臣家の連枝と言っても、手加減は許されませぬぞ」
太郎兵衛の大音声を聞いて、それまで虚ろであった秀秋の目が大きく見開いた。そして、床几から慌てて後ろに落ちて、後ろへ下がり始めた。秀秋は陣幕に当たった。
「ひ、ひええ。わ、分かった、分かった。小早川金吾秀秋、これより内府様にお味方致し申す」
秀秋は、側にいる稲葉正成に命じた。
「や、山を下って、大谷刑部を攻めよ」
既に内応に従っている稲葉は、すぐに返事をした。
「はっ。者ども、大谷刑部の軍に兵を進めよ」
内応のことを知らなかった将兵は、大いに驚いた。ざわついた。しかし、主君の命なので、仕方なく従った。
松尾山を降りた小早川軍一万五千の大軍は、藤堂軍、京極軍と死闘を繰り広げていた大谷刑部吉継軍を目がけて、攻め寄せた。小早川軍は、大谷軍の右翼を突いた。元々、石田三成たちとともに、秀秋の内通に気付いていた刑部は、素速く小早川軍に対応した。
「ついに来たか」
六百の軍を持って、小早川軍に当たらせた。小早川軍は大軍であるが、秀吉からも采配を絶賛された大谷刑部が鍛えに鍛えた、必死の大谷軍六百人に止められていた。それどころか、松尾山の麓に押し戻される始末だ。主君が弱いと、将兵までもこのように弱くなるのか。宇喜多軍と大違いである。
家康は、また苛ついた。
「何じゃ、あれは。小勢の大谷勢に逆にやられているではないか。まあ、率いている将の器が、刑部と金吾では大違いじゃな。寝返りの意味がないわ。だめだな、金吾めは」
明石掃部は、その様子を見て安堵した。
(流石は大谷刑部様だ。備えを万全にしていなさる)
しかし、思わぬことが起こった。小早川秀秋の寝返りを見て、元々、藤堂高虎を通じて、徳川方に内応していた脇坂安治(わきさか やすはる)が徳川方に寝返り、徳川方に通じてもいないのに、機を見て敏なる小川祐忠(おがわ すけただ)、赤座直保(あかざ なおやす)、朽木元綱(くちき もとつな)が、勝手に徳川方に寝返ったのである。この四軍は大谷刑部の下で、それまで、加賀などでともに、刑部に忠実に従って戦ってきた。寝返りなどをするとは、石田方は全く考えていなかった。それが皮肉にも、その諸軍が、大谷軍の側面を突いたのである。
この様子を遠くから見ていた、いつもは冷静な掃部も流石に驚いた。
(な、何と言うことだ。脇坂たちまで寝返るとは。これは、まずいことになったぞ)
「か、掃部様。このままでは、宇喜多軍にも、金吾めが攻めて寄せてきますぞ」
「左衛門か。うむ、分かっておる。何とか手を打たねば」
小早川軍の武将で先鋒を務めていた松野重元は、冷静だった。陪臣ながら、秀吉から豊臣の姓を賜っている武勇に長けた人物である。
「盾裏の反逆は武士としてあるまじき事」
そして秀秋の命令を拒否し、松尾山に、そのまま松野軍だけが留まった。小早川軍はともかく、予測していなかった脇坂、小川、赤座、朽木の四軍の寝返りで状況は変わった。大谷軍は持ちこたえられず、大谷軍とともに戦っていた戸田勝成、平塚為広は討ち死にし、大谷刑部吉継も自刃してしまった。
大谷軍を壊滅させた小早川、脇坂たちや、藤堂、京極などの徳川方は、次に宇喜多軍に襲いかかった。掃部は必死に敵と戦い続けた。相変わらず、鉄砲の銃撃で将を狙い撃ちし、敵を混乱させ、槍隊で敵兵を串刺しにしていった。左衛門も槍を振るった。
「おのれ、不忠者どもが。お前らには神罰が当たるぞ。地獄行きじゃ」
しかし、石田方は大混乱に陥っていた。四方から敵が攻めてきた。黒田、福島、京極、藤堂、加藤嘉明(かとう よしあきら)、細川、筒井(つつい)などである。もう、石田方の負けであることは明白であった。。石田三成、小西行長、長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親などは既に戦場を離脱している。
掃部は、逆賊金吾を討つ、同じ豊臣家の養子として許せない、奴と差し違えようと息巻く秀家を、大坂城へ落ち延びて再起を図るように言って何とか説得し、七名の近習とともに逃した。大坂城には、石田方の総大将毛利輝元と、まだ無傷の軍がいるのである。その軍にも、三成は、三成たちがいた大垣城の方へ出てくるように再三使者を遣わして言ってきたが、大坂城内に、徳川と内通している者がいるなどと言って、とうとう、大坂城から一歩も動かなかった。
掃部は、主君が既にいない宇喜多軍を、まだ最前線で采配を振るって動かしていた。鉄砲頭の河内七郎右衛門(しちろうえもん)が、馬に乗って、部下を見事な采配ぶりで動かし戦っていた。掃部は言った。
「そなたは、敗軍の中、優れた働きをしておるな。感心であるぞ」
「何ほどのことではありませぬ、武士としての当たり前の働きであり、誰もが致し申す」
しかし、しばらく経ってから、徳川方の大野治長の従者の米村権兵衛(ごんべえ)が七郎右衛門に斬りかかってきた。七郎右衛門は、馬から飛び降りて、素速く権兵衛を押さえ、留めを刺そうとした。しかし、治長が馬上から七郎右衛門を背後から槍で突き刺して、絶命させた。 掃部は怒り、治長に向かって行った。
「卑怯なり。私は明石掃部と申す。そなたは何者か。斬る!」
「大野修理大夫治長じゃ。卑怯も何もあるまい。ではさらばじゃ」
治長は馬を飛ばし、逃げていった。掃部は七郎右衛門の死が無念で仕方なかった。大野治長をいつか討とうと思った。皮肉にも、明石掃部と大野治長は、後の大坂の冬の陣、夏の陣で、同じ主戦派として、味方として戦うことになる。
この戦いで、宇喜多軍は大きな犠牲を払った。およそ四千人の武士が討ち死にしたのである。これは関ヶ原の戦いでの、石田方全体の死者八千人の半分を占めるほどであった。凄まじい数である。本多政重も残って奮戦していたが、配下の兵が殆ど討ち死にしてしまった。政重は天を仰いだ。虚しい表情をしていた。掃部は政重の顔を見て、悲しくなった。政重は、止むを得なくなり、陣を抜け、近江の方へ馬に乗って、駆けていった。そして近江堅田まで行き、そこに隠れることになる。
第三章 甲賀の里
掃部も左衛門とともに、ついに戦場から抜け出していったのである。
「そして、近江の山々を抜け、甲賀の里へ辿り着いた。ここは、石田方の五奉行の長束正家の治める土地である。山の麓には、人が住んでいた。掃部と左衛門は、関ヶ原から抜け出て以来、何も飲み食いしておらず、かなり疲れていた。もう、これ以上は、歩けないと掃部は思った。
「左衛門、お主だけでも、大坂城へ辿り着き、再起を図るのだ」
「掃部様、何と弱音をおっしゃいます。普段の強気はどうなさったのですか? 修行が足りていらっしゃらないのですか? 拙者は、主君を置いて逃げるなど、武士としても、キリスト教信者としても、恥でございます。掃部様に一生ついて参ります。そこに民家が一軒ございます。何とか、そこまで辿りつきましょう」
「う、うむ」
左衛門は掃部のくたびれた背中を抱いて、民家に辿り着いた。
「た、頼もう」
中から、百姓らしき男が出てきた。土が付いた鍬を肩に担いでいる。四尺もないくらいの小男である。齢は四十を越えたくらいであった。髪は総白髪になっていて、肌が浅黒く、皺だらけであった。掃部たちを不思議そうに見ている。
「お侍様、何ごとでごぜえますか」
「み、水を一口くれないだろうか。頼む」
「へい、分かりました。すぐに持ってきますんで」
百姓は、家の奥から、茶碗を二つ持ってきた。濁りがない水が入っていた。左衛門が、掃部の顔を見た。この小男が徳川方に通じて、水に毒を盛っていないかと、顔で訴えているのである。しかし、掃部は首を横に振った。そして、一気に水を飲んだ。
「うー、これは美味であるぞ。生き返った気持ちだ。感謝致す」
左衛門も、疑ったという後ろめたさがありつつも、飲んだ。
「本当でございますな。水がこのようにうまいとは」
小男は、微笑んで言った。
「おっ、お侍様たちは、キリスト教信者ですな」
掃部は、意表を突かれた感じで驚いた。
「な、何故分かる」
「分かるも何も、クルス(十字架)を首にかけていらっしゃいますから」
「あ、そうだったな。戦うことでで精一杯で、クルスのことをすっかり忘れておった。信者として、あるまじきことだな」
「我らもキリスト教信者ですじゃ。わしは作兵衛(さくべえ)と申しやす。同じ匂いがします。それに、ここは甲賀の里。人を見る目は、幼き頃より厳しく鍛えられます」
「そうなのか。同じキリスト教信者と出会えるとは、主に感謝致さねば。しかし、甲賀の忍びが、それほど凄いとは知らなかった」
「お侍様は、大坂の船場(せんば)の教会で、三度ほどお見かけしたことがごぜえます。ジョアン様で有名な宇喜多家の明石掃部様ですな」
「そうだ。甲賀にも、キリスト教信者がいるのか。意外であるな」
「へえ、甲賀や伊賀は山々に囲まれて、隠れる所が多く、キリスト教信者が生活するには、うってつけのところで、ごぜえます」
「関ヶ原の戦で、甲賀を治めている長束殿は、破れて逃げてしまったぞ」
左衛門が慌てた。
「か、掃部様、余計なことを言わないで下さい」
「左衛門よ。いらぬ心配をするでない。この者の目は、まことを表している。信じてよいのだ」
「明石様、失礼ながら、とっくの昔に、そのことは知っておりますよ。ここは甲賀でございますから。忍びの術で、関ヶ原の様子は、逐一入ってきておりやす。長束様の居城水口城にも、すぐに徳川方が来ることでしょう。算術が得意でも、武略はさっぱりの長束様では、到底太刀打ちできますまい。水口城は、すぐに落ちましょう。それより、大坂城が肝心でございます。毛利様が粘れば、この戦、長引きましょうが、あの毛利輝元様では、頼りないですな」
「うむ、私も、それを懸念しているところだ。早う、我があるじの宇喜多秀家様が、大坂城へ戻ってきてくだされば、宜しいのだが。豊臣家に忠義を尽くす秀家様が戻ってきて下されば、押しの弱い輝元様も、巻き返しをお考えになるやもしれぬ」
「それは時の運でごぜえますな。間に合うかどうか。それよりも、明石様たちは、早く疲れをお取り下され。今日、獲れたばかりの猪の肉をお食べになり、明日には、大坂へ向かった方が良いと思います」
「そうだな。この疲れが取れぬと、何も動けない。激しい戦いの後に、近江の険しい山々を歩き、とても疲れた。申し訳ないが、一晩世話になりたい。神のご加護が、この家にも与えられますように」
「ありがとうございます」
そして、掃部たちは、屋敷の中に入っていた。そして食事を待っていた。作兵衛の家族は、皆キリスト教信者で、掃部たちを歓迎した。そして、猪の肉や、葱などが揃ってきた。作兵衛が食事の前に言う。
「今日は、我らキリスト教信者の憧れのお方、明石掃部様にお目にかかれました。これも神のご加護のおかげです。感謝致します。アーメン」
掃部、左衛門、作兵衛の妻、二人の男子も唱えた。そして、掃部たちも猪の肉などをたらふく食べた。作兵衛の妻が語りかけた。
「山奥で、何もありませんが、さあ、どうぞ、召し上がって下さい」
「かたじけない」
左衛門が喜んでいる。
「掃部様、この猪の肉は、歯ごたえがあって、美味いですな」
「うむ、猪の肉が、このように美味であるとは知らなかったぞ」
「掃部様たちに、そのように喜んでいただいて、嬉しく思います」
二人の子のうち、一人が掃部に話しかけた。年は八歳くらいであろう。
「お侍様は、どこに行くの?」
作兵衛がたしなめた。
「こら、失礼なことを言うんじゃねえ」
「いやいや、作兵衛殿、気にせずともよい。お子らよ、私たちは大坂へ帰るのだ」
「ふーん。大坂か。一度も行ったことがないから、どんなところか、分かんないや」
「それは、豪勢な街だぞ。巨大なお城が建っておる。大阪城というのだ。関白豊臣秀吉というお方が立てられたのだ。しかし、やはり甲賀の里のほうがいいと思うぞ」
「何で?」
「それは、静かで緑に囲まれて、イエス様へのお祈りを邪魔されることなく、出来るからだぞ。街中では、静かにお祈りも出来んからな。キリスト教信者は、街では、捕縛される可能性が高いからな。ここでは、隠れるところが多く、危うくはないと思うぞ」
「そんなもんかな」
「そうだ。いずれ、そなたたちにも、きっと分かるようになるぞ」
壁には、お掛け絵が、かけてあった。キリスト教信者が架ける聖画のことである。絵には、赤子のイエスを抱いたマリアが描かれてあった。
「作兵衛殿、これは見事な絵だな。マリア様が神々しく且つ、美しく描かれている。その背後の光も美しい。これは、どこで買いなされた?」
「お恥ずかしゅうごぜえます。若い頃に、堺に出向いた時に、買い求めたものでごぜえます。買ってから、二十年以上経つので、古びておりやす」
「いや、その古びた様子が素晴らしい。今日は、有り難きものを見せていただいた。感謝致す」
掃部は頭を下げた。
「そ、そんな。掃部様。頭をお上げ下され。勿体ないお言葉でごぜえます」
そして、寝所を与えられて眠った。しかし、左衛門は寝ないでいる。まだ、安心していないのだ。作兵衛が、徳川方の捜索隊に訴えでもしたらと、気が気でならない。掃部は言った。
「何も心配せずとも良い。それよりも、しっかりと眠らないと、疲れは取れぬぞ」
それでも左衛門は眠れなかった。刀を一晩中握りしめている。掃部は、いびきを立てていた。左衛門にとって、かなりうるさかった。
翌日、作兵衛たちから見送られ、甲賀の山々を渡っていった。
「いやあ、作兵衛は良い奴だったですねえ。飯も美味かったですしな」
「よく言うわ。お主は、ずっと疑っておったくせに。一睡もしておらぬのであろう」
「は、はい」
水口城が遠くに見えた。
「掃部様、長束様の水口城が見えておりますぞ」
「うむ、油断なきよう」
左衛門は、鼻を嗅いだ。左衛門は一里離れた所でも、匂いを嗅ぐことが出来るというのである。
「何やら、焦げ臭いようであります。敵が既に城に入って、火を放ったかと思われます。やはり、武略が不得手の長束大蔵大輔(おおくらだゆう)様では、戦うことなど難しいのでございますな。易々と落とした城に、火をわざわざ点けてしまう愚か者と言えば、小早川金吾などでは、ないでしょうか」
左衛門の勘は当たっていた。城の中には、既に白地に黒の違い鎌の旗が立っていた。小早川秀秋の旗である。水口城は既に、徳川方の手に落ちたのである。左衛門は憤っていた。
「お、おのれ、金吾め。豊臣家の連枝ともあろう者が、逆賊家康に寝返りしおって。その首を今討つ!」
「止めろ、左衛門。我々だけで向かって行っても、皆殺しにされるだけだ。逆に悔しかろう。あのような愚昧で救いようのない不忠者に討たれては」
「まあ、そうですが」
「あのような者には天罰が必ず下る。お主が手を出すまでもない」
「分かり申した」
「それより、作兵衛の言った通りだ。早く大坂城へ戻って、再起を図らないと。水口城まで敵が来たと言うことは、石田治部少輔様の佐和山城も落ちたということだ。治部少輔様は、どのようにされているのであろうか。秀家様は、大坂へ辿り着いていらっしゃるか。それが心配だ。急ぐぞ、左衛門」
「はっ」
第四章 備前へ
二人は急いで近江や大和(やまと)の山々を渡っていった。そして、やっと大坂へ着いた。掃部も左衛門も、疲れ果てていた。城下の民に、大坂城はどうなっているのかを尋ねた。すると、肝心の毛利輝元が、徳川家康に言われてあっけなく城を明け渡して、安芸(あき)に帰ったと聞いた。京極高次が籠もる大津城を落城させたが、関ヶ原の戦いに間に合わなかった立花(たちばな)飛騨守(ひだのかみ)宗茂(むねしげ)たちが、徹底抗戦を訴えても、話をろくに聞かず、家康に従ったということである。掃部は歯ぎしりをした。
「何と、愚かな。恐らく、輝元様は、吉川広家を通じて、本領安堵を家康に約束させたのであろう。しかし、百十二万石の広大な領地は、家康にとって、かなりの目障りである。放っておく訳がないはずだ。必ずや、家康は毛利を潰しにかかる。輝元公は、そのような簡単なこともお分かりにならぬとは。しかし、大坂城に入れぬとは無念である。遅かったか。」
明石掃部は、大坂での再決起を諦め、摂津(せつつ)から船に乗って播磨の飾磨津(しかまつ)に入った。そして備前の岡山まで逃げてきた。備前は、掃部の故郷である。そこで、岡山の明石家屋敷に辿り着いた。誰もいない。門は開け放たれ、土倉は、中が開けられ、荒らされ放題であった。邸宅を見てみると、お掛け絵に落書きが書いてあった。吉利支丹どもよ、すぐさま出て行けと書いてある。
掃部たちは、自らをキリスト教信者と言っていたが、キリスト教を信じていない者、警戒している者、特に弾圧に荷担している者たちは、吉利支丹と呼んでいた。これは蔑称である。掃部は、お掛け絵が汚されたことに怒った。そしてこの言葉が書かれていることが、掃部の怒りを一層激しくした。そして、剣を抜いて振り回した。
左衛門が言った。
「掃部様、危ないですぞ。お止め下され」
「キリスト教信者にとって、大事なお掛け絵を汚されて怒っているのだ。このような暴挙をした者を許せん。左衛門、そなたは、腹が立たぬのか?」
「はい、腹が煮えくりそうにでございます。しかし、剣を振り回しても、元のお掛け絵には戻りませぬ。それよりも掃部様のご家族を捜さねばならないでしょう」
普段は、掃部が冷静で、左衛門が短気なのだが、この時は違っていた。
「そうだな。早く我が家族を見つけ出さねば」
掃部と左衛門は、混乱している岡山城下で、人々に明石家の者の所在を尋ね回った。しかし、なかなか家族の居場所は、見つからなかった。そのうちに疲れ出した。人もいない屋敷の前で佇んでいたら、見知った者が通りかかった。
「か、掃部様では、ございませぬか。よくぞ生きていらっしゃいました」
男は泣いている。掃部は、疲れた顔を上げた。
「太郎右衛門か。良かった。そちも無事だったのか。しかし、相変わらず泣いているな」
池太郎右衛門信勝(いけ たろえもん のぶかつ)は、明石家の家老である。この度の関ヶ原の戦いでは、戦には加わらず、岡山城で留守を任されていたのである。左衛門も口を開いた。
「これはこれは、小太りの太郎右衛門様、よくぞ、這いつくばって、生きておられましたか」
「左衛門の悪口も、懐かしいのう」
掃部が太郎右衛門に尋ねる。
「明石家の者たちは、どこにいるか、知っているか。皆無事か」
「はい。足守の方に隠れておいでになります。屋敷は、同じキリスト教信者の者が住んでおりましたが、この度の戦で宇喜多秀家様や明石掃部様が行方知れずと聞いて騒ぎ始めて、家族で、どこへやら逃げたようにございます。そこで、拙者が、その屋敷を明石家の方々に仮の住まいとして、お貸しした次第でございます。皆様、ご無事でございます」
「そうか。それは良かった。太郎右衛門、助かったぞ。かたじけない。礼を申す」
「とんでもない。家臣として、当然のことを致したまでのことでございます。拙者が足守まで、掃部様たちをご案内仕ります」
「しかし、家族たちは、我が居城の保木城に、何故隠れなかったのか」
池太郎右衛門は、気まずそうに答えた。
「実は、保木城にも、暴徒が訪れ、兵糧や武具などを持ち逃げしまして、ご家族は、城へ行くことが出来ませんでした」
掃部は、自分の城が荒らされていると聞いて、愕然とした。
「そうか。それは嘆かわしいことだ」
こうして、掃部たちは、足守に向かった。道中、見かけた屋敷は、どこも荒らされていた。掃部は憂鬱になった。
「太郎右衛門は、何故大丈夫だったのか」
「はい、関ヶ原の敗戦の話が流れてから、岡山城は荒らされましたが、拙者どもは、天守に籠もり、入ってくる暴徒は、鉄砲で討ち倒しました故、何とか生き残りました」
「そうか。苦労をかけたな」
「いえいえ、大したことはございませぬ。あ、足守が見えてきました」
そこには、山の麓に古びた屋敷があった。灯りがともっている。この屋敷は、荒らされていなかったのである。掃部たちは、屋敷の中に入った。左衛門は、誰が出てくるか分からないと思い、剣の鍔に手をかけていた。太郎右衛門は、左衛門の様子を見て、不思議そうにしていた。門をくぐったところで、外からの足音を聞いて、一人の女性が出てきた。掃部の次女のレジイナである。
レジイナとは受洗名である。齢は十一歳であるが、大人びたところがある。背丈は五尺三寸で、当時の女人では背が高いほうだ。髪は、後ろで束ねているだけの掛け垂髪である。眼が涼やかで輝いている感じがする。そして顔が小さい。眉毛は濃い。肌は白く、鼻筋が整っている。口は結んだままで、あまり空けたりなどは、しない。口角が上がっている。
そして、掃部に劣らずイエス・キリストへの信仰心が篤い。強い信念を持っているが、気が強すぎるのが玉に傷である。同胞のキリスト教信者が迫害されているのを見ると、逆上してしまう。痛めつけている奉行や、その部下たちに立ち向かおうとしてしまう。その度に、掃部は、レジイナを押さえつけるのに苦労した。
掃部が国の仕置家老であるから、奉行などを押さえようとすれば、出来るのだが、キリスト教信者ということが公に広まってしまうので、静かにせざるを得なかった。しかし、レジイナの激しい気持ちを抑えるのは、掃部にも難しかった。そしてレジイナは父掃部のことを誰よりも尊敬している。
このレジイナが、掃部の持つ聡明さ、勇ましさ、寛大さを持っていて、一番掃部に似ていると言われた子である。レジイナは、それまでは緊張していたが、掃部たちを見て、頬が緩んだ。
「お父上! 生きておられましたか。心配しておりました。嬉しゅうございます」
「レジイナよ、再び会うことができて嬉しいぞ」
「れ、レジイナ様、拙者も再びお会いできて、この上なき幸せに存じます」
「おお、これは左衛門。そちも無事であったか。それは良かった。しかし、父上にご迷惑をお掛けしておらぬだろうな。もし、しておったら、許せんぞ」
いつもの強気の左衛門は、わずか十一歳のレジイナに言われると、大人しくなってしまう。レジイナの気性の激しさもあるが、左衛門は、レジイナに恋心を抱いているのである。
「な、何も致しておりませぬよ。信じて下さいよ」
「レジイナよ。左衛門は、関ヶ原の戦いで、大軍の福島正則殿の兵を、槍で次々に倒していったのだ。宇喜多軍で一番の手柄だと思うぞ。」
「左様ですか。うむ、左衛門よ。それならば、宜しい。さあ、お父上、他の者とも、お会い下さい」
長男小三郎も、やって来た。齢は十五歳で、月代であり、肌は白い。目は丸く鼻筋が整っている。背丈は五尺一寸はあった。
「父上様!」
次男パウロ内記も出てきた。パウロは十七歳である。パウロは、総髪であり、目は細く鼻は低かった。毎日、同じ明石家の家臣の子供たちとともに野山を駆けるのが大好きで、日に当たり浅黒い。
そして、掃部の母モニカと妻のおこうこと、アナスタジアが出てきた。二人とも、疲れて果てている様子が見えた。
モニカは、齢は六十を越えていたが、皺一つなかった。目が垂れ下がって温和な様子が見て取れる。鼻は高く、唇が厚かった。宇喜多秀家の父直家の異母妹である。しかし、甥の宇喜多秀家が、関ヶ原の戦いの後、行方知れずと聞いて、かなり心配しているようだ。宇喜多家が、この戦いで負けて、無くなると思い、余計気鬱になったのであろう。
アナスタジアは、三十歳で、垂髪で、小顔で顎がほっそりして、痩せている。宇喜多家が栄えている時でも、疲れやすく寝込みがちだった。今も寝込んでいるそうだ。宇喜多秀家の姉である。従って、モニカの姪に当たる。二重の婚姻だ。宇喜多直家は明石家の存在を重く捉えていた。宇喜多家と明石家は、このようにして、絆を深めていったのである。備前保木城城主である父伊予守行雄は、文禄四年(一五九五)に亡くなっていた。ともかく家族たちと再会できて、生きていることを喜び合った。
一方、左衛門は、妻とは岡山城下で再会したが、子供二人の内、男子は徳川方についていた。女子は備前の土豪に嫁に入り、無事だった。
掃部は、岡山城に籠城し、そこで軍を立て直し、徳川を迎え撃とうとしたのだが、相変わらず城下が、かなり混乱し、暴徒が兵糧米を略奪しており、乱暴、狼藉が凄まじかった。そこで掃部は岡山での再決起を諦めた。
アナスタジアは、懐妊していた。掃部は、新しい家族が出来ることを喜んだが、かなり疲れているアナスタジアのことを考えると、心配になってきた。アナスタジアは、無事に出産した。男の子だった。洗礼を行い、ヨゼフと名付けた。洗礼を急いだのは、アナスタジアに安心して、喜んでほしいからである。しかし、アナスタジアは、出産の後の疲れが溜まって、寝込むことが多くなった。医者を呼んで、状態を尋ねると、もう先は長くないと言われたのである。 掃部は衝撃を受けた。そのことをアナスタジアはもちろん、他の家族にも言うことが出来なかった。掃部は、神にすがった。大坂から、旧知の司祭を呼んだ。重い病のアナスタジアに祈ってもらいたかったためである。アナスタジアは聖体を飲み込んだ。そして心が安らかになった。
カトリックでは、秘蹟に七つの儀式がある。アナスタジアは、体にオリーブ油を塗り、キリストの体と血であるとされるパンとワインを口にする聖体拝領の儀式を行った。
そして一旦は落ち着いた。アナスタジアは、司祭へ十分に祈り、告白し、秘蹟を受けたが、やはり出産後の肥立ちが悪く、衰弱して亡くなったのである。掃部は悲嘆に暮れた。今までは人前で泣いたことがない男が、人目を憚らずに泣いたのである。
「お、おこう!」
次女のレジイナも、涙をこぼしながら思った。
(あの普段は取り乱さない父上が、大泣きされている)
そして掃部の一族は長崎の教会まで行って、アナスタジアの葬儀を行った。
その後、長男小三郎は、長崎で修道士となると決めた。周囲の反対にも耳を貸さなかったのである。アナスタジアの死が、小三郎に何か思わせるところがあったのであろうか。小三郎の覚悟を知った掃部は、息子の志を大事にし、小三郎が修道士になることを認めた。小三郎は修道士になるために、セミナリヨに通うことになり、長崎に残った。
長女カタリイナは、豊臣秀吉が存命中に、既に同じ宇喜多家の家臣岡平内の嫁になっていた。平内の父である岡越前守は、宇喜多家の家老であったが、宇喜多家のお家騒動の時に、秀家と対立し、出奔して関ヶ原の戦いの時に徳川方についた。平内も、掃部と敵対することに、おおいに悩んだという。
第五章 秋月
長崎の教会でのアナスタジアの葬儀の帰りに、馬に乗った侍が向かってきた。そして、ゆっくりと手綱を締め馬を止めた。
「もしや、貴殿は、明石掃部様では、ござりませぬか」
「はい。いかにも明石掃部頭全登でございます」
左衛門は、用心して刀の柄を握った。その侍は、太閤秀吉が生きていた頃、大坂城の広間で、時々出会った侍であった。
「ようございました。何とか間に合い申した。拙者は、黒田甲斐守に仕える栗山右近と申します。主君が、関ヶ原の戦いでの貴殿の見事な采配に感服しており、何とか仕官していただけないだろうかと申しております。ここに甲斐守の書状がございます」
掃部は、書状を受け取って見た。確かに、黒田甲斐守長政の書面であった。黒田長政とは旧知の仲である。掃部は、家族や家臣を養っていくために承諾し、黒田家の家臣となったのである。長政の叔父である秋月城主の惣右衛門(そうえもん)直之の元で働き、禄高は一万石であった。惣右衛門もキリスト教信者であり、受洗名をミゲルと言った。そして掃部は、家臣と、その家族の計三百余名を秋月に呼んだ。
秋月は、博多から東にある盆地で、町が綺麗に整えられていた。筑前(ちくぜん)の小京都ととも呼ばれる。その上の山に古処山(こしよざん)城という山城があり、秋月の領主は代々、そこを根城としていた。平安時代から戦国時代まで、秋月氏が、この地を治めていた。秋月氏は大蔵氏の末裔で、大蔵氏は、中国の前漢の初代皇帝劉邦の子孫と言われている。領土は、さほど大きくなくても、名族である。秋月氏の同族に、原田氏、三原氏、高橋氏などがおり、筑前を主に領してきた。
しかし、秋月家の当主種実は、豊臣秀吉の九州島津氏討伐の際に、島津氏に組し、秀吉に敵対したため、島津が秀吉に降伏した後に、日向高鍋に移封された。それまでの豊前、筑前にまたがる領地から大幅な削減を言い渡されたのである。
そして、その後、秋月は筑前を治めた小早川隆景の領地となり、関ヶ原の戦いの後は、同じく筑前を治めた黒田長政の領地となっている。今は、古処山城ではなく、盆地に秋月城を築城した。冬は雪が多く降るが、風向明媚な土地柄で、民も穏やかである。そこで掃部は、家臣とその家族を養った。そして、今まで以上に信仰に真剣に打ち込んだ。熱心に布教をした。掃部の言葉は、人々の心を打ち、キリスト教信者が増えていった。惣右衛門直之は、掃部の信仰と布教を支援してくれた。掃部は、秋月に来て本当に良かったと感じたのである。
ところで、珍しい者から文が来た。関ヶ原で、同じ宇喜多家で戦った本多政重である。政重は、関ヶ原から近江に逃れた後、宇喜多秀家の正室豪姫の実家である加賀前田家に仕えたそうである。政重は、前田家でも重用されているそうである。前田家は、関ヶ原の戦いの時は、徳川方に味方して戦ったが、報奨として百二十万石の大大名となり、その領土の大きさから、未だに家康の警戒は続き、政重は、前田家と徳川家の繋げ役として、期待されているとのことである。掃部と政重は文の遣り取りを通して、お互いの無事を喜び合った。掃部は、政重と宇喜多家で出会い語らった時のことを思い出した。
慶長五年(一六〇三)、関ヶ原の戦いの後に、行方知れずになっていた宇喜多備前宰相秀家が、徳川方に出頭したという報せが、掃部の元にも来た。明石家の家臣たちも、大騒ぎである。生きていらっしゃって良かったと言う者もいれば、これから、どのような処罰が、なされるのであろうかと心配する者もいた。掃部は、とても憂いていた。
(秀家様は、石田方の中心となって、最も激しく敵と戦われたお方である。同じく戦った石田三成様や小西行長様は、京の都で引き回しの屈辱を与えられた上に、斬首された。日和見の毛利輝元様は、本領を大幅に削減された。戦ってもいない長宗我部盛親様は、領土を没収された。同じように戦っていない安国寺恵瓊様、長束正家様は斬首された。秀家様が領土を奪われるのは間違いないだろうが、命まで奪われないだろうか)
先に述べたように、掃部の諫めを聞いて関ヶ原から抜け出した秀家は、近江の山々を越え、大坂城の城下で、正室豪姫と再会し、その後、九州に行き、同じ石田方であった島津家を頼り、薩摩に落ち延びたのである。そこで今まで島津家に匿われていた。しかし、島津が宇喜多秀家を匿っているという噂が流れ出し、それが世間に広まり、収拾がつかなくなった。幕府の島津家への目も厳しくなり、島津家の当主家久は匿うことが出来なくなり、幕府に差し出したと言う。
秀家には、二人の息子がおり、その子らも出頭した。駿河の久能山で一時預かりとなり、島津家久や、妻豪姫の実家の当主、前田利長(まえだ としなが)の助命嘆願によって、その後、命だけは助けられ、遠く離れた八丈島へ流刑の身になったのである。
掃部は思った。
(私も、秀家様にお会いするために、何としてでも、八丈島へ行きたい)
しかし、現状は、そのようには、いかなかった。島へ行く船は限られており、島は遙か遠くにあった。絶海の孤島だそうである。薩摩の鬼海島のほうが、まだましと言う話もある。それに、自分の家臣や家族を放り出して、独りで島に行く訳にはいかない。そうなると、家臣や家族が困ってしまう。掃部は、悔しいが諦めることにした。
慶長六年(一六〇四)、掃部は、黒田如水(じよすい)から福岡城内の御鷹屋敷に呼ばれた。昔の話をしようと言われたのである。左衛門も、そのような名将とお話がしたい、必ず行きたいと言い出した。しかし、お前のような口の悪い男を大事なお人の前に出すのは、甚だ危ういと言って、掃部は随行させなかった。左衛門は不満だらけである。
御鷹屋敷はこじんまりとした茅葺きの屋根で作られていた。周りには、松の木が七本立っている。幹の曲り具合が丸みを帯びていた。如水は、小柄で剃髪しており、口と顎に濃い髭を蓄えていた。凜としていて、瞳が輝いていた。そして、よく微笑んでいる。豊臣秀吉を補佐した名軍師で、調略の名人であり、関ヶ原の戦いの前には、中央の騒乱をよそに、小勢で九州の大部分を制覇した男とは、とても見えなかった。
「如水様、お呼びいただき、光栄に存じます」
「いえいえ、こちらこそ、秋月から山々を越えて来られ、恐れ入ります」
「今日は、晴れ晴れとしており、暖かな日でございますね」
「そうですな。心持ちも、常にこのようであれば宜しいのですが」
「何かございましたか」
「キリスト教信者のことでございますよ。棄教した、わしが言うのも何ですが、今は、内府公が南蛮などと交易し、キリスト教信者への締め付けはないのですが、これからどうなるかが気がかりです。イスパニアやポルトガルの存在が、キリスト教信者への迫害へと向かわないとよいのですが」
「それは私も心配しております。先の太閤様の時も、最初は南蛮貿易にご熱心でありましたが、九州攻めの後に、先の太閤様が九州の実情をその目で見て、大村氏が長崎を南蛮に寄進し、そこでのキリスト教信者が、かなり増えていっている様子を見て、イスパニアやポルトガルを脅威に感じ、伴天連追放令を出されましたな。あの令でも、信仰を曲げずにいた高山ジュスト右近殿は、領土を没収され、加賀前田家に預けられましたな」
「私などは、己の無力を感じてなりませぬ」
「掃部殿、そなたが自分を責めることは、ありませぬ。ただ、こればかりは、我が智略を持ってしても、どうにもなりませぬ。我が息子長政は、徳川家にへつらうでしょうから、徳川がキリスト教信者を弾圧し始めたなら、それに従い、秋月のキリスト教信者など弾圧してしまうでしょう」
「しかし、惣右衛門様がいらっしゃいます」
「弟直之は、熱心な信仰者ですが、長政は弟に何を仕掛けてくるや、分かりませぬ。長政は黒田家を残すためには、なりふり構わぬ性分なのです」
掃部は、何も言い出せなかった。長政は確かに、徳川に忠実に従うだろうと思うが、長政のおかげで、掃部は今、無事に生活が出来ているのであるから、文句を言うことは出来ない。
「掃部殿、わしも年を取り、もう先は長くはない。わしが亡き後も、直之と力を合わせ、キリスト教信者を守って欲しい」
「分かりました。この明石掃部頭、必ずやイエス様の教えに従い、キリスト教信者をお守り通します」
「その一言が聞けて、わしは嬉しく思いますぞ」
そして、如水と掃部は別れた。それが、掃部が如水を見た最後である。同じ慶長九年に、如水は、京都の伏見で亡くなった。五十九歳であった。葬儀は、博多の教会で大々的に行われた。掃部は偉大な恩人を失って、悲しみもあったが、長政が如水の遺言を受け容れて、キリスト教での葬儀を行ってくれたことに安堵した。
葬儀の後、惣右衛門直之と、秋月の茶室でゆるりと茶を一服した。
「惣右衛門様、この度は、兄上様の如水様をお亡くしあそばれ、お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございまする。兄は戦国の世で、十分に智略を発揮し申した。悔いのない一生でございましたでしょう。織田の中国攻めでは、仕えていた小寺家の意見をまとめて、いち早く信長公に接近し申しました。そして毛利方の城の多くを織田方に寝返らせ、別所長治の立て籠もる三木城、吉川経家の籠もる鳥取城を落とし、長く戦国の世に君臨した北条氏の堅城の小田原城へは使者として赴き、見事に開城させました。また、関ヶ原の戦いでは、普段から貯めておいた金銭で兵を雇い、九州の大部分を攻め落としました。もし、中央で、石田方と徳川方の争いが長く続けば、その間に、漁夫の利を得て、天下を狙うつもりだったのでしょう。兄が、加藤肥後守清正殿(かとう ひごのかみ きよまさ)、立花飛騨守宗茂殿、鍋島(なべしま)加賀守(かがのかみ)直茂(なおしげ)殿などを従えて、領土を広げ、島津の兵と薩摩の国境で対峙した時の、徳川方の慌てぶりは、思い出す度に、不覚にも笑ってしまいます」
「そうでございますな。如水様のなさることは、世を驚かすことばかりでした。しかし、まさか関ヶ原の戦いで一日も経たずに、決着がつくとは、お思いになられなかったでしょうな。私もそうでした。長政殿のお働きが、石田方と徳川方の戦いを短く終わらせるとは、皮肉なことでございます」
「それは私もです。兄が天下人になっていたなら、面白かったのではと思います」
「如何にも。我らキリスト教信者にとっても、住みやすき安らかな世になったことでしょう。そのことが残念でございます」
「徳川の世では、どのようになるか分かりません。内府様は、先の太閤様が攻め込まれた朝鮮との仲を元に戻そうとなされ、海外への交易もなされようとしております。先の太閤様も最初は、そのようでありましたから、油断はできませぬ」
「そうですな」
「内府様が、もしキリスト教信者への態度を厳しくなされたなら、長政は、それに従うだけでしょうな。あの者は黒田家を守るのが一番で、キリスト教信者を守ることなど、しないでしょうからな」
掃部は暗鬱な心持ちになった。惣右衛門が尋ねた。
「秋月でのお暮らしは如何ですか」
「緑豊かで静かな地で過ごすことが出来ております。安らかに暮らしております。これも、惣右衛門様のおかげにございます」
「いやいや、神のご加護が掃部殿に授けられたのですよ」
「私如き者に、そのような、勿体なきお言葉、痛みいります」
「掃部殿は、そのようなご加護を受けて、当たり前のお人なのです。そなたは、これからもキリスト教信者を守っていかなければ、ならないのですから」
「はい、キリスト教信者を守り通して参ります」
掃部の言葉を聞いて、惣右衛門は笑みを浮かべた。
「ところで、秋月でのご家臣たちは、農事に励まられているとか」
「はい。備前にいた頃は、皆、農事はやっておりませんでしたが、家臣、家族含めて三百余人が生きていくためには、何とかするしかありません。私も、家臣に混じって、田畑を耕しております」
「黒田家からの禄が少なくて、大変申し訳ございませぬ。農事とは、慣れないことでしょう」
「いえ、一万石も頂けるとは、有り難きことです。大名並みでございますから。それに秋月を豊かな土地にすることに、少しでもお役に立てれば幸いです」
「左様ですか。ともかく戦国からの戦の時代は、一先ず終わりました。天下の安寧を願って、荒れ果てていた領地を豊かにするだけです」
「はっ」
掃部は、茶室から出て行き、秋月の自邸に向かった。ミゲル惣右衛門直之も、慶長十四年(一六〇九)に、大坂で亡くなった。掃部は大いに悲しみ、ミゲルのために祈った。跡を継いだ、その子パウロ長門守(ながとのかみ)直基も、慶長十六年(一六一一)に亡くなった。
黒田長政も、父官兵衛(かんべえ)如水にならい、元はキリスト教信者であった。天正十五年(一五八七)の豊臣秀吉の伴天連追放令の時に、棄教したが、キリスト教信者については黙認していた。秀吉の時代の伴天連追放令自体が、徹底したものではなかったからである。家康は天下を取った後は、南蛮人がいる東南アジアとなどと積極的に朱印貿易を行い、キリスト教信者弾圧も厳しくはなかった。
しかし、惣右衛門が憂いていた状況になった。異国が吉利支丹布教の後に、布教先の土地を奪っていることを知った家康は、慶長十六年(一六一一)頃から吉利支丹弾圧に厳しくなった。そのことにより、黒田甲斐守長政にとって、明石掃部は、扱いにくいものになった。
確かに長政は、関ヶ原の戦いで家康のために、豊臣家一族の小早川秀秋を徳川方に寝返らせたり、吉川広家と通じて、毛利家を戦場で動かさなかったり、秀吉子飼いの武将福島正則を家康側につけさせて、おおいに働いた。しかし、長政も豊臣家の子飼いの大名で、しかも五十二万三千余石の大身であるので、家康から、かなり警戒されているのである。
黒田家のキリスト教信者の旗頭の三人、シメオン如水、ミゲル惣右衛門直之、パウロ長門守直基が健在の頃は、長政も、掃部の熱心な信仰には何も言えなかったが、この三人の死により、直ちに掃部の領地を没収し、召し放ちした。掃部は流浪の身となったのである。慶長十六年のことである。
明石掃部は、福岡城に登城した。黒田家の財政に明るい家老の小河内蔵允之直(おごう くらのじよう これなお)に、相談したいことがあって、やって来たのである。内蔵允は、キリスト教信者ではなく、曹洞宗の信者であるが、関ヶ原の戦いの前から、同じ豊臣家の家老として、打ち合わせなどで、よく会っていた。内蔵允は、掃部が秋月で生活を始めると便宜を図り、助けていたのである。
「明石掃部頭でございます。小河内蔵允様にお取り次ぎ願いたい」
大手門での門番が言った。
「これは明石掃部様。お約束のお時間ですね。こちらへお入りくだされ」
掃部は、内蔵允の書院に通された。こじんまりとした庭に春が訪れていた。掃部は、内蔵允の室に通された。
「掃部にございます。お忙しいところ、お時間をいただき、恐悦至極に存じ上げます」
「いえいえ、とんでもない。今回の召し放ちの件、大変お気の毒に存じます。私も殿に考え直すように再三申し上げたのですが、吉利支丹をこのままにしておく訳にはいかぬの一点張りで、殿のお心が動きませんでした。私の力不足でございます。大変申し訳ございません。如水様が生きておられたならば、と残念に思います」
「いえ、お家のご事情は分かっております。外様の大大名は、徳川にとって脅威でありますので、幕府から、お取り潰しの口実を与えられぬように、慎重に物事を運ばねばなりませんから、甲斐守様のなさったことは、仕方がないと存知ます。小河様、今まで大変お世話になりました」
「掃部殿ほどの名将を失うのは甚だ痛いのです。只でさえ、黒田家一の猛将後藤又兵衛(またべえ)殿が、殿と喧嘩別れをし、お家を去ったのですからな。ところで、掃部殿、これから如何なされますか」
「京に出て、仕官活動をしようと考えております。何でも、関ヶ原の戦いで改易となった立花飛騨守宗茂様は、京で仕官活動をされて、上様の家臣となることができたとか」
「左様にございますか」
掃部は身を乗り出してきた。
「そこでなのですが」
「そこで?」
「大変申しにくいことなのですが、私の家臣の何人かを内蔵允様の家臣にしていただけないかと、お願いに上がりました」
「えっ、掃部殿の家臣と、その家族で、秋月で三百名余りほど、いるとお聞きましたが」
「はい。しかし、三百人余ではございません。年寄りや高禄の者十二人を召し抱えていただければと思いまして」
「ああ、それくらいなら大丈夫にございます。私は算用を得手としておりますので、すぐに俸禄の合計が出ました」
「さすがは、内蔵允様」
「池太郎右衛門殿たちですね。しかし、他の者たちは、どうなされますか」
「備前で帰農してもらうしかないと思っております。私の仕官先が決まれば、内蔵允様に預けた家臣や、備前で帰農した家臣を呼ぼうと考えております」
「なるほど。それでは、私の元に預かる十二人は責任を持って、仕えさせたいと思います。長政様には、これくらいは許してもらいます。私だけでなく、他の家老にも動いてもらうようにします。それと、備前を治める池田様の家老にも、掃部様の家臣の帰農の件を話して、許可を頂けるようにしたいと存じます」
「これは痛み入ります」
そのように言って、掃部は福岡城を後にし、秋月に戻った。そして家臣とその家族、三百余名を屋敷に呼び出した。と言っても、屋敷に、これほどの人数が入るはずもなく、庭に溢れる者たちが大勢いた。
「今回の長政様からの召し放ちは、まことに残念ではあるが、致し方ない。既に申した十二人は、小河内蔵允様に召し抱えてもらうことと相成った」
庭の壁の前にいた家臣の一人が尋ねる。
「それで、他の者は、どうなされるのでしょうか」
「気の毒だが、一時、備前に戻り、帰農してもらう。備前を豊かにしていてくれ」
家臣たちは、騒然となった。
「そ、そんな。私どもは掃部様に一生ついて参ります」
「そうじゃ。そうじゃ」
「わしも掃部様に一生ついていく」
掃部が深くため息をついた。
「すまない。召し放ちになった今、そのように大勢は養えないのだ。分かってくれ。小河内蔵允様が池田家に便宜を図っていただけるそうだ」
「し、しかし」
「私は、京で仕官の働きかけをしようと思う。仕官先が決まるまで、待っていてくれ」
「左様にございますか。それでは、備前でお待ち申しております」
「そうだ。掃部様のおっしゃることを信じよう」
「そうじゃ、そうじゃ」
「皆、どうか待っていておくれ。供の者は、犬山左衛門一人とする。何せ、金銭に余裕がないのと、あまりにも大勢で押しかけたら、京で騒動になるからな。我らは、キリスト教信者であり、しかも関ヶ原で、徳川家に敵した身であるからな」
「分かり申した」
「左衛門、私とともに京へ行ってくれ」
「分かりました。拙者、掃部様の行くところなら、火の中、水の中、どこへでも参りますぞ」
「頼もしい限りだ」
「武芸に秀でた拙者が、掃部様を必ずやお守り申しあげます」
そこで、庭にいた一人の家臣が口を開いた。
「何を言っていやがる。掃部様のほうがお前よりも、武芸が達者ではないか。お前が掃部様に守られるのだろうよ」
家臣たちが一斉に笑った。
左衛門が食ってかかる。
「何だと! もう一度行ってみろ。関ヶ原での拙者の働きぶりを忘れたか。ただじゃおかねえ」
「おう、何度でも言ってやるわ。お前は、掃部様の足下にも及ばねえ」
左衛門は興奮していた。
「ふざけるな。この豚野郎」
そこで掃部が間に入った。
「お前たち、同じ家臣同士なのに争うでない」
左衛門は、渋々うなずいた。
「は、はい。分かりましたよ。全く、もう」
「それでは、皆の者、一時さらばだ」
「はい!」
残るは、母モニカ、次女のレジイナ、次男パウロ内記、産まれたばかりの三男ヨセフの四人であったが、今は徳川家の家臣となっている岡平内に預かってもらうことにした。岡平内は、江戸の旗本屋敷に住んでいる。次女のレジイナが尋ねた。
「父上は、いずこに行かれるのですか」
レジイナとは受洗名である。背丈は五尺三寸で、当時の女人では背が高いほうだ。髪は、鮮やかで艶がある黒色で、後ろで束ねているだけの掛け垂髪である。眼が涼やかで、瞳が輝いている感じがする。そして顔が小さい。眉毛は濃い。肌は白く、鼻筋が整っている。口は結んだままで、空いたりはしない。口角が上がっている。
そして、掃部に劣らずキリストへの信仰心が篤い。強い信念を持っているが、気が強すぎるのが玉に傷である。同胞のキリスト教信者が迫害されているのを見ると、逆上してしまう。痛めつけている侍たちに立ち向かおうとしてしまう。その度に、掃部はレジイナを押さえつけるのに苦労した。しかし、レジイナの激しい気持ちを抑えるのは、掃部にも難しかった。そしてレジイナは父掃部のことを誰よりも尊敬している。
このレジイナが、掃部の持つ聡明さ、勇ましさ、寛大さを持っていて、一番掃部に似ていると言われた子である。
「レジイナ、私は京に上る。京のイエズス会のロレンソ様を頼ろうと思うのだ。そして新たな仕官先を捜す。キリスト教信者に寛容な大名をな」
「そうですか。父上が考えることに異存はございません。ただ、新しき道が決まったら、私をお呼び下さい。必ずお力になります。決して足手纏いにはなりませぬ」
「うむ、十分に、そのことは、分かっておる。レジイナ、そちは聡明な子だ。幼い頃からだったな」
「ありがとうございます。父上。それまでは、私が家族を守り通します。父上の代わりに必ずや守り通してみせます」
「そちには、それが出来る。頼んだぞ」
「はい」
左衛門が口を開いた。
「掃部様は私がお守り致します」
レジイナが左衛門を美しい瞳で睨む。
「アントニオ、言っておくが、お前は、行く先々でその悪口で敵を作るな。父上にご迷惑をかけるな。もちろん、今までしてきたことを覚えておろうな」
「は、はい」
相変わらず、左衛門は、レジイナに言われると、何も言い出せなかった。
(レジイナ様ともお別れか。悲しいな)
母モニカが口を開く。
「掃部や。体に気をつけてな。決して無理はせずともよいぞ。そなたが健やかであれば、それでよい。そして、キリスト教信者としての務めを怠るでないぞ。仕官先は焦らずともよい。静かに信仰に打ち込めるところであればよい。その前に、備前の行雄様の墓前に、これを置いてきておくれ」
それはメダイと言って、キリスト教信者が使う、聖母マリアなどを金細工師が彫ったメダルのことである。モニカは笑った。
「曹洞宗を信心されていた行雄様にとっては、ご迷惑かもしれんがな」
「はい、分かりました。父上の墓前に必ずや捧げて参ります」
「それと、八郎(秀家)へ文を送ってあげておくれ。秋月では、八丈島に、どのようにして送るか分からんでな」
「はい、確かに承りました」
次に、次男パウロ内記が話しかけてきた。
「父上、私も父上に負けないように、学問と武術を学びます。そして父上のご仕官がかなった時に、役立つように致します」
「うむ、頼んだぞ」
最後に、関ヶ原の戦いの後に生まれ、十二歳になっていたヨゼフが言う。顔立ちが琳としていた。顔は、掃部似である。まだ元服前なので、総角である。生き物を大事にする優しさがある。
「私も、精進致します。江戸に行ったら、江戸の徳川の様子を文に書いてお送りします」
「うむ。しかし、ヨセフよ。無理をするでないぞ。キリスト教信者の取り締まりには用心せよ」
「はい」
長男小三郎とは、十一年前に、長崎で修道士になるために、セミナリオに通って以来、文の遣り取りはしていなかった。小三郎が、信仰に徹したいので、文は無用と言ってきたのであった。そうして、掃部は、レジイナたち家族と別れた。
第六章 京へ
掃部は、犬山左衛門利家を連れて、京に上っている。左衛門が選ばれた理由は、熱心なキリスト教信者であり、掃部への忠義が、明石家一と言われており、勇敢で武勇に秀で、数々の手柄を上げてきたからである。関ヶ原の戦いでも、その槍さばきで敵の福島正則軍に鬼神のごとく恐れられた。その一方で、初めて話す相手にも、すぐに打ち解ける才能を持っていたためである。掃部は、話上手ではない。自分にはない力を持っている左衛門を選んだのである。
左衛門の長男太郎は、関ヶ原の戦いの前、宇喜多家のお家騒動で宇喜多左京亮、岡越前守、花房志摩守、戸川肥後守たちの側に付き、そのまま徳川方に味方し、関ヶ原の戦いの後、家康の旗本となっている。父左衛門と反目して別れた訳ではない。戸川肥後守に心酔していて、肥後守についていったのである。その証しに、今も左衛門との文の遣り取りは、続いている。
長女絵野は、備前の平安時代から続く名門の土豪松山家に嫁いだ。松山家は、そのまま、小早川家を経て、徳川方であった池田家の家臣となっている。備前は、今は池田家の領地となっているため、絵野は備前岡山に住んでいる。今回は、京での仕官がうまく行かなかった場合に、その二つの縁を頼ると考えていた。
掃部は、黒田家を去った後、長崎に向かった。今まで文禄の世から世話になってきたゲレイロ神父に出会うためである。こじんまりとして蔦が絡みついた壁が板敷きの古い教会に着いた。キリスト教信者弾圧が厳しくなったので、それまでの大きな教会から、この小さな教会に皆を移した。礼拝中であった。掃部たちは、音を立てずに、静かに教会の中に入っていった。白髪の赤い顔で、瞳が緑がかった神父ゲレイロは、掃部の顔を見て、頬が緩んだ。身の丈は六尺一寸もある大男である。先ず、礼拝していた民たちが声をかけた。
「おお、ジョアン様じゃ。ジョアン様じゃ。懐かしや」
左衛門が不服そうに言う。
「おい、お前ら、俺には話しかけないのか」
「いいえ、アントニオ様も、相変わらず、お口が悪く、お元気ですね」
「何だ。そのお口が悪くってのは」
「いえいえ、お元気で良かったと喜んでいるのです」
「そうか」
民たちは、次々に掃部に語りかける。
「ジョアン様、お久しぶりです。お元気ですか」
「ああ、元気である。皆も息災か」
「はい、徳川の締め付けは厳しいですが、何とか生きております」
掃部は、ゲレイロの前まで近づいた。ゲレイロは微笑んでいる。
「ジョアン殿、アントニオ殿、お久しぶりです。アナスタジア殿のご葬儀以来ですね」
「ご無沙汰しておりました。十一年ぶりでございますね。この度、黒田家を離れ、京に上ることにしました」
「まさか、ダミアン(黒田長政)殿との間に何かありましたか」
「はい。徳川幕府のキリスト教信者への取り締まりが厳しくなり、長政様も、私を庇いきれなくなりました。そこで、召し放ちになったのです」
「そうですか。それは残念なことです」
「ゲレイロ様、相変わらず、老けておりますね」
掃部は、左衛門を叱った。
「これ、また、そのようなことを言う」
「いえいえ、気にしておりません。アントニオ殿は、いつもこうですからな。あはは」
「こうですってのは失礼ですぜ」
「これ、控えよ。左衛門」
「あ、はい」
ゲレイロは憂鬱そうに天井を見上げた。
「しかし、あのダミアン殿が、このようなことをするとは、ジョアン殿もご苦労なされたでしょう」
「致し方ありません。黒田家は、徳川幕府に、いかに忠誠を示しても、懸命に尽くしても、大藩であり、長政様は豊臣家子飼いの武将として厳しく見られているのでしょうから、キリスト教信者を保護することはできなくなったのでしょう」
「ああ、シメオン(黒田官兵衛如水)殿、ミゲル(黒田惣右衛門直之)殿、パウロ(黒田長門守直基)殿が生きていれば、このようなことにはならなかったのに」
「如水様、直之様には、言葉で言い尽くせないほど、お世話になりました。秋月で十一年も無事に生活できたのは、お二人のおかげです。それだけで十分です」
「ジョアン殿は、相変わらず謙虚なお方ですね」
掃部はため息をついた。
「いえ、神のご加護があり、今まで生きて来れました。ところで、長崎では、キリスト教信者への取り締まりは、どうなっておりますか」
ゲレイロは悲しげに言った。
「段々厳しくなっています。長崎が、キリシタンが日本で一番多いと見られていますからね」
「我々キリスト教信者が、イスパニアやポルトガルの先兵となるなど、決して、そのようなことは、ないのですが」
「実際、疑われても仕方がないところがあります。ゴアやマカオやフィリピンは、我ら宣教師が布教した後に、ポルトガルやイスパニアの領土になっているのですから。武力で持って、人を押さえつけ、平等や愛を破壊しているのが、この二つの国ですから。我が母国ながら、恥ずかしいと思います。イエス様が、このようなことをお許しになるとは到底思いません。実際、今から二十四年前には、イギリスと言う国から、イスパニア自慢の大艦隊が無残にも敗れました。これも神罰が下ったということなのでしょう」
「そうですね。今、我が日の本のキリスト教信者は、危ういところに来ております。何とかしなければ、ならないとは思いますが、私だけの力では、何ともし難いのが悔しいところです」
「いつものように、掃部様の腕であっという間に、弾圧している奴らを退治しましょうよ」
「左衛門、そのように簡単に言うでない」
ゲレイロは口を開いた。
「ジョアン殿、ご自分を責めないで下さい。あなただけでなく、我々でも、難しいことなのですから」
「そうでございますね」
「ところでジョアン殿、今日は、私たちに別れを告げに来られたのですね」
「左様。黒田家を去った今、仕官を求めるべく、京の都に上ろうと思います。それで、しばしのお別れに参った所存にございます」
「わざわざ、長崎の地まで来られて、ありがとうございます。我らに出来ることはございますか」
「いえ、ゲレイロ様のお手を煩わすことは、ございません」
「あっ、ありますよ。京のソノラ教会には、旧知のロレンソ司祭がおられます。紹介状を書いておきます」
「ああ、わざわざゲレイロ様自らお書きいただき、ありがとうございます」
「いいえ、面倒なことではありません。すぐにお書きします。ご仕官が早く決まると、いいですね」
「重ね重ねありがとうございます」
掃部は、紹介状をもらった後、教会で礼拝をして、ゲレイロやキリスト教信者の民に別れを告げた。
「ジョアン殿、また、お会いしましょう」
「はい」
「ジョアン様、長崎を忘れんでくだされ」
「おう、長崎は第二の故郷だ。心の中に、いつもある。決して忘れないぞ」
左衛門も言った。
「お前らも、無事でいろよ。徳川の馬鹿どもなんかに捕まるなよ」
明石掃部と犬山左衛門は、再び北に向かった。福岡城に再び寄り、小河内蔵允に挨拶をして、書院で池太郎右衛門たちなど、内蔵允に仕えている者たち、一人一人に声をかけ、別れを惜しんだ。池太郎右衛門は、よく泣くので知られていたが、今度も、凄まじい声を出し、泣いていた。
「これこれ、私より二つも年上のお前が泣いてどうする。それにここは書院であるぞ。働いていらっしゃるお方たちが大勢いらっしゃるぞ。明石家の武人が侮られたら、如何するのだ」
「う、う、しかし、掃部様とお別れすることは、悲しいのですぞ」
「じじいが泣いてどうするんだよ」
「これ、左衛門。お主はいつも、そのようなことを言う」
「はいはい、黙っておりますよ」
「太郎右衛門よ。泣いてばかりでなくて、お前が、明石家の武士と、その家族をまとめてくれよ」
「わ、分かり申した」
「今は、お前たちは黒田家で働いてもらっている。ここで忠勤致せ。内蔵允様に懸命にご奉公せよ。しかし、私は、必ずや仕官を成し遂げ、お主たちを家族とともに呼び寄せる。その時まで、とにかく我慢してくれ。頼むぞ」
「分かり申した。お待ち申しあげております」
家臣とその家族のキリスト教信者信仰が、幕府の弾圧によって妨げられなければよいがと心配しつつ、別れてきた。
福岡、そして博多の街を離れ、門司の港についた。そこから小船で海を渡ったが、相変わらず、壇ノ浦の海は荒い。船が横に揺れ動いて、左衛門は思わず吐いてしまった。
「ぐ、ぐえー」
左衛門の顔は青ざめている。
「か、掃部様、このような海でも平気なのですか」
「左衛門よ。これくらいの揺れで、どうするのか。我らは、秀家様に従って、この海より遙かに長い、朝鮮までの荒い海を渡ったではないか」
「あ、あの時は、拙者は、朝鮮や明という、見知らぬ敵との戦の前で武者震いをしており、それどころではありませんでした。それに、乗ったのは、この船よりも遙かに頑丈で大きい安宅船でした故」
「左衛門は、まだまだ修行が足りぬな」
しかし、突然船が大きく揺れ出した。大きな波が来たようだ。掃部も急いで船の端に行き、そこで吐いてしまった。
左衛門は、吐きながらも笑っていた。
「あはは、修行が足りぬのは、誰だったでございましたでしょうかな」
門司から壇ノ浦(だんのうら)を経て赤間関(あかまぜき)に着いた時には、二人とも、息も絶え絶えであった。
「さ、左衛門、京に上るには、海路で摂津まで行くつもりであったが、それは止めておこう。陸路を使おう。海を渡るのは辛いぞ」
「そ、そうですね。船は、もう懲り懲りでございます」
船頭が言った。
「もう、これからの瀬戸内の海は穏やかで、こんなに荒れてねえよ」
「い、いや、もう船は懲りた。恐ろしい。陸を歩いていく。死にたくはない」
「そんな、勿体ねえ。船だったら、摂津まであっという間よ」
「いや、断る。丘へ上がるぞ」
そして、二人は赤間関に上がって、木陰で休んでいた。目眩がしている。しばらくして、疲れを取ることが出来た二人は、茶屋に寄った。
「掃部様、ここにも、黍団子(きびだんご)が、ございませんな」
「そうだな。きっと備前にしかないのであろう」
「黍団子が恋しゅうございます」
「私もだ。仕方がない。みたらし団子でも食べよう。おい、みたらし団子を四つくれ」
店主が答えた。
「へい、ただいま」
掃部と左衛門は、みたらし団子を食べながら話した。
「掃部様、京は十一年ぶりでございますな。江戸に、政治の中心が移り、荒れ果てていないとよいのですが」
「まだ、大丈夫であろう。帝もおわしますし、朝廷を監視し、畿内統治を行っている京都所司代も目を光らせているくらいだから、先の太閤殿下(秀吉)の頃までとは、いかなくても、ある程度は繁栄しているであろう」
「そんなものですかね」
その時、悲鳴が聞こえた。掃部と左衛門が店から出て、声の聞こえた方を見た。大男とその下男が、若い女を追っている。掃部と左衛門は、急いで、そちらへ向かう。そして、女と大男の間に入った。
「何事か」
六尺もある大男が言う。肌は黒く、鼻が太い。
「どけ、邪魔だ」
掃部と左衛門は全く動かない。
「どけと言っておるんじゃ。邪魔だ。斬り捨てるぞ」
掃部が答える。
「しかし、大男が、か弱き女性を追い詰めるとは、ただ事ではないな」
「大きなお世話だ。こやつは、わしの刀に肩が当たったのに、詫びもせぬのだ」
小柄な肌白い女が震えながら言う。
「お、お、お謝りは、致しました」
「土下座をしておらぬではないか」
「わ、私も、これでも武士の娘であります。決して土下座などは出来きませぬ」
掃部が間に入った。
「お侍殿、このように娘も詫びておるではないか。これくらいで落ち着かれよ」
「う、うるさい。娘に土下座をしてもらうまでは、去らぬ。さあ、早く土下座せよ」
左衛門が口を開く。
「お侍さん、もうそろそろ、その辺にしたほうが、いいんじゃないんですかい」
「何を言っておる。さあ、心を込めて、謝ってもらおう」
今まで穏やかにしていた掃部が目を見開いた。
「そこまで、おっしゃるのなら、私がお相手仕ろう」
「おお、お主が土下座してくれるのか」
左衛門が言う。
「馬鹿か、お前は。このお方が、お前を成敗してくれるってことよ」
大男は、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「な、なんだと。土下座せずに、逆に成敗するだと。こんな傍若無人なやつは、初めてじゃ。よし剣を抜け」
「私は、明石掃部と申す。貴殿の名は?」
「大倉十蔵(おおくら じゆうぞう)じゃ。毛利家の分家、長府藩の家老の弟じゃ。明石掃部だと、そのような名は知らぬな」
左衛門が大笑いした。
「へえ、侍なのに明石掃部様の名を知らぬとは、お前さん、戦場に出たことがないな」
「ふん、関ヶ原の戦いなど、大昔の話でないか」
「あっ、そうだ。関ヶ原の戦いの時、毛利家では、石田方の総大将の当主輝元様は、関ヶ原の場には来ないで、ただ大坂城にいただけで、関ヶ原の方で、石田方が戦いで負けた後は、大坂城に立て籠もって戦うこともせずに、家康に本領安堵を約束され、騙されてあっさりと大坂城を受け渡したんだよな。そうしたら、石田方の処分の時、大幅に領地を減らされたんだよな。お人好しにも程があるぜ。関ヶ原の戦場に来た毛利秀元様の軍も、石田治部少輔様の再三の要請にも関わらず、南宮山で動かないで弁当ばかり食っていたもんな。ああ、思い出したぞ。長府藩は、その時の弁当ばかり食べていた大将の秀元様が主君であらせられたな。あははは」
「な、なんだと。無礼者め。お、おのれ、主家を愚弄するとは許さんぞ」
「掃部様が、こやつ如きを相手にすることはないですよ。私の腕で十分です」
「うむ、任せた」
「舐めやがって。おらっ!」
大男の剣は空を切っていた。左衛門が右に動いて、刀が当たらなかったのだ。
「ほれ」
大男は倒れた。男の左脇腹に剣が当たっている。峰打ちである。左衛門が、気の毒そうに言う。
「すみませんねえ。痛くないですか」
大男は、苦しそうに倒れてる。
「う、うう、体が動かぬ。ほ、骨が痛い」
掃部が大男に話しかける。
「もう、愚かなことはせぬことだ。そうでないと、次は私がそなたを斬る。分かったか」
「うう。悔しい」
唸りながら、大男は下男に肩を支えながら、逃げていった。
掃部が左衛門に近づいてきた。
「左衛門、よくやったぞ」
「何のこれしき。毛利家の侍は、関ヶ原の戦いの頃から、だらしがなくなりましたな」
大男に追われていた娘が話しかけてきた。
「危ないところをお助けいただき、まことにありがとうございます。私は、梢と申します」
左衛門は照れている。
「いやいや、相手が弱すぎただけですよ。本当に弱い。感激するほど弱い」
「申し遅れました。私は明石掃部と申しまして、この者は、家臣の犬山左衛門と申します」
「明石様、犬山様、せめて何かお礼を致したいのですが」
左衛門が言う。
「あんな弱いやつ一人懲らしめただけです。お礼などいりませんよ」
「いえ、それでは助けていただいた私の立場がございません。父にも叱られます」
「困ったな」
「あっ、そうです。我が家へお越し下さい。おもてなしをさせていただきます」
「そんな大袈裟なことでは、ありませんよ」
「左衛門、折角のご好意だ。受け取ったほうがよいぞ」
「分かりました」
「お受けいただき、ありがとうございます」
こうして、掃部と左衛門は、梢の屋敷に寄ることになった。屋敷の前まで来ると、門は開き門であった。
掃部は思った。
(開き門とは、けっこうな身分の武士の家だな)
梢が、先に屋敷内に入っていく。
「只今、帰りました。今日は、命の恩人をお連れしました」
左衛門は驚いた。
(えっ、命の恩人って、それは大仰ではないか)
梢が父親と思える者を連れてきた。月代で、眼が丸かった。娘の梢も眼が丸い。父親似であろう。
「話は娘から聞きました。娘を助けていただき、まことに、ありがとうございます。拙者は、飯田右兵衛(うへえ)と申します。長府藩の家老をしております。同じ家老をしている大倉太右衛門(おおくら たえもん)と、その弟十蔵は、身分が高いことを鼻にかけて、人に難癖をつけたりして、気性が荒く困った者たちです。しかし、弁が立たないので、いつも、やり込めております。心配はご無用です。あちらが何か言ってきても、主君の秀元様に申し上げれば、向こうが痛い目に会うだけですから。ところで、明石掃部様と言えば、宇喜多秀家様の仕置御家老であられたお方ですね。関ヶ原での戦いでの采配は、それはそれは見事なものであったとか。お名前は、よく存じ上げております。大坂城や、伏見城で時々お見かけし申した。関ヶ原の戦いの時は、拙者は秀元様の下で南宮山で動けずにいました。あの時は、何故兵が動かぬのか分かりませんでした。お恥ずかしい限りです。後で事情を知り申した。吉川民部少輔(みんぶのしようゆう)広家様の指図だったのですね。民部少輔様も、今は毛利家の中では、お立場が弱いのです。何と言っても、本領安堵のところを大御所にたぶらかされ、長門、周防の二カ国に押し込まれ、我ら毛利家の武士も逼迫した生活を送ることになったのですからな。同じ石田方でも、徳川方の主力部隊と激突した宇喜多家とは、大違いでございます。あっ、申し訳ございません。話が、つい長くなり申した。拙宅で、少しばかり骨休みをされてくだされ」
掃部が答えた。
「ありがとうございます。関ヶ原の戦の時は、致し方ございませぬ。皆、お家を守ることに必死でした。お家が無くなれば、家族が路頭に迷う訳ですからな。あの時は、黒田甲斐守長政様が、毛利家の重鎮吉川民部少輔広家様に手を回して、吉川軍が、毛利軍、長宗我部軍、安国寺軍、長束軍を足止めしておりました。私は、その甲斐守様に今までご奉公しておりましたから、何も言えませぬ」
「左様ですか。では、屋敷の中へどうぞ」
「掃部様、先程の大男と違い、飯田様は掃部様をご存じでしたね」
「うむ。あの大男は、若かった。もう十一年も前の話だ。関ヶ原の戦を知らないのであろう」
右兵衛の庭は、壁の前に、大きく長い石が三つ並べてあった。左から高く、右になるにつれて小さくなっている。美しい並びであった。そして、石庭が設けられてあった。五つの大小の石が飛び飛びに並んでいたのである。その下にある砂も流れるような形で、掃いてあった。
「掃部様、まるで、京の龍安寺のような庭ですぞ。京にいた時には、あの寺には、よく通いましたな。我らはキリスト教信者のくせに、禅寺通いとは、滑稽でしたな。あはは」
「左衛門と違って、私は、受洗前までは、曹洞宗であったからよいのだ」
「何をおっしゃる。屁理屈ですぞ」
「もう言うな。そこを言われると何も言いようがないのだ。しかし、うむ、なかなか趣きのある庭だな。長府にも、このような庭があるとは。ああ、そうだったな。毛利氏の前に、ここを治めていた大内氏は、京文化が盛んな土地を作っていたな。その名残かもしれぬ」
右兵衛が声をかけた。
「明石様、犬山様、我が室内へお入り下さい」
こうして、掃部たちは、右兵衛とともに屋敷の室内で待たされた。床には、水墨画がかけられていた。大きな龍と虎が睨み合っている。
「飯田様、まさか、これは雪舟様の画でございますか」
「さすがは、明石様。すぐに、お分かりにならましたな。飯田家は代々大内義隆様にお仕えしており、戦の褒美で、雪舟様の水墨画を戴いたのです」
「ほお、これは、見事な画でございますな」
「お褒めに預かり、光栄にございます」
すぐに、膳が運ばれてきた。周防の海で獲れた真鯛が並んでいた。左衛門の口元が緩んだ。
「おお、真鯛をごちそうになるとは、ありがたい。宇喜多家に勤めていた時以来、久し振りですぞ」
「赤間関には、新鮮な真鯛が多く入ってきております。どうぞ、お召し上がれ」
左衛門は、早速口につけた。
「おお、これは美味ですな。とても柔らかい」
掃部は、顔を渋くしてる。
「これ、左衛門。そのように急いで食べていては、意地汚いぞ。我らは客人、お招きにあがって、失礼なことをしてはならぬ」
「まあまあ、真鯛を召し上がり喜んで下さって、喜ばしい限りです」
「申し訳ございませぬ。この者は、食い意地が汚くて」
「いえいえ、気にしておりませぬ。ところで、明石様は、甲斐守様のご家臣であられましたが、今は如何されているのですか」
「はい。今は、黒田家の事情により、家臣を辞め、京に仕官先を探しに参る途中でございます」
「そうでございましたか」
右兵衛は、掃部がキリスト教信者であることは知っていたが、敢えて、その話には触れないでいた。掃部も、右兵衛の心遣いに感謝していた。四方山話をした後、掃部たちは、右兵衛、梢親子と別れた。
掃部たちは、長門、周防を越え、福島正則が治める安芸に辿り着いた。福島正則は、秀吉の母が正則の母と姉妹であった縁で、秀吉が、羽柴時代に長浜城を治めていた時に、母に城に連れられて来た。そして、秀吉の正室おねに大事にされて可愛がられ、頑強に育った。加藤清正と並び、秀吉子飼いの家臣の中でも随一の主君への忠義が篤い家臣である。
本人にも、その自覚は大いにあった。秀吉への恩を深く感じ、忠義を尽くしてきたが、朝鮮攻めなどで、三成から讒言されたと思い込み、三成との確執で、関ヶ原の戦いでは家康側に組した。掃部は、豊臣家が、二つに分裂したことを嘆いていた。石田治部少輔様の生真面目さも問題があったが、福島正則様や加藤清正様が短慮を起こしていなければ、良かったのにと悔しくて仕方がない。あの時、豊臣家が一つにまとまっていれば、家康も、天下を獲ることは難しかっただろう。
掃部は福島正則とも、関ヶ原で戦ったことを思い出した。お互いに鉄砲、槍で戦い、死闘を繰り返した。掃部は、正則の猛将ぶりをそこでしっかりと感じた。正則は、今や、安芸と備後(びんご)四十九万八千石の大大名になっている。掃部の主君である宇喜多秀家並みの大身である。あの猪武者がそのような出世をするとはと、掃部は感慨深い思いになっていた。掃部は、福島正則への仕官も考えたが、京での仕官がうまくいかなかった時に、動いてみようと考えていた。あの粗暴で短慮なところに、自分がついて行けるかどうか、甚だ不安だったのである。そして、備後、備中を歩き、備前に辿り着いた。陸路を通って、時間はかかったが、大して疲れなかった。
左衛門が伸びやかにしている。主人を放っておいて、暖かい草むらに仰向けになっていた。草の匂いが、とても気持ちがよかった。空は雲一つなく、日が高く昇っていて、肌が温かく感じられた。
「掃部様、さすが我が故郷は、よきものにございますなあ」
「そうだな。備前を離れてから十一年か。長かったな」
「備前が、あのうすら馬鹿の金吾が治めていた時は、憤慨しましたぞ」
「ああ、あの不忠者は許せんかったな。しかし、関ヶ原の戦いの後、すぐに亡くなったではないか。神からの罰が当たったのであろう」
掃部たちは、保木城に向かった。掃部の生まれ育った場所である。今は城はない。徳川幕府の一国一城令によって、一国に一つの城しか置けないようになっている。保木城は破却され、今は石垣と土塁を残すだけである。一の曲輪の跡に、一本の松が植えられているだけであった。その松は、まだ小さい。最近植えられたようだ。他は更地になっていた。
「掃部様、あの堅固な城がこのようになるとは、寂しいものでございますな」
「うむ。懐かしい心持ちは、あるのだが、このように、一の曲輪をはじめ、屋敷がないと寂しさが募る。私は、ここで育ったのだからな」
左衛門は肯いている。
「拙者も、幼少期のころから、ここで働いておりましたから、思い出は多くございますよ。一国一城令など馬鹿なことをしやがって、狸爺の家康は許せませぬよ」
秋月で別れる時に、母モニカに、行雄の墓に詣でるように言われていた。もちろん、掃部は言われなくても、詣でるつもりであった。行雄から掃部は、十分によき教えを受けた。論語、孟子、老子、孫子、韓非子などの諸学問、槍、刀や鉄砲などを徹底的に教え込まれた。掃部は行雄の教えに、とても感謝している。
(我が名を天下に上げられたのは父上様のおかげだ。父上、掃部は必ずや、仕官先を探し、お家を復興致します)
行雄の墓は、保木城跡の近くの北東の恵泉寺にあった。鎌倉時代から続く由緒ある曹洞宗のお寺である。門の柱が古くて、時代を感じさせた。住職は、異教であるキリスト教信者の掃部たちが来ても、別に迷惑そうな顔はしない。それどころか。わざわざ墓まで案内してくれたほどだ。そもそも、住職とは、宇喜多家に仕官する前の幼少期からの旧知の仲である。住職が掃部より二つ程年上だった。剃髪はもちろんしているが、眉が濃く、鼻は丸く、唇が厚かった。そして、お互いの無事を祝い会った。
「掃部様は、今は如何なされておりますか」
「今年の初めまでは、筑前の黒田甲斐守様に仕えておりましたが、江戸幕府のキリスト教信者の取り締まりが厳しくなり、黒田家では、庇いきれなくなり、召し放ちとなりました」
「そうでございますか。それは難儀なことでございますな」
掃部と住職の後ろにいた左衛門が、慌てて掃部に対して、顔で口をつぐむ形を作った。キリスト教信者の話を異教の僧侶の前でするな、黙れと言うことであろう。掃部は、左衛門のことはお構いなしで、住職と相変わらず話をしている。
「これから、京に上って、キリスト教信者に理解のある大名を捜してみたいと存じます」
左衛門は、益々顔をしかめている。それどころか、もう呆れている。左衛門は、墓地の下にある麓の家々を眺め始めた。住職が言う。
「そうですか。しかし、幕府からのキリスト教信者への取り締まりが厳しくなった今、なかなか仕官先を見つけることができるのは難しいと思いますが」
「はい、そのように思います。しかし、厳しい中でございますが、当たってみたいと存じます。家臣やその家族のためにも、仕官先を早く見つけねばなりませんから」
「拙僧も、掃部様のご仕官先が早く見つかるように願っております」
「ありがとうございます」
そして、掃部は、住職に申し訳なさそうに尋ねた。
「我が母が、父の墓にメダイという、キリスト教の絵が彫ってあるものを置いておけと申したのでございますが、異教の品などを置いても、宜しゅうございますか」
住職は微笑んで言った。
「気にすることではございませぬ。異教のものでも別にかまいませぬ。御仏は寛大なお心の持ち主でございますから。置いていただいて、けっこうです。拙僧が毎日の墓の掃除の時に、傷んでいないかを見ておきます」
「おお、これは有り難い。痛みいります」
「行雄様も掃部様も、保木城におられた時は、民に優しき政(まつりごと)をなされたではございませぬか。年貢を納めることが出来ない農民に対しても、急がないで待たれておりましたな。道や川の整備もしていただき、田は米がよく採れるようになり、保木は豊かになりました。この寺も何度も寄進していただき保護して下さいました。お二人は、大恩人でございます。感謝申しあげます。また、この寺にお越し下さい」
「はい、また詣でに参ります」
このように言って、掃部たちは、恵泉寺を離れた。山を下りていく。
「掃部様、実に立派なご住職でございましたな」
「うむ、心が広く、御仏の教えを信仰する気持ちは強く、イエス様の教えを叩いたりしない、実に見習うべきお方であった」
そして、掃部たちは、備前で帰農している元の家臣たちが働いている田畑を巡った。一人の家臣が、こちらに向かってくる二人の影を見つめていた。
「はて、何者であろうか」
掃部が大声で叫ぶ。
「おい、お前たち、息災であるか」
「お、おお、これは掃部様だ、お懐かしい」
「そうじゃ、掃部様じゃ。皆の者、掃部様じゃぞ」
「おお」
家臣や、その家族たちが、掃部の周りに集まってきた。皆、元気のようだ。掃部を見つめている。子供が掃部の顎髭を掴もうと、飛び上がった。
母親らしき者が叱った。
「これっ、このお方は、とてもお偉い方なのですよ。失礼なことは止めなさい。ほれ、謝りなさい」
「ごめんなさい」
「いやいや、気にせずともよい。どうだ。この髭を触ってみるか」
「うん」
母親が甲高い声になった。
「か。掃部様。そのようなことをしたら、主君に無礼を働くことになります。この子の言うことなどを聞かないで下さい」
「母御よ、遠慮するものではない。髭を触っても、減るものではないわ。子よ、触れ」
「はい」
子供は、掃部の黒光りしている艶のある、長い顎髭を触った。上から下へと触っていった。
「わあ、気持ちがいい」
「そうか。それは良かった」
母親が謝った。
「掃部様、大変申し訳ございませぬ。この子が至らぬばかりに」
「いやいや、イエス様の下では、皆平等である。気にすることではない。この子も、立派な武士となってくれることを祈っておるぞ」
「ありがたいお言葉にございます」
左衛門が言った。
「掃部様は、相変わらず甘うございますな」
「左衛門、これも愛の一つなのだ」
「また、聖書からのお言葉ですか。まあ、私もキリスト教信者ですから、何も言えませんがね」
鍬を持った元の家臣が尋ねた。
「掃部様、今日は何の御用で来られたのですか」
「秋月で言った通り、私は、京で仕官先を見つける所存だ。その前に、帰農した、そなたらがどうしているか、気になってのう。何か不都合なことはないか」
「農事は、うまく言っております。池田家に仕えている、昔の宇喜多家の家臣のおかげで、耕す土地を持つことが出来ました。何でも、筑前黒田藩の家老小河内蔵允様のお働きかけが、池田家へあったとお聞きしました。まことにありがとうございまする。備前では、美味な米が獲れます。ただ」
「ただ?」
「キリスト教信者への取り締まりは、ここ備前池田領でも厳しくなっております。今は何とかしておりますが、いつ取り締まりにあうかと思うと、毎日が不安で仕方がございませぬ」
「うむ、そこが難しいところだな。今までは、イスパニアやポルトガルと交易してた幕府が、一転して、今年から、全国でキリスト教信者を取り締まることになった。何でも、二年ほど前に、ポルトガルと揉めて、マカオで、ドン・プロタジオ様(有馬晴信)の朱印船の乗組員や家臣たちが四十八名も殺されたらしい。そこで、晴信様が仇討ちを幕府に求め許され、ポルトガルの船が長崎に入港した時、捕らえようとしたが、逃げられたそうである。あのキリスト教への信仰篤いドン・プロタジオ様が、このようなことになるとは、驚きことである。これからは、キリスト教信者への圧迫がひどくなっていくと思われる。大変憂慮すべきことだ。頼むから、私が仕官を決めるまで、大人しくして、捕まらないようにしておくれ。もう、この時代では、徳川に武力で逆らうことも難しいからな」
「はい、分かり申した。立派に田畑を耕して参ります。備前の地を豊かにして参ります」
「うむ、頼んだぞ」
アントニオ左衛門は叫んだ。
「永久にお別れだな、皆の衆。くたばるんじゃねーぞ。そんな弱っちい奴らとは、こちらが御免被るぜ」
しかし、これも左衛門流の愛の籠もった別れの言葉であった。それは、言われた元家臣たちも分かっていた。お互いに、涙が溢れていた。
二人は、備前を出て、播磨に入った。有年峠を越え、長谷川を渡り、有年宿に入った。賑やかな所である。西海道(さいかいどう)を行き交う人々が多くいる。鳶が、青空をゆっくりと飛んでいた。彼岸花があちこちに咲いている。日が暮れる前に、宿場に辿り着くことが出来て、ほっとしていた。掃部と左衛門は、荷物は持ち出したまま、茶屋に入った。二人は驚いた。備前の名産黍団子が、播磨の茶屋でも売ってあったからである。掃部たちは、迷うことなく、黍団子を頼んだ。備前の黍団子と比べても、味は全く落ちていない。心地が良いほどの甘さである。二人で二十個も食べてしまった。至福の時であった。
「左衛門、少し食べ過ぎたかな」
「掃部様、そうは言っても、これから黍団子を食べることができるとは分かりませぬぞ。今のうちに、食べておいたほうがよいと思いますぞ」
「うむ。そうだな。黍団子は、やはり日の本一の菓子じゃ」
「ところで掃部様、やはり京まで、寄り道せずにお向かいなされるのですか」
「うむ、京で新しい仕官を捜すということは変わらない」
「備前には、我が娘、江戸には我が息子がおりますが」
「そうだな。確かに、そちらに当たることは大切である。しかし、その前に、京で新しき道を切り開きたい。京には、イエズス会のロレンソ神父がおられるからな。教会を頼って住処を見つけ、何とか仕官先を捜したい。黒田家のように、キリスト教信者に厳しいところは、なんとか避けたい。信仰に一途に打ち込める所がよい」
「僭越でございますが、今の徳川幕府が治める日の本に、キリスト教信者に寛大な大名など、ございますでしょうか。そのような大名は、家康に、すぐに取り潰されてしまいます。あのキリスト教信者に厳しい黒田長政様でも、元はキリスト教信者だったのございますぞ」
「いや、私は信じるぞ。日の本は素晴らしい国である。人情豊かな国だ。必ずや、キリスト教信者の安住の地が見つかる」
「いやー、そんなに甘いことはないと思いますがねえ」
普段は忠実な左衛門が、苦言を呈する。その話は、そこで終わり、二人は、黍団子の甘みを堪能したのであった。明石掃部と犬山左衛門は、有年宿を立った。
掃部一行は姫路に着いた。姫路は掃部にとって、懐かしい場所である。天正十年(一五八二)の本能寺の変が起きた後、備中高松城で、安芸吉田城から援軍に来た、毛利家の本軍毛利輝元と対峙していた羽柴秀吉は、京で、主君信長の仇の明智光秀を討つために、急いで毛利家の使僧安国寺恵瓊を通して、講和をして、急いで京へ戻った。その時、秀吉が、羽柴軍に合力していた宇喜多軍から人質を取ったのだ。掃部と戸川秀安の娘である。娘は、掃部と昵懇の仲の達安の妹である。二人は姫路城に留め置かれた。そして同じ年に、宇喜多秀家の母おふくが秀吉の側室になるまで、姫路城にいたのである。
掃部は壁が真っ白で巨大な天守閣を見つめていた。天守は、大天守に小天守二つが繋がっている。見る者を威圧し、見事な美しさである。掃部は感嘆して思わず言った。
「二十九年ぶりだな。懐かしい」
「そうですな。掃部様は、ここで先の太閤殿下の人質になっていらっしゃいましたな。私は、先の太閤が、明智光秀に本当に勝てるのかということが分からず、肝を冷やしておりました」
「そうだな。まさか、わずか十一日で、京の山崎まで辿り着くとは思わなかったぞ。あの大返しも、黒田官兵衛如水殿が準備なされていたと後で知って、その智謀に恐れを抱いた。先の太閤様が、山崎で光秀軍に勝ったのは、如水殿のおかげだ」
姫路城は、当初、播磨の豪族小寺家の家臣黒田氏が城代を務め、官兵衛孝高(如水)の代になって、毛利を攻めるために、中国地方に出てきた織田家の家臣羽柴秀吉に城を譲り渡した。自分の城を明け渡すことなど前代未聞である。姫路は、その後、秀吉の弟秀長、一族の木下家定を経て、今は、家康の娘婿の池田輝政が治めるに至っている。
左衛門は城を見ながら怒っている。
「おのれ、豊家恩顧の大名だったくせに、徳川の娘婿となり、関ヶ原の戦の前に、岐阜城を落とした腰巾着め。決して許せん。あのお城は、織田信長様のお孫であられる秀信様のおわしましたところだぞ。信長様の若き頃からの側近池田恒興様の息子なのに、先鋒となって落とすとは、何たる逆賊だ。そして、岐阜城を徳川方に取られたことにより、我らが石田方の軍は、目算が狂ったのだ。何と言うことをするのだ。ええい、益々腹が立ってきたぞ」
「左衛門よ、そう怒るでない。あの時は、皆、それぞれのお家を守るのに必死だったのだ。石田方も、義に応じた大名は、秀家様、石田治部少輔様、小西アウグスティヌス様、大谷刑部様、立花飛騨守様など、ほんの数名だけだったではないか。強兵の島津家は動かず、肝心な大身の毛利一族などは、日和見だったではないか」
「そ、そりゃ、そうですが」
掃部たちは城を離れて、姫路の町を歩いていた。この町も、二十九年前と比べると、大いに賑わっている。様々な商いの店が道沿いに、並んでいた。姫路城から見ても、遙か遠くまで並んでいる。魚屋、八百屋、呉服店、酒屋、茶屋などが続いている。大道芸人もいて、口から火を噴いて、周囲を大勢の民たちが驚きながら、取り巻いている。
「掃部様、姫路もけっこうな賑わいになりましたな」
「うむ。輝政様の治政がうまくいっているのであろう」
「さすがは、池田公ですな」
「何を申しておるのやら。先程は、許せんとか言っておいたくせに」
「え、そんなこと言いましたっけ」
「そなたの悪い癖だ」
「ははあ」
掃部と左衛門が姫路から三里ほど進んでいた時に、馬の大きな、いななきが聞こえた。二人は急いで走って、いななきが聞こえた方へ向かった。
辿り着いてみると、馬が大名行列を横切ってしまっている。周りの侍たちが慌てていた。馬を取り押さえようとする者、駕籠の周りを守る者などで混乱している。左衛門が思わず叫んだ。
「ありゃー、やっちまった。馬上の者は斬られるぞ」
「急げ、左衛門」
「はっ」
二人が大名行列に辿り着いた時は、馬は止められ、男が馬から降ろされて、両肩を、武士たちから強く押さえつけられていた。
「も、申し訳ございませぬ。決して、わざとではございませぬ」
「黙れ! 殿様の行列を横切るとは、無礼千万であるぞ。斬る!」
そして、駕籠から、中の男がゆっくりと降りてきた。総髪で、肌は黒く、大顔で顎が四角である。口と顎に濃い髭を生やしている。
「ふむう、困ったのう。殺生はあまりしたくはないがのう。民を痛めつけたくはないのじゃ。御法度では、このような場合、無礼討ちとなっておるからのう」
掃部の見覚えのある顔であった。
「肥後守殿!」
大名らしき、その男は、掃部の方を振り向くと、驚いていた。そして、目を細め、笑みを浮かべた。
「掃部殿!」
男は、先程述べた、姫路城での人質の兄である戸川肥後守達安である。戸川家は、同じ宇喜多家に仕え、代々家老職を務めてきた家柄だ。掃部とは、宇喜多左京亮詮家と同じほど、掃部と仲が良かった。関ヶ原の戦いの前の、宇喜多家のお家騒動で、秀家と袂を分かち家を離れ、関ヶ原では、徳川方について戦った。その功で、今は備中庭瀬藩の大名となってる。江戸からの帰り道だろう。
「生きておったか。掃部殿。おお、これは良かった、良かった。関ヶ原の戦いの後、お主の行方が知れず、心配しておったぞ。おお、これは犬山左衛門ではないか。お主の毒舌も相変わらずかな」
左衛門が肥後守に話しかける。
「はっ、相変わらずでございます。家康についた寝返り野郎様」
また、掃部が左衛門をたしなめる。
「これ、肥後守様にご無礼であろう」
「あはは、左衛門は、やはり相変わらずじゃのう。お主の、その言葉が懐かしいわい」
掃部が口を開く。
「肥後守殿、お久しぶりでございます。今は備中庭瀬の殿様になられたとお聞きしました」
「うむ、そうじゃ。石田方について破れた、秀家様や掃部殿には申し訳ないが、やっと城持ち大名になれたぞ」
「それは、お目出たきことでございます。関ヶ原の戦いの前に受け取った文は忘れませぬぞ」
「あはは。そなたを大御所様方に取り入れようとしたことじゃな。あれは、駄目で元々で出したのじゃ。そなたは、忠義者で熱心な吉利支丹であるので、秀家様の元を決して離れないとは思ってはいたがな。しかし、事が露見し、そなたと秀家様との間に疑念が生じて、そなたが、こちら側に来ずにはいられなくなったならば、よいと思ってのう。何せ、大軍で士気の高い宇喜多家は脅威であった。その軍の要は、そなたであったからな。そなたが秀家様の元を去れば、宇喜多家は、かなり弱くなるからな」
「そうは、いきませんでしたな。私は、秀家様に文の中身を全て隠さずお見せ致しましたゆえ」
「そなたらしいな。おお、そう言えば、そなたとは、幼子の時、岡山城で、よく遊んだな。わしの父秀安とそなたのお父上伊予守行雄様は御昵懇であらせられたからな。わしらも、よく野原を駆けずり回っておった。蛙や蛇を、よう捕まえておったな」
「懐かしい話ですな。これから庭瀬までの道中で、岡山にはお泊まりになられるのですか」
「うむ、久し振りに泊まっていこうと思う。池田輝政殿のお子の武蔵守(むさしのかみ)殿が岡山のご城代をなされておられるので、ご挨拶申しあげようと思う」
「それは何よりでございます」
「掃部殿は宇喜多家では、一番忙しい家臣であったな。客分扱いじゃったのに、四国攻め、九州攻め、朝鮮攻めなどでは、第一線で戦われていたな」
「そうでしたな。秀家様は人使いが荒くて弱りました。あはは」
「それで、先の太閤様が身罷られた後の宇喜多家の騒動では、離ればなれになってしもうたな。あの時は、本当に悩んだ。これでよいのかと。しかし、秀家様が耳を貸していただけない上に、仲裁に入った大谷刑部様と榊原式部大輔様のご仲介も、うまくいかず、結局、わしは、花房、岡たちとともに、宇喜多家を離れた。本当は秀家様が大好きじゃったのに、別れるようになって、甚だ残念じゃ。それに、そなたとの別れも寂しかった」
「そうでございましたな」
「しかし、榊原式部大輔様が、ご仲介を途中で止め、ひき換えなされたのは、大御所様が宇喜多家が弱まるようにするためだと、後で知ったぞ。とんだ食わせ者だわ。あの狸爺は」
「肥後守様、そのようなことを昼間に堂々と言われては、危うくございますぞ」
しかし、掃部の忠告も聞かずに、肥後守は話し続ける。
「よいのじゃ。関ヶ原で徳川に味方をし、庭瀬藩の藩主になったのは、わしの武功のおかげじゃ。自分としては、あのような爺は好かぬ」
「相変わらず肥後守様らしいお言葉でございますな」
「わしらが去った後の宇喜多家で、そなたが仕置家老となって、大変じゃったろう。苦労をかけたな。肝心な時に、お家を放り出してすまぬ」
「いえ、これもイエス様から授かった宿命でございますから」
「宇喜多家は、元々強かった。あのお家騒動が無ければ、万全の状態で、関ヶ原で戦えたのにな。無念じゃ」
掃部は、一呼吸した。
「ところで、行列に馬が横切ったようですが、何事ですか」
「分からぬ。おい、そやつをここへ連れて参れ」
「はっ」
男は、二人の家臣に連れられて来た。月代に、目が細く、肌は雪のように白い。唇が震えていた。年は二十歳前後に見える。戸川肥後守が直々に男に尋ねた。
「そちは、何故、馬でこの行列を横切ったのじゃ?」
「た、大変、申し訳ございませぬ。買ったばかりの馬が言うことを聞かずに、勝手に行列に突っ込んでいったのです」
「そちは池田家の家臣か」
「はい、荒木新三郎と申します。」
「新三郎よ。そなたは、まだ馬のあしらいに慣れていないのであろう。手綱を握って、こうするのじゃ、こう。どれ、また乗ってみよ」
「し、しかし、ご無礼を働いた分際で、また馬には乗れませぬ」
「いや、それではいかん。わしが教える。乗れ」
男は、馬に乗った。
「そういう腰が浮いた乗り方ではいかん。尻を馬にきちんと乗せ、真っ直ぐ座るのじゃ」
「は、はい」
そして肥後守が手綱のさばき方を教えた。
「そうそう、それでよいのじゃ。しかし、この馬は気性が荒い。もっと大人しい馬を選んだ方がよいぞ」
「はっ」
家臣たちは、恐る恐る戸川肥後守に近づいてきた。
「あのう、この者は恐れ多くも、殿様の行列を馬で妨げた者にございます。是非厳正なご処罰を」
「あ、忘れておった。どうしようかのう。無駄な殺生など嫌なんじゃがなあ」
掃部が口を開く。
「肥後守様、ここは穏便に済まされたら如何でしょうか。折角の美々たる大名行列を血で流すのは、不吉であると思いますぞ」
「そうじゃのう。吉利支丹のそなたは、このようなことが嫌いであったのう。そうじゃ。このまま放っておこう」
家臣が食い下がる。
「で、ですが、殿様」
「もうよい。久し振りの掃部殿との出会いで、血を汚すのは気分がすぐれぬ。それに、その者は、まだ若き者、やり直しが利く。ああ、思いついたぞ。このような罰を与えようぞ」
肥後守は、家臣に耳打ちした。家臣は、顔をしかめた。そして行列の後ろに走っていく時に、首を傾げたのである。納得いっていないらしい。その家臣は、すぐに一頭の馬を連れてきたのである。肉付きのよい、瞳が青い馬である。足の筋が盛り上がっていた。若者の馬より、少し小さい。
「この馬と、そちの馬を取り替えよ。それが罰じゃ」
若者は恐縮していて、頭も上げることができなかった。
「あ、はい」
「この馬は、大人しい馬じゃ。それに信濃生まれの名馬じゃ。そちの荒々しい馬と取り替えよ。そちの馬ぐらい、わしの家臣どもならば、乗りこなすことが容易く出来ようぞ」
「はっ」
戸川肥後守は、掃部に向かって、白い歯を出した。
「掃部殿、これでいいのかのう」
「はい、お見事なお裁きでございます」
「掃部殿は、これから、どうなされる」
「はい、実は、今まで黒田甲斐守様にお仕えしておりました。しかし、今年から幕府からのキリスト教信者への取り締まりが厳しくなり、私がキリスト教信者であったことで、幕府を憚り、黒田家を召し放ちになりました」
「そうか。それは難儀なことじゃな、甲斐守様も世渡りの名人だからな。決して落とし穴には入らぬお方じゃ。ああ、人のことを言えた柄ではないがな、あはは」
「甚だ僭越とは存じますが、私を肥後守殿のお家の末席に加えていただくことは、出来ないでしょうか」
「ううむ、そうしてやりたいのは山々じゃが、吉利支丹を厳しく取り締まれというお達しを、江戸で上様から直々に受けたばかりでな。心持ちとしては、わしも武勇に秀でた掃部殿を側に置いておきたいのじゃ。掃部殿の折角の願いじゃが、叶えることはできんのよ。それに、藩主になってから、家臣を抱えすぎてな。俸禄を与えるゆとりもないのじゃ。すまない」
「そうでございますね。無理を申しました。申し訳ございません。このことはお忘れ下さい」
「わしも、そなたと会ったことは伏せておく。幕府は、嫌なほど、やかましいからな。おい、お前たち、明石掃部殿のこと、一切他言無用じゃぞ。このことを漏らした者は、即刻処罰するからな」
「はっ」
こうして、明石掃部と戸川肥後守は別れた。掃部の右を歩きながら、左衛門は話しかけた。
「いやー、相変わらず剛毅なお方でしたな」
「うむ、もう宇喜多家で、ともに勤めることが出来ないのが無念じゃ。豪胆なところもあるが、世渡りも上手なので、この先、生き残っていかれよう」
「そうですね。あのおっさん、昔から要領良かったですもんね。関ヶ原の戦いの時も、しっかり徳川方として生き残りましたし」
「まあ、人は人だ。比べても仕方あるまい。我々は、己の道を進むだけだ」
「はい、掃部様」
二人は摂津に入った。国の中で一際目立つ建物に近づく。大坂城である。掃部は大坂城を見上げる。櫓、門、石垣、どれを見ても、重厚で美しい。天守閣は、外壁が黒漆塗下見坂と黒漆喰でまとめられており、屋根は五重、中の階数は六階もあった。見る者を圧する。城の縄張りを行った築城奉行は、掃部が筑前でお世話になった黒田官兵衛如水であった。そして、掃部もその後、改修の指図を行ったことがある。その時に宇喜多左京亮詮家に、掃部はキリスト教信者になることを勧められ、受洗に至ったのである。
掃部は、十一年前までは、この城で、宇喜多秀家の仕置き家老として、他の大名の家老と打ち合わせをしたりなど、多忙な日々を送っていた。秀家は五大老の一人であったので、掃部も、多くの者と接していた。
掃部は妻おこう、すなわちアナスタジアのことを思い出していた。
(多忙のあまり、おこうには、何もしてあげられなかったな)
左衛門が言った。
「おこう様は、天国で幸せに暮らしておられますよ」
掃部は驚いた。
(えっ、こいつは、わしの心を読み取ることができるのか)
掃部たちは、大坂城を後にした。そして山崎、伏見と上り、やっと京の都に辿り着いた。
第七章 曾野教会
京や伏見は、豊臣秀吉が存命中の頃は、日の本の中心であった。関ヶ原の戦い以降、家康がいる江戸が政治の中心となったとは言え、まだ街の賑やかさを失っていなかった。信濃の木曽から運んできた材木を売る店、最近国内で作られ始めている木綿を売る店、魚や野菜を売る店、両替商、南蛮から連れてこられた珍しい鳥を売る店の他にも、様々な店が並んでいる。左衛門は目を見開き、驚いている。掃部は、相変わらず涼しい顔である。
「はー、京は相変わらずの賑やかさでございますな。私たちが京や伏見にいた十一年前と比べても、まだまだ繁盛しているようですな」
掃部は、いつもの笑顔で京の賑やかさを楽しんでいる。十一年前とは、秀吉亡き後で、跡を継いだ秀頼が幼かったとは言え、まだ豊臣家に天下の権があった頃である。掃部は、京、伏見、大坂を忙しく回っていた。そして二人は、イエズス会のソノラ教会に辿り着いた。教会は、高名で多くの人が賑わう清水寺を通り過ぎて、東山の外れにある。ソノラ教会は、静かで、且つ大きく荘厳な佇まいをしていた。外壁には蔦が絡み合っている。左衛門は、その勢いに押されている。掃部は、笑顔で入り口に立っていた。そして二人は、ゆるりと中に入っていく。しかし、教会には誰もいなかった。教会の中は、壁や天井が汚れ、雰囲気が荒れていた。
「もしや、幕府の迫害から逃れるために、どこかに逃げられたのか」
掃部は辺りを見渡していった。その日は、別の教会を見つけることは出来なかった。翌日、もう一度探しまわった。二里ほど南を行くと茅葺きの屋根の屋敷があった。壁は朽ち果てている。掃部と左衛門は、入り口がどうなっているか覘いた。そこから室内は見えない。左衛門が恐る恐る扉を開けた。中には、民が数名、椅子の下に
「誰だ」
「あっ、これはジョアン様ではないですか」
「何だ。以前、ソノラ教会に通っていた者たちではないか」
「へ、へえ」
「なぜ、このような所にいるのだ」
「京都所司代のキリスト教信者の取り締まりが厳しくなり、巨大で目立つソノラ教会では、礼拝は出来なくなりましたから。ここは、曾野教会と言います」
「ソノラから曾野か。ああ、やはりキリスト教信者に対しては、かなり厳しくなったのだな」
屋敷の奥から、二人の宣教師が掃部たちに向かって来た。金髪の大きな男と銀髪の小男である。二人とも、黒い服で胸に十字架をつけている。ポルトガルから遙々、危険を帰りみずに、日の本へやって来た男たちである。
「これは、ジョアン殿、アントニオ殿では、ないですか」
「これは、ロレンソ様、アンシエタ様、お久しぶりでございます。ご無事でしたか」
「ジョアン殿、アントニオ殿、関ヶ原の戦いで、宇喜多軍が敗北したと聞いて、とても心配しておりました。しかし、黒田家に仕えられたと聞き、ひと安心していたところです。ジョアン殿たちが今まで生きておられたことに、とても大きな喜びを感じます。これも神のご加護のおかげでございましょう」
「はい、私は神のご加護に感謝致しております。今まで、何とか生き延びることが出来ました。筑前の秋月という緑豊かなところで、家臣と、その家族たちと静かに暮らしておりました。しかし、主君の黒田長政様が、キリスト教信者を弾圧し始めた徳川幕府に対し、キリスト教信者を憚られ、私を召し放ちされました。、今は流浪の身です。そして、我々のキリスト教への信仰を妨げない大名への仕官を考えているところです」
「そうですか。あの昔はキリスト教信者であったダミアン(黒田長政)殿がそのようなことをするとは、実に嘆かわしいことです」
「しかし、それまで、シメオン(黒田官兵衛如水)様とミゲル(黒田惣右衛門直之)様が、いろいろと、我々の面倒を見て下さいました。お陰様で、秋月での暮らしは、心穏やかに過ごせました」
「シメオン殿は、先の太閤(豊臣秀吉)様が伴天連追放令をお出しになった時に、すぐに棄教されたので、シメオン殿に裏切られたと思ったのですが、心の中では信仰を守られていたのですね。致し方ありません。あのお方は、その智謀の高さ、人間としての素晴らしさから、次に天下を狙うのではと、先の太閤様から警戒されていたお方でしたからね。また、ミゲル殿の熱心な信仰には、頭が下がります。ご自分の危険も顧みず、キリスト教信者を保護なされていたのですから。跡を継いだパウロ(直基)殿も、信仰にご熱心でしたが、家臣によって殺されました。未だに原因は謎です。しかし、その死のすぐ後に、パウロ殿の秋月の領地が、シメオン殿に取りあげられたと聞きました。まさか、シメオン殿が謀を持ってパウロ殿を殺めたのではないとは思いますが、はっきりとしたことは分かりません。この三人を亡くしたことは、とても残念であり、キリスト教信者にとっても、この先が心配です」
ロレンソが憂鬱な顔で屋敷の天井を見上げた。ソノラ教会の多くの天使が舞い飛んでいる画と違い、そこは只の茅葺きであった。掃部は暗鬱な心持ちになった。
「ロレンソ様、アンシエタ様、ご心配には及びません。このジョアンがおります」
横にいた犬山左衛門が、こいつ本気かという顔をした。明石家随一の忠義者と言われる左衛門だが、時々、あるじが突拍子もないことを言い出すと、昔から親しい間柄であるからか、無礼な態度を取ることがある。
「掃部様、何を言っておられるのですか。無理に決まっているでしょう」
「いや、私は本気だ」
「ジョアン殿、無理をして、幕府に捕まったりなどしたら、危険ですぞ。ジョアン殿は、日の本のキリスト教信者の救いの光なのです。打ち首や高山右近殿のように大名を辞めさせられたりと、取り返しのつかないことになりますぞ」
普段は冷静なロレンソとアンシエタも慌てて、掃部の手をしっかりと掴んだ。左衛門が訝しげに聞く。
「掃部様、では、どのようにして、キリスト教信者を救うのですか」
「いや、それは、これから考える」
(また、これだよ)
左衛門は、薄い口髭を撫でながら呆れた。
「ジョアン殿、まことに有り難いお言葉でございますが、今は、幕府の取り締まりが厳しく、難しいと思われますぞ。時をお待ちなされ。時が必ず道を開いてくれます。それまで、ここでゆっくりとして行きなされ。生活の援助は、我が教会が致します。これまでジョアン殿には、我が教会が、とてもお世話になっておりましたからな」
「有り難きお言葉でございます。実は、手持ちの金子が尽きかけており、とても難渋しておったところです。お言葉に甘えて、お世話になりとうございます。しかし、仕官先が決まったならば、すぐに出て参ります。私は、キリスト教信者を守り続けます。決して諦めません」
「そうですか。分かりました」
もう、ロレンソもアンシエタも、何も言わなかった。明石掃部が一度言い出したら、二度と変えない性分であることを知っていたからである。
掃部と左衛門は、茶屋で、黍団子を食べていた。掃部は、考えが煮詰まった時に、いつもよく行く茶屋で、黍団子を食べていた。この茶屋は、備前屋と言い、掃部と同じ備前の出の者が商いをしていた。それまでは、岡山城下で店を出していたそうだ。秀吉が天下を統一し、勢いが盛んだった頃に、備前から所用があり、京にやってきた。その時、京の繁栄ぶりを見て、これは、かなり稼ぐことができると、店主が考え、京に店を出したそうだ。そして、味は、黍の粉が口に纏わり付かず、中の甘くて美味な餡子が心を穏やかにしてくれる。その味は備前の味と同じであった。掃部は左衛門を連れて、よくここに行き、故郷を懐かしんでいた。左衛門も、この店に来ることが楽しみである。
ある時、左衛門を連れて掃部が黍団子を食べていた時、掃部に声をかけてくる者がいた。掃部が見上げると、六尺一寸はある大男で、総髪で肌が黒く、鼻は低く歯が見事なまでに白い者である。その歯を見せて笑っていた。眼光は鋭いが、穏やかな顔である。短槍を持っているが、男が大きいため、弓の矢ほどの大きさに見えてしまう。
「これは、明石掃部殿。奇遇なところでお会いしましたな」
「おお、これは後藤又兵衛殿ではないですか。お久しぶりにございます。こちらは、我が家臣の犬山左衛門と申します」
左衛門は、武人後藤又兵衛を尊敬している。又兵衛に頭を深く下げた。掃部は続ける。
「関ヶ原の戦いでは、敵同士で戦いましたな」
「そうですな。掃部殿の見事な采配振りには、主君の黒田長政も驚いておりました」
「私も、又兵衛殿の一つも乱れぬ軍勢の動きは、流石だと思いました。前に私が筑前の秋月にいた時は、福岡城で、二度程お会いしましたな。今は黒田家を出奔なされたとか、如何なされていらっしゃいますか」
「如水様亡き後、幼き頃から、兄弟のように暮らしていて、お互いに競っていた長政様と、よく揉めておりましたからな。拙者が細川忠興様や池田輝政様と頻繁に書状を取り交わしていたことが問題になりまして、奉公構えとなり申した。自分には禄がなくなり、多くの家臣を抱えることができなくなりました。そこで、長い間、ともに働いてきた母里太兵衛殿に、家臣たちを預けました。それまで仕えてくれた者たちと別れるのは甚だ辛かったのですが、仕官が決まったならば、すぐに再び呼び戻すと言って、残念ですが、別れ申した」
「それは、よく存じ上げております」
「左様ですか。それから、細川様の家臣となりましたが、隣国同士の黒田家と細川家が、関ヶ原の戦いの後の領地替えで、黒田家が豊前を去る前に、年貢を取り立て、細川家が来たときは、年貢を取り立てることが出来なかったとして、大いに揉めてしまい、拙者は巻き込まれて、細川家を立ち去ることとなり申した。その後は、福島正則様、前田利長様、結城秀康(ゆうき ひでやす)様などの大身のお方々から、お声がかかり、是非家臣にならないかとお声がかかったのですが、長政様の拙者への恨みは甚だしく、奉公構とされまして、仕官が叶いませんでした。そして故郷の播磨へ帰り、やっと岡山の池田忠継様にお仕えし申したが、またもや長政様が、奉公構を持ち出し、池田家を辞めざるを得ませんでした。今年は、幕府を通して、拙者が黒田家に戻ろうと致しましたが、結局は長政様の反対で上手くいきませんでした。長政様は、しつこいのです。大藩の領主としては、器が小そうございます。今は、京都で仕官先を捜しております」
「私も同じような境遇でございます。宇喜多家が滅んで、長政様から召し抱えられましたが、今年辺りから、幕府のキリスト教信者への弾圧が厳しくなり、キリスト教信者である私は、黒田家を召し放ちとなりました。私も京で仕官先を捜しております」
「そうでしたか。お気持ちよく分かり申す。掃部殿もご苦労なされましたな」
「いや、私は、それ程までは」
「長政様は、決して許せませぬ。小さき頃より、拙者は如水様より可愛がられ、長政様との武術や学問での競争で、拙者が勝ってきたため、根に持っておいでです。そして、奉公構など、武士に死ねと言っているのも同様です。あの男には、情けというものがないのかと」
「私は長政様には十一年も、キリスト教信者の身でありながら、お世話になっておりましたから、文句は言えるようなことではないのですが、奉公構は酷すぎますな。長政様も、もう少し寛きお心でいらっしゃったらよいのですが」
「そうでございましょう」
「ところで、又兵衛殿は、これから如何なされるのですか」
「京での仕官でも、どの藩も話は熱心に聞いて下さりますが、結局は、また長政様の横槍が入り、仕官はかないませぬ。奉公構えは、執拗です。ただ、奉公構が、聞かぬところがただ一つございます」
「そこは、どこでございますか」
「大坂城の豊臣秀頼様です。いくら徳川になびいている黒田家にとっても、豊臣家は主家であります。横槍など入れられませぬ。それに、豊臣家は徳川家の家臣ではありませぬ故」
「なるほど、豊臣家がございましたな」
「拙者は、しばらくは、京での仕官先を捜しますが、決まらない場合は、豊臣家の家臣となりたいと考えております。いずれ、家康は、自分が生きているうちに、豊臣家を潰しにかかろうとするでしょう。その時は、拙者が豊臣家の武士を率いて、家康目がけて行き、その首を討ち取り、徳川家に一泡吹かせたいと存じます」
「そうでございますか」
左衛門が驚いて言った。
「又兵衛様、初対面の私が言うのも何ですが、お志は立派だと存じます。只、そのようなことを今、街で平気で言ってしまうのは危ういのではございませぬか」
「いや、構いはせぬ。徳川方など、何ほどのことがあろうか」
「す、凄いですな」
「ところで、掃部殿はキリスト教信者でありましたな。秋月でも熱心に祈っておられ、布教をなされていることは、福岡城でも有名でした。御身の危険は感じられますか。高山右近様も、大名の身を追われ、今や前田家の居候でごさいます。幕府も右近様のお命までは取りませんが。拙者は、掃部様が心配でございます」
「お気遣い有り難きことにございます。今は何とか無事ですが、関ヶ原の戦いの前まで、ご厄介になっていた教会も、人がいなくなり、小さな教会で祈りを捧げていております。周りにも捕縛される者が出てきており、いつ私にも災難が訪れるか分かりません」
「それは難儀なことでございますな。拙者は吉利支丹ではないので、よくは分かりませんが、ご無事でいらっしゃることを願っております。では、さらばにございます。また、いずれの日か、お会いしましょう」
「はい、又兵衛どのもお元気で」
左衛門が言った。
「体中から、気が溢れているような立派なご武人であらせられましたな。まさに戦国の武者の中の武者。掃部様と同じように、折角の武略を活かせないとは、実に勿体ないことと存じます。黒田甲斐守様の器量の小ささにも困った者ですな。へたれ野郎ですな」
「これ、左衛門。今までお世話になった甲斐守様に悪口を申すではない。感謝致せ」
左衛門は不服げである。
「はい、分かりましたよ」
「しかし、あの剛勇で鳴らした又兵衛殿さえも仕官できぬとは、この世は一体どうなっているのか」
明石掃部と後藤又兵衛は、これから三年後の慶長十年(一六一四)、お互いに豊臣方の大将となり、大坂城五人衆として、徳川家康に対して、武勇を振るったのである。
掃部は、ロレンソたちの世話になっていた。そして、レジイナたちとの約束通り、江戸に移った家族宛に、文を書いたのである。返事がレジイナからすぐに来た。レジイナからは、家族皆が元気にしていると書いてあった。
祖母モニカがとにかく元気で、近所の旗本の夫人たちと、すぐに仲良くなり、毎朝、薙刀の稽古をしていると書いてあったのには、掃部も驚いた。元気なのは一見するとよいように見えるが、甥の秀家の行方が知れないのに、気を張っているのであろうと、考えると、掃部は悲しくなった。
パウロ内記は、学問に励み、通っている塾でも、特に優秀な者と認められているそうだ。三男ヨセフからは、剣術の稽古で道場に行っているが、同じく通っている旗本の子息と仲良くなり、そこから聞いた江戸の幕府の情報が細やかに書かれてあった。老中の中で、キリスト教信者を取り締まる者が選ばれるとのことだ。子供同士の内輪の話ではあるが、掃部は、油断は出来ないと思った。
主君宇喜多備前宰相秀家が八丈島で、どこに住んでいるのかも分かった。正室豪姫の実家の加賀前田家からと、元家臣の花房志摩守から、秀家宛に米が送られているそうである。
前田家からの分は豪姫の実家であるから分かるが、秀家と反目して、宇喜多家を出て行った志摩守が、秀家に米を援助しているとは意外であった。掃部は、志摩守の秀家への忠義がまだ大いにあると感じ、主君秀家を未だに慕う気持ちを嬉しく思った。そして、自分も援助したいが、仕官先も、ままならないので、何もできないと不甲斐なく感じた。
掃部は、八丈島を遙かに遠い恐ろしい島と思っていたが、秀家親子は、不自由ながらも生活は、何とか出来ているようだ。掃部は秀家にも文を書いた。しばらくして秀家から返事が来た。島での生活は苦しく、だいぶ痩せたが、この前、福島正則の家臣が乗る船が嵐で島に辿り着き、福島の家臣から酒を恵んでもらったと書いてあった。八丈島では名前を浮田久福と改めたと書いてある。これは、掃部に取って衝撃的であった。そこまで、徳川に遠慮しなければならないとはと、残念な思いでいた。宇喜多左京亮詮家も同様であった。石見津和野藩の藩主となったのであるが、幕府の命により、宇喜多という姓を捨てなければならなかった。今は坂崎直盛と名を代えている。掃部は、徳川は、そこまで宇喜多家を痛めつけるのかと、憤慨せずにはいられなかった。
掃部は、京でソノラ教会に住み着くなり、仕官先を捜した。今日は、加藤肥後守忠広の屋敷に出向いた。秀吉子飼いの猛将加藤清正の三男である。一ヶ月前に清正が亡くなったばかりで、跡を継いでいる。肥後でせいしょこさんと呼ばれ、人望があった清正とは違い、忠広は、うつけと呼ばれ、愚鈍であった。細川忠興が「狂気」と文書で記録している程である。ただ、家康の孫を正室に迎えて、家康の一族気取りであった。
忠広の近習が主君に、明石掃部の来訪を報せると、頬を上げ、口を締め、嫌そうな顔をした。月代で、眉は薄く、狐目である。背丈は五尺五寸はあるが、体重が三十貫もある肥満体である。そのため、動きが鈍い。毎日贅をつくした料理を食しているとのことである。領地の肥後では、貧窮して苦しんでいる民が大勢いることに、忠広は気にもかけない。清正時代からの家臣が諫言しても、耳を貸さない。甲高い声で家臣たちに言った。
「あー、奴は吉利支丹じゃろ。上様の命に従い、吉利支丹は厳しく罰せねばならぬ。すぐに捕らえて参れ。わしが直々に詮議致す」
「はっ」
屋敷の門から槍を持った五名の侍が、走って出てきた。
「日の本に仇をなす吉利支丹め。自ら出てきおって。捕らえるぞ。観念せよ」
そして侍たちは走っていき、掃部の周りを取り囲んだ。掃部は困った顔をした。
「弱りましたな。加藤肥後守様のところでも、仕官が叶わないのですか。残念ですな」
「そのようなことではない。関ヶ原の戦いの後、清正公は、隣国であった小西行長の領地も治められることとなった。清正公にとって、それは別に嬉しいことでは無かった。小西は吉利支丹であり、その領地には大勢の吉利支丹が住んでおった。おかげで、清正公は、旧小西領を治めることに難儀なされた。日の本に害をなす吉利支丹は、全て処罰されねばならぬのだ」
掃部は、ゆっくりと刀を抜いた。加藤家の侍たちが、掃部目がけて走ってきた。掃部は、相手の槍先に刀をぶつけ、次々に飛ばしていった。槍が地面に突き刺さっていく。四人、五人と、やられていった。そして槍を飛ばされた家臣たちは、振るえだした。その隙に、掃部は加藤屋敷から急いで逃げて行った。
(むう、仕官先を訪れる時には、捕縛されかねないな。キリスト教信者への厳しさを少し垣間見たぞ。十分に用心をせねばならぬ。次からは念のために、左衛門も連れて行こう)
掃部は左衛門を連れ、京の大名屋敷を幾つも訪れた。肥後守屋敷のように、内で怪しい動きがないか、掃部と左衛門は気を配っている。掃部は久々に緊張していた。しかし、他の屋敷では、捕縛の動きはなかった。ただ、迷惑そうに門で断られるだけであった。
「掃部様、なかなか仕官先が決まりませぬね」
「うむ、そうだな。これほど厳しいとは。はっ、肝心なことに気づいていなかったぞ」
「それは何ですか」
豊臣秀吉が日の本を治めていた時代と変わり、今まで洛中や伏見に屋敷を構えていた大名たちの大部分は、慶長六年(一六〇三)に徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府が開かれるにつれて、江戸の方に屋敷を移していったのである。京に屋敷を残しているのは、秀吉恩顧の大名が中心であった。掃部は、今までそのことに気づかず、一部の洛中や伏見に屋敷を残している大名の元を訪れていたのである。
(何ということだ。私としたことが。そのような簡単なことに気づかないとは)
今までの仕官先回りは、あまりよいやり方ではなかった。だから、なかなか仕官にまでには至らなかった。
明石掃部の武勇は、どこの大名家でも知られていたが、熱心なキリスト教信者の武将ということも知られていて、どこの大名も雇うには難色を示したのである。京に来て、もう二年が経っていた。掃部は失望している。
第八章 伊賀守(いがのかみ)と相模守(さがみのかみ)
左衛門が疲れた様子で言った。
「掃部様、もう江戸へ参りましょう。あちらには、私の息子の太郎もおりまするに。レジイナ様など掃部様のご家族も、江戸にいらっしゃいますぞ。ご家族とご一緒に住まわれたほうが、気もまぎれて心安んじて、宜しいのではございませぬか」
「うむ、そうだな。甚だ残念ではあるが、仕方あるまい。京にいて既に二年も経った、もう諦めるしかないか。やはり江戸へ参るか」
「江戸でも仕官先が叶わなかったら、備前の娘の絵野の嫁ぎ先にも当たりましょう。もちろん、徳川の姻戚である池田家も厳しいとは存じますが」
そのような話を備前屋でしていたところ、隣から、話し声が聞こえてきた。二人の男が話している。一人は総髪で、口と顎に髭のある男である。もう一人は、頭を剃っている。と言っても坊主ではなさそうだ。商人の衣装をしている。
「おい、聞きはったか。今までの京都所司代の板倉様の吉利支丹への拷問では足りないのか、関東の小田原から老中の大久保様というお方が京に上られはるそうな」
「はあ、老中様というたら、将軍様の次に偉いちゅう話を聞いたことがあるな」
二人の会話を聞いて、明石掃部は愕然とした。先程送られた江戸の家族からの文で、ヨセフが伝えていた中身が当たっていたからであった。キリスト教信者を弾圧するための老中が設けられるのである。
今も、京では、京都所司代から連日キリスト教信者が、多勢捕まり、激しい火で火傷を負わせたり、逆さ吊りにされ水に長い間浸かり、死ぬ寸前まで息が出来なくなり、中には、拷問で命を落とす者もいる。磔で大勢の信者が命を落とした。キリスト教信者たちは、幕府に見つからないように、静かに暮らしていた。生活も苦しく飢えに苦しんでいた。、少ない田畑で生活をしていた。隠し田も作っていた。いつ、その隠し田も、見つかるか分からない。商人のキリスト教信者も苦しんでいた。キリスト教の教義を守り、利益を度外視した真面目な商いをしてた。そして、同じく苦しんでいる者を助けるために、お金を教会に寄付した。中には借金をしてまで、同胞を守っている者もいる。
掃部は、今までも、京に潜むキリスト教信者をロレンソたちとともに保護してきたが、京都所司代板倉勝重の凄まじい執拗さから逃れることに、己の力の無さを感じていた。それなのに、幕閣の老中である大久保相模守忠隣(おおくぼ さがみのかみ ただちか)まで来てしまうのか。掃部は、相模守がどのような人物か知っている。代々、徳川家(松平家)に仕えた家柄で、武勇に秀で、心が寛く、譜代大名だけではなく、西国の外様大名からの信任も篤いと聞く。
歴戦の猛将で、特に、元亀三年(一五七三)、徳川家康が武田信玄から一方的に負かされた三方ヶ原の戦いでは、一時も家康の側を離れず、家康を無事に浜松城へ帰城させたという。
しかし、掃部と相模守は、関ヶ原では、直接戦ってはいない。東海道(とうかいどう)を進んだ家康の本軍とは別に、中山道(なかせんどう)を通り、関ヶ原に向かう徳川秀忠軍の主な将として従っていた。そして中山道の途中にある真田安房守(あわのかみ)昌幸が立て籠もる上田城を攻めようと主張し、反対した本多佐渡守正信を押しのけた。上田城攻めを秀忠に進言して行い、小勢の真田安房守から大軍の徳川軍は、面白いように翻弄された。やっと真田軍への攻撃を止めて、急いで関ヶ原に向かうも、途中の道が泥沼になっており、行軍が遅かった。結局は、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間に合わなかったと言う無残な結果となった。相模守は武勇はあるが、智略という点では、板倉より与し易い。しかし、信念を持ち、強情な点を考えると、まさしく三河武士であり、なかなか侮りがたい人物であると、掃部は思ったのである。
掃部に取って、どのような者が来ようとも、同胞であるキリスト教信者を迫害する者は決して許せない。
この頃、明石掃部頭全登は、大名への仕官を諦め、徳川幕府と対立している豊臣家への仕官を考えていた。関ヶ原の戦いに勝った家康は、敗れた者の処分を厳しくいた。斬首された者、改易された者、改易の上に僻地に流された者などおり、まだ立場上は豊臣家の家臣であるのに、豊臣家の直轄地を大幅に削り、徳川の直轄地や大名の領地とした。三年後に、征夷大将軍となった家康の元に、今まで豊臣家に仕えてきた大名たちの多くは走り、保身を図っていた。そして、大坂城の秀頼へ拝謁する者は、福島正則や、今は亡き加藤清正など少数の者になったのである。
犬山左衛門利家は江戸行きを勧めているが、江戸へ行っても、結局はキリスト教信者ということで、門前払いされるだけだと思った。それどころか、京においてもキリスト教信者には取り締まりが厳しいのに、徳川幕府の足下である江戸では、確かに仕官先は多いが、幕府の本拠地なので、取り締まりが京以上に厳しいと思ったのである。掃部は、それでは、京での仕官活動と全く変わらないであろうと考えていた。
今、徳川家から追い詰められている豊臣家は、キリスト教信者への理解があると聞く。しかし、理解があると言っても、それは徳川へ対するための戦力としてのキリスト教信者の武士を頼りにしているのであり、イエス・キリストへの信仰のことまで理解しているとは、掃部は全く思っていなかった。しかし、もう打つ手がない。掃部は豊臣家の家臣となり、キリスト教信者を弾圧している首魁である徳川家康、秀忠親子を討ち倒そうと考えていたのである。その前に、京で同胞を苦しめている板倉伊賀守、もうすぐキリスト教信者を弾圧するために上洛する大久保相模守を何とかしなければならないと思った。板倉伊賀守勝重は、京都所司代の役所にいる。
大久保相模守忠隣は、所司代役所の東隣の屋敷に来ることが分かっていた。このことは世間に公にされていることであり、間諜を使うまでもないことである。掃部は二人を討つ策を必死に考えてはいるのだが、なかなか、よい考えが思いつかない。相模守がもうすぐやって来る。掃部は、かなり焦っていた。
慶長十八年(一六十三年)の十二月の京の夜であった。京は盆地の中にあり、冬の寒さは、温暖な備前や筑前と違って、厳しいものであった。同じ盆地の秋月も冬は雪が積もり寒いが、京のその寒さは、秋月より強い。満月が放つ光りが輝いていて、京の街を明るく照らしていた。左衛門が掃部に言った。
「掃部様。今宵は、特に寒うございますな」
「うむ。かなり寒いな。ソノラ教会には、ロレンソ様が、ポルトガルから持ち込まれた暖炉というものが、あるのだが、曾野教会が狭くて持ち込めないのが残念だ。暖炉の火で、体がとても暖かくなったな。それより、大久保相模守が京に着いたのは今日であろう。そのことが懸念すべきことだ」
大久保相模守は、江戸城から京に上って、一日目である。髪型は大月代で二つ折髷である。眼光は鋭いのであるが、穏やかな風貌であった。口と顎の髭は濃くて下に流れている。そして、寡黙な男である。相模守は、満月の美しさを見ながら、酒を少しだけ飲み、京都所司代役所の東隣の屋敷で、旅の疲れをゆっくりと取っていた。その時、板倉伊賀守が挨拶に来た。足音が静かである。しかし、小刻みであった。伊賀守は、急いで相模守の屋敷まで来ていた。室の前まで来て、伊賀守は言う。
「拙者は、板倉伊賀守と申します」
「御高名は、存じ上げております」
「長旅でお疲れとは存じますが、只今、お部屋に入っても宜しゅうございますか」
「何、疲れてなどおりませぬ。どうぞ。ご遠慮なくお入り下され」
伊賀守は戸を静かに明けた。満面の笑みである。
「これはこれは、江戸から遙々京までお上りあそばされて、恐悦至極に存じ上げます。ご老中様ご自身でのお勤め、まことにご苦労にございます」
「これは伊賀守殿、痛み入る」
「ところで、これは、ほんの少しばかりの気持ちでございます。お持ち下され」
「何であるか」
伊賀守は、饅頭の箱詰めを、うやうやしく差し出した。箱の蓋には、京で三百年続く老舗和菓子店の名が書かれてあった。饅頭は、甘さが強くなく、あっさりとした美味であり、天下一と言われている。相模守は、すぐに分かって箱の蓋を開けた。饅頭を取って、下のものを取り出した。鋳造されたばかりの小判が隠れている。
「伊賀守殿、何をなされる。無礼であるぞ」
「いやー、何と言っても、財が要るでしょう。これからの相模守様の京でのお働きの一助になればと思いましてな。そして、これからも、この板倉伊賀守を宜しくお願い奉ります」
「上様の朝廷や西国の見張り代わりである京都所司代ともあろう者が、何ということだ。情けない」
「ん? 何をおっしゃっているのですか。やはり、人は金でしょ。ね、ね、ね」
「お主を見損なった。相当な切れ者の京都所司代と聞いておったのだが」
「え?」
「だから、見損なったと言ったのじゃ」
「えー駄目なのですか。困ったな、困ったな」
「汚らわしい。一刻も、ここから消えよ」
「わ、分かりましたよ。全く」
伊賀守は急いで、相模守の屋敷から退出した。足音がやかましかった。そして所司代役所に戻り、自室に入ると、家臣の内藤吉右衛門(きちえもん)を呼び出した。吉右衛門は、京都所司代で、伊賀守に次ぐ役職の者である。吉右衛門は笑みを浮かべて、軽い腰つきで相模守の室へと入る。
「はいはい。大久保相模守様に、お付け届けは、効きましたでしょう」
その言葉に伊賀守は激怒した。
「ば、馬鹿もん! あの石頭には、ちっとも効かなんだわ。昔の三河の田舎者そのものだわい。むしろ逆に怒らせてしもうたわ」
「えー、今時、そんな人がおるのですか。財があれば、よき馬にも乗れますし、おなごも、よりどりみどりですぞ。そして、地方の美味なる料理も食べ放題でございます。私なんか、江戸の水路開拓差配役から京都所司代に勤め代えになってからは、扶持が大きく上がって、憧れの奥羽の名馬を三頭も買うことができましたよ」
「それが通じない奴がおったわ。今ここに! 今ここによ!」
「し、信じられませぬ」
「もう、お前の言うことは信じられぬわ。佐渡島(さどがしま)の金山の役人の中でも一番下っ端にして、飛ばすことに致す。はい決定!」
「そ、そんな。そればかりはお止め下さいませ」
「奴が上様に、このことを言ったら、大変なことになるぞ。どのような罪で罰せられるか。おー怖い、怖い」
「ああ、それは大丈夫だと思いますぞ」
「ん? 何でじゃ。なぜ、このような大事を大丈夫と言える?」
「相模守様は、二年前に手塩にかけたご嫡男忠常様を亡くされて以来、気力がなくなったのか、ご老中の政務を怠りがちでして。上様から、大変ご不興を買っておられるとか。また、大久保長安の贈収賄事件もございましたな。長安は相模守様の保護を受けており、大久保の姓をいただいております。金銀を多く産出する方法を持ち、権勢が絶大な者になっていました。一時は、天下の総代官とまで呼ばれておりましたな。長安は大御所のご寵愛を受けておりましたが、日の本中の鉱山からの金銀があまり採れなくなり、大御所様のご寵愛を失いました。それまで勤めていた代官職を全て罷免されてしまいましたな。そして昨年亡くなり、その後に、生前、金山での収入で不正蓄財をしたということが発覚致しました。それで、関わっていた長安の七人の息子たちは全て首を刎ねられ、縁戚であった諸大名も連座の処分が下り、改易などになり申した。あの件で、相模守様は、立場が悪うなりました。その上、家臣の馬場八左衛門(さえもん)という者が、上様に、相模守様ご謀反の訴えをしたとか。まだ沙汰は下っていないそうですが。この度の吉利支丹弾圧での上洛も、相模守様を疎んじられていらっしゃる上様からのご命令なので、何やら裏があるのやもしれませぬ」
「な、何で、お前如きが幕府の内外の事情に通じておるのか。大久保長安の件は、あまりにも有名で、もちろんわしも知っておるが、この偉い伊賀守様が知らんことを何故、お前が知っておるのじゃ」
「はい。私の従兄の内藤若狭守(わかさのかみ)様は、江戸の幕府の重鎮ですので」
「あっ、ああ、そうであったな」
(若狭守の父は、今は亡き清成殿でご老中だったな。内藤家は、徳川家の譜代中の譜代じゃ。すっかり忘れておったわ。わしとしたことが。吉右衛門を粗略にするといかんわい。心しておかねば。逆に、大久保相模守は、あまり気を使わんでいいと言うことじゃな。吉右衛門の話が本当ならば、相模守は、いずれ、上様から処罰を喰らうであろう。ああ、小判を取られなくて良かったぞ。勿体ないところであったわい)
そして、伊賀守は吉右衛門の両手をしっかりと握って、笑みを浮かべて、激しく揺すった。
「吉右衛門よ、吉右衛門よ、そちは偉いのう。そのような大事、よくぞ報せてくれた。礼を言うぞ。助かったぞ。内藤家は名家であるからな。これからも。わしを宜しくな」
「は、はあ」
吉右衛門は、伊賀守の豹変ぶりに呆れていた。
第九章 仲間との出会い
ある日、掃部は備前屋で、熱心に書物を読む若者を見つけた。店の中の端に、座っている。まだ総角である。元服をしていないということだ。眼が大きく、顔が赤い。口角が上がっている。背は四尺八寸で、当時の並みの男よりも小さい。掃部、左衛門にとっては、子供のような背丈である。年は二十歳を少し越えたくらいだと思える。
若者は、翌日も、翌々日も書物を真剣に読んでいた。座っている場所は、いつも店の中の端である。掃部が、遠くから書物の表紙を見てみると、韓非子と書いてあった。掃部は大いに喜び、思わず若者に声をかけてみた。
「失礼ですが、韓非子がお好きなのですか」
若者は驚いていた。
「えっ」
「いや、私も韓非子は若い頃、何度も読んでいたもので、懐かしくなって話をかけた次第なのですよ。大変有意義な書物でございますな。政(まつりごと)をしている時には、大いに役に立ちました」
「そ、そうなんですか。私は、猿田(さるた)三郎と申します。論語、孫子、韓非子をよく読んでおります」
「申すのが遅れてしまい申し訳ありません。私は、明石掃部頭全登と申します。こちらは私の家臣で犬山左衛門といいます。」
「えっ、あ、あの宇喜多家一の戦上手として名高い明石掃部様でございますか。関ヶ原の戦いで、鉄砲と槍の巧みな使いで、福島正則軍を恐れさせたという」
犬山左衛門が掃部の耳元で囁いた。
「あのー掃部様、そう易々と、見ず知らずの者にお名前を明かすのは、止めて下され。危うきことでございますよ。我らは家康に敵として戦った石田方の身なのですよ。いくら十一年前の話と言っても、あちらに取っては逆賊ですぞ。お止めてくだされ。困りますよ」
「いや、この若者は学問に熱心で、見所のあるお方と見た。話す私が、よい刺激になる。是非じっくりと、お話しがしたい」
左衛門は困った顔になった。
(あー、また、まずいことに)
「いかにも、私は関ヶ原の戦いで宇喜多の先鋒として戦った明石掃部です。今は、洛中のイエズズ会の教会にご厄介になっております」
「やはり、あのご高名な明石掃部様でございますか。同じ石田方の武勇名高いお方と出会うことが出来て、この上ない幸せにございます」
「そうですか。今は、京にお住まいにございますか。それと、同じ石田方と言われましたが、どなたかに仕えられていたのですか」
「はい。と申しましても、私は当時は幼く、仕官は致しておりませんが、父が石田治部少輔様の家臣でございました、関ヶ原の戦いの後、裏切り者で不忠な輩である小早川秀秋たちが攻めて寄せてきた佐和山城で、父は討ち死に致しました。そして、私と母に京へ逃げよと、最後に言い残しました。私は母を連れて、京に上って仕官先を捜しております」
三郎は、仕官先を懸命に捜してはいるのだが、生活が苦しく元服も出来ていないので、どこも相手にしてくれなかった。三郎は、母とともに生活はできないため、東山の親戚に居候になっており、肩身が狭かった。だから、書物を読む時は、親戚の屋敷の外を出て、備前屋などの茶屋に行っていた。
「そうなのですか。それはご苦労なされたな。ところで、お住まいは東山でございますか。我らの住んでいる教会も、近くにあります」
「そうでございますね。近いですね。苦労は、それ程でも、ありませぬ」
「おい、お前、顔がとてもとても、赤いではないか。あはは」
その声を聞いた三郎の目が大きく見開いた。そして左衛門を睨みつける。
「な、何ですと! し、初対面の方に、そのように言われる筋合いはございません」
突然、掃部と三郎の話に割り込んできて、三郎をからかったのは左衛門だった。いつものことである。
「だって、赤いもんは赤いんだぜ。何で赤いんだ。掃部様の前だから照れて赤いのか。それとも猿田だから猿、猿の顔は赤い。それで赤いのか。医者に一度診てもらえよ。あはは」
「し、失礼な。何故そなたに、そのようなことを言われねばならないのか。訳が分かりませぬ。そなたこそ、犬山だから、犬のような顔をしておりますぞ」
「何だと。そんな馬鹿な。そのようなことを言われたことは、一度たりともないぞ。猿の若殿よ」
「どうせ、兵法のへの字も知らぬのでしょう。無駄に命の遣り取りをしてきたのでしょう。黙っていなさい」
「うるせー、お前こそ、一度も、戦場に立ったことがないんだろう。初陣を済ませてから、いいやがれ。というか元服も、まだ済ませていないではないか。この、とんちき野郎」
「う、初陣。むう」
三郎は、次の言葉を出せずにいた。目を泳がせはじめた。顔が、ますます赤くなっている。見かねた掃部が左衛門を黙らせようとする。
「こら左衛門、会ったばかりのお方に、何と失礼なことを言うのだ。そなたは黙っておりなさい。いつもの悪い癖だ」
「ははー。しかし、この者は、いじり甲斐がございましてな」
「これ! それが、そなたの悪いところだ」
「はい、分かりましたよ」
「三郎殿、失礼致しました。この者は口が悪くて申し訳ありませぬ。根は忠義者で、勇気があり、誠がある者なのですが」
「いえいえ、気にしておりませぬゆえ」
左衛門は、心の中で呟いた。
(何言ってやがる。かなり、気にしているではないか。目が泳いでいるぜ)
「しかし、京での仕官先は、私どもも、なかなか見つかりませぬ。捜し始めて、二年も経ちました。もう京は諦めて、豊臣秀頼様のおわします大坂城に行こうかと考えておりました」
三郎は、掃部のその言葉を聞いて、うなだれた。
「そうでございますか。明石様ほどの武功がお有りで、ご高名なお方が、ご仕官できぬなら、私如き者が仕官できる訳はありませんね」
「三郎殿。まだ、諦めなされぬな。あなたは、まだお若い。神のご加護があります、きっと、ございますよ。あっ、あなたはイエス様にご関心はお有りですかな」
左衛門が目を見開いた。
「掃部様、突然何をおっしゃるのですか! 只でさえキリスト教信者は、徳川幕府から睨まれているというのに、この昼間に堂々と初対面の者に誘いをかけてはなりませぬぞ」
「いや、このお方は、何故か神などの崇高なものに興味があると思ったのだ。何かを究めようとする姿勢が、このお方にはある」
三郎は、頭を横に振った。
「天下の名将明石様ご自身からのお誘いは有り難いのですが、私の一族は代々熱心な日蓮宗の信者でありまして、申し訳ございませぬ。改宗は出来ませぬ」
「そうですか。それは残念ですな」
「しかし、私を見込んでくださり、光栄にございます。有り難きことです。このことは決して他言致しませぬ。キリスト教信者は何の罪もないのに、ひどく迫害されており、とても気の毒だと思っております。私どもが日蓮聖人を熱心に崇拝することと、キリスト教信者の皆々様がイエス様に祈ることは相通じているように思います。日蓮様も、鎌倉幕府から睨まれて、殺されそうになったり、佐渡島に流罪となられましたから。そして、今日は明石様と出会えて、まことに幸せにございます。どうか、私をお見捨てずに、これからも、いろいろとご教示下さいませ」
「うむ、猿田殿とのお付き合いは、これからも大事にしていきたいと思います。この備前屋で、また必ずお会いしましょう」
「ああ、良かった。今日はよき日でございました」
その時、外で騒ぐ声が聞こえた。屋敷の塀を軽々と越えていく黒い影が見えた。そして、備前屋の店の中に雪崩れ込んだ。座席の上に敷いている古びた茣蓙が吹き飛んだ。客も三名倒れている。店主が慌てている。
雪崩れ込んだのは、背丈が六尺は、あるような大男である。髪は総髪で眼が細く、口がとがっている。頬には、何かで斬られた傷があった。
「おっ、黍団子。俺の大好物なんだ。もらっておくぜ。毎度あり!」
そう言い残し、男は去っていった。また別の屋敷の塀を跳び越えて行った。六尺はある塀を次々に跳び越えていった。それには流石の掃部も驚いている。
「すごい技だ」
男は、北の方面に逃げていった。掃部たちの皿にあったはずの、黍団子三つが全てなくなっていた。
犬山左衛門が叫んだ。
「あ、あいつ、我らの黍団子を全部盗んで行きやがった。いつの間に」
「左衛門、けちなことを言うものではありませぬ。主のお恵みが彼に与えられたのです」
「掃部様、何を呑気なことをおっしゃっているのですか。備前人にとっては、とても大事な黍団子を盗んで行かれたのですぞ」
「主は、寛大なお方です。あの逃げた男にも、主の愛が必ずや届くことでしょう」
「ま、また。まあ、私も主を信じておりますがね。一々、主の話を持ち出されたら、かないませぬ」
そこへ三人の男たちが血相を変えて走って来た。汗をかなり流している。目を大きく見開き、息が荒い。
「お、おい、こっちに口が尖った大男が走って来なかったか」
掃部は目を細めて、指を南に指して口を開いた。
「はい、その男なら、先程この道を南側に慌てて、走って逃げていきましたよ」
「そ、そうか」
「ところで、その男は何をしでかしたのですか」
「うちの店のあり金全てを盗んでいったんだよ。白昼堂々だぜ。舐められたもんだ。おい、お前ら、急ぐぞ。南だ」
「へ、へい」
男たちは南へ、慌てて向かった。
猿田三郎が尋ねた。
「明石様、あの口が尖っている大男は北へ向かって逃げましたよね。何故、南へ言ったなどと、そのようなことをおっしゃったのですか」
「うむ、あの大男には、何か理由があるのではと思いましてね。それに、あの追いかけてきた男どもは、身なりから見て、博奕打ちでしたよ。侍も戦の前に、明日死ぬやもしれんと思い、博奕に興じる者がおりますが、私は、そのような輩を軽蔑しております。博奕を打つ暇があるなら、キリスト教でなくても、,神仏にでも祈りを捧げればいいものを。そのような侍や庶民から巻き上げて儲けた不浄なお金など、盗まれても致し方ありませぬ。主がお認めにならないお金です。それと」
「それと?」
「我らと、同じ備前訛りがあったからです」
左衛門が呟いた。
「あのー掃部様、主の前では嘘をついてはならぬのでは、なかったのですかね。今まで教会で、何度も司祭様からお話をお聞きしましたよね」
「これも何かの縁である」
「また、ああ言えばこう言いますねえ」
「あの大男とは、また会う気がします」
三郎が驚いた顔で言った。
「そうなのですか」
「はい、必ず。おっと、旦那、黍団子を三つ頼む」
「へい」
それから時々、掃部と左衛門は、三郎と備前屋で出会い、語らっていた。石田家、宇喜多家のなどの昔話の時は三人で話しをした。論語、孫子、韓非子の話などの話になると、左衛門は頭を抱えた。
「うーん、俺には、さっぱり話が分からん。何の話をされているやら」
「よいのですよ。左衛門。私も鉄砲と槍は、よく分かりますが、刀のことになると、さっぱりです。秀家様に仕えていた頃、免許皆伝の武人にお教えを請いましたが、散々に打ち負かされました」
三郎は、驚いて思わず言った。
「天下の武人明石様にも、苦手な武術があるのですね」
「天下の、はお止め下され。大袈裟ですよ。今は亡き島左近殿、またこれも亡き本多平八郎忠勝(ほんだ へいはちろう ただかつ)殿、立花飛騨守宗茂殿、後藤又兵衛基次(もとつぐ)殿、母里(ぼり)太兵衛友信(たへえ とものぶ)殿、片倉小十郎景綱(かたくら こじゆうろう かげつな)殿、真田左衛門佐信繁(さなだ さえもんのすけ のぶしげ)殿、毛利豊前守勝永(もうり ぶぜんのかみ かつなが)殿、薄田隼人正(すすきだ はやとのしよう)殿など、天下の武人と言われるお方が、数多いらっしゃいます。私などは、とても、あの方々には及びません」
「また、ご謙遜を」
「俺は、掃部様が天下一の武人だと思うがな」
「お止めなさい、左衛門」
「はいはい」
掃部は、三郎の方に顔を向け、口を開いた。
「三郎殿は、まだ元服をされておらぬ。すぐにでも、元服致しませぬか」
「えっ、お言葉は有り難いのですが、手持ちの金がございませんので、難しゅうございます」
「いいえ。元服の費用は、こちらで工面致します」
「とんでもないことにございます。掃部様に何の貢献もしておらぬ私が、甘える訳にはいきませぬ」
「いえ、仕官先を何としてでも決めるために、まず元服するのです。これは、武士として生まれた者が必ずや通る道です。元服しなさい」
「そこまで言われたなら、分かりました。私は、有り難く元服を受けさせていただきます」
そして、猿田三郎は、曾野教会で元服をした。元服は、普通は神社で行われるのである。キリスト教の教会で、元服するなど、奇妙ではあったが、三郎の家は、親戚に居候になっており、その親戚も貧しく、やりずらかった。
左衛門が冠親になり、冠をつけた。そして烏帽子親は掃部である。掃部が烏帽子を三郎につけた。そして名前を彦兵衛(ひこべえ)次元と変えた。そして、左衛門が理髪、打乱(うちみだり)、泔坏(ゆするつき)をまとめて行った。これらは、それぞれを務める役があるのだが、それらを行う者が他にいないので、冠親の左衛門が執りおこなうことになったのである。彦兵衛は立派に元服の式を務め、月代の髪に結ったのである。
彦兵衛の母は複雑な面持ちであった。念願の元服は出来たのであるが、異教の教会で行われたのである。しかも、豪勢なところではなく、茅葺きの貧相な屋敷であった。無理もなかった。左衛門が相変わらず彦兵衛に絡む。
「おい、これで一人前のお猿ちゃんになったではないか」
元服から三日経って、彦兵衛は、東山の仏尊寺に立ち寄った。そこは日蓮宗の寺であり、彦兵衛がよく経を唱えに行く寺である。杉の木の陰から女が出てきた。元結の掛け垂髪で、色白で小柄な女である。年は、二十歳前と思われる。
「おゆう殿」
「三郎様、いえ彦兵衛様。この度は、ご元服おめでとうございます。月代がお似合いですよ」
「ありがとうございます。久々にお会いできましたな」
「本当ですね。久し振りでございますね」
「折角、久方振りにお会いしたのに、残念な話があります。今日も仕官が叶わなかったのです。折角元服したのに、またでございますよ」
「それは残念なことでございます。父上の助けがあればよいのですが」
「それは、いけませぬ。左馬助(さまのすけ)様は、今は池田家に仕えておられ、この京の池田屋敷に勤めていらっしゃいますが、その前には小早川金吾に仕えられた身。我が主君石田三成公の居城佐和山城を攻撃し、我が父上は討ち死にされた。左馬助様に頼れば、亡き三成様や父上に会わす顔がございませぬ」
「そうでございますね。失礼なことを言い、申し訳ございません」
「おゆう殿、お気に召されぬな。いつか仕官も叶いましょう。それよりも、おゆう殿はキリスト教信者です。その身が案じられます。幕府の取り締まりが、今年から厳しくなったと言うではありませんか。拷問で死ぬ者もいるとお聞きしました。とても心配しております。おゆう殿の周りに、京都所司代の者どもが現れたりしておりませぬか」
「いえ、まだ、周りにはおりませぬ。しかし、いずれ参ることでしょう」
「それが心配なのです」
「お気にかけていただき、ありがとうございます」」
「あっ、そう言えば、近頃、キリスト教信者の武将として有名な明石掃部様に会っておるのですよ」
「えっ、あのご高名なジョアン様にですか。温和な方で、武勇に秀で、かなりご熱心な信仰をお持ちであるお人とお聞きました。そのようなお方に、頻繁に会うことが出来るとは、うらやましい限りです」
「いつか、おゆう殿にも掃部様と会うことができるように、計らいます」
「是非お待ち申しあげております」
そして、日が沈む前に、二人は別れたのであった。
時々、掃部は、次女レジイナから文が届く。家族の様子も、もちろん書いているのだが、江戸でのキリスト教信者の捜索、捕縛が日に日に厳しくなっていると言うのだ。拷問の惨たらしさは、京以上のようだ。かなりのキリスト教信者が拷問で死んでいると言う。掃部は激しく憤っていた。レジイナは文の終わりに必ず、このように結ぶ。
「私が、残された明石家を必ず守りますから」
掃部はレジイナのことを信じていた。あの子なら明石家を必ず守ってくれるであろうと。そして、今回の文には、このようなことが書かれてあった。
「平内殿が、キリスト教信者弾圧のことで、大御所様と上様に対し、とても大きな憤りをお持ちです。自分は豊臣家方に付くと言い張って、一族から、きつく止められています」
岡平内も、キリスト教信者であった。関ヶ原の戦いの前、宇喜多家は、秀家の正室であった豪姫を始めとして、大勢のキリスト教信者がいたのである。掃部は、平内が焦って、早まったことをしなければよいがと思った。
ある日、掃部は左衛門、彦兵衛とともに、また備前屋で黍団子を食べていた。その時、掃部の前に大きな薄黒い影が立っていた。掃部は、笑顔で、その影に語りかけた。
「また、お会いしましたね」
「あの時の礼を言わねばならんと思ってな」
左衛門が叫んだ。
「あ、あの時の黍団子泥棒野郎!」
「ああ、そうさ。あの時、俺のところには、追っ手は来なかった。さしずめ、そちらで、違う方向に行ったと言ってくれたんだろう」
「はい、よく分かりましたね」
「盗人稼業をしていると、そんなことにも、目端が利くようになってな。悲しいことに。おっ、また、うまそうな黍団子、二ついただき!」
左衛門が、また怒る。
「あっ、てめえ、また盗みやがって」
掃部が左衛門を抑える。
「いいではないか。これもまた主のお導きだ」
「ん? 主と言ったな。あんたら、吉利支丹だな」
掃部は臆せずに言う。
「はい、そうですよ。こちらの若い人は違いますが」
「白昼堂々吉利支丹と言いやがるとは、すげえな」
「奉行所にでも訴えますか」
「馬鹿言え。お尋ね者の盗人が訴えたら、逆に捕まっちまうぜ」
「もっともですね。そうだ。いい機会です。あなたもキリスト教信者になりませぬか」
「それは、ご免被るぜ。こんな悪人でも一向宗の門徒なんだ。意外にも熱心なんだぜ」
「そうですか。残念です。」
「しかし、宗派が違うと言っても、吉利支丹のことは尊敬しているぜ。吉利支丹は、迫害されても決して負けない。俺ら一向宗も、信長の時代には散々痛めつけられたから、気持ちは、よく分かるぜ。まあ、その時、俺は、幼子だったから、記憶には、あまりねーけどさ」
「そうですか。あなたとも、かなり気が合いそうだ。時々、この備前屋に来て語らいませんか。」
「ああ、いいぜ。俺も、あんたは面白いと思っている。しかし、持ち金がねえので、黍団子は奢ってくれねえか」
また、犬山左衛門が怒鳴った。
「おい、掃部様に面白いとは何事だ! 奢ってくれとは何事か! 決して許せんぞ」
「まあまあ、そんなに怒るなよ。あんたのご主人様とは気が合うってことなのさ。そして、持ち金がねえのは本当さ。貧乏暇なしさ」
「それなら、初めから、そう言えよ」
「ああ、分かったよ」
明石掃部が大男に向かって口を開いた。
「ところで、あなたは備前のお生まれですね」
「やはり、訛りで分かったか。あんたと、そこのよく怒るお人も備前生まれだろ」
「はい、私は以前、宇喜多家に仕えていた明石掃部頭と申します。この者は、家臣の犬山左衛門、そして、ここにおられる若いお方は猿田彦兵衛と言われ、近江佐和山から来られました」
「ん? 明石掃部と言えば、宇喜多家の仕置家老だったんじゃねーか。関ヶ原の戦いで、徳川方を恐れさせたという」
「それは買いかぶりですが、同じ備前の者です。あなたの名は何と言われますか」
「俺は、雉丸利兵衛(きじまる りへえ)と言うんだ。商人の次男坊さ。備前の福岡の商人だったのよ。今、備前を治めている池田家の御用商人なんだが、父親が亡くなって、跡を継いだ兄の商いの手伝いをしていたのよ。その兄の頭が固くて固くて、俺が新しい商いをしようと意見を言っても、全く聞いてくれなくてさ。幼いころから仲は悪かったんだが、ついには大喧嘩して、家を出ていってしまったのさ。今は伝手を頼って、京の今村って商人の手伝いをしている。住んでいるところは西陣さ。しかし、給金が少なくてよ。時々、盗みを働いて、飢えをしのいでいるのさ」
「あなたもご苦労なされたのですね」
「何、大したことねーよ。一日一日を楽しんで生きているのさ」
左衛門が話に割り込んだ。
「相当な呑気者だな」
「うるせー」
「おっと、やるか」
「いやいや、おれは商人の出なので、武術の心得は、全くねえんだ。喧嘩はごめんだぜ。すぐに、やられちまうからよ」
「何だ、そりゃ」
掃部が止める。
「左衛門、いい加減にしなさい。武士たる者、キリスト教信者という者が何という振る舞いですか」
「分かりましたよ。どうせ、静かにしておけばよいのでしょう」
「それで宜しい」
第十章 伊賀守討伐
それから、明石掃部、犬山左衛門、猿田彦兵衛、雉丸利兵衛の四人は、毎日のように備前屋で黍団子を食べながら、話をしていた。
左衛門は相変わらず、彦兵衛によく絡んでくる。今日は、肩を組んできた。
「お前はいつも顔が赤くて、名前そのもので、まるで猿だな。あはは」
「な、何だと。お前は、いつも同じことを言うではないか。知恵の足りない薄ら馬鹿めが」
「何を! こちらはお前の知らない戦の場で、何度も命の遣り取りをしているんだ。悔しいのなら、戦場に立ってみろよ、若造めが」
今度は、彦兵衛も負けてはいなかった。
「黙れ。孫子も知らずして、何の戦か。無駄に兵を失うだけの猪武者め。戦わずして勝つのが上策だ。お前の話では、下策しかないではないか」
利兵衛が間に入る。
「まあまあ、お互い揉めるなよ。掃部様の前だぜ」
「そうだ。利兵衛の言う通りだ。左衛門よ。お主が年長なのだから、優しくして上げなさい」
「むう」
初めは、このような喧嘩や、とりとめもない雑談であったが、段々深い話をするようになった。板倉伊賀守が京都所司代になってから、京の雰囲気が暗くなったという話である。板倉はキリスト教信者弾圧だけでなく、朝廷との交渉役、実は監視役、庶民の世間話や諷刺なども厳しく取り締まるようになった。
そして、そのような深い話になってからは、備前屋で話すと周りの目が気になるので、曾野教会で話をするようになった。
掃部は先ず、ソノラ教会を見せた。既に掃除はしている。いつでもソノラ教会に戻ってきてもいいように、備えをしているのである。二人は、その大きさ、広さ、荘厳さに驚いていた。初めてキリスト教会を訪れたのである。
「いやーぶったまげたわ。一向衆のお寺にも大きなものはあるが、それとは違った感じが何とも言えん」
「さ、さすがに織田信長様と結びついていた一大勢力のイエズス会の京の大教会だけは、ありますね。」
左衛門は自慢げである。
「な、そうだろ、そうだろ」
掃部は、次は曾野屋敷に連れて行った。利兵衛が呟いた。
「あらら、これは、さっきの教会に比べると、こじんまりとしているな」
左衛門は苦虫を潰したような顔でいる。彦兵衛が言った。
「教えというものは、その場所が大きい、小さいとか、荘厳であるかないかとかは、関係ありませんよ。自らが、如何に教えを学ぶかということでしょう」
掃部が肯いた。
「三郎殿の言う通りだ。教えを信仰するのに場所は関係ないのです」
左衛門は、今度は、大きな態度だ。
「掃部様のおっしゃる通りですね」
「さあ、ここで京の今の憂うべきことを存分に話しましょう」
「はい」
「板倉伊賀守のやることなすこと、腹が立つぜ。商人の売り買いの遣り取りにまで、文句をつけてきやがる。商売あがったりだぜ。これから、一体どうしろと言うんだ」
「そうだろ、奴は、我らキリスト教信者の敵でもあるぞ。拷問、踏み絵や磔など惨い仕打ちをしている。多くの同胞が、今も苦しんでいる。生きづらい世の中になってしまったぞ」
「他宗とは言え、キリスト教信者への厳しさは、孔子の説くことにも反しておりますね。また京都所司代は、帝のおわします朝廷への圧力をかけ、帝を苦しめるという、とんでもないことをしております。人倫の道に外れております。決して許せません」
「皆の言う通りです。板倉伊賀守、そして、もうすぐ京に上って来る大久保相模守のことは、早く何とかしないといけないと考えています。行く着く先は、江戸の将軍秀忠と駿府の家康だ。奴らも何とかしないといけない」
それを聞くと、利兵衛が驚いた。利兵衛は、今や、すっかり掃部のことを尊敬している。
「えっ、掃部さんは、そんな大きなことまで考えていらっしゃったんですかい」
「キリスト教信者は、何も悪いことはしておりませぬ。ただ、神に祈って清貧な生活をしているだけですです。お上が言う、幕府転覆などは、露ほども考えてはいない。そのキリスト教信者を拷問などで苦しめ、踏み絵を踏ませ、改宗を迫ろうとしている徳川幕府を私は決して許せない」
左衛門も続く。
「そうですとも、掃部様。私もついていきますぞ」
彦兵衛が口を開く。
「尊敬する石田治部少輔様、そして父上の仇である徳川を私も許せません。奴らを討ちとうございます」
利兵衛も語る。
「難しい話はよく分からないが、人生一度切りだ。虫が好かねえ伊賀守たちを退治するっていうのは、面白そうだから、俺も続きますよ」
「よし、それでは先ず、板倉伊賀守、大久保相模守を討つことを考えましょう」
皆が叫んだ。
「おう!」
叫んではみたものの、京都所司代の備えは厳重であった。左衛門に命じて、何度も所司代の役所を見てみたが、いつも屈強な見張りが何人もいる。板倉伊賀守の書院や屋敷に行くには難しい。掃部は悩んだ。一体どうすればよいのか。
ある日、利兵衛が顔を赤くして帰ってきた。顔は笑っているが、足がふらついている。どうやら酒を飲み過ぎたらしい。左衛門が顔をしかめた。
「お前、かなり酒臭いぞ。酒に弱いのに、また飲んだのか。それとも、飲み過ぎたのか。あっ、顔にあざが。また喧嘩してきたな。利兵衛は、しょっちゅう喧嘩してくるよな。弱いのに無理するなよな」
「いはくはをうつう」
「板倉を討つ? 当たり前だろ。まさか、酒場で、そのことを言っては、いないだろうな」
左衛門は、急いで教会の外に出て、周りを見渡す。誰もいないようだ。一安心して、左衛門は教会の中に入っていった。
掃部が口を開いた。
「利兵衛殿も、伊賀守、相模守を退治することに道が開けていないから、焦って、つい飲み過ぎてしまったのでしょうね。私のせいです」
「掃部様、そんなことはありませんよ。敵はなかなか厳重に構えておりますから。まあ、普段冷静な利兵衛が、酒を飲んでこの有様ですからね」
「しかし、利兵衛も、これから、どうするか目途がつかないから困っているのでしょうね」
左衛門はため息をついた。
「そうですな」
そして、掃部は、慶長一八年(一六一三)の十二月に、江戸幕府老中の大久保相模守が上洛してきたことを知った。いよいよキリスト教信者の弾圧が本格的になる。掃部は危機感を抱いた。
そんなある日、猿田彦兵衛が掃部の元を訪れた。
「掃部様、私に一計があるのですが」
「彦兵衛殿が、ついに策を思いつかれたのですか。お話を聞きましょう。何ですか、その策とは」
彦兵衛は、掃部に、その策を話した。掃部は、ゆっくりと、彦兵衛の話を聞いて肯いた。
「そうですね。それしかない。それで行きましょう」
翌日、犬山左衛門、猿田彦兵衛、雉丸利兵衛たちが、曾野教会に集められた。
「昨日、彦兵衛殿から、板倉伊賀守、大久保相模守の討伐についての策を授けてもらいました。私は、これで行こうと思っています。皆の存念や如何に」
左衛門が笑った。
「彦兵衛の策などは、碌なものではないでしょう。彦兵衛よ、兵法に詳しいからと言って、調子に乗るんじゃないぞ」
「何をこの猪武者めが。この策を持ってして、奴らを倒すことが出来るのだ」
「うるさーい。この若造が」
利兵衛が、うんざりした顔で言った。
「左衛門、彦兵衛、まず諍い(いさかい)を止めようぜ。先ず、彦兵衛の策を聞いてから、物を言おうぜ」
「そうだ。利兵衛の言う通りだ。左衛門と彦兵衛は、よく喧嘩をする。主の前で改めなさい」
「はい」
左衛門は、イエス・キリストの像の前で謝った。彦兵衛は、日蓮宗の門徒なので、それは出来ないので、掃部に謝った。
「それでいい。と言っても、また喧嘩するでないぞ」
「はい、分かっておりますよ」
そう言って、掃部は、彦兵衛の策を皆に話した。皆、驚いていた。
「掃部様、そのような策で、うまく行きますでしょうか。拙者は気にかかります。相手次第ですぞ」
「うん、俺も心配だ。敵がそれに誘われなければいけねえ。そこが問題だぜ」
「私は、この案で必ずうまくいくと思います。この策しかない」
しばらく沈黙が続いた。そして、左衛門が口を開いた。
「そうですな。私は、掃部様が、そのようにおっしゃるなら、従いますがね」
「そうだな。俺も」
「彦兵衛、頼むぞ」
彦兵衛は面映ゆさで一杯であった。
「はい、掃部様」
京都所司代の役人の平田右京(ひらた うきよう)は、書院で、かなり疲れていた。髪型は、月代にしていて、髪の毛が、かなり薄くなっている。眉は薄く下に下がっている。鼻は低く、肌がだいぶ荒れていた。右京は、所司代で、吉利支丹の動きを監視する役目を受けている。伊賀守が普段から仕事で、右京へ、かなりの圧力をかけてくる。吉利支丹の動きはどうなっているのかと頻繁に右京に尋ね、何も進んでいないと、右京を叱責するのだ。
右京の手柄は、伊賀守の手柄にされて、伊賀守の失態は、右京の失態とされていたのである。このような上役と五年以上も、ともに仕事をしているのである。精神的に参っていた右京は、毎日四条河原町の酒屋に向かう。そんな右京を京都所司代の役所より、後ろから、ゆっくりとつけてくる者がいた。犬山左衛門である。
右京は、酒屋の里屋で酒を何度も飲み、憂さを晴らしていた。里屋は、地方の高値の銘酒が置いてあることで有名である。酒をたらふく飲んで酔い、厠に行って戻ろうとして、自分が飲んでいた畳に上がろうとしていた右京に、左衛門が近づいてきて、わざと右京の右足にぶつかった。
「こ、これはお役人様。失態をしてしまい、誠に申し訳ございませぬ」
「ういっ、何だと。いきなりぶつかってきおって。足が痛いではないか。わしは京都所司代の役人様であるぞ。庶民の振るまいを気をつけて見なければならぬ。決して許さんぞ」
「こ、これでお許し下さい」
左衛門は、五両もの小判を差し出した。それまで威圧的であった右京が、急に頬を緩めた。
「おお、そんなにしてもらったなら、わしが困るではないか」
「いえ、ほんの気持ちでございます」
「ういっ、それならば、許して進ぜよう」
「あ、ありがとうございまする」
左衛門は、その日は、それで引き下がった。次の日も、右京は里屋で大いに飲んでいた。
「お役人様、とても荒れていらっしゃるようですな」
「ういっ。な、何だ。お前は、昨日、ぶつかってきた奴ではないか。お前は一体何者だ。いきなり話しかけてきおって。馴れ馴れしい。怪しいやつめ。迂闊なことは話さぬぞ」
(やはり、このような愚物でも、酔っていても二度目では話さぬか。これは何日も通わぬといかんぞ。拙者は、いつもは酒は飲まんのに、掃部様も無理を言いなさる。利兵衛では酒を飲むとすぐ潰れるし、彦兵衛は酒を飲んだことがないから、拙者が選らばれてしまった。あっ、策を立てた彦兵衛が悪いのだ。あの若造め)
左衛門は、右京が所司代屋敷から出てくるのを毎日見張り続けていた。右京は、相変わらず、里屋に行き、毎日酒をたくさん飲む。都を取り締まる京都所司代の役人なので、俸禄は高い。従って、酒は美味な地方の銘酒を飲む。酒には、あまり強くはないようだが、とにかく飲む。飲まないと、やっていられないのであろう。
「お役人様、今日も、かなり荒れておりますな」
「う、ん? いつもの奴だな。よく来ておるな。そんなにお前は暇人なのか」
左衛門が心の中で、つぶやいた。
(毎日、ここに来るお前も、人のことを言えんだろう)
「いいえ、拙者も酒がそれはそれは大好きで、ここに通っております」
そのうちに右京は、左衛門と打ち解けて話すようになってきた。左衛門の上手な話し方に魅入られてしまったようだ。右京は左衛門の冗談に、よく笑うようになった。
「その下品な婆さんが、頭に、鶯(うぐいす)の糞が落ちているのに気づかず、真面目な顔をして拙者たちに説教しており」
「うわははは。それは面白い。その婆さんは阿呆だな。ういっ、そなたは、面白いやつだのう」
「え、そうでございますか」
「ういっ、ところでお主は、どのような仕事をしておるのじゃ」
「はっ、拙者は、備前池田家の京屋敷の帳簿作成の仕事をしております」
「それは大変な仕事なのかあ」
「それはそれは大変で、上役と下の者との間で板挟みになっており、とても困り果てております。それで苦しくて、どうしようもなくなり、里屋に来て憂さを晴らすようになりました」
「それは気の毒にのお。お主の気持ちは、よーく分かるぞ。わしも大変なのじゃ」
「平田様も、そうなのでございますか」
「上役がとても人とは思えぬ、たちの悪い奴でのう。思いやりというのが全くない奴なのじゃ。わしの手柄をてめえの手柄にして、てめえの失態をわしの失態にしやがる。おかげで鬱屈が毎日溜まっておるわ。もうやっておられんわ」
「そのお気持ち、とてもよく分かりますぞ」
「そうだろ、な、そうだろ」
このようにして、左衛門と右京は意気投合した。そして十二月十九日に、左衛門は、里屋に来たばかりで、まだ酒を一杯も飲んでおらず、酔っていない右京に囁いた。
「あのー、何でも、京の吉利支丹たちが、明日の夜に御所を襲うという噂があるそうですよ」
「な、何じゃと。どこから、そのような話を聞いたのじゃ」
「なーに、茶屋で聞いた噂話ですよ。本気にせずとも宜しいのでは、ございませぬか」
「い、いや。気になるぞ。吉利支丹は、何をしでかすか分からん連中だ。この日の本を乗っ取ろうとしている輩じゃ。疑わしきことは、全て取り締まらなければならぬ。江戸の上様からも、吉利支丹は厳しく詮議せよとのお達しである。吉利支丹への備えをしっかりとしていないと、わしが上役から厳しく怒られるのじゃ」
「そういうもんですかねえ」
慌てて、右京は言った。
「わ、わしは今日は酒は飲まぬ。それどころではない! や、役所に戻る」
右京は急いで、京都所司代屋敷に向かった。左衛門は、里屋で、焼き茄子を頬張りながら、にやついていた。
(先ずは、一つ目の餌に食いついたか)
「い、伊賀守様!」
「何ごとだ、右京。何故このように夜遅くに来るのじゃ。わしの寝所まで押しかけるとは無粋であるぞ。また、怒られたいのか」
「そ、それが急いで、お知らせ致さねばならないことがあるのです」
「何じゃと」
「吉利支丹が、明日の夜に、御所を襲うという話が上がっているのです」
急に伊賀守の目が釣り上がった。
「な、何だと? その話は、どこで聞いたのじゃ」
「里屋という酒屋で、知り合いの者からでございます」
「何だ。酒屋でか。知り合いの噂程度では、信じられぬぞ。それに所司代屋敷や町奉行所を襲うならともかく、吉利支丹にとって、全く怨みのないはずの御所を遅うとは、合点がいかぬ。怪しいぞ」
「し、しかし、吉利支丹は何をしでかすか、分かりませぬぞ。普段から守りが厳しい所司代に手を出せぬから、御所を襲うということを考えているやもしれませぬぞ」
「うむ、まあ、何か起こってからでは遅いからな。上様に処罰されてしまうぞ。明日の夜に御所に、護衛を増やしておくか」
「は、はい」
伊賀守が陣頭指揮をして、二十日に、帝のおわす御所の周りを厳しく取り締まったが、何も起こらなかった。
「右京よ、やはり、そちの勘違いではなかったのか。所詮、酒屋での噂話ではのう」
「えっ、な、何故でしょうかね」
「しかし、警護はまだ続けておくわ。念のためじゃ」
翌日に、何ごとも起きなかった。伊賀守、右京たちは気が緩んできた。伊賀守は、指揮を他の者に任せて、寝所で寝ていた。御所の警護に三十人ほど、人数が所司代から移った。所司代にいる役人の数が減ったのである。
十二月二十二日の丑の刻、京都所司代役所の、塀が右に折れ曲がったところで、突如火の手が上がった。火は盛んに燃えさかる一方であった。人の背丈を越えるくらいまで、燃えさかっている。それまで寝所で寝ていた板倉伊賀守は、家臣内藤吉右衛門の知らせを受けて、すぐに起き、家臣たちに命令を出した。
「おのれ。吉利支丹どもめ。やはり御所ではなく、こちらに仕掛けてきおったか。者ども、すぐに火の手を消せ。そして見張りを増やせ。決して、油断するな」
「はっ」
家臣の一人が叫んだ。
「伊賀守様、塀の火は消えることなく、ますます燃えております。燃えている塀に、人を増やして下さいませ」
「うむ、分かった。吉右衛門よ。火の手のところへ、十人ほど人を回せ」
「はっ、分かり申した」
火を点けたのは、猿田彦兵衛だったのである。塀のところで、当時貴重で、南蛮から取り寄せた油を含ませた。油は、ソノラ教会の蔵にあったのだ。紙に火を点けて、急いで、その場を立ち去った。火が出た場所に向かう者、書院を守る者、伊賀守を守る者などが走り回り、役所が騒がしくなる中、役所の塀を次々と飛び越えていく男がいた。雉丸利兵衛である。利兵衛は、書院の側で、中国の明から取り入れた爆竹を鳴らした。これも、同じくソノラ教会の蔵にあった物である。
「な、なんだ。この音は」
「て、敵の襲来じゃ」
所司代の家臣たちは驚いている。そして爆竹の音がする方へ向かって行く。そして、門をくぐり抜け、所司代屋敷に忍び込んだ掃部たちは、ほうり火矢を使って煙幕を巻き、見えないところを、次々に掃部は短槍で、左衛門は刀で敵を討っていった。役人の一人が叫ぶ。
「う、うわ、煙で何も見えぬ。敵がやって来たのじゃ。きっと吉利支丹たちじゃ」
彦兵衛が近江佐和山の出身で、隣の甲賀に親戚がおり、昔、その親戚から作り方を習っていたため、ほうり火矢のこしらえ方を知っていたのである。
明石掃部と犬山左衛門の二人は、ほうり火矢の煙の中、伊賀守の屋敷前の門を急いで走り抜け、伊賀守の寝所に迫った。八人の家臣たちが、寝所の周囲を守っていた。
「おのれ、何やつ!」
「名乗る程の者ではない」
「天下の伊賀守様にご挨拶に伺いました」
掃部と左衛門は、八人の敵に討ちかかった。掃部は短槍、左衛門は刀で戦う。八人は、京都の治安を守る所司代の役人とあって、武術に優れていた。左衛門に、四人がかかってきた。左衛門は、次々に振り降ろされる刀を自分の刀で止めていき、跳ね返していった。その動きが続く。一人の役人に隙が見えた。左衛門は、相手の右腹を斬った。そして、役人は倒れた。残りの一人が叫んだ。
「お、おのれ。皆、同時に攻めるのじゃ」
「おう」
左衛門に、三人が一斉に刀を振り下ろした。左衛門は己の刀でそれを受け止めたが、三人の力が、かなり強くて、押されそうであった。
「ぐ、ぐう。流石の拙者でも、力が強すぎるわ」
左衛門は、思わず、足下にある石を蹴った。石は一人の役人の左目に当たった。
「い、痛いぞ」
左衛門は、その時に、相手の首筋を斬った。そして首を奥まで刺し込んでいく。その者の首が飛んでいった。そして、地面に落ちた。その時に怯んだ残る二人の隙を見つけ、刀で突き刺し、倒した。左衛門は、汗だらけで、息も絶え絶えである。
その間、掃部は、短槍ですぐに一人の胸を刺した。倒れた役人を飛び越え、残る三人に向かった。三人は同時に攻めかかった。掃部は、刀を短槍の柄で止めた。やはり三人合わせての力は凄まじかった。掃部と三人の短槍と刀の交差は、しばらく続いた。
(むう、これ程まで、力が強いとは。埒があかぬ)
掃部は再び飛んだ。見上げる三人がいた。掃部は上から、そのうちの一人の首に向かって、短槍を突き刺した。相手は,唸りながら、倒れていった。
掃部は、残りの二人と短槍を振り回しながら、突き合っていた。なかなか相手も、右や左に逸れて、当たらなかった。その状態が続いていく。そして、掃部は、一人の刀を剃らし、心の蔵を突き刺した。 残るは一人となった。お互いに、間合いを取りながら、相手を見つめている。役人が刀を振り回した。掃部はそれを短槍で打ち払った。刀は上に飛んでいった。隙ありと、掃部は思った。しかし、相手は、すぐ近くに置いてあった、既に倒れた同僚の刀を急いで手に取った。そして、また睨み合いが続いた。二人とも動けない。すると、役人の腹の上から、刀が出てきた。
「う、うぐっ。な、何じゃ、これは」
役人は後ろを振り返った。そこには、既に、四人を倒した左衛門が、疲れながらも、相手の背中に周り、そこから刀を突き刺したのである。役人は前のめりになって倒れた。
「お、おのれ、不意をつきおって。うぐっ」
「左衛門、済まぬ。助かったぞ」
「いいえ、どう致しまして。しかし、流石は、天下の京都所司代の役人たちですな。なかなか倒せませんでした。奴らを倒すのに、力を使い果たしましたな。拙者は、立っているだけで、精一杯でございます」
「私もだ。これから果たして、板倉伊賀守を討ち倒すことが出来るのか、心配になってきたぞ。相手の力量が分からぬ」
掃部も左衛門も、激しく息を吐いている。そして、伊賀守の書院の前に内藤吉右衛門がいた。
(げっ、腕の立ちそうなのが二人も来たぞ)
吉右衛門は慌てふためいた。咄嗟に、書院から木箱を持ってきた。
「ど、どこのどなたか存じませぬが、こ、この通り、金、銀を数多差し上げます。い、命だけはお助け下さい」
「そんなものは要らぬわ」
「えー、要らぬとおっしゃるので。それでは困るのですが」
「困るも何も、板倉伊賀守を渡せ。あの者だけは、決して許してはおけん!」
吉右衛門は慌てて、右の室を指さした。
「あ、あちらの職務を行っている室に伊賀守は、おります」
「そうか」
「それでは、わ、私は関係ございまぬので、これにて、おさらばでございます」
そう言って、吉右衛門は、所司代屋敷の門から急いで出て行った。
「あの様で、天下の京都所司代の役人なのですね」
掃部はため息をついた。
「私も情けなく思う。それどころか、逆に悲しくなる」
そして、伊賀守の室の襖を開けた。戸が開いて、激しい音がする。伊賀守が刀を握って、掃部たちを睨む。掃部は思っていた。
(もし、この者が武術の達人だとしたら、やっかいだぞ。何と言っても天下の京都所司代である。板倉伊賀守は相当な切れ者と聞く。武術もかなりの者に違いない。私と左衛門は、かなり疲れており、あまり戦えないのだ。彦兵衛と利兵衛を呼んでも、二人とも武術の経験は、あまりないからな。相当まずいぞ)
「おのれ、何者だ」
「我らは、宇喜多備前宰相秀家様の家臣、明石掃部頭全登と犬山左衛門利家だ」
「な、何、吉利支丹の明石掃部は黒田家を去った後、京にいたのか。わしの足下にいたのか。吉利支丹を捕縛しているのに、その首魁である掃部が京にいたとは。それに気づかずにいたとは失態であった。わしとしたことが」
「伊賀守、そなたは、数多のキリスト教信者を拷問にかけ、死なせ、踏み絵を踏ませて、苦しませたのである。その所行は残虐であり、決して許せん。キリスト教信者は、何も悪事を働いておらぬのに」
「何を世迷い言を言うか。多くの吉利支丹に教えを授けている宣教師、また、その後ろにいるイスパニア、ポルトガルが、吉利支丹たちを篭絡して、日の本を奴らの領土にしようとしているのが、恐ろしいのよ。お前らは、そのようなことにも気づかぬのか」
「そのようなことは決してない。キリスト教信者も宣教師の方々も、日々の安寧を願って祈っているだけだ」
「ふん、お前たち甘いな。吉利支丹は、拷問にかけても磔にしても、目が覚めぬ愚か者たちだわい」
「話が通じないようだな。ここでお前を成敗する!」
急に伊賀守の顔が青ざめてきた。
「皆の者! こちらに来い! 下手人は私の室に来たぞ。急いで集まれ!」
しかし、誰一人として来ない。煙が渦巻き、喚き声が聞こえている。所司代役所は、混乱状態である。
「室の前の守りの八人は、我らが討ち取った。一人は、金を差し出して逃げていったぞ。他の者は、火や爆竹の騒動で、駆けずり回っているのであろう。また、そなたが御所に人を大勢回しているからな。こちらに役人が少なくなってしまった」
「や、やはり御所を襲うと言う噂話は、お前たちが仕組んだのか。しまった。御所に人をやり過ぎた。早く奴らを戻さねば」
「それでは覚悟致せ!」
伊賀守の口調が、急に丁寧になった。
「ち、ちょっと待って下され。それでは、あまりにも卑怯ではございますまいか」
「卑怯?」
「わしは、天正の世の武田軍との高天神城の戦いで、弟が討ち死にしたので。家督を継いだのですよ。それまでは、一向衆の僧侶をしておったのです。だから、経典、古典には詳しくても,武術には、とんと疎いのでございます。それなのに、一方的に討ち果たすのですか? こんなか弱き者に対して。お、お前さまたちは、卑怯者ですよ。しかも二対一でございますぞ。」
「何が、か弱き者だ。何を今更言っておるのだ。お前は、キリスト教信者や、か弱き民たちを、そしてあろうことに帝まで、一方的に痛めつけてきた。そのような輩にかける情けなどはない」
「それは、大御所様のご命令に従っただけですよ。ご命令に従わないと、私が大御所さまや上様に処罰されるでしょう。明石様も宇喜多家にお仕えなされた身でしょう。宮仕えの大変さは、十分にお分かりになられているでしょう。ね、ね、ね、そこを何とかね」
「くどいぞ、伊賀守。秀家様は真っ直ぐなご気性で、卑怯な振る舞いは一切なされなかった。そなたは、天下の江戸幕府の京都所司代ともあろう者であるのに、何を言っておるのだ」
「そんなの関係ないもんねえ。ね、親分、この通りですよ。お情けを下さいよ」
「掃部様、伊賀守に情けをかける訳ではありませぬが、何だか、このような小心者を討ち取るのが、拙者は阿呆らしくなりました」
「左衛門」
「ね、ね、そちらの方の言う通りでしょ。そこを許してくださいね」
「私も、馬鹿らしくなった。槍の柄で突いて気絶させて帰るか」
「えー、それも、ひどーい。痛いよ、痛い」
「何たるやつ」
「掃部様、このような卑怯者は放っておきましょう」
「ああ、掃部様、左衛門様、ありがとうございまする」
「左衛門、帰るぞ」
「ははっ」
掃部と左衛門が振り返って、室から出ようとした時、暗い闇の中で、光が煌めいた。刀を振り下ろしているのであった。掃部は、咄嗟に短槍の槍先を真っ直ぐに伸ばした。刀を持っている者の心の蔵を一突きした。相手は、伊賀守であった。伊賀守は唸った。
「あ、ああ。おのれ」
掃部は吐き捨てた。
「どこまでも卑怯なやつ」
「こ、このわしが、一介の浪人如きに負けるとは」
そして、板倉伊賀守勝重は、畳の上に倒れた。そして掃部は、伊賀守の首を取った。掃部と左衛門は室を出て、所司代の中を走り回っている役人たちに向かって叫んだ。そして、伊賀守の首を高く掲げて、皆に見せた。
「おい、この通り、お前たちの上役、板倉伊賀守の首は討ち取ったぞ。キリスト教信者を痛めつけると、どうなるか、よくよく思い知れ。それでも、まだ我らに刃向かい続けるか」
「うわあ、い、伊賀守様が、あのようなお姿に」
「な、なんということじゃ」
役人たちは、驚き、慌てて掃部たちの周りから、急いで離れていった。その中に平田右京がいた。
「お、お主、里屋で毎日のように出会っていた、備前池田家の者ではないか!」
左衛門は笑う。
「そうだ。拙者が、毎日のように、お前と酒を酌み交わした者だ。お主のおかげで、この度は、板倉伊賀守を討ち取ることが出来た。里屋で、いろいろと内情を教えてくれて、助かったぞ。お主も、憎っくき上役の伊賀守を討ってくれて、感謝の心で一杯であろう」
「お、おのれ。わしをたばかりおって。わしに噂話を持ち込ませて、,許さんぞ。わ、わしの居場所がなくなってしまうではないか。この日の本を逃げ回れと言うのか」
「まあ、それは気の毒ではあるがな。しかし、お主も悪いところがあるぞ。全てを、伊賀守のせいにするとは、情けなや。拙者は、そのようななことは知らぬ。ではな、さらばじゃ」
所司代の役人たちが、左右から右京を睨む。
「右京殿、これは一体どういうことか?」
「し、知らぬわ」
そのように言って、平田右京は、所司代役所の前から、走って逃げ出した。代わりに、報せを聞きつけたのか、御所を守っていた者たちの内、十三名が急いで走ってきた。その中の一人が、伊賀守の首を見て叫んだ。
「ああ、何たることじゃ。間に合わなかったか。許せん。伊賀守様の仇を討つ!」
最初からいた役人が言う。
「しかし、奴らは相当な腕の持ち主ですぞ。伊賀守様の書院を守っていた八人が倒されました。ご油断なきよう」
「うむ、分かった」
彦兵衛、利兵衛は、掃部たちの側に来た。そして、掃部を挟んで、三人で刀で守りながら、ゆっくりと所司代の役所を出た。隙がない。その隙の無さは、掃部が作り出しているのである。役人たちは全く手出しが出来なかった。
「お、おのれ」
「むう、隙がない」
翌日の朝、四条河原に首が晒されていた。板倉伊賀守の首である。帝のおん敵、キリスト教信者及び洛中の民の敵、板倉伊賀守を討ち取ったりと、横の高札には書いてあった。
民たちは、拍手喝采した。中にはキリスト教信者もいた。
「どえらいことをしはる人もおるんやなあ」
「ありがたいこっちゃ」
「おおきに、おおきに。これで京の町も、静かになると、ええんがなあ」
「どなたかは存じませんが、有り難うございまする」
第十一章 大久保相模守との出会いと別れ
板倉伊賀守が首を洛中に晒されたという報せは、大久保相模守にすぐに届いた。相模守は、この月に京に着き次第、京都所司代の隣の屋敷に仮住まいをしていたので、昨日、騒動が起きた時は、すぐに気付いていたのである。炎が高く上がっていたのも、よく分かっていた。しかし、助けに行くことなどは、一切しなかった。家臣にも、行かなくてよいと止めていた。板倉伊賀守は切れ者で、すぐに手を打ち、騒動を収めるであろうと思っていたのである。従って、すぐに寝付いた。
今日の朝、伊賀守の死を知らされて、相模守は愕然としている。
(一体、何者が、このような大それたことをしたのだ)
大久保相模守は、しばらく目を瞑り考えた。そして、目を見開き肯いた。
(吉利支丹か。なるほどな。次はわしの番ということじゃな)
家康が三河の一国の大名だった頃からの歴戦の強者、大久保相模守忠隣は、このようなことで気後れするような者ではない。むしろ、血が騒いできた。
(早くやってこい。吉利支丹の者どもよ。何人来ようとも、わしが、この朱槍で成敗してあげよう)
十二月二十四日の寅の刻、明石掃部、犬山左衛門、猿田彦兵衛、雉丸利兵衛の四人は、大久保相模守の屋敷の門の前に立った。
「頼もう!」
今度は、策は考えていなかった。策など弄しなくても、神のご加護で勝つことができると、掃部は固く信じていた。そして、伊賀守と違って、相模守は自分たちを待っていると考えていた。
門は意外にも、すんなり空いた。彦兵衛が驚いている。
「か、掃部様、これは罠ではないでしょうか」
「いや、板倉伊賀守と違って、大久保相模守は、そのような策を弄 する男ではないと思います」
左衛門が尋ねる。
「掃部様、そのように思うのは何故ですか?」
「訳は何もない。ただ、伊賀守と違い、相模守も私と同じ武人の血が流れているということだ」
「えー、またこれだよ。掃部様、いい加減にして下さいよ。敵が、イエス様を裏切ったユダのような輩とも限りませんぞ」
「左衛門、いいじゃねーか。面白そうだぜ」
「利兵衛は呑気でいいな」
「呑気じゃねーよ。掃部様のことをただ信じているだけさ」
「掃部様を信じることなら、備前保木城で、幼少の頃から仕えている拙者が一番だ」
「いや、俺だね」
「いいえ、私でございますよ」
「左衛門、利兵衛殿、彦兵衛殿よ、大事の前で揉めるでありませぬ。この度の戦いも、皆の団結が重きを為すのでありますぞ。私は皆を平等に信じております」
三人は、掃部から一喝されて、うなだれた。
「さあ、行きますぞ」
「はい!」
掃部たちは、門の中に入っていった。中には六人の大男の武士が、三人ずつ短槍を持って左右に並んでいた。十二月というのに、袖をまくっている。槍を地面につけて縦に持つ。その腕の筋肉は盛り上がっている。揃いも揃って、大月代の髪型で、髭はない。掃部たちを睨んだままである。
左衛門が思わず叫んだ。
「う、やはり、只ではすまぬか。掃部様、だから、拙者が、今度も策が必要だと言ったではありませぬか」
「いや、大丈夫だ。私を信じろ」
武士たちが並んでいる奥から、六尺一寸の大きな男が朱槍を持って、ゆっくりと出てきた。六人の武士たちが小さく見える。
「よくやって来たな、明石掃部殿。今宵必ず来ると思っていたぞ」
「それは、イエス様のお誕生日の前だからか」
「もちろん。そうだ」
「よく分かっておるな。キリスト教のことをお勉めのため、勉強なされたか。そなたが大久保相模守殿か」
「そうよ。吉利支丹のことは、かなり学んで京に上ってきた。そなたが吉利支丹の武将の明石掃部殿か」
「そうだ。わしが明石掃部だ。そのように堂々と出てこられるとは流石、徳川家譜代の名門大久保家のご当主だな」
相模守が笑った。
「わしは、伊賀守のような卑怯な者ではないのでな」
「そうすると思っておったぞ」
「なぜだ?」
「そなたが天下の三河武士そのものと聞いておったからだ。三河武士は、主君に忠実で、真っ直ぐな気性で武勇を大事にすると聞く。策を弄するなど決してしないと思ったのだ」
「三河武士か。久々に、その言葉を聞いたな。酒井左衛門督(さえもんのかみ)忠次殿、本多平八郎忠勝殿、榊原式部大輔康政殿、それがしの父大久保忠世などが、この世を去って以来、三河武士は少なくなってしまったからな。残っているのは、口の悪い叔父上の大久保彦左衛門忠教殿くらいだな。大御所様とともに、陰険な策を弄する本多佐渡守正信殿は、全く三河武士らしくもないがな」
「左様だな」
相模守は、周りの六人の武士に告げた。
「お主らは手出し無用だ。これはわしと明石掃部殿との一騎打ちだ。邪魔立てする者は、わしの朱槍の餌食とする」
「はっ」
左衛門は心配している。
(うーむ、このようなことになるとは、思ってもいなかったぞ。掃部様が勝てばよいのだが。相手の力がどれだけか分からぬから、何とも言えぬ。しかし、掃部様が勝ったとしても、残りの屈強な六人が厄介だな。疲労困憊の掃部様と拙者たちで、奴らを防ぐことが出来るかどうか。彦兵衛と利兵衛は、武術は、からっきし駄目だからな。何度も思うが、やはり策を立てるべきだったのだよ。掃部様ときたら、全く!)
すると、相模守は、左衛門の心を読み取ったかのように叫んだ。
「わしが討たれたとしても、皆の者よ、手出しは無用だぞ。そのまま掃部殿たちをお帰し致せ。しかし、この勝負、わしが必ず勝つ!」
「ははっ」
掃部と相模守は、屋敷の広庭で睨み合っていた。お互いに槍を構えたままである。静かで長い時間が経ったかのようであった。しかし、実際には、四半刻も経っていない。二人は相変わらず、距離を保ったまま、お互いの様子を見ている。
彦兵衛が思わず唾を飲み込んだ。
(このような策なしの戦い、一体どのようになるのであろうか)
そして、相模守が掃部を目がけて、槍を真っ直ぐに突いてきた。掃部は、短槍の穂先でそれを右に払う。
「やるな」
「そなたこそ」
掃部が今度は素速く突いてきた。相模守は、体を右にずらして、そらす。相模守が体を左下から右下に回転しながら、やって来た。そして朱槍を再び突く。掃部と相模守は、槍の柄と柄を交差させる。次は掃部が突く。相模守が体を後ろにずらし、槍が空を切る。それから、掃部と相模守は六十七合も打ち合った。お互いに顔に汗を流している。しかし、息は吐いていない。二人とも黙っている。掃部が短槍をまた、突いた。相模守の朱槍の穂先に当たった。火花が散る。二人とも力を入れているが、お互いの槍は全く動かない。そのまま、しばらく刻が経った。掃部は咄嗟に後ろへ引き下がった。そして思った。
(互角だ。埒があかない)
そして、掃部は相模守に語りかけた。
「相模守殿、異教ではあっても、イエス・キリスト様のお話をお聞き下され。イエス様は、真の神の愛をお説きになり、苦しんでいる人々の病いを癒やした。そして、強気者よりも、弱き者、 貧しき者を愛されたのである。愛とは、実に惜しみなく与え、惜しみなく捧げるものなのだ」
「愛? それは何だ。聞き慣れぬ言葉であるぞ」
「そうであるな。日の本には、まだ馴染みの薄い言葉だったな。キリスト教が日の本に伝わってから、入った言葉だからな。愛とは、人をとことん思いやることだ。キリスト教信者は、常に愛ということについて、よくよく考えておる」
「よくは分からぬが、銭もうけに走っている輩とは全く違うということだな。伊賀守などは、人を思いやる心は全く無かったな」
掃部は口を開く。
「そうだ。愛とは素晴らしきものなのだ。日の本で言えば、厩戸皇子や光明皇后のようなお方がなされたことだ」
「そうか。厩戸皇子様や光明皇后様のことなら分かる。わしも大いに敬まっておる」
掃部が相模守に問い詰める。
「そなたはキリスト教信者のことを、どう思っているのだ」
「イスパニア、ポルトガルに操られ、幕府転覆を企ている、とんでもない輩だとな」
「それは全く違うぞ。イスパニア、ポルトガルなどに操られてなどは、決してしていない。それに、幕府転覆など、露ほどにも考えていない。ただただ、静かに信仰を守って暮らしたいだけだ」
「何を言うか。そのようなことはないぞ。イスパニア、ポルトガルの宣教師が布教した後のマカオ、フィリピン、ゴアなどを見よ。これらの国は、今やイスパニアやポルトガルの領地になっているではないか。吉利支丹を利用した信長様はともかく、先の太閤殿下ですら、その危険を感じて、伴天連追放令を出された。だから、熱心にキリスト教を布教し、領内の寺社仏閣を破壊しておった高山右近殿などは、領地を召し上げられ、大名ではなくなり、加賀に居候の身となったのであろう」
掃部も負けてはいない。
「確かに、右近殿は、日の本に元々ある神仏の教えに対して、破壊行為をして、やりすぎた。しかし、イスパニアやポルトガルが、どのように考えていようとも、日の本に対しては、そのようなことは決して出来ない。日の本は鉄砲が多く、国友の鍛冶屋など国内で作ることが出来る場所がある。そのような国は南蛮の国々以外にはない。鉄砲の数は、イスパニアやポルトガルを超えると聞く。そして異国の武人と比べても、遙かに強い。鎌倉幕府の世に、広大な領国を治める蒙古軍が攻めてきた時に、日の本が二度も勝ったことを思い出せ。異国が手を出すことなど到底出来ないのだ」
「確かに、日の本は、先の太閤殿下の時代に唐の国にも攻め入ろうとしたほどの強国である。しかし、相手は異国だ。何を考えているか、分からぬではないか」
「よし、それならば、実際に見てみるがよい」
「な、何だと?」
「明日、東山の清水寺の裏手から二里もある曾野教会に、巳の刻に来てくれ。教会の中を私が案内する」
「掃部殿、吉利支丹を詮議しようとする敵のわしに、そのようなことを言って、宜しいのか」
「よい。相模守殿に来ていただければ、それだけでよい」
「うむ、分かった。一人で参るぞ」
相模守の家臣が思わず言った。
「相模守様、これは、きっと吉利支丹の罠ですぞ。決して、お信じになられますな」
「いや、大丈夫だ。明石掃部殿は、そのような卑怯なことはしない」
翌日の巳の刻、大久保相模守は、曾野教会の前に現れた。朝から、教会の中から見張っていた犬山左衛門が、思わずつぶやいた。
「ほ、本当に相模守は一人で来たぞ。愛用の朱槍を持ってきていない。大小の刀だけで来た。掃部様、相模守が一人で来ましたぞ」
明石掃部が左衛門に命じた。
「左衛門、扉を開けよ」
「はい」
猿田彦兵衛と雉丸利兵衛は驚いている。
「まさか、本当に一人で来るとは驚きです」
「あの野郎、本当に豪胆だな」
掃部は目を細めた。
「何、考えていた通りだ。誠との武士だ」
そして、ロレンソ神父に向かって口を開いた。
「ロレンソ様、神父様や信徒たちにご迷惑はお掛け致しません。そして、ここで、決して斬り合いになり、血を流すことなど致しませぬゆえ」
「ジョアン殿、私はあなたを信じております。心置きなく、大久保様にイエス様のお言葉をお伝えください」
「はい。皆も、普段通りに祈っていてくれ」
信徒たちは、戸惑っている。
「へ、へえ。分かりました」
相模守が教会の中に、ゆっくりと入ってきた。
「明石掃部殿、約束通り参ったぞ」
「おお、待っておったぞ、大久保相模守殿」
「教会と聞いておったから、大きなところだと思っておったが、こじんまりとしたものだな」
「東山に、ソノラ教会という、荘厳で巨大なところがあるのだが、最近のキリスト教信者の取り締まりによって、そちらで祈ることは難しくなり、今は、この小さな教会で、信者は祈っているのだ」
「そうじゃな。吉利支丹を厳しく取り締まらねばならぬからな。しかし、そのような大事を吉利支丹取り締まりの老中であるわしに言って宜しいのか」
「そなたなら話すことが出来る」
「ん? 何だと。分からぬな。しかし、寺や神社と違って、真に不思議なところだな。実に、魅惑的なところである。今、ここでは何が行われておるのじゃ」
「礼拝が行われている。神に祈っているのだ。特に今日は、イエス様のご誕生の日であるのでな」
「なるほど」
「礼拝をしている者たちを見るがよい。質素で真面目で、幕府転覆などを考えておるような者たちに見えるか」
「それは分からぬぞ。大御所様が若き頃に刃向かった、一向宗の者たちも、生活は質素であったからな」
「それでは、礼拝を見ているとよい」
相模守は、信徒の拝む姿を見ていた。必死に何かを祈る者、家族の無事安寧を祈る者、戦のない世を祈る者、兄の病が治るように祈る者など様々であった。相模守は、その姿を見ているうちに、心打たれるものがあった。
「この者どもは、本当に真摯に祈っているのじゃな。邪な考えで祈ってはいない」
「分かるか」
「分かるとも。これが愛というものか」
「そうだ」
「イエス様は、十字架に磔になり、そしてその上に、血を流された。 それは、この世の全ての人々の行った罪のために、代わって流された血であったのだ。」
「そうか」
「イエス様は、その後復活されたのである。この十字架とイエス様の復活を信ずることによって、永遠の救いが与えられるのだ」
「救いか」
「人というものは元来罪深き者だ。人がいくら、よいことをしたと思っても、人は自分の罪を贖うことは出来ない。 罪を贖うことが出来るお方はイエス様だけなのだ。これがキリスト教の信仰の柱なのである」
「なるほど、よく分かった。そして、この者どもは、真面目に神を信じているのじゃな」
「そうだ。信じておる。」
「わしは、今、誰にも信じられておらぬ」
「ん? 何だと」
「わしは、今まで忠義を尽くしてきた大御所様や上様に、信じられていないのだ。疑いの目で見られている。わしが謀反を企んでいるだと? そのようなことは決してない。関ヶ原の戦いの後、大御所様の跡継ぎを決める会議で、四男松平忠吉様を押す井伊直政殿、次男結城秀康様を押す本多正信殿に対して、わしは三男の秀忠様を押した。関ヶ原の戦いの時、秀忠様の軍が遅参されたにも関わらずにだ。あれは、わしが真田安房守を侮って、戦ってしまった戦じゃった。責めは、全てわしにある。しかし、わしは、大御所様の意志を受け継いで、戦のない太平の世を創るには、上様のような温和で人の声に耳を傾けられるお方こそが、跡継ぎに向いていると思ったのじゃ。つまり初代の家康様の打ち立てた幕府を危うき方向に向かわせない守成の人じゃ。それは間違っていなかった。上様は立派にご政務に励まれておられる。秀康様は、勇敢ではあるが、短慮なところがある。それに、一時期、豊臣家の養子であられたため、豊家への忠誠心がとても高い。そして関ヶ原の戦いの後、七年経って亡くなられた。忠吉様は、関ヶ原の戦いでは武功を大いに立てられたが、その後の七年後に、これまた亡くなられた。わしの目に、狂いはなかったのだ。しかし、わしは、大御所様と上様から、もう見捨てられた。今までのわしの人生は一体何だったのか! 何だったのか!」
「そうだったな。そなたの人生、苦難続きであったな」
「分かった。もう、帰るぞ」
「そうか」
大久保相模守は、またゆっくりと門を出て行った。ロレンソ神父が、掃部に語りかけた。
「ジョアン殿、お見事な話でした。異教の者の心を振るわせる、そのお言葉、私も感動致しましたぞ」
信者たちも言った。
「徳川の者を前にして、全く怯まず、イエス様のことを話された掃部様には驚かされました」
「いや。イエス様の平等と愛の言葉が、大久保相模守殿を動かしただけである」
左衛門も言った。
「掃部様、見直しましたよ」
「左衛門、その見直したというのは、何だ。何か意味を含んでおるのか」
「い、いいえ、ただ、感動致しましたというだけですよ」
「それならば、宜しい」
相模守は、自分の屋敷に戻った。急いで家臣たちが近寄ってきた。皆、息が荒い。目が見開いている。
「どうでしたか。吉利支丹どもからは、何も致されませんでしたか」
「何もされてはおらぬ。それどころか、あの者どもの信仰は、紛れもなく本物であったぞ。平等と愛か、実に素晴らしき言葉だ」
「えっ、何ですと。あの吉利支丹どもの申すことに、ご納得なされたのでございますか。それでは今後、吉利支丹の取り締まりは、如何なされるおつもりですか。遙々、我々は小田原から参ったのですぞ」
「待て。しばらく一人にさせてくれ。後で、そなたたちに申す」
「は、はっ、分かり申した」
相模守は、自室で考え込んだ。
(主命を守って、吉利支丹を弾圧すべきなのか、それとも人の道を守り、吉利支丹の教えを保護し、あの者どもを救ってやるのがよいのか。それは、幕府の老中として出来ぬことだ。老中自身が吉利支丹を保護するなど、やってはならぬことだ)
相模守は、息をゆっくりと一つ吐いた。
(己は、一体何のために生きてきたのか。期待していた嫡男忠常は若死にし、目をかけていた大久保長安は金山、銀山で採れるものの中から一部を自分の懐に入れ、悪事を働き、わしを失望させた。今まで忠義を尽くしてきた大御所様や上様には、疑いの目を向けられている。己は謀反など全く考えていないのじゃ。小人の讒言を、あの英明であられる、お二人ともあろうお方たちが、信じていらっしゃる)
こうやって、二刻は考えた。しかし、どちらの道を選ぶことも出来なかった。
その時、曾野教会の席で掃部も相模守のことを考えていた。
(相模守殿か。よき武人であった。あの者に会えて誠によかった)
そして、思わず声を上げた。
(はっ、あの男)
そして、左衛門、彦兵衛、利兵衛を呼んだ。
「おい、そなたたち、京都所司代に急いで参りますぞ」
左衛門が驚いて尋ねる。
「えっ、所司代にですか。先日、襲撃したところですぞ。大丈夫でございますか」
「いいから、早く来い」
三人は訳が分からなかった。しかし、掃部とともに、急いで相模守の屋敷に向かった。洛中を走って走りまくった。彦兵衛が倒れたが、また立ち上がり、膝にあざをつけて血を流しても、また走っていった。
(自分のあるじから信じられないとは、何と悲しいことじゃな。わしは、これまで一体)
大久保相模守忠隣は、そう思い、諸肌を脱ぎ、上半身を出した。胸板が浅黒くて厚い。二の腕の筋肉は盛り上がっている。腹は出ておらず、筋が走っていた。三方を前に置いて、一呼吸した。そして勢いよく刀を腹に当てた。血が腹から流れ出した。そして、左から刀を走らせ 腹を十文字にかっ切った。
「うぐっ」
掃部たちは、屋敷の門に辿り着いた。門を守っていた相模守の家臣が怒鳴った。
「おい、この前、乱入してきた者たちではないか。何故吉利支丹どもが抜け抜けと、ここに来るのだ。お主ら、一体何の用だ。すぐさま引っ捕らえるぞ」
左衛門が怒鳴った。
「それどころではないのだ。あんたらの主君が危ないんだ。早く助けねば」
「な、何じゃと」
家臣と掃部たちは急いで、相模守の屋敷に向かった。相模守が腹を切った後であった。掃部は叫んだ。
「遅かったか」
相模守は、掃部たちを見ると微笑んだ。
「掃部殿、さらばだ。済まぬが、このままでは苦しいので、介錯をしてくれ」
「うむ、分かった」
掃部は、室内に上がって、相模守の後ろに回り、刀を上に上げた。目をしばらくつむり、息を吸い込み、また目を開けた。そして相模守の首目がけて、一気に刀を斬り下げた。相模守の首が畳に落ちた。掃部は相模守の首を丁重に取り持ち洗い清め、屋敷にあった白布で包み、相模守の家臣に手渡した。家臣たちは黙って頷いている。
彦兵衛は愕然としている。
「す、すごい」
左衛門は瞑目している。
「まことの武士の最期であった」
利兵衛は驚いている。
「わしは商人だから、さ、侍の切腹は初めて見たが、こんなに凄まじいもんなのか」
明石掃部は、六人の相模守の家臣に言った。
「どうか、相模守殿を丁重に葬ってあげてくだされ」
六人の家臣は、深々と頭を下げた。
年が明けて、慶長十九年(一六一四)の一月十日、掃部は、京都所司代前に見張らせておいた左衛門から、衝撃的な話を聞いた。
「掃部様! 何と、板倉伊賀守も大久保相模守も、生きておりますぞ。次々とキリスト教信者を捕縛して、拷問にかけております。曾野教会に来ておる信者も、捕まっておりますぞ」
「な、何だと。そんなことはあり得ないはずだ。ん? それは、きっと影武者であろう」
「掃部様、私も、そのように思います」
「彦兵衛殿も、そう思われますか」
「はい」
左衛門には分からなかった。
「何故、幕府がわざわざ影武者を作る必要があるのですか.? 拙者には全く分かりませぬ」
「幕府にも面子があるのであろう。そして二人の死で、幕府に不満を持つ者たち、例えば、朝廷、元石田方の浪人、痛めつけられている民衆、キリスト教信者、豊臣方が勢いづくと考えたのであろう。そのことを防ぐためにも影武者を立てたのだ」
彦兵衛も答えた。
「そうに違いありません」
昨年末、江戸の将軍秀忠は、板倉伊賀守勝重と大久保相模守忠隣の死を京都所司代の急使から知って、驚愕とした。伊賀守は槍で突き殺され、相模守は切腹し、しかも介錯は、吉利支丹が行ったと言うのである。そして誰の仕業かということを考えたのである。しかし、吉利支丹で、このような大胆なことをする者が見当たらなかった。高山右近は前田家で静かに暮らしておるし、他には見当たらなかった。秀忠は、しばらく考えていた。そして、一人の人物に思い至った。明石掃部である。
(あの者なら、やりそうだ。しかし、大勢おった伊賀守と相模守の家臣まで討つとは、掃部なら部下が大勢いるのだろう。やはり掃部は危険だ。あの者を捕縛しなければならない)
秀忠は、京都所司代に、明石掃部の捜索と捕縛を厳しく命じた。
伊賀守は、主命に従っている時に吉利支丹に殺されたので、主命に殉じたということであり、手厚く葬ってやるべきだと考えた。
しかし、相模守は、吉利支丹弾圧のために上洛させたのにも関わらず、主命を果たすどころか勝手に切腹したと聞いた。これは、将軍の命に反することになる。元々、大久保長安の事件と言い、馬場八左衛門の謀反訴えと言い、大久保相模守のことを快く思っていなかった秀忠は、相模守に処罰を与えることにした。相模守の領地である相模小田原藩を改易することにしたのである。秀忠は、徳川の跡取り決めの時、大久保相模守だけが、自分を推挙してくれたことを忘れていた。それどころか、関ヶ原の戦いに遅参したのは、相模守のせいだと、根に持っていたのである。
ただ、当分は伊賀守と相模守の死を公にすることは、できなかった。二人の死を知ると、朝廷や吉利支丹たちが勢いづき、京都所司代板倉伊賀守から圧力をかけられていた豊臣家が、息を吹き返すと思ったからである。
しばらく、幕府は、二人の影武者を立てることになった。伊賀守の影武者は、そのまま京都所司代として、吉利支丹の弾圧や京の民の監視、西国への監視、畿内の統治、そして豊臣家への圧力を行わせていた。そして、相模守は一月十八日に改易となって、影武者は近江の大名の井伊直孝にお預けの身となったのである。秀忠は、相模守の改易は、元々行うつもりであった。謀反の噂のある相模守の処分は既に決めていたのである。相模守が、小田原を離れた隙であれば、主のいない小田原藩は簡単に改易が出来ると考え、その隙に行うつもりであったのである。
第十二章 大坂へ
掃部は曾野教会で、左衛門、彦兵衛、利兵衛を集めて言った。
「今回、京都所司代や老中を退治しても、何も変わらないことが分かった。ただ、影武者を立てられるだけである。何度、退治しても同じ事であろう。甚だ残念なことであるが。豊臣家がキリスト教信者の武士たちを集めていると聞く。豊臣と徳川の戦いが、もうすぐ行なわれるであろう。豊臣家がキリスト教信者に理解があるとは、とても思えない。ただ、徳川幕府に対抗するための武士が欲しいのであろう」
左衛門が口を開いた。
「私も、そう思います」
「それでもよいと思っている。豊臣家を逆に利用するまでのこと。そこでだ。私は豊臣家の大坂城へ入ろうと思う。秀頼様に拝謁をお願いするのだ。そこで、キリスト教信者の武士たちを率いて、家康、秀忠を討とうと考えている。奴らを討たねば、キリスト教信者の安寧は訪れない。家康、秀忠親子は、必ずや大坂城に攻めに来るに違いない。家康は、もう七十一歳である。いつ亡くなるかもしれない。自分が死んだら、豊臣家が、息を吹き返し、豊臣家恩顧の大名を味方にして反撃に出るかもしれないと恐れている。
豊臣家には、兵力は大したことはないが、財力はまだ豊富にある。豊臣の存在は家康にとっては脅威であろう。従って、一刻も早く、豊臣家を滅ぼしたいと考えていると思う。その前に、備前に帰農させている者たちや、筑前の黒田家に仕官している昔の我が家臣たちを呼び寄せたいと思う。そして我が家族も呼びたいと思う。そなたたちは、如何する」
左衛門が真っ先に言う。
「掃部様、もちろん、どこまでも着いていきますよ」
彦兵衛も口を開く。
「私も三成公と父上の仇である家康、秀忠を討ち取りたいと思います。母も連れて参ります」
利兵衛も言った。
「乗りかかった船だ。面白い人生を歩ませてもらいますぜ」
「よし皆、ありがとうございます」
「はい」
掃部は、江戸にいるレジイナに文を書いた。自分は豊臣家に合力する。大坂城に入るつもりだ。そなたたちが江戸にいては、明石掃部の一族ということで、難儀がかかるであろう。そなたたちにも、是非大坂城へ来て欲しいと。
しばらくして、レジイナから返事が届いた。レジイナが、掃部の母モニカ、次男パウロ内記、三男ヨゼフを大坂城に連れて来るとのことだ。
そして岡平内の妻である長女のカタリイナも来ると言う。何と、夫平内が、周りの反対を押し切って江戸を去り、大坂城へ向かったと言うのである。掃部は、平内までも巻き込んでしまったことを大いに悔やんだ。しかし、本人が決めたことを、とやかく言うことはできない。
彦兵衛も、おゆうが父左馬助の反対を押し切って、大坂城に入ると聞いた。
(また、おゆう殿と会うことが出来るなら、いいな)
明石掃部は、犬山左衛門、猿田彦兵衛、雉丸利兵衛を伴って、京を出た。山崎に着いたところで、大きな土を盛った。六尺はある盛り土である。そして盛り土の上に、杉の板を立てた。表には、このように書かれてある。誠の武士大久保相模守忠隣、ここに眠ると。京で相模守が切腹した時、六人の家臣たちに墓を作ってくれと頼んだが、あの幕府が、それをさせないであろうと思ったのだ。わざわざ影武者を設けた幕府が、とても、主命に逆らった相模守の墓を作ってくれるとは思わなかったからである。掃部はそのことを怒り悲しみ、自分と見事に戦い、分かり合えた大久保相模守の墓を作ったのである。
(相模守殿、さぞやご無念であったでしょう。私たちは、大坂城へ向かいます。どうぞ見守って下され)
彦兵衛も心の中でつぶやいた。
(おゆう殿、またお会いしましょうぞ)
そして、四人は大坂城へ向かった。
(完)
闘志桃児 県昭政 @kazkaz1868
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