第5話 怪物の聲


 天使の輪の中は、とてもひんやりとした空間だった。とてもじゃないが、西洋の絵画に登場する純粋無垢で穢れのない可愛い天使とは程遠い。怪物の頭頂部にある天使の輪は、ドス黒く、粘着質でドロドロとした重油に非常に似ていた。

 天使の輪というより、穢れの輪と言った方が正しいのかもしれない。温泉がじんわりと地中から湧き出すかのように、この黒い物体「穢れ」は頭頂部に浮かぶ輪から少しずつあふれ出ていた。


 「さてと、どう施術していこうか。」


 灘はそう言いつつ、穢れの輪の中心核に両手で触れる。瞳を閉じ、静かに深呼吸する。暴れまわると思っていたが、怪物は静かになる。激しく暴れまわっていたはずが、こうも静かになると、どうも不安が出てくる。


 灘はそのまま穢れの中心核に触れ、一気に力を込めていく。すると案外にも簡単に中心核は壊れ、モヤモヤとした綿あめ状の物体が現れた。


 「……初めまして、いや、今日は君と戦ったから初めましては違うか。」


 そう微笑みながら手の中にある【それ】と語らう。独り言のようだが、しっかりと【それ】は反応をかえしていた。光の加減や綿あめ状の部分を中心に寄せていき、広げる等をして意思疎通をしている。


 とても穏やかで静かな会話をしている一方で、怪物の体は空中で脱力し、母体の中にいる赤ん坊のような姿にゆっくりと変化していく。

 怪物化も収まり、徐々に初めて怪物と出会ったときの姿に戻っていく。一方で灘は【それ】を持って、ゆっくりと茅愛のいる地上へと降りてくる。


 「……灘さん。もしかしてこれが?」


 茅愛は綿あめ状のものに軽く触れながら、灘の表情を見る。灘はこれを見て、一度頷く。


 「この子の【】だよ。」


 綿あめ状の【心】は、茅愛の方を向いて少し照れくさそうに手を振る。こんなにも【心】が可愛いとは思わなかった。しかも【心】自身が本人と独立して感情表現をしている事にも驚いた。


 「やあ、こんにちは、、、ええっと【LIFE】 それが君の名前なのか?」


 茅愛が【心】と会話した瞬間、灘が教えていない事を瞬時に感じ取り、また上級者にしかできない芸当を茅愛は目の前でしたのだ。あまりの出来事に灘は驚愕した。


 「なんで、それを、、、!?」


 「え、だってこいつ普通に俺に伝えてきましたよ?灘さんも聞こえたでしょう?こいつの声」


 そう言いながら、ゆっくりと灘の方へ向き直る。驚いている表情を見て、茅愛はギョッとする。そして冷静になった頭で自身の今の状態を振り返る。自分の右目が弱視であるにも関わらず、また熱を帯びている事に気づく。

 もしかして【心】の本質を見ているからこそ、怪物本来の【心】の声が聞こえたのではないかと考えた。


 「ああ、聞こえるとも。しかし、それは私を含め同業者の中では稀有でね。ある程度の地位にある者にしかできないのだよ。でも君にはそれができた。慧眼の影響もあるとは思うが。」


 灘は手にいる【心】をやさしく撫でながら、怪物が丸くなっている状態をみる。よく見ると怪物の体の先端から少しずつ変色して来ているのが見えた。

 変色部分がほんの少しずつ、ゆっくりと確実に「石化」している事に気づく。怪物のタイムリミットが近づいてきていると予感した。


 「茅愛、説明は後だ。この子を本人に帰す。手伝ってくれるね?」


 「俺でよければ、手伝わせてください。」


 茅愛は頷き、灘の隣に立つ。そして【心】をやさしく撫でながら微笑む。その表情はまるで自分の弟・妹にする優しい兄の姿だった。

 茅愛の返答を聞いた後、灘は【心】を怪物が浮かぶ方向へ差し出す。親が自分の子を胸で抱きしめるかのように、丁寧に差し出していく。

 すると赤子のように丸まった怪物はその状態のままゆっくりと降下してくる。降下した怪物は花開くように顔をあげ、肥大化した手を前に突き出す。


 「ああ、そうだ。お前の無くした【心】を帰したいだけだよ。」


 怪物の顔に手を当て、やさしく撫でる。危険を感じたが、灘の様子から危険とは少し離れたところにある状態なのだと思う。

 すると灘は怪物の顔から手を放し、差し出してきた手に触れる。【心】が反応し、灘の手から離れていき、あっという間に怪物の手先に触れる。

 まるで「ただいま」と言っているかのようだった。この様子を目の前で見た茅愛は眼から涙が流れていた。


 「お前の【心】を元の場所に戻すために、私と茅愛でお前の心の中を見させてもらう。少し居心地が悪いかもしれないが、安心してさっきみたいに眠っていてくれ。」


 灘は今からする事を明確に伝え、誰がどこに行くのかを目を見て伝える。自分の安心する場所に土足で入れば必ず拒絶反応が返ってくる。だから、そうならないためにも彼女は怪物に今からする事を伝えたのだ。


 すると怪物の顔に動きが出た。先ほどまで一切表情も変えなければ、何かを伝えようとすらしていなかったのに、灘の言葉に呼応していく。

 前髪でほぼ見えなかった表情から瞳が少し見え、口はゆっくりと開いていく。ギザギザの歯が丸見えになり、一瞬食べられてしまうかと思った。しかし、ゆっくりと口角が上がっていき、素敵な笑顔になる。

 飛び切りの笑顔になると、また表情を変えて2人に何かを伝えようと藻掻き始める。


 「【jnsgtnjw;gvoh’hjhjmg[qabndjgjnghupabghwehzqqreasty】」


 砂嵐のようなものが入り、1回では聞き取れなかったが必死に伝えようとしてくれたおかげで怪物の聲がはっきり聞こえた。


 「こんな俺に名前を教えてくれてありがとう。【いちか】」


 名前を呼ぶとニコッと微笑み、再度ゆっくりと母体の中にいる赤子のような姿になっていく。安心したのか、【いちか】は寝息を立て始める。

 灘が先ほど見つけた怪物の石化現象も収まり安堵し、胸をなでおろした。


 「君のおかげで丁寧な施術ができそうだ。ありがとう。」


 そういって灘は怪物こと【いちか】を1度しっかりと見て静止する。深呼吸をした後、【いちかの心】を自分の肩に乗せて2回深々と礼をする。

そして肩から灘の手に移動させて【いちかの心】を胸よりも少し高い位置に持ち変える。

 ほんの少しだけ腰を折り、彼女は瞳を閉じて集中モードになる。そして彼女は神社でよく神主が神様・参拝された人たちに向けて奏上する祝詞を綺麗な声で唱え始めた。



  けまくもかしこ伊邪那岐大神いざなぎのおほかみ 筑紫つくし日向ひむかたちばな小戸おど阿波岐原あはぎはらに 御禊祓みそぎはらたまひしときせる 祓戸はらへど大神等おほかみたち 諸々もろもろ禍事罪穢まがごとつみけがれあらむをば はらたまきよたまへとまほすす事を聞食きこしめせと かしこかしこみもまほ



 すると、怪物の頭頂部にあった穢れの輪がゆっくりと浄化されていく。まるで吸血鬼が日の光にあたって灰になっていくように、重油のようなドス黒い穢れは浄化されていった。


 怪物の肥大化した腕や頭に生えたツノ、エルフのようにとんがった耳、右足の蹄等、怪物化により変化していった場所が祝詞を唱えるスピードに合わせて人間の姿に戻っていく。

 怪物の凶暴な姿から、いちか本人へと姿が戻る。


 いちかの姿が戻ると同時に祝詞は終わり、浮遊していた状態から地面に寝そべる形でおりてくる。安心しているのか、いちかは寝息をたてて眠っている。綺麗な顔立ちではあるがほんの少し幼い。これから美少年になっていく成長過程が目に浮かぶ。


 【いちかの心】は嬉しそうに灘の手から飛び降り、いちかの胸元に移動していく。綿あめ状の腕を伸ばして、本人の頭をやさしく撫でていく。小さな涙を浮かべながらも【いちかの心】は安心した表情をしていた。


 一方で灘は、2回礼をして2回拍手をし、最後に1回礼をした。神社でいう「再拝二拍手一拝」と呼ばれる作法だ。これをした後、いちかに憑いていた穢れは桜の花びらに変化すると、それは風に流されていった。

 今は10月、季節外れの花見となったが、茅愛は今まで生きた中で綺麗な空を見ることができたと思った。空に舞う桜の花びらを見て、こんなにも安堵するとは思わなかった。


 「さて、穢れも祓ったし、いちかのもとへ行こうか。」


 灘は、茅愛に再度手を差し伸べる。茅愛はその手を取りつつ、どうやって行くのか理解できないまま、灘と共にゆっくりといちかに近づいていく。

 すると、灘はいちかの胸のあたりに軽く触れて、唱えた。


 「ひらけ~……ゴマッッッ!!!!!」と。


 唱えながら、自分の腕を真上に勢いよく挙げた瞬間にいちかの胸元が開いた。そして掃除機が一気にごみを吸い込むように、灘と茅愛は【いちかの心】の中へと吸い込まれていった。

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カナリアの魔女は愛をシラナイ くーらん @sumire9ran

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