「そこはお前を追い詰めるためだけの世界です」

@ajikosogi

プロローグ

 ここはどこかの路地裏。たばこ臭い空気を吐き出すダクトがひしめいている中を、男が一人走っている。時折血の混じった痰を吐きながら、後ろを振り返る。水たまりを踏み、とたん板を蹴り、分かれ道のたびに折れ曲がって、どこまでも走っていく。


「おいこら!待たんかい!」


 酒焼けした怒声がどこからか聞こえると、男は体を跳ねるように震わせ、その足取りを早める。どこへともなく逃げながら、夜霧に反響する不規則なあえぎと、どたどたいう足音をまき散らす。


 いまだ路地裏をさまよう男は、何度目になるかわからない三叉路に差し掛かる。前方はガラクタが積まれた行き止まり、右方はとたんで組まれたバリケードで、男は舌打ちをする。

左方を振り返ると、行き止まりの突き当りにドアノブを見つける。男はしめたとばかりにそちらに駆け寄り、ドアノブにとりついて何度もひねったり押し引きしたりを繰り返す。数秒のやり取りの後、扉が内側に開く。男はすぐさま扉を閉め、内側からカギをかける。


 男は人心地つく間も無く隠れる場所を探す。部屋の内部は明かりが無いのに薄暗く、部屋の奥まで見渡すことが出来た。ロケーションに似つかわしくない板張りの細い廊下の左右は日本家屋の引き戸が二対ずつあり、突き当りに額縁が飾ってある。


 男は手前から引き戸を開けていく。


 右手前の部屋。畳敷きの子ども部屋だ。墨でたくさんの丸とバツが書かれている。それらは互いに干渉して、部屋の中が真っ黒に染まっている。学習机も、おもちゃ箱も例外ではない。隠れる場所はなかった。


 左手前の部屋。ホテルの客室のような部屋だ。窓も押し入れもないが、創ひとつない調度品がそう思わせる。その割に空気が泥のように淀んでいて、どこか生臭い。隠れる場所はなかった。


 右奥の部屋。画家のアトリエのような部屋だ。真っ赤に塗りつぶされたカンバスが部屋の四方を埋め尽くしている。部屋の真ん中には油絵具と絵画用具が、イーゼルの周りに散乱している。隠れる場所はない。


 左奥の部屋。真っ白い部屋。この部屋だけ明かりが激しい。まるで部屋の内部が発光しているようだ。

あっけにとられた男は、つい部屋の中にもう一歩足を踏み込んでしまう。部屋の中に体をすべて入れてしまう。


 背後で音を立てて扉が閉まる。扉はあかない。

男の額に脂汗が浮かぶ。今までの逃避行はここに誘導するためのものだとしたら…。


「ちがいます!おれ、ちがいます!ころしてません!ぜったい!」


男は扉に向かって叫んだ。


「おれ、えきにいて、そんで、おいかけられました!だから、なにもしてません!」


男の叫びにこたえるように、部屋の発光が止む。


「残念ながら、あなたは人を殺しましたし、許されることはありません」


 覇気のない肉声が扉越しに聞こえた。


「いやです!おれ、えきにいて」

「それはたった今聞きました。記憶喪失のまねごとですか?」

「きおく、そうしつ」

「埒が明きませんね、時間稼ぎは意味を成しませんよ」

「なに、いってる。わからない」

「あなたのわかる日本語で話しているはずですよ。人生最後の生きた人間との会話です。もう少し楽しみますか?」

「むずかしいだろ!わからない!」


 男のかんしゃくに舌打ちした声は、少しうなってから納得したようなつぶやきを漏らした。


「わかりました。では今のあなたにもわかるように、あなたの『今』を説明して差し上げま—」


 その時、地響きを立てて部屋を震わすものがあった。同時に、真っ暗な部屋の中、煌々と光る赤色の眼が、今まで目をつぶっていたように開いた。

とても大きい眼だった。すぼんだ瞳の直径だけで、男の身長を超える大きさだった。とても部屋の中に納まる大きさではなかったが、部屋の中でうごめいているリアルがあった。


「め!?おおきい!?なに!」

「あん?話に聞いてたよりも早えな。私が巻き込まれたらどうするつもりだよ」

「なに!?これなに!?せつめい!」


声はまた舌打ちした。


「あー、すみません、これでおしまいです。」

「おしまい!?まって!まだ!せつめい!おれってなに!!?」

「これだけは教えてあげますよ。今からあなたは第二の人生を違う世界で歩みます」


そして、と声はぞっとするような声音で言った。


「そこはお前を追い詰めるためだけの世界です」


怪物の影が男を飲み込んだ。



プロローグ  完



怪物詩 其の一

じんせいたべて したつづみ

ぜつぼうたべて ゆめうつつ

のこったおまえ ただのかす

たべかすおまえ ただうつつ


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