優しき旋律(7)
学内コンクールの第一位は、大方の予想通り、稲葉が手にした。
俺は結局コンクールで演奏できなかった。
必修単位だったため、その時点で俺の留年は決定した。
仁美ちゃんは俺のせいではないと言ってくれたが、あの時稲葉と一緒に酒を飲んだのは、俺自身の責任だ。
それから俺は、ほとんど大学に行かなくなった。ピアノを弾くこともやめてしまった。誰のせいでもない。
本当に、どうでもよくなってしまった。それが理由だ。
仁美ちゃんは定期的に、俺の様子を見にアパートまで訪ねてきた。そのたびに、聞いてもいないのに稲葉の話を俺にしてきた。俺にとっては稲葉はホントどうでもよかったが、ただひとつ。
稲葉が突然、ショパンコンクールへの出場を辞退したというのだ。
これにはさすがに驚いてしまった。しかし今度はドイツベルリンの音楽院へ入るために、猛特訓の日々を送っているらしい。
久我山は三年になってすぐ、大学を休学して、ヨーロッパ各地を修業するといって、ヴァイオリンひとつ抱え、旅立ったそうだ。自由気ままだ。
仁美ちゃんは教員目指して、勉強を始めたという。
俺には、何もなかった。
いつの間にか、俺は眠ってしまっていたようだ。
昔の夢を見ていた。
再び戻ることは出来ない、過去の夢。
インターホンの音で、俺は目が覚めた。
時計は午後四時過ぎをさしている。仁美ちゃんにしては早すぎる。
俺はそっとドアを開けた。
ドアの外に立っていたのは、やはり仁美ちゃんではなかった。スーツにトレンチコートという出で立ちの男。
「まだここに住んでいたんだね、よかった」
「引っ越すのも面倒だからな。それよりお前、いつのまに帰ってきたんだよ?」
「一時的な帰国だよ。これからすぐに発つ予定さ。だからこれ……」
男はトレンチコートの内ポケットから封筒を取り出した。
「久我山君の葬儀に預かっていってくれないか? 僕は参列できそうにないから」
久我山の葬儀。
信じられない。
飛行機が堕ちただなんて。
どんな思いだったのだろう。
「時間があるなら、上がっていかないか? もう少ししたら、仁美ちゃんも寄るって言ってたし……」
「そう、赤川さんが……」
意外そうな顔をした。そして、やっぱり上がるのは止しておくよ、と言った。
「久我山君は、君のピアノを『好きだ』と言っていたよね」
男はうっすらと笑った。
「僕も嫌いじゃないよ、高野君のピアノ」
あくまで『好き』と言わないところがこいつらしい。いや、『嫌いじゃない』なんていう台詞も、普段のヤツにとってはありえない。
「なんだよ、気味悪いな」
「最後ぐらい、言わせてくれてもいいだろう」
「……最後って?」
「僕さ、もう日本には戻らないつもりだから」
本気でドイツに永住するということなのか。今朝仁美ちゃんに言ってた冗談が、どうやら本当になったらしい。
「だったら尚更、仁美ちゃんに……」
「いいんだ。本当にいいんだ。ここに僕が来たことは内緒にしておいてくれないか」
俺は黙ってうなずいた。これで最後、だ。
久我山も稲葉も、俺から遠く離れたところへ行ってしまった。
結局、仁美ちゃんが来たのは、六時をだいぶ過ぎてからだった。
「意外と、大丈夫そうね」
仁美ちゃんがため息をついた。安心したような表情になる。
予期せず突然、稲葉が目の前に現れて、久我山のことで落ち込むどころではなかったのだ。
でもそれは、彼女には内緒だ。
「あのさ、仁美ちゃん」
俺は、あらん限りの勇気をふり絞って言った。
「これから大学まで、ついてきてくれないか」
「大学? いいけど……?」
仁美ちゃんは腑に落ちない顔をしている。
そりゃそうだろう。俺だって、最近ほとんど寄りついていない。
「なんだか無性に、弾きたくなったんだよ」
俺がそう言うと。
仁美ちゃんは突然、涙をこぼし始めた。
俺は、こんなにも彼女を苦しめていたのだ。
この三年間、俺や稲葉の前で明るくふるまい続けた彼女が、初めて見せた涙だった。
(了)
優しき旋律 真辺 千緋呂 @manobe-chihiro
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