優しき旋律(6)

 稲葉とは相変わらず一言も口を利いていない。

 奴が学内コンクールでの自由曲を決めかねている、という話を仁美ちゃんが教えてくれた。いつになく選曲に神経質になっている、と。

 どんな難曲でも器用に弾きこなせるくせに、いまさら何を悩む必要があるのか、理解に苦しむ。


 そうして、二ヵ月の時が流れた。




 学内コンクールの前日のことだった。

 夜八時を過ぎた頃、俺のアパートへ突然、稲葉がやってきたのだ。


「話があるんだけど、上がっていいかな」


「……ああ。どうぞ」


 稲葉と言葉を交わすのは、実に三ヶ月ぶり。あの『ムジーク』の夜以来だ。俺は動揺を隠せないでいた。

 あの日の一件は、俺の方に非があったのだ。いくら稲葉を好かないからといって、奴のバイト先で挑発してしまったのは俺の方だ。


「怒っているんだろう」


「何のことだい?」


「酒に酔ってたとはいえ、勝手なマネをしたことは悪かった。すまなかった」


 俺は素直に謝った。


「ムジークのことなら別にいいんだよ。あれは僕が勝手に辞めたんだし、高野君のせいじゃない。そんなことより……」


 稲葉はつり上がり気味の目を、ゆっくりと伏せた。


「君、弾けるんじゃないかショパン……」


 その時は、稲葉が何を言いたいのかが解らなかった。


「そりゃ俺だって、一応音大に入ってんだからさ、そこそこは弾けるつもりだけど。まあお前ほどじゃないけどさ……」


「君があんな凄いショパンを弾くなんて、正直驚いたよ。僕は君が弾いたショパンの『幻想曲』に、今まで感じたことのない嫉妬心に駆られて、思わずベヒシュタインに八つ当たりしてしまった。君は覚えていないだろうけどね」


 ベヒシュタインを弾き壊したというのは、そういうことだったのか。

 俺が思わず黙ってしまうと、稲葉は持参した色とりどりのカクテルのビンを袋から取り出し、テーブルの上に並べ始めた。


「おい、明日はコンクールだぞ?」


「こんなの、ジュースと一緒だよ。一本くらい、付き合いなよ」


 一本くらいと稲葉は言ったが、目の前に並んだのはざっと二十本以上。取りあえず二本残して、あとは冷蔵庫に無理やり押し込んだ。

 俺は紫色のを、稲葉はピンク色のを選んだ。酒に詳しくないので、名前はよく判らない。

 

 なんとなく気まずい雰囲気の中、黙々と酒を飲み始めた。稲葉は一気に飲みきると、すぐに新しいビンを取り出し、また飲んだ。俺と違って、稲葉は酒に強いから、これくらいどうってことはない。

 先に沈黙を破ったのは、稲葉の方だった。


「赤川さんはいつも君のピアノの話ばかりしている」


「俺の? 何でだよ」


「知らないよそんなこと」


 今日の稲葉はやたらと攻撃的だ。いつも気障で嫌味だが、声を荒げたりすることはないのだが。


「はっきり言わせてもらうけど、気に入らないね」


 俺の目を睨みつけてくる。勢いに押され、俺も目をそらすことが出来ない。

 何なんだ、何が言いたいのだ稲葉は。


「お前が俺のピアノを気に入らないのは、いまさらハッキリ言わなくったって知ってるさ」


 俺がそう言うと突然、稲葉は手にしていたカクテルのビンを、テーブルに叩き付けるようにして置いた。


「君のピアノが気に入らないんじゃない。赤川さんが君のピアノを好きだというのが気に入らないんだ」


 そう、だったのか。

 ようやく分かった。




 いつの間にか、朝になっていた。

 気づくと、俺たちの周りにはたくさんの空きビンが転がっていた。

 稲葉はあれだけ飲んで軽い二日酔いだが、俺は完璧な泥酔状態。

 俺は稲葉に半ば背負われるようにして、大学へ向かった。


 コンクール会場は構内にある音楽講堂である。

 わけの分からないまま、俺は講堂ロビーのベンチに転がされていた。


 どのくらい時間が過ぎたのだろう、稲葉が俺の腕を引っ張り、体を起こそうとする。


「さあ、もうすぐ君の出番だ。本気出して、弾いてみせてよ。さあ、高野君!」


「稲葉君止めて!」


 仁美ちゃんが俺の前に立ちはだかり、稲葉に向かって懇願するように言う。


「これ以上高野君を苦しめないで。こんな……お酒飲んで酔わせて、稲葉君と同じ舞台に引きずり出させるようなマネ、同じ音楽を志すものとして、どうかと思うよ?」


 いつになく真剣な仁美ちゃんの様子に、一瞬稲葉はひるんだようだ。


「出来ないことを無理強いしてるわけじゃない。高野君は弾けるんだ。君だってあの時、その耳で確かに聴いただろう?」


「高野君に本気出させて、そのうえで自分が優勝したいってこと?」


「そうだよ。僕は手を抜いて欲しくないんだよ。正々堂々と勝負したいんだ、それがいけないことか?」


「稲葉君はテクニックは最高かもしれないけど、あなたの音楽には心が感じられないよ。高野君のピアノは高野君だけのものでしょ? 稲葉君が好き勝手にできることじゃ、ない!」


 仁美ちゃんがそう言いきると、稲葉は今まで見せたことのない、愕然とした表情になった。


「それは違うんじゃないかな、赤川さん」


 そこへ姿を現したのは、久我山だった。そういえば俺たちの演奏を聴きに来ると言っていた。どうやら俺たちのやり取りを見ていたらしい。


「確かに稲葉君のやり方は乱暴かもしれない。でも、誰よりも高野君の才能を認めているのは他でもない、稲葉君だと思うよ。それにね、聴衆がいて初めて、音楽という空間芸術が成り立つんだよ」


 久我山の声は力強く、そして落ち着き払っている。


「僕は高野君のピアノが好きだよ。だから、いろんな人に聴いて欲しいと思うよ。決して、高野君だけのものにはして欲しくない」


 仁美ちゃんも黙ってしまった。

 俺は横たわりながら、必死に酔いからくるめまいと闘っていた。何かを言ってこの場を収めたいのはやまやまだったが、徐々に気分が悪くなり、それどころではない。


 久我山は、今度は俺のそばに来て、ささやくように言った。


「いいかい、高野君。誰かのために演奏するんだってこと、僕たちは忘れてはいけないんだよ」


 いつになく真剣な表情だ。俺の焦点の合わない目は、それでも久我山の顔を正面にとらえた。


「たった一人でもいいんだ。大勢の前でなくたっていい。自分の音楽を聴いてくれる誰かのために演奏する、それでいいんだよ」


 なんか、どうでもよくなった。

 もう限界だ。


「……俺、ちょっと…………トイレ」


 みんなの制止を振り切って、俺はそのまま猛ダッシュ。


 コンクールの俺の出番には、間に合わなかった。

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