優しき旋律(5)

 俺は次の日、午後になってから、大学へ出かけた。

 そして一応、稲葉の行動範囲を一通り回ってみた。講義室、演習室、ピアノ練習個室、楽譜資料室、学食……しかし、稲葉の姿はどこにもなかった。


 俺はヴァイオリン科の練習個室へ足を向けた。

 廊下を挟んで左右に五部屋ずつ並んでいる。ドアの中央には使用許可証を入れるスペースがあり、それをチェックすれば、誰が中にいるのか判るようになっている。

 そして目的の人物は一番奥の個室にいるようだ。許可証の名前を確認し、ドアをノックした。


 どうぞ、と中から声がした。俺はそっとドアを開けた。


「久我山、……練習中、悪いな」


「あっ、高野君! 大丈夫だったかい? 心配してたんだよ」


「この間はホントごめんな。お詫びにコーヒーでもおごるよ。練習、いつまで? 終わる頃にまた来るけど?」


「いや、いいんだ。すぐ終わるよ」


 久我山は屈託のない笑顔を見せた。そして自分の楽器を丁寧にそしてすばやくケースへしまい込む。

 俺と久我山は練習個室を出て、学食へと向かった。




 時間は午後二時を過ぎていた。学食に人はまばらだった。

 俺はカウンターで本日のオススメ『キリマンブレンド』を二つ注文し、トレイにミルクとシュガーステックを多めに載せ、先に座っていた久我山のところへ移動した。


「久我山は、知ってたんだよな。あの晩のこと」


 俺は砂糖だけ二つ入れた。久我山は逆にミルクだけ二つ入れて、スプーンで静かにかき回している。

 そしてゆっくりとカップを口元に引き寄せ、一口飲み、キリマンはやっぱり美味しいね、と言った。カップをソーサーの上に戻し、久我山はようやく顔を上げた。


「あの店に入た全ての人間が……お客はもちろん、店の連中も、度肝を抜かされたよ。皆、唖然として、誰一人、高野君を止めようとするものはいなかった」


 俺は羞恥心で一杯だった。

 仁美ちゃんに聞いても、あの日の俺のことを話してくれなかった。俺に気を使ってのことだろう。しかし、俺にしてみれば自分がいったい何をしたのか、事実をちゃんと知りたかった。

 久我山に訊くという選択肢は、どうやら正しかったようだ。


「そんなに酷かったんだ……ホントごめん俺、全然覚えてなくて……」


「素晴らしいの一言だよ。僕も、随分とたくさんの演奏を聴いてきたけど、あのようなショパンは初めてだったよ」


「……えっ?」


 久我山の言葉に、俺は一瞬詰まった。


「心震える、優しい旋律だったよ」


 俺が黙ってしまうと、久我山はゆっくりと、あの晩あった出来事を語り始めた。


「シューマン、ベートーベン、リスト……高野君は稲葉君が用意していた楽譜順に、弾いてたよ。さすがは音大のピアノ科生だなあと感心してしまった。最後に弾いたショパンの『幻想曲』は、稲葉君が弾く予定のなかった曲だったみたいだね。譜面なしに弾きこなしていたけど、高野君の得意曲なのかい?」


 自分で言うのもなんだが、俺は「ショパン弾き」だ。

 それを意識するあまり、逆にショパンを選曲しない。「ショパン弾き」という言葉は、自分にとっては、ショパンが得意だという意味よりは、ショパンしか弾けないというマイナスイメージが強いのだ。

 俺があえてショパンを避けているので、稲葉も仁美ちゃんも、俺がショパン嫌いだと思っているくらいだ。


 ショパンの幻想曲。

 無意識下で、俺が弾いたのが、ショパンの幻想曲か。


 それは彼女のお気に入りの曲だ。クラス名簿の自己PR欄にもそう書かれている。その幻想曲の、様々なピアニストの演奏のCDを持っているということを、本人の口から聞いたこともある。


「恐らくね、稲葉君は度肝を抜かれたんだよ、高野君のショパンを聴いてね」


「……まあ、あいつの前でショパンなんか弾いたことなかったからな。レベルが違いすぎるし、得意だって言うのもなんだかおこがましくて」


 けっして謙遜しているわけじゃない。ショパンコンクールを目指している人間の前で、ショパンの曲を弾いて見せるほどの度胸なんか、俺にはない。


「レベルが違うって、そんなこともないだろう? まあ、しらふの演奏よりも随分と様相が違うことは確かだけど」


「俺、周りに人がいると、アガっちゃうんだよ。稲葉は俺のこと、『弾けるのに弾こうとしない』って言うけど、俺ホント、ダメなんだ。『弾けるけど弾けない』んだよ。酒飲んで酔っ払って自分を見失って初めてまともに弾けるだなんて、……演奏家を志すにはあまりにお粗末だよな」


 冷めかけたコーヒーを口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。




 それからはほとんど稲葉と顔を合わせることはなかった。

 あいつが俺を避けている。

 もともと大して仲も良くなかったし、俺のほうから仲直りを持ちかける必要性も、べつになかった。

 必修の講義も、お互い講義室の端と端に座り、終わるとそれぞれ反対方向へ歩き出す。

 仁美ちゃんは、そんな俺たち二人の関係にひどく戸惑っているようだった。

 何かしら理由をつけて俺についてくることもあれば、稲葉と一緒に学食へ行ったりもしていた。


 俺達はもう、三人で行動するということがなくなった。



 その代わりといってはなんだが、俺が一人の時は、久我山と一緒にいることが多くなった。

 正直、稲葉といるときとは天地の差だった。

 久我山は俺を挑発するようなこともなく、ただ、音楽談義に花を咲かせていた。

 

 そうやって久我山と話すようになって、気づいたことがある。

 俺は今まで、音楽で誰かと競うということに、ひどく嫌悪感を覚えていた。

 ライバルなんて言葉も、俺にとってはクズみたいなものだった。そう思っていた。


 しかし。

 俺は心のどこかで、稲葉をうらやましいと思っていたんじゃないか。稲葉には負けたくない、いや、決して負けていないとずっと思っていた。

 態度に出していなかっただけで。


 久我山と一緒にいて精神的に楽なのは、もちろん久我山自身の人柄もあったのだが、要するに楽器が違うから、自分と比較せずに済む、ということなのだ。




 例の一件があってからひと月ほどたったその日も、俺は久我山と一緒に学食にいた。


「高野君、コンクールではなに弾くの?」


 学内コンクールまで、あと二ヵ月を切っていた。まあ俺にしてみれば、単位を取るために仕方なく出るので、誰かさんのように気合いを入れて練習しているというわけではなかった。

 出場すればとりあえず単位はもらえるとは言っても、あまりにお粗末な演奏をするわけにもいかない。俺もそろそろ準備を始めようかなと思っている矢先だった。


「ちゃんとは決めてないけど、課題曲は三曲の中から選択できるから、ドビュッシーにしようと思ってるんだ。自由曲は『ハンマークラヴィーア』あたり……」


「ハンマークラヴィーアって、ベートーベンだよね?」


 こういう久我山の反応が、俺には非常に新鮮だった。ピアノ科の連中ならいちいちベートーベンか、なんて聞き返してこない。


「そうだよ。ベートーベンは高校のころ、徹底的に叩き込まれたから、何とかなるかなと思って」


 へぇ、と久我山は興味深そうに俺の顔を見た。


「ちょっと聴いてみたいなあ、高野君のベートーベン」


 俺は思わず心を動かされた。

 今まで、誰一人として俺のピアノを聴きたいなんて言う奴はいなかった。

 俺がピアノを弾くときは、いつも厳しい顔をしたピアノ教師や同級生の前だけだった。


「聴く? たいした腕じゃないけど」


「弾いてくれるの? 聴く聴く」


 久我山は目を輝かせて、嬉しそうに笑った。

 なんとなく、仁美ちゃんに似ているな、と思った。

 ピアノ科の練習個室に連れて行き、俺は久我山のために、誰でも知ってる有名な曲を弾いてみせた。CDと同じだ、と久我山は喜んでいる。


「CDの方が上手いだろう」


「いやいや、やっぱり生演奏にはかなわないよ。音楽は『空間芸術』だからね」


 そして久我山はショパンの『子犬のワルツ』をリクエストしてきた。

 そんなの余裕である。

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