優しき旋律(4)
「彼女のピアノはね、人に合わせるのが非常に上手いんだ。正直、ソロのピアニスト向きではないと思う。しかし、伴奏者としてこれほど心強いことはない」
人に合わせるのが非常に上手い。
仁美ちゃん自身が、そういう性格なのだ。だから、おのずと音楽にも表れている、ということなのだろう。
ピアノを専攻している人間というのは、自我の強い人間ばかりだ。稲葉は特に顕著だが、俺だって人に合わせて弾くのはあまり好きではない。
仁美ちゃんみたいなのが、少数派なのだ。
「もちろん赤川さんのピアノの腕を信頼している。それはもちろんなんだけど、実のところ、僕、赤川さんのピアノしか聴いたことがないんだよ」
「へえ……?」
「中学高校時代にね、音楽コンクールの全国大会でよく顔を合わせてたんだよ。ピアノとヴァイオリンで部門は違ってたけど、受賞者記念演奏会とかで、何度も演奏を聴かせてもらったよ」
俺が縁のなかった、華やかな世界の話だ。
俺はこの仁美ちゃんの過去の栄光を、ほとんど知らなかった。彼女は自分からべらべらと自慢する人間ではなかったし、稲葉だって自分のことは喋るくせに、他人の経歴など興味ないようだった。
久我山の話を聞いて、初めて仁美ちゃんの「過去」を知らされた。
「稲葉君や高野君のピアノも、是非聴いてみたいんだよ」
「三ヵ月後に学内コンクールがあるから、稲葉のピアノは聴けると思うよ。まあ、あまり奴を誉めたくないけど、恐ろしく腕の立つテクニックを披露してくれるだろうさ」
「そりゃ楽しみだなあ。凄いらしい、って噂はたくさん聞くんだけどね、なかなか実際聴く機会がなくて。稲葉君、来年のショパンコンクールに出るんだって?」
「らしいな。俺から見たら、奴は雲の上の人間さ」
「高野君は?」
「俺? 俺は地に這いつくばってる、一般庶民さ」
そんな俺の卑屈な発言にも、久我山はおおらかに笑っている。普段の神経質そうな顔からは想像つかない、柔らかな表情だ。
「いやいやそうじゃなくて、コンクールに出ないの?」
「俺さ、人前で弾くの、あまり好きじゃないんだ。だから、コンクールに出たことない。まあ、今度のは学内のだから、出なくちゃ単位もらえないんだろう。ただでさえ稲葉が、俺に挑戦的なことばかり言ってくるから、うんざりしてくるよ。第一、ショパンコンクール出る奴が、何でいちいち俺にかまってくるのか……」
どうやら酔いが回ってきたようだ。しかし今夜はなんだか気分がいい。グラスを空けると久我山がすかさず新しい飲み物を注文する。
初めて話した人間に、いろいろ愚痴まで話してしまっている。俺にしては珍しいことだ。
それはもちろん久我山の誠実な受け答えが好感持てたためでもあるし、当初受けた印象よりずっとまじめに音楽に取り組んでいることが解ったためでもある。
「稲葉君はきっと赤川さんの……高野君が……ピアノで……」
突然酔いが回りだした。久我山の言葉はどこか遠くで聞こえている。酔っているにも関わらず、俺はひたすら喋り続けた。
久我山はとにかく楽しそうだった。俺も稲葉の愚痴や、音楽談義に花を咲かせ、この上なく気分が良かった。
俺達は意気投合し、勢いづいてもう一軒、飲みに行くことにした。
俺にとっては、はしごなんて異例中の異例である。
久我山に連れて行かれた店は、居酒屋を出て歩いて五分ほどの距離だった。
洋風レンガ造りの洒落た外観だ。
「クラシックの生演奏が聴けるんだよ、ここ」
久我山がそう言った。店の看板を見上げる。ランプに照らされた真新しいそれには、「ムジーク」とドイツ語の綴りで書かれていた。
ここは稲葉のバイト先じゃなかったか? 酔った頭でも、それは充分理解できた。
一瞬躊躇したが、久我山が一緒だ。この際、奴がどんな顔してピアノを弾いているのか、見てやろう。
店内に入ると、すぐのところに演奏時刻が書いてある。午後八時、九時、十時の三回。
現在、午後九時四十五分。どうやら十時の回に間に合うようだ。
奥へ進んでいくと、中央に大きなピアノが置いてある。そこを取り囲むようにしてカウンターテーブルが配置してある。階段状にカウンターテーブルが三段設置され、どこに座っても正面にピアノが見えるという配置だ。
ピアノのすぐ脇に稲葉はいた。俺は奴におもむろに近づいていき、ピアノに肘杖をついた。
「これが例のべひしたいん、かあ?」
「高野君……君、酔ってるのかい?」
稲葉の気障ったらしい声がする。
すると背後の遠くから知っている声が聞こえてきた。
「高野君、大丈夫? ……久我山さん、高野君どのくらい飲んだんですか?」
仁美ちゃん? 何で仁美ちゃんがいる?
「普通のチューハイを三杯ほど。彼、ビールは苦手というから」
仁美ちゃんが言ってた先約って、稲葉のピアノを聞きに行くことだったというのか。
酔いが回ってふらふらしていた。それでもそのまま仁美ちゃんの方へ近づいていく。
「わざわざ聴きに来たのかよ」
「誘っても高野君、行かないって言うと思って……別に隠してたつもりはないんだけど」
俺は自分がなぜ仁美ちゃんを責めるような事を言ってるのか分からなかった。仁美ちゃんが飲んでいたワイングラスをつかみ取ると、一気にあおった。
仁美ちゃんは呆気に取られた顔をしている。そこへ、稲葉が歩み寄ってきた。俺の手から、空のグラスを取り上げていく。
「止しなよ高野君! 君、アルコールはまったくダメだろう。ワインは意外とアルコール度数あるんだよ? そんな一気に飲んだりしたら」
「何を弾くんだお前。ひょぱんか? べーとおぶぇんか? それともお前の得意なリスト様か?」
「高野君、アルコールダメだったのかい? それは悪いことをした。僕が高野君を送っていくよ」
久我山の声がうるさい。おせっかいな奴め。
「俺が弾いてやる」
「ええ?」
完全に酔っていた。普段なら口にしないような言葉がぽんぽん出てきた。でも何を言ってるのか自分で分からない。
仁美ちゃんの声。稲葉の声。久我山の声。すべてがごちゃまぜに響いている。
そしてこのあと、俺の記憶は完全に飛んでしまった。
地獄だった。
完全な二日酔いだ。いや、その頭痛と倦怠感はさらに次の日まで続いた。
ようやく体調が戻りかけたその日の夕方、俺のアパートに仁美ちゃんが訪ねてきた。
差し入れだといって、野菜ジュースの大きなペットボトルを三本、スーパーの袋に入れて持ってきてくれた。これでビタミン不足を補えということなのだろう。
「二人とも大学に来なくなっちゃうから、どうしたのかと思って様子を見に来たんだよ」
意外な情報だった。
「……稲葉が休むなんて、珍しいこともあるもんだ」
「綿貫先生もそう言ってた。電話にも出ないしね」
「俺、よく覚えてないんだ」
稲葉は一日限りで「ムジーク」のアルバイトを辞めた。店側からクビを言い渡されたわけではなく、あくまで自主的に辞めた、ということだった。
そしてあの晩、稲葉がベヒシュタインを弾き壊したのだということを知ったのは、さらに二日後だった。
あの日以来、俺は稲葉と顔を合わせていなかった。大学にも姿を見せていないと仁美ちゃんは言っていた。
怒らないはずはない。それなのに何も言ってこないのが、かえって怖かった。
仁美ちゃんはそんな俺たちの様子を、しきりに気にしているようだった。
俺を慰めに部屋まで訪ねてきたかと思えば、今度はその足で稲葉の自宅まで出向いていってるらしい。
仁美ちゃんが気を使ってくれているのは痛いほど伝わってくる。
俺が悪いのだ。それは分かっている。
でも、それでも。
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