優しき旋律(3)
「今、僕の噂してなかった?」
稲葉が俺たちを見つけて歩いてきた。手には数冊の楽譜を持っている。
「そうだ、高野君。綿貫先生が研究室まで来るように言ってたよ。今ちょうど、僕と入れ替わりに学務課の人が来てたから、そう急いで行くこともないと思うけど」
稲葉はテーブルの上に楽譜を置き、仁美ちゃんの隣に座って冷めかけたパスタランチにフォークをつきたてた。
「楽譜、見ていい?」
「別に珍しくもなんともない曲ばかりさ」
そう言って、稲葉は固まりかけたカルボナーラをフォークでほぐしながら優雅に食べ始めた。海外生活の経験が豊富なだけあって、フォークの扱いはとても器用だ。
稲葉の傍らで楽譜を一冊ずつ確かめていた仁美ちゃんは、なんだか腑に落ちないような表情をしている。
「フォーレ、ドビュッシー、リスト……稲葉君の自由曲にしては優しすぎる選曲じゃない?」
俺も向かい側から覗くようにして見ていたが、確かに音大生なら誰でも弾けるような有名曲ばかりだ。コンクールだからといって、難曲を選ばなくてはならないというわけではないが、確かに稲葉にはありえない選曲だ。
すると稲葉は食べていた手を止め、フォークを皿の端に置いた。
「先週さ、オープンしたばかりなんだけど、七丁目の角のところに『ムジーク』っていうクラブが出来たんだよ。まあ、クラブっていうか、ダイニングバーみたいな、いいお酒を飲みながら、いい音楽を聴く、という趣向でね。今日から僕ね、そこでバイトするんだ」
「バイト? 稲葉が?」
俺は仰天した。
稲葉はいわゆるいいところの『お坊っちゃん』だ。生活に貧窮するなんてことには無縁だし、それにショパンコンクール目指して特別レッスンを受けているような奴に、そんな時間の余裕があるのだろうか。
仁美ちゃんも同じことを思ったらしい。オムライスを食べる手を止め、稲葉の顔を見つめた。
「……ウエイター、ってことはないよね? バーテンダー?」
違うだろ、と俺は心の中でつっこんでしまった。彼女はこれが普通なのだから、まさに天然なのだろう。
「いや、ピアノを弾くんだよ。単なるバックミュージックじゃなくてさ、ちょっとした演奏会みたいな感じ。客層も、音楽愛好家ばかりだから、マナーもいいしね。これから先、音楽で食べいくのならこういう経験も必要かなあと思って」
稲葉にしては珍しく殊勝な心掛けだ。ここにある楽譜はそのバイト先で弾く為に用意されたもの、というわけなのだろう。それならその選曲も理解できる。
「引き受ける前にさ、一応下見に行ったんだよ。音響とか楽器とか確かめたくて。さすがだったよ、ホント。この僕がだよ、文句つけようがなかったからね。君達、芹沢英輔って知ってるだろ?」
「指揮者のでしょ? 自分の楽団も持ってる人」
「そう、彼がプロデュースしてるんだよ。ベヒシュタインだよ? うちにだってあれほどのものはないよ。鍵盤はやや重いけど、僕にはちょうどいい。実を言うと、あの楽器につられたっていうのが正しいかな」
稲葉は普段から重い鍵盤にこだわっていた。俺なんかはあまり重いと余計な力が入ってしまい、弱音が上手く弾けない。稲葉は幼い頃から慣らされているためか、普通のありきたりなピアノを弾くと「軽すぎる」という。どんな難曲も、涼しい顔をして弾いてしまう。
その稲葉が「やや重い」というべヒシュタイン。
すこしだけ、興味を覚えた。
俺が弾いたら、どんなふうな音が出るだろう。
俺は一足先に学食を後にした。綿貫教授が俺を呼んでいたと稲葉が言っていたので、ピアノ科のある建物へ向かった。
玄関まで歩いてきたとき、突然、背後から呼び止められた。
見ると、さっき学食で仁美ちゃんに声を掛けていた、ヴァイオリン科の男だった。
「ピアノ科の高野君、だよね?」
「そうですけど……何ですか」
まさか俺に伴奏を頼むつもりじゃないだろう。さっき仁美ちゃんが断っているなら、ありえないこともないが……。
するとその華奢で神経質そうな男は、君の悪いほどに愛想笑いをしてくる。
「僕、ヴァイオリンの久我山って言うんだけど、今度さ、ピアノとヴァイオリンとで交流会を開きたいと思っているんだ。要は飲み会なんだけど」
筋書きは簡単に読めた。仁美ちゃん狙いなんだろう。少しでもお近づきになれるための『口実』が欲しいのだ。
まあもちろん、それだけではないだろう。伴奏を引き受けてくれそうなやつを見極めることも理由だろう。俺達にしてみても、交流があったほうが、いろいろ都合はいい。
「それなら俺、みんなに話してみるよ。日にちはいつ?」
「まだ具体的には決まってないんだ。よかったら今日の夜にでも、計画を立てに飲みに行かないか? 少人数で」
今日は特に予定がなかった。俺は久我山に了解の返答をし、居酒屋で待ち合わせることにした。
稲葉は今日からアルバイトだと言っていた。誘っても無駄だろう。
仁美ちゃんはどうだろう。連れて行けば久我山は喜ぶかもしれない。
俺はいったんアパートに戻った。
約束の時間までまだ少しある。この時間だと、仁美ちゃんも大学を出てる頃だろう。俺は仁美ちゃんに電話することにした。
「高野だけど」
『どうしたの? 珍しいのねぇ』
電話の向こうで、仁美ちゃんがおかしそうに笑っている。
「突然だけど、これからヒマ?」
『ええ? どうしたの一体』
「いや、ヴァイオリンのやつからさ、今度うちと交流会したいから、その打ち合わせを兼ねてこれから飲もうってことになってさ。ヒマなら一緒に行かないかなと思って」
『んー、ごめん。ちょっと今晩は先約があって。高野君、楽しんできて。そっちの交流会のほうは出席するようにするから。ね?』
あっさりとしたもんだ。
でも、内心断られてホッとした。久我山が必要以上に仁美ちゃんと仲良くなるのは、正直嬉しくない。
「分かった。じゃあまた明日な」
『お酒、飲みすぎちゃだめだよ』
まるで母親か彼女のような口ぶりだ。
まあ、そう言われてもおかしくないくらい、俺は極度に酒に弱いのも事実だ。同じピアノ科の仲間には、醜態を晒したこともある。別に誰かに絡んだりするというわけではない(らしい)のが救いなのだが。
俺は仁美ちゃんに「分かってるよ」と、あえてそっけなく言った。
もしこれが電話でなかったら、照れ隠しであることがばれていただろう。
久我山はすでに店の中で待っていた。
店内は学生やサラリーマンで混雑していた。安くて気軽に飲める、大衆居酒屋である。久我山は四人掛けのボックス席で、早々とメニューを開き、注文するものを吟味していた。
「悪い、待たせたか?」
「いや、僕も今来たところ。僕さ、すぐそばの下宿に住んでるんだ。高野君は?」
「俺は大学のすぐ裏のアパートだよ」
久我山は、それじゃ遠かったね、ゴメンな、と屈託ない笑顔で言った。
「何飲む? ビールでいい?」
「いや、……巨峰サワーにしてもらえるかな」
久我山は若い店員を呼び止めた。そして手際よく飲み物とつまみを注文した。
「今日さ、一応仁美ちゃん……いや、赤川さんも誘ってみたんだけど、用事があったみたいなんだ。交流会は是非出席するって言ってたよ」
俺が言わんとすることを悟ったのか、久我山は少し驚いたような表情をした。
「そんな、僕は赤川さん目当てっていうわけじゃないんだよ。彼女にピアノ伴奏を依頼しているのは確かだけど」
久我山は苦笑いをしている。
そこへ飲み物が運ばれてきた。俺の毒々しい紫色の巨峰サワーと久我山の中ジョッキ。
乾杯して、お互い一口飲んだ。そして次々運ばれてくるつまみを食べながら、久我山の話が続いた。
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