優しき旋律(2)
「待って! 待ってってば高野君!」
学生食堂へ向かう道すがら、後から大きな声で呼び掛けつつ追い掛けてくる奴がいる。振り返らなくたってあの声優のような特徴ある声は聞き分けられる。仁美ちゃんだ。
「何だよ、俺急いでるんだ。今日は限定のビーフカレーの日だから並ばないと……」
嘘ではなかった。確かに昨日からカレーを食うことは決めていたのだが、稲葉の挑発によって食欲なぞどこかに飛んでしまっていた。それを仁美ちゃんに分からせまいと、あくまで能天気に返事をした。
「限定のビーフカレーつて、アレだよねえ? ご飯の上にステーキのカットしたのがそのままのっかってて、ふつーのカレーがかけてある……」
「(ふつー)をそんなに強調しなくてもいいだろ。人の食いもんに文句付けるな」
「ネーミングの問題よ。カツカレーと似たようなものなんだから、ステーキカレーでいいと思わない? 確かに(びいふ)には違いないけど」
「ところで稲葉はどうしたんだよ?」
まさかとは思うが、俺の言動がヤツを傷つけてしまったとすれば、少し気が咎める。しかし、気にしていると思われるのも癪なので、あくまでさりげなく尋ねた。
「ああ、さっそく綿貫教授のところへ行ったよ。自由曲の選曲で助言してもらうって言ってた。なんかね、稲葉君、やる気満々なの」
心配するほうが馬鹿なのだ。俺の言動で傷つくような繊細な心の持ち主なら、俺は苦労しないで済んでいる筈なのだ。
「やる気満々? 結構なことだ」
思わず嗤ってしまう。すると、仁美ちゃんはなぜか顔をしかめてみせた。
「何、呑気なこと言ってるの? まるで他人事みたいじゃない」
他人事じゃねえか、と言うと、仁美ちゃんは呆れた様な顔をした。
「高野君と争う気が満々、ということよ」
「何で俺なんだよ。俺より巧いヤツなんかゴマンといるだろ」
「高野君には、稲葉君が持ってない『何か』があるんじゃない? 稲葉君は自分の音楽に自信を持ってるけど、高野君の音楽を聴くとその自信が揺らいでしまうんでしょ? だからコンクールという公の場できっちり判定してもらいたいのよ。きっと確実に、自信を得たいんじゃないかな」
「自信を更に付けるために、コンクールに出る、か。偉いよ稲葉は。俺とは何もかもが違う。音楽に対する姿勢や、自信を裏付ける努力の数々……」
俺は歩くのを止め立ち止まった。つられて仁美ちゃんも一歩遅れて立ち止まる。
「俺は、コンクールで自分の音楽が否定されてしまうのが、何よりも怖いんだ。そんなものは初めから出ないに越したことはないんだ」
人前に出ると、ピアノが弾けなくなる。
鍵盤をなぞるだけで、精一杯。頭の中はパニック状態で何も考えることが出来ず、演奏中のことは一切覚えていない。
自分がちゃんとピアノを弾けているのかどうかも、判らないのだ。
俺は一度も、まともにコンクールに出たことは無かった。
大学の同期の連中は、小さい頃から英才教育を受けてきたような人間ばかりで、ジュニアコンクールで優勝したとか、海外での演奏経験ありとか、輝かしい経歴をぶら下げていることなんか珍しくない。中には、誰でも知ってる世界的に有名な音楽家に師事を受けているなんてのもいる。
逆に俺のように、何の経歴も持たないほうがはるかに希少な存在だった。
仁美ちゃんだって、国内の数々のコンクールで常に五本の指に入る実力者だ。地元の小さな音楽教室にずっと通っていたという彼女は、大変な努力家だ。
稲葉は英才教育の最たるもので、音楽家一族に生まれた奴は、七歳のときザルツブルグで演奏会デビューを果たし、その後もヨーロッパ各地で演奏活動を行っている。
日本でのコンクール歴はないのだが、正直なところ、同じ年齢でヤツにかなうピアニストは国内にはいない。テクニックと表現力は群を抜いている。それは俺も認めるところだ。
そんな稲葉がなぜ俺に構ってくるのか。
普通に考えたら、俺なんか到底稲葉の足元にも及ばず、相手にされない筈なのに。
その理由。
実に簡単なことだった。
学食で仁美ちゃんと昼御飯を食べることにした。一時を過ぎていたので、座席はかなり空いていた。
去年改装オープンしたばかり、モダンなカフェスタイルで、おしゃれな音大生が集うにはちょうどいい、心地よい空間になっている。
俺は決めていたビーフカレーを持って、先に適当に座った。
辺りを見回すと、仁美ちゃんがトレイを持ったまま立ち話をしているのが見えた。名前は覚えていなかったが、同じ学年のヴァイオリン専攻の男だ。顔はわかる。
いつまでかかるか分からないので、待たずに食べ始めることにした。
仁美ちゃんは男に人気があった。とりわけ美人というわけではなかったが、さりげない心配りの出来る子で、表情豊かで、表裏のない素直な性格が、好かれる理由なのだろう。同じ教授についているってだけで、俺をやっかむ連中もいた。
確かに音大の女子学生は、おしゃれで、品が良くて、容姿端麗と三拍子揃っているが、プライドが高くて、高慢で、わがままとこちらも三拍子。
けれど、仁美ちゃんは違った。
「ごめんね、高野君。はい、お水」
ようやく仁美ちゃんが現れた。トレイには二人分のお冷の他に、オムライスとパスタの盛り合わせとサラダ。お冷のグラスをひとつ、俺の前に差し出す。パスタランチははうちの学食の名物で、日替わりで三種類のパスタが載っている。総量は二人前ある。女子学生なら、二人でシェアするのが普通だ。
「……一人でそんなに食うのか? 食いすぎじゃないの」
「えー? だったら凄過ぎるよねー」
仁美ちゃんははしゃぐように笑った。いつも楽しそうなんだ彼女は。スプーンを握り締めながら指さす。
「あたしのはこっち。これは稲葉君のだよ、後から行くから、買っといてって頼まれたの」
「……あいつ来んの? んじゃ、早いとこ食べ終わって退散しよう」
ビーフカレーは既に八割方、胃の中に収まっている。
「えー? 一人にしないでよ、さみしいじゃない」
仁美ちゃんが恨めしそうな顔をする。なんだかおかしかった。時折見せるわがままが心地いい。長く時間を共有する者の特権なのかな、とも思う。
「分かったよ、稲葉が来るまでは付き合ってやるよ」
「やっぱり高野君はナイスガイねー」
そう言って、オムライスを頬張りながら笑っている。楽しいんだか、嬉しいんだか、美味しいんだか……。
「そう言えばさ、さっき仁美ちゃんが話してたの、ヴァイオリンの奴だよな」
「ん? そうそう。あたしもあんまり話したことないんだけどね、伴奏者探してるんだって。結構多いんだけどね、なんか引き受ける気になれなくて」
そりゃ、お近づきになるための口実に決まっている。結構多いって、おそらく全部男だろう。
「気持ちは分からんでもないけどな……」
「どうして?」
思わず口をついて出た言葉に、仁美ちゃんが真顔で反応したので、俺は少し動揺した。
「どうしてって……まあ、稲葉みたいな奴には頼めないだろ。下手すりゃ伴奏が主役を喰っちまうし。しかも世界レベルの音楽で耳が肥えてるだろ。ヴァイオリンの奏法にまで口出しするのがオチだよ」
それっぽい理由を懸命に考えて、仁美ちゃんに言った。
「そっかー、そうだよね。稲葉君は別格だからね。来年のショパンコンクールに照準合わせて、去年からメニューこなしてるっていうしね。私たちはちょうど生まれた年が悪かったんだね。あと一年、稲葉君が早く生まれてたら、前回のショパンコンクールは十七歳だったわけでしょ? 最年少優勝記録、もしかしたら塗り替えてたかも知れないのに」
ピアノ界最高峰、ショパンコンクールともなると、開催は五年に一度。機会を逃すと、五年も待たなければならない。その間もどんどん、優秀な若き天才ピアニストが世に出てくる。狙うなら、それ相応の覚悟は必要だ。
稲葉にとって、来年のショパンコンクールは勝負の年、ということになるのだろう。
音楽家一族に生まれた宿命。期待の重圧も相当なものだろう。
ただヤツには、人並みはずれた図太さがあるから、むしろ重圧を楽しんでいるに違いない。
俺には到底理解しがたいが。
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