遺し物
狛咲らき
金縛り
読者諸賢は金縛りを経験したことがあるだろうか。
金縛り——覚醒時に身体が動けなくなってしまう現象は、何もオカルトじみたものではない。通常、睡眠は深い眠りであるノンレム睡眠から入るのだが、なんらかの要因で浅い眠りのレム睡眠から始まると、金縛りは発生と言われている。
確かにその手の怖い話はごまんとあるわけだが、それと同時に科学的に説明できて、かつ実際に起こり得る話でもあるのだ。
かく言う私もこれを体験したことがある。それも何度も、である。
初めて金縛りに遭ったのは、私が中学生の時だった。
昼寝をして、目が覚めた瞬間のあの驚きは忘れられない。意識ははっきりとしているのに身体をぴくりとも動かすことのできない恐怖は、おそらく経験者しか共感できないだろう。
脳の命令が神経を通って、しっかりと手足に行き届いているはずなのに、手足が嫌だ嫌だと駄々をこねる様にこれを拒絶する。窒息感にも苛まれて、まるで重い水のような何かに全身が纏わりつかれたようだった。
ちなみに金縛りの際に見る光景は一見現実であると錯覚させられるが、これはレム睡眠時に脳が作り出す夢、非現実だ。レム睡眠時には筋肉を動かせないため、金縛りの中で身体が言うことを聞かなかったり、深く息を吸うことができないのもある意味当然と言えよう。
とはいえ当時の私はそのようなことなど露ほども知らない。この世で最も理解し信頼を置いているはずの我が身の一切に、無理解と不信感をこれでもかと殴りつけられて、ただただ打ちのめされるばかりであった。
おまけに、当時私はアイマスクを着けて寝ていた。真っ暗な世界に意識だけ置いてけぼりにされたような孤独感が私の心を支配し、より焦燥感に駆られることとなった。
何が起きたのか。何故このようになってしまったのか。そもそもこれは現実なのか。様々な思考がメリーゴーランドのようにぐるぐると回り、脳の出力できる限界まで動けと命令するものの、状況は変わらない。藻掻きに藻掻き、心臓の鼓動が何倍にも速まっても、頭から下は重く反応しないまま。
そうしていよいよ生涯石となって苔生す未来を覚悟した時、不意に終わりは訪れた。
ばっと起き上がり、手をグーパーさせて正常に動くことを確認する。動けという命令に手足は素直に従い、思うがままに身体を操れる喜びが全身に広がっていく。私はようやく金縛りから——夢から解放されたのだと安堵した。
これが私の初めての金縛りである。ホラー特集の番組に送ればゴミ箱にぽいとされてしまいそうな、なんとも地味なものではあったが、当時金縛りを表面上でしか知らなかった私に十分以上の恐怖を刻み付けられたことは言うまでもない。
しかし私の金縛り体験はこれで終わりではなかった。
次の日から私は昼寝をするたびに金縛りに遭うようになった。現実に良く似た夢の中で恐怖に溺れ、そしてすぐになんともないように解放される。
余りにも理不尽で意味が分からない。一体私の身に何が起きているというのか。疑問は尽きず溢れんばかり。中学生だった私にはこれを晴らす手段が思い浮かばなかった。
そこでこの苦痛に対応すべく、私はどうやら何者かが昼寝をすることを邪魔しているらしい、と学生特有の自由な妄想でそのように犯人を作り上げることにした。自分にとってマイナスとなる事象を擬人化させることで、多少なりとも問題の輪郭に触れられるのではないかと考えたからだ。私はこの生活を支配せんと躍起になっている者を、カナ氏と名付けた。
さて、カナ氏は私に恐怖という名の暴力を振るってきたわけだが、奴という存在を作り出した親という立場から見てみると、奴が重大な事実を忘れていることに気付く。
私が中学生、即ちクソガキであったことだ。
当時の私は思春期真っ只中。ただでさえ抑圧というものに並々ならぬ怒りを抱く時期であるというのに、突如として力をもってコントロールせんとし始めたカナ氏の横暴に、クソガキの私が屈服するはずもない。何がなんでも昼寝してやるという固い意志の下、別に眠くもないのに布団にもぐり、その時をひたすらに待つ。そうしてやってくる金縛りに耐えて、終わるたびに震える手で拳を作って天井に振り上げた。
そしてそんな馬鹿みたいな日々をしばらく過ごしていると、当然金縛りによる恐怖にも耐性を持つようになる。トラウマにも似た感覚は日を追うごとに薄れ、身体が動けなくともあの時のように漠然とした不安感に駆られることはなくなった。というよりむしろ、この夢なのに夢ではない特殊な時間そのものがなんとも言えない快感になっていたのだ。
クソガキ特有の反抗心はどこへやら。いつの間にか己が欲の奴隷へと成り下がり、あれだけ喧しく思えたカナ氏も快楽をもたらしてくれる愛すべき存在という認識に改まっていく。我ながら豚のように単純な人間である。
とはいえ結局カナ氏の目論見は失敗に終わり、私の完全なる勝利に終わったことは疑いようもない。青春時代の子どもは全能感を持ち合わせるというが、概念上に生きる者を打倒する力まであったようだ。流石は輝かしき黄金のエネルギーといったところか。なお後半の醜い欲の塊には目を瞑ってもらいたい。
その後も、私は週に2、3回は昼寝をしていた。負け惜しみのようにカナ氏からの金縛りは続いたものの、この生活は高校へと進学し、大学生、社会人になっても変わらなかった。その頃には既に中学生時代に味わった快楽も嚙み過ぎたガムのように無味となっていたため、もはやただの習慣と化していたのだが、それだけの理由で止めようとは思わなかった。
なぜなら睡眠欲は人間の三大欲求のひとつだからだ。金縛りは珍しいから惹かれただけであって、慣れてしまえば飽きてしまう。しかし昼寝をする、それ自体は人間の根源的に求める幸福なのだ。いくら経験しても得られる幸福量は変わらない。ならばたくさん眠れば良いと考えるのは当然の帰結だろう。
そういうわけで私は素晴らしき睡眠ライフを謳歌し、満ち足りた生活を送っていた。もはや睡眠というものに情熱を注いでいたと言っても良い。今でこそ落ち着いてはいるが、学生時代は睡眠への熱意が有り余り、友人と共に『昼寝部』を立ち上げようと考えたり、スペインのシエスタ制度をこの学校にも導入しようと先生や生徒会長に掛け合ったこともあったほどだ。どちらも一蹴されてしまったが。
そんな極めて人間的な生活に日々の幸せを感じていたある日のことだ。
私はいつものように休日に昼寝しようと布団に潜り、夢の扉が開かれるのを待った。
午前中にあったことや明日のことを、微睡む頭であれこれ考えていると意識は段々と途絶えていく。
おそらくその日、私は夢を楽しんだと思う。しかし夢を見たという結果のみ覚えていて、その内容についてはここに記すことはできない。もちろん、夢は余程強烈でない限りは記憶に留まるものではない。ぼんやりと何かを見たのだという覚えはあっても、次第にそれすらも消えてしまうのが常である。故に、今の私には当時の夢の内容はもちろん、今日見た夢のことも霧散しきっている。
だが、私がその時の夢を忘れた原因は他のところにあった。
目が覚めた私は金縛りに遭っていた。これもいつも通りだ。通常の夢を見て、それから金縛りを受ける。ただ良い夢を見てそのまま目覚めればどれほど気持ちが良いかと幾度となく考えたが、こればかりはどうすることもできないので仕方がない。不満を垂れるのはここまでにしておこう。
さて、金縛りを受けて動けないからと焦る必要はない。これは夢なのだから。落ち着いて、身体の力を抜いて、覚醒の時を窺う。それまでの間は暇なので明晰夢の感覚で、手足そのものを動かすのではなく、手足を動かす『想像をして』遊ぶ。何気に私の好きな時間だったりする。
だが少しして私は気付いた。いくら想像しても動かないのだ。
いつもなら自在に操れるはずの夢の身体は、何故か指の先の先までぴくりともしない。思えば数秒で戻れるはずの現実世界にも、既に30秒は経っているというのに行けないままだ。
少々眠り過ぎたのか。でもそれが拘束時間の長さに関係あるのだろうか。疑問が膨らみかけるが、まあそんな日もあるだろうと今度は指を上下に動かす想像をしてみる。
動かない。
動かない。
動かない。
曖昧とする想像の中でさえぴょこぴょこと指を振れるのに、実際の指は動く素振りも見せない。
金縛り発生から1分が経過した。
呑気な私でも流石に怖くなってくる。こんな異常事態は初めてだ。じわりと汗が滲み出て、一刻も早くこの状況を脱しなければ取り返しのつかない事態になってしまうという直感が頭を抜けた。
何故だ。いつもと何が違う。
動きの伴わない動きで暴れるがどうにもならない。眠気はとうに吹き飛び、私の脳はフル回転して何か答えはないかと必死に海馬に検索をかけた。だが出てきた解決策を実践しても身体を動かせないまますべてが無駄に終わってしまう。まさか現実なのではとも考えたが手足に直接命令を下しても応じる気配がなかった。まるで身体中のすべての関節が固定され、磔にされているような気分だ。
5分が経っただろうか。たった5分でも身体の一切の自由が効かないことがあまりに苦痛で、ドッドッドッ、と恐ろしいくらいに早く脈を打っている。一方で呼吸は依然として浅く、緊張を和らげるための深呼吸すらも叶わない。息苦しさが焦りをより加速させる。
初めて金縛りに遭った時は、恐怖の中でも結局はなんとかなるだろうと楽観的に考える自分がいた。だが今は違う。緊急事態だ。私の身に何が起きているのか分からない以上、植物状態に、本当に石のようになってしまってもおかしくない。
——誰か、助けてくれ!
「——お前は」
ふと声が聞こえた。
美しい大人の女性のような、晩年の爺さんのような、生まれたばかりの赤ん坊のような、あるいはそれらがひとつになったような、得体の知れない声。不快感に耳を塞ぎたくなるような気味の悪い声。
気付けばソレは私の身体を跨ぐようにして立って、私を見下ろしていた。
「お前は」
男性なのか女性なのか判断つかない。それでいて身長は天井に届きそうなほどに大きい。が、はっきり見ることができない。まるで認識してはいけないとでも言うように、脳がソレを拒絶している。
同じように顔も見えないのだが、なのに目が合っていることだけは分かる。こちらをずっと睨んでいる。
お前こそ誰だ、そう聞きたくても声が出ない。首を絞められているような感覚も抱き始め、このままだと窒息してしまいそうだと悪寒が走った。
抵抗はできない。藻掻くことさえ許されない。
私にできることといえば、せいぜいソレが次に何をするのかを見届けることか、それ以上は首を絞めないでと無言の懇願を送ることくらいだった。
「お前は」
こいつから目を離してはならない。本能がそう警鐘を鳴らしている。
心臓の鼓動は私の短い人生で最高潮に達し、全身の血の流れが、今の私の生を確認できる寄り縋りとなっていた。
相も変わらず身体は動かない。この尋常ではない状況に私は早く現実に戻れることを切に願った。都市伝説の中に、夢の中で殺されかけるというものがあるが、私が体験しているのがまさにそれだ。目が覚めれば何の問題もなくなる。しかしどうやっても現実への入口を見つけられない。このままでは先に予感した、取り返しのつかない事態そのものになりかねない。
思考をこれでもかという速さで巡らせる。けれど私にはどうすることもできなかった。
私には何がなんだか分からなかった。何故逃げられないのか。何故こいつは立っているのか、何のためにここにいるのか、私に何を伝えたいというのか、分からないことばかりだ。そもそもこいつが何者なのかも知らないというのに。
否、心の奥底では既にこいつの正体に気付いていた。でも理解したくなかった。そんなわけがないと。何故ならば——。
「お前は」
ソレは口を大きく開けた。
「お前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前はお前は」
『ピンポーン』
チャイムの音と同時にソレはいなくなった。
途端、ばっと私は布団から起き上がり、ぐちゃぐちゃになった意識を整理する。大粒の汗が全身を伝い、服はびしょびしょに濡れていた。
『ピンポーン』
もう一度鳴った。それから「宅急便でーす」とおじさんの渋い声が聞こえた。
「少し待ってくれませんか」
上擦り、嗚咽混じりな小さな声で私は応じた。
ようやくあの世界から解放されたのだ。あの恐怖の世界から。
平和が訪れ涙が溢れてくる。人を待たせてしまっているからと腕で涙を拭うものの、その腕もがくがくと震えていた。
宅配業者を待たせてから1分。ようやくぎりぎり面を合わせられる程度まで落ち着くことはできた。未だ手足の震えは止まらないが、それは物を受け取った後でも大丈夫だろう。
そうして私は立ち上がり、最後に深呼吸をしようとして——。
「えっ」
思わず腰が抜けてどすんと尻から落ちた。
私の視線の先はさっきまで地獄を見せられた原因のひとつでもある布団だ。しかしその両端に知らない黒いシミが付いていた。煤か何かを思い切りそこに押し付けたような、洗濯しても取れそうにもないくらい黒々とした大きなシミである。
——そのシミはアレが足を付けていたところと合致していた。
その日から、私は昼寝をしなくなった。
あの悪夢のような出来事はあの日以降体験していない。もちろん、金縛りにも遭っていない。
アレが何を言おうとしたのか、今でも分からないし、分かりたくもないが、もし宅配業者が来なければどうなっていたかはなんとなく想像できる。最悪の結末だけは免れたのだ。あのおじさんは命の恩人といえよう。
だがもしまた昼寝をしてしまえば、今度こそは逃がしはしないだろう。きっとアレはいつまでもあの世界をひとり彷徨い続けるに違いないのだから。
読者諸賢も気を付けると良い。
オカルトに対して科学的に証明できると茶々を入れるのも結構だが、どうかごまんとある怖い話には巻き込まれぬよう。
特に青春を走る若人達よ。その無限のエネルギーに想像を膨らませることは貴く、美しいことだ。しかしそれは同時に、自身を滅ぼすほどの、消し去ることのできない負の可能性をも秘めていることをどうか心に留めていただきたい。
さもなくば私のような目に遭ってしまうので。
遺し物 狛咲らき @Komasaki_Laki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます