追想
青瓢箪
追想
ガウンを着て冬の朝、私は暖かな居間から庭先へ新聞を取りに出た。頬にまとわりつく白い息を感じ、凍てつく冷気にさらされた手指で紙の束を掴むたびに私はぼんやりと思うのだ。
一体、どうしてあの状況下で生き延びられたのだろうか。
冬が来るたびにそう思う。
私は温められた空気の居間へと戻りソファーに腰掛けた。
同じような寒さだったはずだ。
ガウンもコートもブーツも無く。生地の薄い縞模様の上下のシャツにズボン。
それだけで毎日を過ごしていたのに。
目の落ち窪んだムスリム。
骨と皮ばかりの棒のような人間たち。
前のテーブル上に新聞を置き、私は自身の手首の内側に彫られた番号へと視線を落とし、それをなぞった。
「ねえ、おじいちゃん」
隣に座って私の様子を見ていた孫が躊躇いがちに口を開いた。
「ベンジャミンのおじいちゃんは収容所で起こった出来事を話して、今、人に書いてもらってるんだって。本にしてもらうんだ。後世に残るように。おじいちゃんもどうかな」
「勝手なことを言わないのよ」
キッチンを磨きながら話を聞いていた息子の嫁が即座に孫に声を投げた。
「お義父さんの……デリケートなことよ。あなたがどうこう言うことじゃないわ」
嫁の言葉に私は曖昧な表情で頷いた。
孫はしまった、というように私の顔を見ると俯いて謝った。
「ごめんなさい、おじいちゃん。無神経だったよ」
孫に頷き返しながら私はかつて同様の申し出を受けたことを思い出した。
* * * * *
『収容所の生存者の証言を集めているそうなんです。どうでしょうか、貴方も。思い出すのは辛いでしょうが証言してみては』
あの若者が申し出てくれた時、私は今のように曖昧な表情を顔に浮かべていただろうか。浮かべることが出来たのだろうか。
つやつやとした赤ら顔のドイツ人の若者だった。
『僕の両親はレジスタンスでした』
本当だろうか。
自信を持ってそう言ってのける若者に私は訝った。敗戦後、ほとんどのドイツ人が自分はレジスタンスだったと答え、彼らの子供はそれを疑うことなく信じた。
そんなわけはないだろう。あの頃、猫も杓子も皆、ナチだったのに。
『僕の友人たちに収容所について尋ねると、皆はただの労働施設だと答えるんです。これは由々しき事態だと思います』
50年代後半まで、ドイツ人の大部分は収容所の実態を知らなかった。世界はアウシュヴィッツを知らなかったのだ。
生存者の言葉は無視され、語った多くのユダヤ人が否定された。
嘘でしょう、大ボラもいいとこよ、そんな途方もない話はあり得ないと––––
* * * *
「収容所の出来事を話したとして、それは後世の人間にとって有意義なことになるのかね」
私はかつて若者に返した言葉を孫に向かって再び返した。
「何か学ぶことがあるのかね。聞いた者が中に取り込んでプラスになることがあるのだろうか。人生を導く素晴らしい要素となり得るのかね?」
キッチンの嫁が手を止めて私の顔を哀れむように見た。
「……答えはノーだ。何も無い。収容所には何も無いんだ」
孫はうっすら涙を浮かべながら私に頷いた。
「わかったよ、おじいちゃん」
もうあの世界は終わったのだ。戦争はとうに終わり、この先の未来へと世の中は動き出した。
* * * * *
『〇〇号舎のやつら、夜中に死んだ奴を皆で食ったらしいぞ』
あれは本当のことだったのだろうか。
おそらく事実なのだろう。
おそろしく可憐で可愛い少女を隊員二人が個室へ連れて行った。数時間後、出てきた死体を片付けるよう彼らは言い渡した。
幼い子供が菓子が落ちている隊員の目の前に走り出てきた。隊員はその子供の足を掴み逆さにして持ち上げ、振り回して壁へと何度も叩きつけた。
隊員のセックス用に選ばれた美しい女が、次の朝には同じ房の女たちのリンチにあい、死んでいた。
何故、世界はあの状況をあそこまで放って置いたのだろうか。どうして神はあの世界を見過ごしたのだろうか。
50年代、ドイツでは何人ものナチスの高官が問題もなく要職につき、平穏な日々を送っていた。
あれだけの罪を犯しておきながら、何事もなく逃げ切れると奴らは思っていたのだろうか。あの世界を無かったことに出来ると思っていたのだとしたらなんとおめでたいのだろう。お笑い草だ。奴らには先見の目が無かったのだろう。
* * * * *
『本国で貴方のことを調べたんです。しかし手違いで収容所の記録では貴方は死亡したことになっていました』
あの若者がもう一度私の目の前に現れた時、私は彼の両親は本当にレジスタンスだったのだろうと信じた。
『収容所での貴方を覚えている生存者の方に会いました。その方は他の収容所へと移動して貴方と別れて以来、貴方に御礼を言いたかったと。どうですか、その方と会ってみませんか』
私が手を下したのは後にも先にもあの若者一人だけだ。収容所で私は一匹のユダ公も傷つけなかった。
私は事務員であり、極寒の中を縞模様の薄着で作業する骨と皮ばかりのあの世界を、暖かな部屋の窓からコーヒーを飲み、眺めていただけだ。
嘲笑混じりに、〇〇号舎のユダ公が共食いしたと語っていた隊員の話を私はタイプを打ちながら隣で聞いていただけだ。
嬲り殺した可憐な少女の死体を処理するよう隊員が命じたのは、私が雑用係に使っていた若い男のユダ公だった。
物欲しそうな子供の目の前で食べていた菓子を隊員の足下に放ってやったのは私だ。
セックス用の美しい女は私の順番が来る前に死んだのだから、私には手の出しようがなかった。
赤軍が来る前に、私は自身の腕に番号を入れ、頭を剃った。縞模様の上下に着替え、作業中に死亡したユダ公に扮した。幸か不幸か、私の風貌は理想的なアーリア人とは言い難かった。連合軍の爆撃で家族親類は既におらず、私は天涯孤独の身であった。
私は裁かれる立場にあるといえるだろうか。
答えはノーだ。
傍観者であるだけの者を犯罪者として扱い、一人の人間のその後の人生を奪うのは傲慢も甚だしい。
私こそがあの世界の被害者であるのだから。
「世の中には封じ込めるべき記憶というものが存在するんだよ」
私は当時の痛みを思い出しながら腕の内側の番号をさすり、ぽつりと独りごちた。
追想 青瓢箪 @aobyotan
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