五日目

 散木はふと目を覚ました。空は依然として鉛色の雲が低く流れていた。眠い目を擦り〳〵起き上がると、机に突っ伏して寝ていたらしい自分の背中に、何か被さっているのが分かった。其れはほのかに暖かかった。肩に手を回して掴んで見ると、あの生成りの毛布であった。其れが分かった途端、彼は胸の奥を小さな針で突かれた様な感じがして、途端に心悸が高鳴った。

 あの後、自分が此処で寝てしまってからこの部屋に来たのだろうか。其れで、使っていた毛布を持って来て自分の肩に掛けて出ていったのだろうか。そんな事を考えて居ると、切ない様な愛おしい様な、なんとも形容し難い気持ちになって、目を閉じ、毛布を掴んだまま胸に手を当てた。

 礼を言って返そうと、毛布を手に持ったまま寝室をそっと覗いたが、トレンチコートが粗雑に捨て置かれたシーツには只皺が寄って居るだけで彼女はもう起きているらしかった。

「お早う」

 散木が着替えを済ませて一階に降りて来ると、紅沙羅はすでに食事を済ませて、空の食器を運ぶ所であった。

「昨日は御免、有難うな。寒かったやろ」

 申し訳無さそうに目を伏せる散木に、紅沙羅は優しく微笑み掛ける。

「いえ〳〵。その、もう平気なんですか」

 散木は吽と頷いた。

「ほんで、今日はどないすんねや」

「昨日の本屋さんに行って、働かせて下さいと云って来るつもりです」

 紅沙羅ははっきりと答える。散木はまた、ゆっくりと何度も頷いて、微笑を返した。

「そうか、彼処にするんやな」

 はいと答えた紅沙羅は、その顔を見て突然思い出した様に云った。

「そう〳〵、朝ご飯お出ししますね」

 そう云って返事も待たずにキッチンの方へ駆けると、暫くして手に湯気の上る木製の椀を持って帰って来た。

「豆腐のポタージュです。子供の頃、風邪を引くと母親がよく作ってくれたので。身体も温まるかなと思って」

 紅沙羅はそっと椀を差し出した。それを受け取った散木は、掌一杯に其の温かさを感じた。立ち上る湯気の熱も、優しく彼の顔を濡らす。

「俺に作ってくれたんや、ほんまに有難う」

 驚いた様に礼を言われた紅沙羅は、視線を合わせず、はにかむ様に伏した目を泳がせる。その耳には微かに赤みが差していた。散木は銀の匙で一口掬うと、それを口に運んだ。

「美味しい」

 それはなめらかな口当たりで豆腐の風味と鰹や昆布出汁の旨味の奥に、生姜の香りも少しする、優しい味わいのポタージュだった。散木は次から次へ、匙を口に運ぶ。

 紅沙羅はそれを横目でチラ〳〵と見ていたが、とう〳〵出かける為に身支度をするとだけ云って早々に二階に登っていってしまった。

 散木はギュッと匙を握った。紅沙羅がその場から居なくなった途端、その姿勢で硬直したままどん〳〵頬が紅潮していく。心臓が痛い程強く脈打つのが分かった。

 十数分後、紅沙羅はすっかり身だしなみを整えて、あのトレンチコートを羽織ると、食べ終わっても呆然として椅子に座っている散木に本屋に行くとだけ告げて家を後にした。

 それから更に半時間後、廊下の鋭い固定電話のベル音がリビングにまで鳴り響いた。

「はい」

 冷たい空気に身を縮こませながら受話器を取ると、元気の良い若者の声が聞こえた。

 ――先生、担当のさかきです。今日の二時の新作の打ち合わせ、確認の電話を掛けさせて頂きました

 散木は受話器を持ったまま壁に寄り掛かり、目を瞑って頷きながら、電話越しの相手への愛想笑いのつもりなのか、気怠げな微妙な笑顔をして礼を述べる。

「嗚呼其の件か、分かっとるで。わざ〳〵ご苦労やったな」

 ――お預かりした原稿を社の方で拝見させて頂いて、最終的にどの誌に掲載するかの決定を致しますので、では

 若者は明るい声の調子のまま締め括ると、少しして電話はプツリと切れた。散木は軽くため息をつくと、食器を全てシンクに片付け、再び書斎に篭ってしまった。

 

 紅沙羅はその日も月暈書店を訪れていた。あの女店主は、彼女の顔を一眼見るや否や、色とり〴〵の本の森の奥から出て来て、嬉しそうな笑みで出迎えた。

「いらっしゃい。昨日のお嬢さんかしら」

 店の中に招かれた紅沙羅はハイと頷いて店の奥の方へと進んでいった。そして一番奥のレジの前まで来て足を止めた時、深々と頭を下げながらはっきりした口調で、女店主に決心を伝える。

「あの、すみません。私を此処で働かせてください」

 店主は辞儀をする紅沙羅をマア〳〵と起こして、朗らかに返事をした。

「勿論、いいわよ。お名前は何て仰るの」

 嬉しさで思わず目を輝かせている紅沙羅は、その店主の質問に食い気味に答える。

「紅沙羅と申します」

「紅沙羅さんね。私はおぽろって謂うの。此れから宜しくね」

 女店主の名は朧と云った。

 其れから紅沙羅は仕事内容についての簡単な説明を受けて、まだ客が来ないからと、店の奥にあるレジ付近の、ロッキングチェアに座って棒と毛糸を取り出し編み物をする朧の隣で、丸いパイプ椅子に腰掛けて、昨日作者本人に買って貰った〈轍魚〉のページを開いた。

 紅沙羅はあの散木が綴ったと云う文章を読んでいたが、なんだか自分の印象に有る彼とはまた違った様な気がして、ふと気になった事を少し訊いてみる。

「あの、散木先生って、如何云う方なんですか?」

 朧は編み物の手を止めて、暫時うんと考えた後、遠くを見つめながら微笑んで答えた。

「変な人よ」

「変な人」

 その言葉を聞いて、意外そうに目を見張る紅沙羅に、朧はええ、と云って肩をすくめクスリと笑う。

「一見優しくて紳士的な人かと思ったら、実は頑固で気難しがり屋で意地っ張りで、挙げ句の果てに理想家で」

 紅沙羅はその説に頗る驚いた。

「嫌よね、あの人。だって素直じゃ無いんだもの」

 可愛げが無いわ、と、朧は紅沙羅の手中の本を指差す。

「其れなんか読んでも、分かるでしょ。本人には悪いけど、捻くれてないと書けないお話ばっかりよ」

 そう云われて、再び頁に目を落としてみる。彼等と比べれば学の浅い紅沙羅には、こう云う文学なんて一寸ちょっとも解らないが、紙一杯に黒いインクで刻印された活字の列が、その上で意味を成す一つ〳〵の語彙が、朧の云わんとして居る事を何となく物語っている様な気がした。

「でもね、本当はやっぱり温かい人なのよ」

 紅沙羅はふと、昨日の夜の事を思い出した。仮題を〈一場の酔夢〉と謂うあの筋書きの数々を。

 茶色い格子の列を指でなぞると、ブルーブラックのインクが滲んだり掠れたりした跡に、万年筆の筆圧による凹凸が感じて取れた。薄明かりの中で読んだ其の白い原稿用紙の上には、一度書いた物を上から線で掻き消したり、米印で捕捉を入れたり、括弧で括ってみたり、全て同じフォントで、同じ形式に印刷された文庫本などには到底顕れないであろう、彼の心中の迷いが生々しく刻まれていた。

 頑固で、気難しがり屋で、意地っ張りで、挙げ句の果てに理想家で。紅沙羅は溜め息を吐いた。

 未だ彼の事を、何も知らない。

 知らないが、分かる気がした。

 

 午後二時、散木は出版社との打ち合わせで、今日もあの喫茶店に来ていた。少し遅れて来た彼は、メロンソーダが置かれた長方形の低いパイプテーブルに、先程の電話で榊と名乗った黎明出版の二十代位の若い編集者の向かい合わせに座った。散木は禿頭の店主に手で合図して珈琲を一杯頼むと、鞄から原稿用紙の束を取り出し、縦横をトン〳〵と揃えてから此れが例の新作だと云って、目の前でメロンソーダを飲んでいる彼に渡した。

「まだプロットだけやけど、一応大筋はこんな感じで行こうと思うてる」

 その原稿の一番初めには、〈一場の酔夢〉という題名が、暫定と云う注意書の上で記してあった。麗筆の走り書きですら〳〵と記されたその紙の束を手に取って、パラパラと一読した編集者は、ホゥと驚いた様な声を出した。

「あの散木先生が珍しい、今作は情話ですか」

 榊は早速渡された原稿を読み入る。其の様子を見て、散木は何となく都合が悪そうな顔で目を逸らして首の辺りを掻いた。自分でさえ此れで良いのかと疑問に思うくらい、余りにも従来の作風と違い過ぎると云うか、まるで甘ったるいメルヒェンの様だと謂うのが散木自身の印象であった。

 彼は若干眉を顰めた。

「別にええやろ」

「もしかして、最近何かお有りで?」

 散木が何のことだか分からないと云う感じで大袈裟にハア、と訊き返すと、若い榊はニヤ〳〵しながら云う。

「だから、先生ご自身に何か良い出会いが……」

 そこまで聞くと、散木は榊を睨みつけて指を差し、ド阿呆アホ、と呆れたように喝を入れると、彼の誤解を解こうと弁明した。

「だからちゃうねんて。俺かてお堅い政治物ばかり書いとらんと、ジャンルの幅広げな思うて、ホラ、年寄りばっかじゃ無くて学生とかにも読者層広げて印税たんまり頂いてまおうっちゅう算段やねん。そも〳〵何で俺が若い女なんかに色恋なんぞせなあかんのや。四十六やで、自分みたいな若造やあるまいし。変な詮索とかせんでええから此れだけ受け取って早よ帰らんかい。帰れや」

 榊は散木が思いの外ムキになったので、少し冷やかしてやろうとしてわざと大声でヘェと感嘆した。

「成る程、お若い方なんですね」

五月蝿うるさいねん」

 彼はそう云う散木の顔が赤くなっているのを認めて、ハイ〳〵と笑いながら原稿を受け取り、これだけ云って去って行った。

「失礼しました。では社の方で良く読ませていただきますので、先生もどうか御幸せに。お相手に想いを告げるのは早めの方が良いらしいですよ」

やかましいわ。自分そないに調子乗らん方がええで」

 彼が去ってから、散木は葉巻に火をつけて、フッと煙を鋭く吐くと、何やねん彼奴あいつ餓鬼ガキの癖に俺を揶揄からかいたいんや。喫茶に来てメロンソーダなんぞ頼む分際で、とぶつくさ一人で漏らしていた。その額には汗が滲んでいた。

 印税たんまり頂いてまおう、と云ったのは別段深い訳など無くて、ただ単に己への疑いを晴らさんとする弁解のつもりであった。それでも彼はそう云う様な謂わゆる下衆げすな台詞を口にしてしまった事を些か後悔していた。

 その癖、『告白は早めの方が良いらしいですよ』という冗談混じりの笑いを含んだあの声が、やけに胸に残っている自分が悔しかった。

 窓の外には鉛色の暗雲が、空に低く垂れ込めている。

 

 散木が帰宅してから数時間後、彼はもう既にスーツを脱いで、普段使いのゆったりとした紺色の長袍チャンパオに着替えていた。薄暗い空が更に夜に近づく五時頃、不意に廊下の電話が鳴った。

「はい」

 受話器を取ると、あの編集担当の榊がハキハキとした声で喋り始める。

 ――先生お疲れさまです、榊です。先程の企画会議で、作品の掲載誌が決定致しましたのでお知らせ致します

「毎度ご苦労。ほんで、何処なったんや」

 散木は電話越しに礼を云った。榊は更に淡々と事務連絡を続ける。

 ――週間『綺羅星きらぼし』です。一回の連載の文字数の目安は凡そ六千字程を検討していますが、それで宜しいでしょうか

 散木は受話器片手に頷きながら、いつもの癖で長袍チャンパオの襟の部分を弄りながら答えた。

「嗚呼、かまへん〳〵。態々わざわざ済まんな」

 ――いえ、此れが仕事ですので。あ、後それから一つ

 それから、と云うのに散木が怪訝そうに眉を顰め、襟を弄る手も止まると、榊は若干訴える様な演説口調になって云った。

 ――散木先生はご自分の気持ちにもっと素直になるべきだと思います。先生の想いを全てぶつければ、お相手にも必ず伝わるはずです

 散木の表情が硬くこわばり、眉がグッと釣り上がった。

「ええ加減にせえよ」

 低く、相手を威圧する様な声でそう云ったものの、榊はどこ吹く風で頼んでもいない励ましの文句を連ねる。散木は些か狼狽した。

 ――先生は元々魅力的な方ですから、どうか自信を持って下さい。どうせ『いい歳した俺が今更色恋なんて阿呆らしい、成就する訳があらへん』とか思うてはるんでしょ?自分に嘘吐いて

「お前もう喋んな。似非えせの旅州話ほど嫌いなもん無いねん」

 散木はあからさまに顔を顰めたが、顔の見えない電話を介した相手には、表情など伝わる筈も無い。榊の声色は、朗らかだがやはり若干の揶揄いを含んでいる様に聞こえる。

 ――了解いたしました。次お会いするときは、是非恋人さんも紹介して下さいね

 散木は受話器を持って身振り手振りをしながら早口で捲し立てた。

「だから今何に了解したんや。自分そうやってよう分からん事も彼れや此れや勝手に決めつける癖有るな。別にお前が思ってる様なんちゃうし、そんなんする気も更々無いわ。おい榊、ほんまに次舐めた事抜かしたら分かってんねやろな、社長に云うて飛ばして貰うぞ」

 其れだけ云って、乱暴にガチャンと電話を切る。散木は、自分の身体が若干熱を持っているのを感じた。途端に酷い疲労が襲い掛かって来て、思わず壁にもたれ掛かると、深く震えるため息を吐いた。

「何や彼奴あいつ。調子狂わせんなや」

 気付けば心臓が、疲れる程に鼓動していた。

 

 其の晩。

「仕事は如何やった」

「ええ、お陰様で楽しく働けそうです」

 お互いそう云う様な当たり障りの無い会話をしながらの無難な食事を終え、シャワーも済ませると、散木はリビングに、紅沙羅は寝室へと早々に離散した。

 

 散木の頭の中では、さっきの榊が発した言葉の数々が嫌と云う程にグル〳〵渦巻いていた。彼は笑っていた。きっとまだ若い榊は、良い歳して己の感情に惑わされている自分をただ玩弄したいだけなのだろうが、今になって散木は急に彼の助言を欲しているのであった。例えそれが冗談だとしても、斯くするべし、と明確に云って欲しかった。散木は紅沙羅の顔が思い起こされた。或る時、彼女は自分に対して、忌々しく秘めるべき過去を語り、そして涙を流した。又或る時は、持病に侵され気息奄々としていた自分を心配し、惜しげもなく尽くしてくれた。紅沙羅の笑顔を見る度に、たちまち奔流の如く沸き起こるこの気持が何なのか、人生経験の豊富な散木には分かりきった事である。

 自分は如何すべきなのか、何が正解なのか、其れとても彼の中での答はほぼ出たも同然であった。其れでも年齢やら、立場やら、或いは相手の事情やらを考慮すると云って、兎角逃げ出そうとする自分が居る。其れに云い訳を上書きして、正当化して結局後悔する自分が居る。

 然るにあのプロットはもう、出版社に提出してしまった。今更後戻りなど出来ないのである。

 『もっと素直に』。散木はポツリと呟いた。

「なんで嘘吐いてまうんねやろ」

 

 寝室に居た紅沙羅は、ベッドの窓辺に腰掛けて、今晩も小さなランプをつけて、あの小説の頁を開いていた。

 不意に雨が降って来た。初めはしと〳〵と沁みる様な微雨だったのが、次第に強くなっていって、数十分もしない内に、沛然と降り注ぐ灰色の嵐に変貌した。窓越しに轟々と曇った雨音と、凍てつく様な冷気とが伝わってくる。

 紅沙羅は活字の羅列から目を上げ、その雨を漠然と見ていた。其れはあの夜、彼女が初めてこの町を訪れた時と同じ雨であった。誰もいない駅で自分を無理矢理傘の中に入れたあの旅州話訛りの小説家の家に、まさか五日も留まるなんて思っても見なかった。そう考えながら手元に眼を遣り、頁をそっと撫でる。

 最果て町で過ごした非日常の瞬間が、パラ〳〵とブロマイドの様に思い起こされた。何処にも無い筈で、一度も来たことなど無いのに、何故か懐かしく感じる此の町。日々、心身を傷付けられていた惨めな一介のストリッパーでしか無かった自分を、新しい居場所に導いてくれたあの人。紅沙羅は眼を閉じ、深く息を吐いた。

 散木の上品な微笑みが、不意に頭の中に浮かんだ。そう云えば、自分が居候を始めてから彼は一度も此のベッドで寝て居ない。そう思った紅沙羅は、本を閉じ、机の上のランプの隣に置くと立ち上がった。


「紅沙羅、居るか」

 四角い窓枠に切り取られた灰色の雨空に、橙色の間接照明だけが仄かに灯る薄暗い寝室の中に、散木がふら〳〵と訪ねて来た。

「あ、散木さん」

 紅沙羅は明るい廊下から逆光で浮かび上がるそのシルエットを見て、ニコリと微笑んだ。

「何しとってん」

「私が居候を始めてからずっと書斎の椅子かソファで寝てらっしゃって申し訳ないから、今日は此処で寝て貰おうと思って、整えていたんです」

 紅沙羅は、彼の為に自分の使っていたベッドのシーツを替えて居るところであった。散木は其れを認めると、苦しかった胸が更につかえるような、締め付けられる様な感覚を感じた。

「ええねや。そんな気使わんで」

 其の声は何処か沈んだ風で、一種迷いの様なものを孕んでいた。紅沙羅はそれでも寝台のシーツを伸ばして居る。

 その瞬間、後ろに立っていた散木の両手は、紅沙羅の躯幹からだを優しく懐抱した。紅沙羅は驚きの余りその場で硬直しながら、高鳴る己の鼓動と背中から伝わる其の人の熱い体温とを只々感じていた。

「御免な。いきなりこんな事されて、嫌なのは俺かてわかってん」

 掠れた其の声は揺らいでいた。二人の沈黙の中で、窓越しに聴こえる豪雨の音が、只延々と響いて居るのみである。紅沙羅は下を向いて、彼の太い二本の腕が、やんわりと自分を擁して居るのを認めた。

 散木は全身が熱くなる感覚と、はち切れそうなほどに拍動する心臓の痛みを噛み締めながら、くぐもる声を振り絞って、終にこう告げた。

「好きなんや」

 紅沙羅は腕の中で相手の方へ顧みた。散木は其の身体を抱きながら涙の溢れそうな顔で居る。初めて見る、其の人の表情であった。彼女は頬をそっと撫でた後、其の体をギュッときつく抱き締め返し、微笑みかけてこう云った。

「私も」

 二人はそのままゆっくりと寝台に座り、静かに接吻をした。其れは浅く唇を重ねるだけの、温かく、そして驚くほど優しい口付けだった。

 散木は、自分の中に確固として有った何かに亀裂が入って、見る間に崩れ去ったのを感じた。其の途端、頬に熱い涙が細々と伝う。紅沙羅はそんな散木の隣で、只々彼の手をしっかりと握っていた。

 

 そうして後は、其の男のガサ〳〵とれた啜り泣く声が、囂々ごうごうと轟く沛雨はいうの中に、僅かに聞こえるのみであった。

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酔夢寞々たり 敦煌 @tonkoooooou

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