四日目

 昨日以降、紅沙羅があの無人駅に向かう事はなかった。

 朝食を済ませ、淡い色の曇天が広がる窓の外をぼんやり眺めていた紅沙羅に、朝の珈琲の一服を楽しむ散木はふと提案した。

「なあ紅沙羅、此の町に住むんねやったら何か仕事に就いた方がええんとちゃうか」

「今日にでも探しに行くつもりです」

 紅沙羅は散木の方を真っ直ぐに見て頷いた。彼は湯気の立つ珈琲カップを口に運びながら云う。

「せやかて自分、此の町の事そんなに知らへんやろ。案内したるで」

 紅沙羅は少し嬉しげに、有難うございますと頭を下げる。散木は何となく頭を掻きつつ軽く頷いて、椅子の背に掛けてあったジャケットを羽織った。

「ほな、ぼち〳〵行こか」

 今日は冷えるで、と呟きながら、その上からさらにコートとマフラー、そして中折帽を身に付けていく散木を見て、紅沙羅も慌てて準備をする。

 二人は白い息を弾ませながら商店街迄やって来た。散木は通りを挟んで立ち並ぶ店の列達を指差す。

「まあこの辺はよう見たかも分からんが、此処が一番働き易いんとちゃうかなあ。ちょっと路地裏なんか入ると酒場なんかも有んねんけど」

 紅沙羅はあたりをぐるりと見廻した。活気ある商店街の小さな店の数々。八百屋も、喫茶も、服屋も、本屋も、全てが懐かしいような、どこか既視感のある不思議な雰囲気であった。

「そんなコロ〳〵辞めるわけにも行かへんさかい、考えてじっくり選びや」

 紅沙羅はハイと言って、それからは各店に少しずつ顔を出して行った。どこの店主も感じが良く、散木とは顔馴染みの者も何人かいた様であった。

 『月暈つきかさ書店』の看板が出ている本屋に入ると、薄暗い店内に所狭しと並ぶ本棚の森の奥から、五、六十代くらいの、少なくとも散木よりは歳上であろう細身の女店主が、ニコ〳〵と微笑みながら彼らを出迎えた。

「あら先生。いらっしゃい」

「いつもお世話になっとります」

 二人は顔馴染みの様で、散木も帽子を取って、笑顔で軽く辞儀をする。

「其方の方は、恋人さんかしら」

 散木はドキリと心臓を掴まれた様な気がして、少し狼狽した様子で顔を曇らせた。

「ほんまに揶揄わんといて下さいよ。そんなんちゃいますねんて」

 御免なさいねと愉快そうに笑う店主を他所に、散木は誰ともを合わせず本棚の列をキョロ〳〵と眺めていた。紅沙羅がその横顔をチラリと見遣ると、何となく、頬のあたりに赤みがさしている様にも見えた。

「今日は彼女の仕事を探しに来たんです。此処やったら何かおまへんやろか」

 店主は嬉しそうに云った。

「其れなら、うちは大歓迎よ。丁度人手も足りてないし、お嬢さん、もし御本に興味が有ったら来て下さると嬉しいわ」

 有難うございますと頭を下げる紅沙羅を見て、店主はそう〳〵と何かを思い出した様に奥に小走りで消えていった。間も無く帰って来た彼女の手には一冊の本が握られていた。表紙には、大雨の中、地面に美しい山女魚ヤマメか何か川魚のむくろが横たわっている写真が大きく載っていた。

「これ。〈轍魚てつぎょ〉って謂う小説なんだけど、其処に居る散木先生が処女作でお書きになった話なのよ」

 散木は先程とは違う意味で頗る慌てた様子で、語気を強くした。

「何でまだそんなもん置いてはるんですか」

 店主はケラ〳〵と可笑しげに笑った。

「何でって、そりゃ売れるからに決まってるでしょう。凄く面白いから、お嬢さんも一冊如何いかが?」

 そう云われた紅沙羅は何と無く興味が湧いて来て、その文庫本の表紙と、散木の方とを見た。

「欲しいか」

 散木は低い声で訊いた。紅沙羅はコクリと頷いた。

「ほな俺が買うさかい、わざ〳〵金なんか払わんでええよ」

 別にそんなおもんないで、などと一人で呟きながら、革の財布から札を取り出し、奥のレジで支払いを済ませると、ハイ、と云って紅沙羅に本を手渡した。

 其れから暫くはその月暈書店に居て色々見ていたが、紅沙羅は又連絡致しますと云って二人で店を後にした。

 昼になって、色々な店を一通り巡った後、二人はまたあの行きつけの喫茶店スコーピオに来ていた。

「小さい町やさかいに、ご飯屋もそう沢山は有らへんねん。済まんな」

 散木は申し訳無さそうに笑った。禿頭の店主がまた、ペコ〳〵しながら彼らを迎える。今日はやけに日替わりランチを推してきたので、二人ともそれをオーダーして、案内された席に座ると紅沙羅もこう云った。

「本とか色々買っていただいたり、何時迄も家に居てすみません」

 散木は彼女の手の中の文庫本を横目で見ながら呆れた様にハハハと笑う。

「別にええよ、好きなだけ居たらええ。なんか申し訳無いな、あのオバハンいつもそうやねん」

「いえ〳〵、凄く素敵で愉快な方で、あの本屋さんにしようかなと思って居ます」

 それに先生の本もいち早く読めますし、と付け加えるその顔は朗らかで、目には光が宿っていた。散木は先生と呼ばれて少し恥ずかしいのか、頭を掻きながら、それでも彼女の明るい笑顔を見る事ができて微笑ましそうに云った。

「先生て何やねん、ええよ普通で」

 話しているうちに、間も無くして店主が木のプレートを二つ持ってテーブルに来た。その上には、小洒落た魚のレアステーキと白いスープ、そしてサラダが乗っている。

「鰹のステーキです。それに豆腐のポタージュとサラダ。良いでしょう、女性向けメニューで考えてるんです」

 焦げ目で縁取られた鰹の深紅の身に、バルサミコ酢とオリーブオイルと黒胡椒のソースがかかって、上にはレモンの輪切りとローズマリーが一本添えられている。

 二人とも一口食べるやたちまち舌鼓を打ったので、店主は上機嫌で厨房へ帰っていった。

 食事を進めながら、紅沙羅はふと気になって散木にこう訊いた。

「結局、此処は何処なんですか?最果てって如何云う意味なんですか」

 散木は食べる手を止めた。

「知らへん人もおるから、暗黙の了解でこう云う事はあんまり人前で云われへんのやけど」

 姿勢を前のめりにして顔を彼女に近づけ、視線を店内に泳がせながら声をやや潜めて答える。

「如何やら違う世界線らしいのや、俺らが元いた所とは。別に異界だとか霊界との境だとかそう云う訳では無いねんけど、只々存在するもうひとつの世界なんやて。別にお互い座標が対応してる訳でも無く、苦しい現状から逃避したいと強く思う人の近くに突然現れる。せやから旅州の俺も華都の自分も、おんなじあの駅に流れ着いたという事らしいねん」

 紅沙羅はヘエと頷く。散木も再びナイフとフォークを動かしながら云った。

「まあ、俺にもそれ以上の事は分からんけどそう云うもんなんやろな。あっちに遊びに行く事も出来ない訳や無いし、こっちの世界にも隣町、其の又隣町が有るのや」

 その話を聞いた紅沙羅には、逃避という言葉が何故か深く印象に刻まれていた。目の前にいる此の人とて、元は理不尽で息苦しい世間から溢れて、逃げ出して来たうちの一人なのだと。

 

 其の夜の事である。

 ゴホ〳〵と、隣の部屋から仕切りに咳込む音が聞こえた。小さな卓上のランプがついた薄暗い寝室で、ベッドの上に座っていた紅沙羅は、壁にそっと耳を寄せる。

 隣は散木の書斎であった。原稿を書き進めていた所で突然発作的な咳に見舞われた彼は、肩を丸くして口に手をあてがって、出来るだけ声を抑えようとしながら、喉奥から込み上げるもどかしさに苦しめられていた。ギュッと目を瞑るので、滲む涙が頬を濡らした。

 紅沙羅は時折、ヒュー〳〵という北風にも似た呼吸の音も耳にした。そこで昨日、昔身体を壊したと云っていたのを思い出し、如何しようも無く心配になって、彼の様子を見ようと温かい寝室から冷気の張り詰める廊下に出た。

 然し、書斎の前まで来て紅沙羅は立ち止まってしまった。今部屋に入り散木に話し掛ける事に対して、漠然とした気まずさと云うか、羞らいと云うか、その類の気持が湧き上がってきたのである。本来なら一刻も早く彼を助けるべきなのが、今の紅沙羅にとってはとても勇気のいることに思えた。

 ふと、咳が止まった。紅沙羅も決心してドアノブに手を掛けかけたその時、其れはスッと内側に引かれた。

 中からは、黒の部屋着を着た散木が出てきた。彼の顔は度重なる咳の疲労でやつれ、前髪は乱れ、額には汗が滲んでいて、苦しそうに肩で息をしていた。

 その目を見た紅沙羅は何も云えなくなってしまった。

「心配さしたな。ごめんな」

 散木は小さく笑って、申し訳無さそうに謝った。その声はいつもより小さかったが、いつもの何倍もガサ〳〵としていた。紅沙羅が何も答えぬうちに、立て続けにこうも云った。

「もう大丈夫やから」

 それから、咳止めの薬を飲むとだけ告げると、彼はゆっくりと暗い一階へと降りていった。紅沙羅は今しがたドアの前で話し掛けるのを躊躇した事を、何となく後悔した。

 その丸い背中は、いつに無く小さく見えた。

「あの、ベッドで寝られたら如何ですか」

 散木が階段を登って来て、再び書斎の前に来ると紅沙羅は云った。しかし彼は微笑みながらそれを断った。

「平気や。いつもやねん、こんなん」

 それからもう一度、すまんな、ゆっくり寝や、と謝ると、散木は再び書斎に籠ってしまった。

 それから暫くはコン〳〵と云う苦しそうな咳が続いた。然しそれはすぐに止んで、部屋は再び真冬の夜の平安な静寂を取り戻したのである。

 しかし紅沙羅は、床に入ったまま眠れずにいた。

 普段の散木の愉快そうに笑う顔と、先程の力無い微笑みとが、二つ続いて脳裏によぎる。ギュッと胸が締め付けられる様な気がした。

 

 若い頃、過労が原因で生じた虚弱体質を、二十年経った今も尚引き摺っている自分が嫌いだった。

 病は人の心すらも惰弱にする物である。

 服の袖で口許を覆ったり、或いは床に臥して毛布に顔を埋めながら、咳き込む度に起こる腹部の痛みと倦怠感に冒されている時、彼は沈鬱としてひたすら惨めであった。目を瞑る事で涙腺が圧迫され、溢れ出て頬を濡らす涙も、もはや本当に其れに因るものかは分からない。そうやって咳の一つすらも辛抱出来ず、虚弱に抵抗出来ない自分自身に、如何にもならないと分かってはいるものの頗る尊厳が傷付けられた様な気がして、何よりそんな時ふと鏡に映る、髪が乱れ疲労でやつれ果てた顔は、彼にとって死ぬ程見たく無い物の一つであった。

 今夜もそうやって発作が出て、雲で月の見えない薄暗い部屋の中で、隣で紅沙羅が寝て居るから、となるだけ声を抑えようと努力したものの、彼女は自分を心配して部屋の前まで来ていた。『ベッドで寝られたら如何ですか』、と云う、あの真っ直ぐ自分を見上げた目と声が心の中で何度も繰り返し反芻された。そう云われる事に対する羞ずかしさと申し訳無さはあったものの、あんな風に真摯に身体を気遣われたのは何年振りだろうか。思えば彼は、この町に来た時から今まで、ずっと独りで居たのであった。

 兎に角散木は、己がまだ最果てに来たばかりの若い頃から未だに脱却しきれていない様な気がして哀れだ、と、口を手で覆い、その苦痛と自己嫌悪に顔を歪めながら思っていたのである。

 其れでも咳止めが効いてくると、薬のせいでぼんやりした頭と疲れ切った重い身体を冷たい机に突っ伏して、吸い込まれる様に深い眠りに落ちて行ってしまった。

 

 思えば、初めて他人にあれ程まで心を尽くされたのだろうと、紅沙羅はこの町での出来事を回想した。初めて会ったあの夜、コルネイユという名前の洋食屋に入った時、散木は彼女に云った。

「つまり、この町には望んで来るもんなんや」

 今の紅沙羅には、その言葉の意味が漠然とだが理解できた。この最果てに在ると云う町で、散木と謂う小説家と出会って、自分の中にある何かが変化しようとしているのに彼女は気付いていた。彼は見知らぬ町に迷い込んだ自分に、食べ物と仮の棲家を、否、それだけではないかも知れない、もっと大きく大切な物も与えてくれた様に思った。彼はストリッパーであると告白した自分を、決して軽蔑などしなかった。一人の女性として大いに尊重してくれた。彼の大きな手の温もりを思い出すと、切ない様な苦しい様な、よく分からない気持になる。

 紅沙羅がこの感情に対して何か呼称する事は出来なかった。何故なら、其れは彼女にとって生まれて初めての感情であったからである。

 紅沙羅は再び思い立って、音を立てぬ様そろりと寝室を出た。書斎の扉の前で、一度深呼吸してから小さくノックをする。

「散木さん」

 小声で呼んでみたものの、返事は無かった。ドアを少しだけ開いて、細い隙間から中を覗くと、紅沙羅は机の上に突っ伏している彼の姿を認めた。扉を開けて、そっと書斎に足を踏み入れる。散木は奥の窓側の机の上に伏して静かに寝息を立てていた。その顔には月明かりに因る深い影が落ちている。

「散木さん」

 もう一度、肩を優しく叩きながら名前を呼んでみる。彼はぴくりとも動かなかった。然し眠って居る彼の無防備な身体は、冬の夜の凍てつく空気に曝されて、冷え切っている様であった。紅沙羅はせめてもと思い、一度寝室に戻ると、自分が使っていた生成りの毛布を、冷たいその肩に掛けてやった。

 その時ふと、机上に散らかって居る沢山の原稿用紙が目に留まった。もしかすると彼が見せるのを拒んだ原稿なのかもしれない、そう思った紅沙羅は、作者を起こさぬ様にと、そっと其れらを掻き集めた。茶色の格子枠に縁取られ、ブルーブラックのインクで綴られたその物語を読み始めた。

 仮題は『一場の酔夢』と謂った。

 紅沙羅はその無人駅で偶然出会った男女の淡い恋模様が織り成す、美しくも切ない話に引き込まれ、時間も忘れてて話を追って行った。そうして全てを読み終わった時、ふと下で寝ている散木の横顔が目に入った。途端にまた胸が苦しくなる。そして彼女はハッとした。

 そうか、彼が書いたのか、と。

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