三日目

 散木は、其れからは寝るのも忘れて、早暁の時分になってもひたすらにペンを走らせていた。一夜のうちに七枚もの原稿用紙が、故事ものがたりの構想にって満たされた。飲みかけの珈琲はとっくに冷めたままだったが、さっき迄その中に浮かんでいた月は、如何やら西方へと巡って行ってしまった様で、ただ夜の終わりの頃の微妙な空色を水面に映し取っていた。冬の黎明は酷く静寂で、薄暗い書斎には只カリ〳〵とペンの紙を引っ掻く音だけであった。

 散木はふと顔を上げた。正面の窓の外は、僅かに太陽光を取り戻したらしい紺色の空が広がっている。そのまま立ち上がって首を伸ばし、窓の左側を覗くと、東から橙色の朝日がグラデーションを伴って上ってくるのが認められた。

「朝や」

 ふと下を見ると、机の上には飲み残しの珈琲カップと、走り書きで文字の記された原稿用紙とが散らかっていた。それを見た途端、彼の身体には重く凄まじい疲労と首から肩にかけての凝りが一気に降りかかってきた。

 散木は苦笑した。彼はこう云う類の衝動に弱いのが己の悪癖である事を自負していた。昨晩も大概そうで、夕飯を食べてから突然頭の中に天啓とも言える様な発想が怒濤の勢いで流れ込んで来て、それを文字として書き留めるのに我を忘れて取り組んでいたのである。今は歳を重ねてまだ穏和になった方だが、まだ若い大学生の頃は一瞬の愉悦を求めて街に出てよく遊んだもので、酒も煙草もその頃始めた事だ、と散木はふと回想した。

 暫くして、椅子を机の下に仕舞って少し伸びをすると、冷たくなった珈琲を一思いに飲み込んで、空のカップだけ持つと、まだ夢の中であろう紅沙羅を不用意に起こさぬよう、忍び足で一階へと降りていった。台所のシンクは料理の後綺麗に掃除されていた。洗った皿や鍋が重ねて伏せた状態で置いてあったので、その隣にカップを放って、早朝の冴ゆる冷気に身を震わせながらリビングのガスストーブに電源を入れてソファに腰掛けると、散木はそのまま深い眠りに落ちていった。

 

 ふと目を覚ますと、外はすっかり明るくなっていて、雲一つない冬晴れの空が窓から燦々と光を照らしていた。ソファで居眠りしていた散木の身体には、いつの間にかベージュの毛布が掛かっている。アンティーク調の壁掛け時計は午前の九時を指していた。立ち上がって、目を擦りながらあたりを見回すと、机の上に小さな紙切れが置いてあった。如何やら、紅沙羅から散木に宛てた置き手紙の様である。

 “散木さんへ

 今まで泊めて下さって有難うございました。お疲れの様なので起こしませんでしたが、今日も駅で電車を待ってみます。もし夜迄に戻らなかったら、紅沙羅は行ったんだと思ってください。それでは、取り敢えずさようなら”

 散木は文面を一通り読むと、それをまた机の上に放っておいて、ノロ〳〵と二階に登って行った。暫くすると今日も紅酒ワイン色のベストに灰のジャケットと云う出立ちで降りてきて、原稿用紙の入った紙袋と万年筆を鞄に入れると、ゴワ〳〵したウールのコートを羽織って家を出て行った。

 

 紅沙羅は今日とてあいも変わらず、電車の一向に来る気配も無い無人の駅でひとり頓馬とんまの様相で突っ立っていたが、自分でも元の家に帰ったとして、本当にそれが自分の為になるのかと幾らか疑いを持つ様になっていたのである。

 彼の家の布団は暖かかった。

 夜が来ても、枕を涙で濡らす事すら無かった。

 紅沙羅は悩んだ。華都の裏町の貧しい家に生まれてから二十余年もの間、彼女の精神を束縛していた、現代社会の末端に居ながら必死で保ち続けて来た生活に対する強い義務感が、今まさに崩れ掛けようとしていた。

 北風の中で、初めて泊めてもらった一昨日の晩の、大雨の降り頻る中二人で傘をさして歩いた、あの時の灰色のコートの感触を思い出した。重くてゴワ〳〵していたが、今着ている朱殷色ボルドーのトレンチコートなんかより、はるかに温かかった。洋食屋で食べたナポリタンは、幼少の時期のクリスマスの夜、家族で電車を乗り継ぎ〳〵行ったファミリーレストランで食べた、年に一度の御馳走の味がした。

「有難うな」

 ふと彼女の脳裏に、こう云う散木のガサ〳〵した温かい声がこだました。そう云えば昨晩も、生まれて初めて他人に料理を振る舞って、あんな風に人に感謝されたのは、自分に宛てた有難うと云う言葉を耳にしたのは、果たして何年振りだろうか。何故あの小説家は、偶々この町に流れ着いた何処の馬の骨とも知らぬ自分に対して、見返りすら求めず此処まで施すのだろうか。人とは、街中で一度ぶつかっただけのほぼ初対面の者に、あんなに和やかに接するものなのだろうか。散木の考えが魔訶不思議に思えて、彼女には理解出来なかった。

 あんなに笑ったのはいつ以来だろう。一人暮らしのアパートで、深夜の下劣なバラエティを観て、カップ麺を啜りながら鼻で笑うのとは違う。人と笑いという媒体を介して、喜びや楽しさを共有する。これは今まで通り華都の裏町に住んでいれば間違いなく無いだろう。

 彼と一緒にいて楽しい、嬉しい。揺らぐ心に、潜在意識が語りかけた。

「辞めよう」

 紅沙羅は快晴の空を仰いで、ぽつりと呟いた。

 それからまた駅を出て、白い息を弾ませながら町の中心部の方へと歩いて行った。


 『喫茶 スコーピオ』の看板が掛かったドアを開けると、小さなベルがチリンと来客を知らせた。散木が首を伸ばして店内を覗くと、蝶ネクタイで腰に黒いエプロンを付けた、禿頭とくとうに眼鏡の六十代位の店主が、いそ〳〵と近づいてきた。客が来た時に彼が何も言わず、ペコ〳〵と辞儀をしながら笑顔で手を捏ねるのは何時もの事である。散木は軽くその方を見てから、窓際の適当なカウンター席に座った。メニュー立てには手書きにラミネート貼りの品書きが一枚立ててあった。散木は一読すると、ずっと背後でニコ〳〵しながら待っている店主に振り返って、表を指差しながら云った。

「マスター、ほなピザトーストと珈琲のセットで」

 ハイ〳〵と答えて伝票に書き込むマスターを他所に、散木は机の上の花瓶に目を留めた。日を受けて煌めく小さなガラスの花瓶には、六枚花弁の蜂蜜の様に馨しい白い花が二、三本ほど挿してあった。

「水仙ですか。ええ趣味してはりますなあ」

 伝票を漸く書き終えたらしいマスターは、また嬉しそうに手を捏ねる。

「そうでしょう。花屋さんにおまけして貰ったんです」

 散木が其れにヘェと感嘆すると、マスターは髪の疎な禿頭を下げて、厨房へと下がっていった。

 散木は、カウンターに置いた鞄から書きかけの原稿を取り出した。キッと真剣な表情になって、自分の書いたプロットを一通り読み直しながら万年筆の蓋を取ると、早速其れを校正し始める。時期に注文した料理が運ばれても、其の方をちらりとも見ずただうんと返事をすると、ペン入れする手を辞めない。左手でトーストを食べながら、何やらぶつ〳〵と呟きながらひたすら物語を書き綴るのであった。

「出来た」

 腕時計の針は午後二時を指していた。散木はあれから凡そ五時間もの間、ひたすら紙に万年筆を走らせていたのである。

 そのストーリーは、こうであった。

 とある小さな町の無人駅に、若い女が訪ねてきた。彼女は不条理で目まぐるしい現代社会の生活に疲れ、あてもなく旅をする中でこの駅に降りたのであるが、其処である男と出会う。彼もまた、平凡で彩の無い退屈な日々を過ごしていた。女は旅をする上で数日間彼の家に泊まっていたが、その非日常の中で徐々に二人は惹かれあい、最後の晩、男は女に『旅を辞めて、ずっと自分と一緒に居てくれないか』と告白をするのである。

 ここまで読み返して、散木はハッと顔を上げた。

「何やこれ」

 その声は震えていた。作品の出来が粗悪だったわけでは無い。寧ろ、彼にとっては今までの作風を捨てた画期的なプロットであった。

 然し、それは余りにも彼自身の体験、そして心情に似ていた。この男に、いつ己を投影しただろうか。そも〳〵なぜ自分は、唐突に恋愛小説などを書こうと思い立ったのだろうか。彼は些かの羞恥と焦燥に駆られた。

 それでも散木は、鉤括弧で括った最後の言葉が、自分の本心である気がして仕方無かったのである。

「散木さん」

 背後から、知った声が自分の名前を呼ぶ。散木は心臓を掴まれたかのような気持がして、跳ねるように振り向くと、其処には紅沙羅が微笑みながら立って居た。

「何やねん、ほんまに吃驚びっくりしたで」

 息を吐いて、胸の辺りに手を遣りながら席から立ち上がる散木に、紅沙羅は御免なさいと言って可笑しげに笑った。

「電車は、今日も来ませんでした」

「ええよ〳〵。何時いつ迄でも泊めたるから」

 散木はそう云いながら、心の何処かで安堵する自分が居る事を感じていた。顔がじわ〳〵と熱を帯びてくるのを感じ、堪らず彼女から目を逸らして、其れから机の上に散らかった原稿用紙を片づけはじめた。

「ずっと書いてらしたんですか?」

 紅沙羅は興味ありげな様子で訊く。

「ああ、まあ、せやねん」

 散木はなんだか気不味くて曖昧な返事しか返さぬ様になったが、紅沙羅は依然として

「散木さんの書くお話、読んで見たいです」

 散木はそれを云い終わるか終わらぬかの内に彼女の方に振り向いて、駄目や、と語気強く拒んだ。首を傾げる紅沙羅の不思議そうな瞳を見て、後から慌てて弁明をする。

「今は未だや、未だ企画段階やさかい。汚い落書きやから、人に見せるもんとちゃう」

 紅沙羅は残念そうに、そうですかとだけ云った。散木は今度は気を悪くしたのか、彼女を自分の隣の席に座らせて、卓上に立っているメニュー表を見せた。

「俺が持つから、何でも好きなもん頼み」

 紅沙羅はこれ以上色々施されては悪いと思い幾度かは遠慮をしたが、遂にその押しに折れてカスタードプリンを注文した。身辺の色々が落ち着くと、散木は天井を仰ぎながら不意に訊く。

「どないや」

 紅沙羅は其方に降り向いて答えた。

「一、二時間くらい待っても来なかったので、商店街で買い物をして居ました」

 成る程、と唸った後、散木はあくまでも自分の経験則だと断ってからこう云った。

「せやったら、もう来えへんのかも分からんよ」

 暫時、二人の空間は静寂に包まれる。

「ええ、そんな気もします」

 紅沙羅はぽつりとそう云って、窓から商店街の景色をぼんやりと眺めた。その目から、憂の色はほぼ消えていた。


 その夜、時計の針も既に十時を回り、そろ〳〵寝ようとする頃の事である。リビングのソファに座っていた紅沙羅はふと気になった事があったので、テーブルでぼんやりと虚空を見つめながら、ウイスキーと葉巻を嗜んでいる散木にこう問うた。

「散木さんは、何故この町に住んでらっしゃるんですか?」

 散木はちらりと其方に振り返った後、大義そうに葉巻の火を鼈甲べっこう色の硝子製灰皿に捻じつけて消すと、ゆっくり話し始める。吸殻からは、細々と糸の様な煙が揺らぎながら昇っていた。

「越してきたんや」

「引っ越しですか」

 へえと感嘆する紅沙羅の声にせやねん、と答えてグラスの縁に唇をつける。

「俺、こないに旅州話りょしゅうわ訛りやろ。実は此処に来る前までは、ずっと旅州の陳野ちんやって所で新聞社に勤めとってん。夢諦めてな」

「夢、ですか」

「せやで、其れが小説家やっちゅう話やねん」

 琥珀色のウイスキーが僅かに底に溜まったグラスを傾けると、氷の崩れる時のカランと澄んだ音がした。それから散木は、また遠くの方を眺めて記憶を辿りながら、少しずつぽつ〳〵と、自分の身の上を話した。

「未だ若かったさかいな、大学出て、自分の書くもんに自信も何も有らへんくて。其れでも文字は書いとりたかったから、地方新聞の政治記者としてずっと働き詰めてた。せやけどガタが来てもうたんやろうな。別にほんまに就きたくて就いた職業でもあらへんのに、休みなんて当たり前の様に無い、上司はやけに厳しい、仕舞いに身体壊して、嗚呼社会ってこんなに厳しいんか、もう俺は生きて行けへんのちゃうか、いっその事消えてもうたら楽やろなあなんて思うたりもした。思えば丁度其の頃や、電車寝過ごしてこの町を訪れたんは」

 暫時の沈黙の間、散木は依然としてグラスを片手に天井を仰ぎ見ていた。ソファーの紅沙羅は、只下を向いていた。

「御免なさい。嘘をついて居ました」

 散木は、俯いたままこう告白する紅沙羅の方を少し見た。

「言いや」

 散木は落ち着いた調子で促す。紅沙羅はくぐもった声で、彼にこう告げた。

「本当は私、ダンサーなんかじゃないんです。華都の裏町の、小屋みたいな汚い劇場でストリッパーとして働いているだけなんです」

 そうして、紅沙羅は自分を語った。

 昔から家に金銭的に余裕がなかった事、独り立ちしてから、稼げると噂のストリップ小屋に足を踏み入れてしまった事、先輩の嬢たちにいびられながら働いている事、其れでもまだ足りなくて、毎晩淫売に明け暮れざるを得ないという事、どうせ自分は誰からも愛される事は無い、何度も死にたいと思った事。泣きじゃくりながら、己の身の上と心の内を、散木に全て吐露した。泣くつもりなど更々無かったのに、言葉と共に涙と嗚咽が零れ落ちる。散木はその様子を見て、椅子から立ち上がると、震える背中の傍にしゃがんだ。

「気の毒にな。ほんま辛かったやろうて」

 散木は咳込みそうになりながら咽び泣く紅沙羅を見て、胸の締め付けられる様な気持がした。

「今日、漸く心が決まりました。此の町に住みます」

 紅沙羅は俯いたまま、しかしはっきりとした口調で云った。膝の上で握る小さな拳を、散木の掌を優しく包み込む。

 初めて触れたその手は、大きく、温かかった。

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