二日目

「お早う。よう寝れたか」

 冬晴れの翌朝、眠りから醒めた紅沙羅が身の支度を済ませてリビングへ行くと、散木は茶のネクタイに濃紺色ネイビーのベスト姿で居て、太い葉巻を吹かしながら、ソファに腰掛けて新聞を読んでいた。チリ〳〵と小さな音を立てて燃える古いガスストーブの近くに干してあったコートは、もうすっかり乾いている。散木は紅沙羅の姿を認めると、新聞から目を上げてこう云う風に云った。

「昨日は有難うございました」

 紅沙羅が深く辞儀をすると、散木は礼なんかええから、と軽く笑った。

「せや、自分飯食うて無いやろ」

 そう云うと散木は、小太りの腹を揺すっていそ〳〵とキッチンの方に消えて行った。パン焼き器に分厚い食パンをセットすると、熱した黒いフライパンでベーコンをじっくりと焦げ目のつくまで焼いて、そこに慣れた手つきで卵を割り入れる。チンと音がして丁度トーストが焼けると、その上にベーコンエッグを乗せて塩胡椒を少々振り掛けた。それから戸棚から小さいカップを取り出して魔法瓶から熱い珈琲を注ぎ入れると、その皿とカップを持って、又いそ〳〵とリビングへ引き返して行った。

「待たしたな。今作ってきたから食うてや」

 香ばしいベーコンの香りと、馨しいトーストの甘い匂いと、香り高い胡椒とが湯気と共に立ち昇っている。そう云って卓上の細長い食器入れから、ピカ〳〵した銀色のフォークとナイフを取り出すと、息を呑んでいる紅沙羅に差し出した。彼女はナイフで卵黄を突き割ってから、両手を忙しなく動かしてトーストを口に運ぶ。一口口に入れた瞬間、紅沙羅はその絶品たる味に、震える溜め息のように思わず言葉を漏らした。

「美味しい」

「美味いやろ。最近知ってはまってもうてん、其れからずっとこればっかり食うとんねや」

 散木は美食家らしい丸顔に頬杖をついて、微笑ましげにその様子を見ていたが、紅沙羅の眼や鼻が段々赤くなっていくのを目にして、慌てた様子で席から立ち上がり、その背中に手を添えてどないしたんや、と訊いた。紅沙羅は込み上げてくる感情にどうしたらいいか分からず、漸く口元を抑えながら云った。

「今までこんなに人に優しくされた事が無くて、本当に嬉しいです」

 散木はそれを聞いて安心したのか、朗らかにケラ〳〵と笑った。

「何やねん。びっくりしたわ」

 その後も散木は紅沙羅が食べている様子を微笑みながら見ていたが、食べ終わる頃になって、急に声色を低く落として真面目な雰囲気に変えると、あの話を切り出した。

「ほんで今日どないすんねや。また待つんか、あの駅で」

 それはまだ若年の紅沙羅の人生に於いて、非常に重要な岐路であった。彼女は未だ心の中に些かの迷いがあるようで、それを聞いてから暫時は俯いて考えたが、結局はいと答えた。散木はゆっくりと腕組みをしてうんと唸った。

「別にええねんけど、よう考えるんやで。来えへんかったらまた帰って来や」

 彼はそれだけ云うと、使い終わった食器を片付けにキッチンへと消えて行ってしまった。それから、掃除の良くされた古い流し台にその皿やカップを置いて、じきに気持の整理も付くさかいな、と一人呟いた。

 紅沙羅は其の日も、冬の風の鋭く吹き荒ぶ誰もいないプラットホームで、元いた不条理と云う漠然とした観念の蔓延る世界へと、帰る為の電車を待っていた。彼女の心中には、帰りたいと云う自発の願望よりも、帰らねばならないと云った風な或る種の強い義務感が有って、それが彼女自身を拘束していたのである。

 灰色の北風の中で、紅沙羅は此処に来る前のネオンに彩られた退廃的な日々の生活を回想していた。

 

 紅沙羅は、その本名を陳麗チェン・リーと謂った。

 彼女はいつも、夜になると華都郊外に建つ、或る小屋に姿を現す。

 其処は古ぼけ黒ずんだ建物のひしめき合う、場末のネオン街の一角に有る、名も無き小さな劇場であった。劇場と云っても、正規の役者の居る様な大層なものではない。そも〳〵の話、その劇場が国の法規に則って運営されているかどうかすら怪しい点の一である。

 此の陳麗のように、華国社会に潜む理不尽の餌食と成りかけている様々の事情を抱えた若い娘達の、唯一と云っても過言では無い居場所であった。

 夜も更けて、午後の八時から九時頃を回ると、劇場の周りに男たちの人集りが出来始める。門の所に控えている黒のベストに蝶ネクタイ姿のボーイが、彼等の手に握られたチケットを切って行く。そうして其の人集りは暗く蒸し暑く狭苦しい、看板の毒々しいネオンが消えかけた小屋みたいな建物の中に入って行くのである。

 結局のところ、其処は劇場とは全く名ばかりの、大衆の卑俗な欲望が渦巻く現代社会の闇を象徴する様な場所であった。経営陣と顧客の間に発生する相互利益の狭間で、取り残された彼女達は今夜も舞う。

 其処の劇場には数々のスター的踊り子が居たのだが、彼女は全くそう云う風な立ち位置に居なかった。謂わばテレビジョンの娯楽番組に於ける前説まえせつの様に、そのスター達の登場する前に少しだけ出てきて一寸踊るのが陳麗の仕事の全てであった。

 客席の照明が落ちて、舞台の上に一筋のスポットライトが差すと、真っ暗な袖から鮮やかな紅色の衣装を身に纏った彼女は姿を表す。調子の良い音楽が狭い室内に響けば、陳麗、否、舞台上の紅沙羅は、ドレスの裾を翻して軽快に舞う。そうして舞台の端から端までクル〳〵と踊る内に、そのドレスを徐々に脱いで行くのである。全て脱ぎ終わって一糸も纏わぬ裸体になってしまうと、パラ〳〵とチップが疎らに投げられて、丁度その頃に曲が終わって退場していく。

 要するに其処は、場末の小さなストリップ劇場であった。

 然しながら、彼女の生活はそれが全てではない。そうして全公演が終わった深夜、陳麗はあの朱殷色ボルドーのコートを着て、劇場の裏口に立っていた。其処に一人の客が駆け付けると、落ち合った二人はそのまま、夜のネオンの中に消えて行った。

 此処で注意すべきなのは、この二人は決して恋仲などでは無い赤の他人であると言う点である。要は一夜の夢であった。情にも恋愛にも発展しないその空虚な時間の代償は、金銭で支払われた。相場は、一回につき二万五千円程度であった。

 

 紅沙羅はかれこれ、寒空の下で日暮れが近くなるまでは駅で電車を待っていた。日の落ちかけた橙と青のグラデーションの空に、しきりに吹く北風のせいで手指は乾燥してヒリ〳〵と痛みが走った。その状況下で此処に来る前の日常を追憶していた彼女は、元いた華国の現代社会に帰らなければならないという義務感が、半ば揺らいでいた様にも見えた。紅沙羅は何も言わずに駅舎を出ると、昨日の記憶を頼りに商店街の方へ出向いていった。

 その日の散木は昨日脱稿した、王朝の時代から近代社会への移り変わりを、お払い箱となった元官吏たちの視点から描いた歴史小説〈斜陽の人々〉に続く続編の構想を練らんとして、書斎に籠ったきりであった。兼ねてよりその様な時代物・政治物を得意としていた散木だが、今度のは些か趣を変えた作品にしようと決心したは良いものの、どうしても良い案が浮かばずに苦心していた。

「アカンなあ、何にも思いつかれへん」

 まっさらな原稿用紙と、使い古した黒の万年筆と、前作の為の歴史資料が未だに散らかっている机をぼんやり見ながら、頭を掻いて、独り言を呟くと、本日七本目の葉巻箱に手を掛けた。歳をとって自分の頭が硬くなったのか、或いは元々発想力が劣っているのかと色々考えて悶々としたが、どちらも小説家にとって致命的であることは明らかである。いつかは自分のスタイルという殻を破らないと、物書きとしても人間としても萎縮していくのみであると言う事は、散木自身痛いほど分かっていた。

 しかし彼にとって、生活とはあまりに単調であった。

 少なくとも、二日前までは。

 

 紅沙羅は何も言わず、散木の家の戸の前に立っていた。その手にはスーパーや服屋の買い物袋をいくつか提げていた。彼女の心の中は、無償で一晩泊めてもらった事に対する感謝と、今晩も迷惑をかけてしまうという申し訳なさと、待つと言ったのに結局電車が来ること無く戻って来た決まりの悪さが渦巻いていたが、遂に意を決して玄関の呼鈴チャイムを鳴らした。

 暫時間が空いて機械の雑音越しに、ハイと云う返事が聞こえた。

「あの、紅沙羅です」

「お帰り。一寸ちょっと待っといてな」

 その散木の優しげな掠れたあの声が、冬の風に曝されていた紅沙羅にはとても温かく感じられた。直ぐにガチャ〳〵と鍵が開いて、散木が出てきた。

「寒いやろ、早よ入り」

 紅沙羅は彼に微笑みながらそう云われ、優しく背中を押されて、暖かく、仄かに明るい玄関へと通された。

「すみません」

 紅沙羅はやはり申し訳なくて、其処で頭を下げた。散木は温和な笑みをして、ガサ〳〵だが柔らかな声で、ええねや〳〵と中へ通す。そうして昨日と同じ様に一人掛けのソファに座らせて、自分は食卓の椅子に座ると訊いた。

「ずっと待っとったんや」

 紅沙羅は荷物を床に置いて、やはり決まりが悪いのか、俯く様にして頷いた。散木は何も云わずに一度リビングを出て、暫くしてからベージュと黒のチェック模様に織られた毛布を持って帰って来ると、其れを紅沙羅の膝に掛けた。其れから飯どないしよと呟くと、紅沙羅はあの、と云って散木を呼び止めた。

「散木さん。あの、私が呼ぶまではお仕事なさっていてください。キッチン借りても構いませんか」

「作ってくれはるん。何か悪いわ」

 その申し出に、散木は振り向いて些か驚いた顔をした。悪いから、と遠慮されても、紅沙羅に引き下がる気は無かった。

「良いんです。私の方こそ、色々して頂いたので」

 その真剣な目を見た散木は、分かったと微笑んだ。

「ほな、俺は書斎におるから。出来たら呼んでな」

 散木が行ってから、紅沙羅は買った荷物の中身を次々開けた。一つ目の紙袋は、服屋で仕入れてきた下着の類であった。当分この町にいる事になるであろうと思って、幾つか替えを用意したのである。それと安いカーキのパーカーと黒いスカートを、それぞれ一つずつ買って来た。

 二つ目の白いビニールは、商店街の小さなスーパーの物である。中には豆腐と白身魚の切り身、小分けの白菜、油揚げ、そして一番安いトマト缶が入っていた。これ等を使って今日の夕飯を作ろうと云うのが、この紅沙羅の考えであった。

 其れからリビングの奥にあるキッチンに、初めて足を踏み入れた。暖房の行き届かないひんやりとした空間に電気を付けると、其処には多少年季が感じられるものの丁寧に使われた、清潔感のあるキッチンが広がっていた。戸棚を確認すると、一通りの基本的な調味料は見つけることができた。小さな鍋と木製の鍋敷きも、フライパンなどと一緒になって壁に掛かっていた。

 紅沙羅は一息吐くと、腕を捲って凍る様な蛇口の水と小さく角の取れた固形石鹸で手を洗って、改めて材料を調理台に並べた。

 ああは云ったものの、実は料理なんて日常において殆どした事がなかった。大抵カップ麺か、レトルト食品を沸かすくらいな物だった。深夜、ボロアパートでそう云う安い飯を食べて、其れを薬の様な缶酎ハイで流し込んで、昏睡する様に寝るのが紅沙羅、否、陳麗チェン・リーの、毎日の習慣となっていたのである。

 それでも彼女は、分からないなりに包丁を執った。其の退廃した日々よりもずっと前の、曖昧な年少の頃の記憶を頼りにしながら。

 

 散木は、書斎の机で、原稿用紙を前にして愛用の万年筆を弄っていた。左右を本棚に囲まれて、正面からは、ウイスキーグラスに浮いている氷玉の様な冬月の、青白い光が差し込んでいた。例の如くどうしても仕事が捗らないでうんと唸って居ると、不意に後ろからコツ〳〵、と扉を叩く音がした。

「あの」

 扉の向こうから曇り気味の、あの紅沙羅の高くてか細い声がした。散木はいそいそと立ち上がるとガチャと扉を開けて、笑顔で俯いている紅沙羅の方を見た。

「出来たんやな」

 其れから彼女を伴うと、今の所まるで生産性の無い机上の労働からひとまず解放される、数時間ぶりの食事に揚々として一階へ降りて行った。

 テーブルには小ぶりの白い両手鍋を挟んで向かいに、取り分けるための器と白飯がワンセットずつ置いてあった。

「酸湯魚です。お口に合えば良いのですが」

 酸湯魚と聞いた散木は、嗚呼、あの蔡州名物の、と感嘆した。鍋の中の赤いトマトのスープには、白身の切り身と豆腐やら油揚げやら白菜やらが浮いていて、それらが一体となって芳しい食欲をそそる匂いを立ち上らせていた。

 二人とも席に着いて、それぞれの椀によそう。散木はその酸味の効いたスープを一口飲むと、吃驚びっくりした様に顔を上げて云った。

「何やこれ、ごっつ美味いわ」

 紅沙羅は其れを聞いて、酷く安心した様子であった。力の抜けた様にヘラ〳〵と笑いながら、自分も匙を口に運ぶ。

「料理下手なんですけど、頑張って作りました」

「いや〳〵、全然下手やないで」

 それは厳密な意味に於いては、酸湯魚などでは全く無かった。スーパーに発酵トマトなんて物が売っているはずも無いから酢で代用した。魚も一匹捌いた事がないから切り身になっているものであるし、油揚げとて本当は揚げ湯葉を使うのを、安く手に入るからと云う理由で使っている。野菜も本当はもっと沢山入るはずであった。それでも、これが幼き日の陳麗の大好物だった、母親の作る酸湯魚であった。貧しい生活の中の細やかな楽しみとして、記憶を彩っていたこの一皿を、恩人たる散木に振舞おうとしたのである。

「有難うな」

 そう云う思い出を語りながらすっかり食べてしまった後、散木は満足そうな笑顔で、優しく礼を述べた。

「散木さんに何か恩返ししないとと思って」

 そんな嬉しそうな散木を見て、紅沙羅も満足そうな様子であった。

「ええねんて、恩返しなんて大袈裟な。あと其れから、明日は又どうするん。取り敢えず先風呂入って来や」

 散木は立ち上がってシンクに食器を片付けると、こう云ってまた書斎へと帰って行った。

 

 其の夜、書斎に籠っている散木は机上の小さなランプを点けて、再び青い月明かりの下でペンを握っていた。然し先程とは些か様子が違う様で、原稿用紙には万年筆の青黒い文字が幾つか綴られ始めている。其の一行目には、〈一場の酔夢〉と謂う仮の題名が記されていた。

「珈琲を淹れて来ました」

 不意に、背後からノックが聴こえ、ドアが開いた。散木は特に此れと云った理由は無いものの、おのずからその書きかけの原稿を、下のさらな紙で隠そうとした。

「悪いな、有難う」

「此れ、小説ですか」

 机の上を片付ける素振りを見せる散木の手に持たれた、其の書きかけが目に入った紅沙羅は問うた。

「ああ、まあ。そんなもんや」

 散木は詳細をはぐらかす様な曖昧模糊な返事をした。普段構想を練る時であれば、誰かに説明せよと云われても容易く出来るのだが、唯一この話に関しては、何となく其れをしたく無い己がいた。

「ほな、自分も早よ寝るんやで。お休み」

 紅沙羅が去った後、散木はペンを一心に走らせた。原稿用紙の茶色い格子の上に、冬の夜空の様な色のインクが彼の脳裡に浮かぶ物語を、少しずつ刻んで行く。

 未だ乾き切らないインク溜まりが、星の様にチラ〳〵光っている。

 湯気立つ珈琲の水面には、窓の満月が揺らぎながら浮いていた。

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