酔夢寞々たり

敦煌

一日目

 丁度三年程前の、ある冬の日の事である。鉛白色の曇天にヒュー〳〵と北風が吹き荒ぶ中、この最果ての無人駅のプラットホームに、又一人訪問者が立っていた。

 其れは二十余歳位の、若い女であった。真黒な長い髪をたなびかせて、黒の高いハイヒールを履いて、朱殷色ボルドーのトレンチコートを着て、その駅に途方も無く立っていた。

 彼女は家の方へ帰る電車を、灰色の北風に吹かれて一時間程も待ち続けた。しかしとう〳〵来るまいと見たのか、黙って俯いたまま、コツ〳〵とヒールの音を鳴らしながら、薄汚れた改札口の方へ降りて行った。

 彼女はその後、誰もいない改札を通り抜けて、駅を出て、当てもなく閑静な住宅街と思しき通りをあてもなくぶら〳〵していた。

 白い小さなアパートも、薄汚れた団地も、錆びついた公園も、此処には人の気配が無い。その癖妙に見覚えのある様な、懐かしさすら感じられる様な気もする、不思議な町であった。

 その角を曲がったところに、今度は小さな広場があった。ここにも誰もいない様であった。

 商店街に行くと、幸いなことに、チラホラと人通りが見受けられた。駅を出てから人一人も見掛けて居なかった彼女は、大分安心した様子で、そこにいる人々に声を掛けた。

「すみません。此処、何州の何郡ですか?」

 或る買い物鞄を提げた、壮年の女性はぶっきらぼうに答えた。

「さあ。知らないね」

 また学ランに帽子を被った学生と思しき少年も云う。

「此処は何処でも無いですよ」

「じゃあ、華都に帰る電車はいつ来るんでしょう?」

「そんなの知りませんよ」

 少年は迷惑そうな顔をして、其れだけ云うと立ち去った。

 その後も手当たり次第、そこに居た殆どの人に同じ質問を繰り返したが、回答はおよそこんなものであった。彼女はとう〳〵途方に暮れて道の真ん中でぼんやりと立ち尽くして居たが、突然肩のあたりにドンと云う様な強い衝撃を感じて二、三歩よろけた。

 驚いて振り返ると、中折れ帽にスーツ姿の小太りの四十代位であろう男が、抱えて走ってきたのであろう大きな茶封筒の幾つかを慌てて拾い集めて居た。全部拾い終わると男は急いでいるのか、少し高めのガサ〳〵の声で、強い調子で云った。

「危ないわ、気付けや」

「すみません。大丈夫ですか」

 彼女は何度も頭を下げて謝った。そして、ついでにこの人にも聞こうと思って、なるだけ失礼のない様に言葉を選び〳〵質問した。

「あの、すみませんが、此処は何処なのかご存知ですか?」

 男はスーツについた汚れをはたいていた手を止めた。

「『最果て』や」

「最果て?」

 彼女が聞き返しても、せやで、とさも当たり前かの様に云う。

「此処から華都に帰る電車は有りますか?」

 男はうんと少し考えてから、またも当たり前かの様にサラリと云った。

「さあ、お嬢さんのその様子やと、無いんとちゃうかなあ」

 彼女が男の言う事を理解出来ないでいると、彼は悪いな、時間無いさかいとだけ云って、小走りで二、三件先にある喫茶店に入って行った。

 

 其の後、その男の言葉がどうしても信じられなかった彼女は、駅に戻って電車を待った。携帯の画面の左上には、暫くは『圏外』の文字が光っていたが、バッテリーが切れてしまった今では、只黒い闇を映し出すだけであった。プラットホームにベンチの一つすら無い過疎の無人駅で何時間も、日が暮れてからも、青白い蛍光灯の光の下でずっと待ち続けた。

 不意に雨が降ってきた。はじめはしと〳〵と控えめに降って居たのが、時間が経つにつれて激しくなって、何十分もしない内にバケツをひっくり返した様な豪雨へと変貌した。携帯電話の通信状況は、此処に来てからずっと圏外を指している。囂々ごうごうと振り籠る真冬の雨に濡れた其の華奢な手や身体が、北風に吹き曝されて氷の様に冷え切っていた。彼女の目からは、無為に冷たい涙が流れた。彼女は電車を待つのをついに諦めて、寒さと涙で目と鼻を真っ赤にしながら、黙ってトボ〳〵と駅舎の出口に向かった。

「お嬢さん」

 其の声に顔を上げると、見知った顔が――あのスーツを着た小太りの中年が、大きな黒い傘をさして立っていた。

「絶対此処に居てはると思ったわ。大雨降ってきたあるさかい、入り」

 彼女は呆気に取られて呆然と立ち尽くして居たが、其の言葉に我に帰ると懇切丁寧に断った。

「お気遣い有難うございます、でも結構ですので」

 男は怒るでも何かするでも無く、落ち着き払って云う。

「そんな事云うたかて自分、他に何処か宛でもあるん。どうせ電車は来えへんし、この小さい町にマシな宿があるとも思われへんやろ」

 彼女はそれに黙ってしまった。また、其の瞳からは熱い涙がじんわりと滲んできたが、外気に触れた途端、其れはみぞれの様にキンと冷たくなった。男は何も言わず、その腕を引いて強引に傘の中に入れると、彼女を連れてゆっくり歩き出した。

 暫く雨の中を歩くと、小さな西洋風の一軒家に着いた。男は懐から鍵を取り出して其のドアを開けると、彼女の背中をソッと押して中へ入れようとした。彼女は、この男を些か警戒していたし、何よりあんまり悪いと思ってもう一度断ったが、男はお構い無しにハハハと笑って云う。

「何や、別に何もせえへんから安心し。泊めたる言うてんねん。善意や」

 そうして遂に玄関に入れられると、薄暗い中に暖かい橙色のランプが点いて、小さな絵やアンティーク調の小物が小綺麗に飾られて居た。

「髪も濡れてもうてるな。風邪引いてまうで、はよ拭きや」

 彼女が半ば其の空間に見惚れて居ると、男は肩をポン〳〵と優しく叩いて白いタオルを渡した。有難うございますといって其れを受け取ると、そのままリビングへ案内された。リビングには、一人掛けの赤いソファにアンティーク調の小さなテーブルと椅子、小さな箪笥たんす、ガスストーブ、そして大きな本棚が置いてある。其れ等の家具の規模と配置は、男が長い間独り身である事を物語って居た。

「お嬢さん、名前は何て謂いはるん」

紅沙羅コウシャラです」

 それは彼女の、踊り手としての芸名であった。見知らぬ、しかも得体の知れぬ町の住人に本名を教えるのは少々気が引けた様である。

「ええ名前やな。お仕事は何してはるんや」

 紅沙羅は其の問いに暫時躊躇ったが間もなくして答えた。

「華都で、ダンサーをして居ます」

「踊り子さんか」

 男は成る程と呟いた。職業の話になって、自分の事を話すのが嫌らしく、紅沙羅は男に訊き返す。

「貴方は何と仰るんですか」

散木さんぼくや。何とでも呼び」

 男は名前を散木と謂うらしかった。

「仕事は物書きや。毎日〳〵小説ばかり書いて暮しとる」

 散木も、自分について余り多くを語らなかった。彼は雨に濡れたジャケットを脱いで、ワイシャツに土埃色カーキのベストの出立ちであった。左手に着けた上等な腕時計を確認すると、また紅沙羅に云う。

「ホラ、其のコートも早よ脱ぎや。干しとくから。ほならもう七時やさかい、少ししたら飯でも食いに行こか」

 紅沙羅は赤のコートを脱いで、黒のニットに白いスキニーパンツ姿になった。そうして散木は彼女を、一人掛けのソファに座らせた。その静かな温かな部屋の中で、冷え切っていた紅沙羅の身体は少しずつ温度を取り戻して行った。散木は其の様子を暫く見届けると、ほな、と言って紅沙羅を再び外へ連れ出した。玄関前で、クローゼットから分厚い灰色のウール製のコートを出すと、気の毒そうに云った。

「これ俺のやねんけど、嫌じゃなかったら使ってや」

 紅沙羅は少し驚きながらも、有難うございますと言って渡された其の袖に腕を通した。散木も又、黒の薄いロングコートを羽織って、先程の傘に彼女を入れて、二人はゆっくりと雨の降りしきる中を歩んで行った。

 

「此処や」

 そう言って散木が指さした先には、茶色い屋根に蔦が這う漆喰の壁の、小さくてレトロな一軒の店が建っていて、そのドアの少し上あたりには黄色い照明で闇の中から浮かび上がって居る小さな木製の看板が吊るしてあった。その看板には緑色の太い字で『洋食亭 コルネイユ』と書いてある。

「ブルトワ語で『角笛』ちゅう意味らしいで。知らんけど」

 散木は然りげ無く小説家らしい博識を披露すると、傘を畳んで店の中へ入った。

 ガランとした温かい店内は、赤茶のタイル張りの床の上に木製のテーブルと椅子が並んでいた。散木は奥の厨房で作業をして居る店主に一言挨拶をすると、紅沙羅と一緒に窓際の席に座った。

 メニュー表は手書きにラミネート貼りで、洋食屋の定番とも言える様なものばかりであった。注文を決めかねて居る紅沙羅に、散木は、何でも好きなもん食い、と言葉を掛けた。

「じゃあ、このナポリタンで」

 散木はうんとうなづくと、自分もメニュー表に一通り目を通し、卓上のベルをチリンと鳴らして若いウェイトレスを呼んだ。

「ほな、ナポリタンとオムライス頼みます」

 ウェイトレスはかしこまりましたとだけ云って、辞儀をして立ち去ると、厨房の店主に其れを伝えている。

 紅沙羅は店内の静寂の中で、大雨の音を聴いて、ぼんやりと外の景色を眺めていた。

「帰りたいねんな。わかるで」

 驚いた様に顔を見上げる彼女に、散木は硝子のコップに注がれたひやを一口飲んで息を吐いてから、諭す風な口調で語り掛ける。

「でもなあ紅沙羅さん。自分が何でこの町に流れ着いたのか、其れはよう考えなあかんと思うで」

 紅沙羅は、この言葉も理解出来なかった。

「如何云う事ですか」

「此処は最果て、普通の人間じゃ知るはずも無いし行かれへんやろ。つまり、この町には望んで来るもんなんや」

 落ち着き払った散木の様子を見て、紅沙羅は些か語気を強めた。

「そんな、私だって来たくて来た訳じゃありません。だって、」

 そこまで言って、紅沙羅は言葉を続けずに押し黙ってしまった。散木が何もかも見通した様な目で、自分を真っ直ぐ見つめていたからである。

「自分、何か辛い事でもあるんちゃうか」

 目の奥の光は、ヂッと紅沙羅の瞳を捉えた。そこまで行って、紅沙羅はとう〳〵反論する気を全く喪失してしまった。彼女の脳裏には、熱狂する大勢の男の声と、喧ましく鳴り響く音楽と、毒々しく自分を照らす色とり〴〵の照明で飾られた、自分の職場の光景が繰り広げられた。

「ほんまに辛うて現実から逃げたい、いっその事消えてまいたいと、そう思った事は有らへんか。俺は有る」

 散木がそう云って、己の故事ものがたりを語ろうとした丁度その時、ウェイトレスが盆に湯気の立つ皿を二枚乗せて、二人の卓へやって来たのである。

 白い皿の上の赤いナポリタンは、食欲が唆られる匂いを存分に立ち上らせていた。其れは正に紅沙羅が小さい頃、年に一度の他所行きのレストランで食べた、あの特別な味であった。漸く自分が空腹であったのを思い出した紅沙羅は、一心にそれをかき込んだ。散木はデミグラスソース掛けのオムライスをゆっくりと口に運びながら、其の様子を見ていた。暫く食器のカチャ〳〵と云う音だけが聴こえて、漸くそれが鳴り止む頃になると、散木は財布を取り出して席を立った。

「此処は俺の奢りや」

 そうしてまた紅沙羅を傘の中に入れて、灰色の豪雨の中、来た道を戻って行った。

 

 散木の家に着く頃には、時刻は既に八時過ぎを回っていた。

 紅沙羅は、この男が自分に対して、これまでに施された分の代償を必ず請求してくるに違いないと思っていたし、其の覚悟はとうに出来ているつもりでいた。其れは彼女が、今までそうやって生きて来たからと云うのもあるかも知れない。シャワーを浴びて、白いバスタオルを一枚体に巻いただけで浴室から出ると、愈々いよいよ寝室に相手を呼ぼうと考えた。

「あの、散木さん」

 紅沙羅は彼を見つけるや、呼び止め、近寄って誘う様な目つきで秋波を送る。何か見返りの為に、異性にこうして色目を使って媚びるのは、彼女の人生経験上慣れた事であった。

「何や」

 紅沙羅が何方どちらへと訊くと、珈琲コーヒーカップを手に持って黒の部屋着に着替えた散木は、その紅沙羅を如何とも思わぬ様な顔をして、寝室の隣の部屋を指差すと書斎で原稿を書くと答えた。それから、嗚呼、寝巻きは生憎自分の分しか無いから、悪いがさっきの服を着て居てくれとだけ云うと、書斎のドアノブに手を掛けた。

「ずっと隣の書斎におるから、何かあったら声かけてや。ほな、風邪引かん様に早よ寝るんやで」

 紅沙羅は呆気に取られた。これは彼女なりに今までに面識のある男達の平均的な思考回路から、散木が何を求めてくるかを予測した結果であるものの、彼が彼らと同等であると見ていた自分に対して酷く羞恥心を感じていた。再び自分の着ていた白いパンツと黒のニットにのそ〳〵と着替えて、アンティーク調の小さなランプをつけて、小綺麗に整った一人用の寝台に寝転がると、如何しようも無い悶々とした心持ちで溜め息を吐いた。

 そうして暖かな生成り色の毛布を被ると、ランプの仄かな黄色い光と、沛然と降って来る雨音の中で、彼女は沈々と深い眠りの中に落ちて行った。

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