絶えず痛み続ける恋の傷、または自尊心

回めぐる

第1話

昔の話をしよう。

なるちゃんが美術部の部長だった頃、私は副部長だった。

なるちゃんは美的感覚が鋭くて、絵のコンクールでいくつも賞をもらっていた。部長になるのは道理だった。

一方、私は絵が上手いわけでもなんでもなかった。ただ、真面目に部活に参加していた部員は、なるちゃんを除くと私しかいなかったからという理由で、副部長になった。

私はなるちゃんが描くような美術的な絵というよりも、アニメキャラのイラストを描きたくて美術部にいた。もし漫画研究部のような部が私たちの高校にあったら、そちらに入部していたことだろう。もっとも私は、いわゆる「美術部らしい絵」も、「漫画研究部らしい絵」も、どちらにせよさして上手くはなかった。本気で絵を描いていたなるちゃんとは熱心さが違っていた。

それでも、毎日部活に顔を出しているのは、私となるちゃんだけだったから、なるちゃんはいつも私に意見を求めてきた。

「ねえ、澪はどう思う?」

私にそう問いかけてくる時のなるちゃんは、内緒話をするようにそっと体を寄せてきた。なるちゃんの肺を通過した空気が、私の耳にそっと触れた。

そのくすぐったい時間を、私は心から愛していた。

「すごい。なるちゃんの絵は、やっぱりすごいね」

「えへへ、ありがと。澪がそう言ってくれるの、めちゃめちゃ嬉しい」

「ほんとのことだもん。このままでもいいと思うけど、何か気になってるの?」

「そうなの。ここの色がちょっとボヤけてるかなって思っててさ――」

なるちゃんみたいな才能の持ち主が、素人に毛が生えた程度の私に意見を求めるというのは、おかしな話だった。でも、求めることができる相手は私くらいしかいなかったからだろう、なるちゃんは私の大したことのない意見にも、真剣に耳を傾けていた。

私が意見を述べ終えると、なるちゃんは噛み砕くように数度頷いて、にっこりと破顔した。なるちゃんは目鼻立ちがはっきりしていて、美人だけどちょっときつい印象の子だった。でも、その瞬間は決まって、無防備な笑顔になるのだった。

「ありがと、澪!」

間近に見るなるちゃんの笑顔。ふわりと香る柔らかな匂い。これから素晴らしい作品になるであろう、描きかけのキャンパス。全ては放課後の美術室が見せてくれた夢の時間だった。

今思えば、あの頃の私は全てに満たされていた。セーラー服に身を包んだ私が妬ましい。




私となるちゃんは同じ大学に進学した。大学もキャンパスも同じだけれど、なるちゃんが入ったのは、私の学部よりも何倍も倍率が高い芸術系の学部だった。入試の実技試験でなるちゃんが描いた絵に、教授陣が騒然となったと聞いて、私は自分のことのように誇らしかった。

私は今度こそ漫画研究サークルに入って、やっぱり大して上手くもないアニメキャラのイラストを描いていた。一方、なるちゃんはサークルに入らず、放課後は学部の教室に居残って絵を描き続けているようだった。

サークルでできた友達と駄弁りながら過ごしていると、頻繁にスマホの着信音が鳴った。

「澪、たすけてぇ。今行き詰まってるの」

サークルの友達や先輩は、「あのなるちゃん」に助けを求められる私を見て、大層驚いていた。それくらい、なるちゃんは校内で有名人だった。

なるちゃんは大学生になってから、前にも増してきれいになった。髪を明るい茶色に染めているのは、顔立ちがはっきりしているなるちゃんによく似合っていたし、服のセンスも大人びて洗練された雰囲気だった。服も髪型も性格もぱっとしない私とは似ても似つかなかった。なるちゃんはいつも、人々の中心にいた。画一的な制服を着ていた頃は鳴りを潜めていた私たちの差異が徐々に浮き上がっていくようだった。

それでも、なるちゃんは私への対応を変えたりしなかった。なるちゃんは素敵な人だった。

ある日、いつものようになるちゃんに呼び出された私は、絵の具の匂いが立ち込める教室に足を運んでいた。

「澪! 遅かったじゃん。ごめん、何か立て込んでた?」

茶色い髪を無造作に結んで、絵の具がべたべたとついたつなぎとエプロン姿のなるちゃんが顔を上げた。なるちゃんはそんな格好をしていても、かえって芸術家らしくて格好良かった。

「ううん、大したことしてなかったから大丈夫」

他の友達とのやりとりや自分のサークル活動よりも、なるちゃんは優先されるべき事項だった。

「それで、今日はどうしたの?」

「あ、そうそう。ちょっと見てほしいんだけど、ここがさぁ――」

描きかけのキャンパスを覗くと、美術館で見るような美しい人物画があった。髪型も顔つきも、何一つなるちゃんに似ている要素はないのに、私の目を通して見ると、その美しい人物画がなるちゃん自身のように見えた。

「きれいな人だね」

「へへ、そう思う?」

「うん、とっても。モデルはいるの?」

「いるよ。誰だと思う?」

「なるちゃん?」

「ええー、違うよ。自画像じゃないって」

なるちゃんの少し明るい色の瞳が、魅力的にきらめいた。意味ありげな視線を私に送ってきた。その瞬間の心臓の高鳴りは、今思うと、私の人生の最高潮だったかもしれない。

「誰だと思う? 澪もよく知ってる人だよ」

期待で言葉が詰まっていた。心臓が痛かった。

生唾を飲み込みながら、期待を押し殺して素知らぬ顔で「誰?」と尋ねようとしたその時だった。密やかな教室の空気を「ああっ!」と喧しい声が切り裂いた。

扉のそばに立っていた闖入者は、なるちゃんと同じように汚れたつなぎを着ていた。服や顔や髪についた絵の具は、なるちゃんのそれよりも派手でくっきりとした色だった。

「いつもどこで作品を作ってるのか気になってたけど、こんなところで描いてたのか。制作途中を見たことないから気になってたんだよ」

男は馴れ馴れしい態度で教室内に踏み込んできた。二人は知り合いらしく、なるちゃんも男に向かって手を挙げた。

「静かなところの方が集中できるからね、ここで描いてるの」

「なるほどなぁ。で、進捗はどんな感じなの?」

「ええ? 私、あんまり途中の絵を見せるの好きじゃないんだけど」

「いいじゃん。アドバイスし合った方が上手くいこともあるし」

「うーん……まあ確かに、一理あるね」

特に抵抗もなくキャンパスを晒すなるちゃんに、私は失望した。 

専門的な会話を矢継ぎ早に繰り広げる二人が、別の生き物のように見えてきておぞましかった。この男と話していると、なるちゃんまでもが化け物のように見えてきた。遠い異国の馴染まない言語を聞いているかのように、言葉の意味が理解できなかった。

でも、理解していた。二人が化け物なんじゃない。二人は人間で、私が下等生物なのだと。

なるちゃんの横顔を見た。今までになく明るい瞳がきらめいているのを見た。なるちゃんは恒星。この男も恒星。私だけが遊星。なるちゃんの光を奪われた私は、もうどうすることもできなかった。

その日を境に、なるちゃんからの電話の呼び出しは極端に減った。ある日、やっと掛かってきたと思ったら、教室で待ち受けていたなるちゃんは、満面の笑みを浮かべていた。

「見て! 完成したの」

その人物画が誰をモデルにしていたのかは、もはやわからなかった。少なくとも私ではないと思った。その絵はどこかのコンクールで賞を取ったと聞いた。

なるちゃんの制作途中の絵を見ることは、その後一度たりともなかった。

後から思い返してみても、私はなるちゃんが好きだったのか、なるちゃんの光によって光っていた自分を愛していたのか、よくわからない。

でも、なるちゃんがあの男と付き合い始めたと聞いた時、私は少し泣いた。

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