第34話 ブラック・ニッカ・クリアー
旅先でふと懐が寂しいなと感じつつ、酒を飲みたいという高揚に襲われた時、私が買い求めるのは決まってブラック・ニッカのポケット瓶です。
いや、金があっても持ち運びに良いという理由で買い求めることはあるのですが、何と言っても金欠の折には強い味方ですので、どうしてもその時の印象が強くなってしまいます。
もちろん、この旅先というのは列車での旅の話でございまして、気軽に飲みながら車窓と文庫本の世界に浸るというのはその非現実性から何ともたまりません。
トランプのキングよりもよほど満たされた表情を浮かべる男性の肖像を恍惚と眺めながらちびちびやると私の目尻も下がるのが分かります。
この一本を初めて手にしたのは、確か学生時代に部室で飲み会をした時ではなかったかと思います。
酒を買い込んでから何をするでもなくだらだらと飲むだけの、男だらけの会なのですが、缶チューハイやらビールやら焼酎やらを買う中で安くて飲めるものをと思い、自分用に一つ買ったのが始まりです。
その頃にはウィスキーを口にしていたものですから抵抗感なく買い求めたのですが、今にして思えばそれを口にしても大きく浮いたところがなかったというのは恐ろしい。
当時はちょうど、先輩に「素面でいる方が珍しい」だの「医者から酒をストップされた」だのの形容が付く方がいまして、平然と焼酎を飲んでいました。
そのため、ポケット瓶を舐めるように飲むような小僧がいたところでそちらの輝きには到底かなわなかったということです。
いや、バイト先の仲間と飲んだ時にも同じようなことがありましたから、当時から私はそういう人間として認められていたということかもしれません。
お祝いの度に酒を贈るような人間ですから、それも仕方がないのでしょうが。
私の晩酌の遍歴としましては、初めに発泡酒があり、それが次第に第三のビールからハイボールへと変化していったのですが、その途中にブラック・ニッカは確かな足跡を残していきました。
一時期は部屋にこの七百ミリリットルの空き瓶が四、五本転がっていたのですが、次第に繰り返し買いに走るのが億劫になってきました。
これが一昨年のことでしたが、ここで買い求めたのが一升ペットボトルでした。
初めて買い求めたポケット瓶の十倍の大きさを誇る一本なのですが、次第にこの消費もあまり間がないことに気付いてしまいます。
そこでこの四リットルボトルを買い求めれば話はまとまったのでしょうが、そこからは別の安い一本を買い求めて置くようになりました。
いつの間にやら懐に優しい存在であったブラック・ニッカは我が家の嗜好品に格上げされ、普段は味わえぬものと成ってしまいました。
果たしてそれは、私の肝臓が求める酒量が増えた故か、それとも手頃な酒にすら手を出せなくなった私の不甲斐なさによるものなのか。
時に使い切れなかった汁入れとして冷蔵庫に鎮座するポケット瓶からは哀愁が漂います。
どうしてもブラック・ニッカといえばポケット瓶が真っ先に頭を過るのですが、それは子供の頃のスキットルへの憧憬が色濃く残っているせいでしょう。
父の荒れた部屋に足を踏み入れると、その戸棚の中には私の知らないものが所狭しと並んでいました。
その中には、私が「誤飲」したためにいつの間にか存在を消されていた焼酎入りの水筒もあったのですが、特に物珍しかったのがスキットルです。
何かの漫画ではなかったかと思いますが、大人の男性がちょいと口付け飲む姿が何とも格好よく、いずれは自分もと思っていました。
それが、現実にこのポケット瓶でやってみると、私の場合には格好良さよりも浮浪者然としたたたずまいが前面に浮き出てしまうように思えてなりません。
それもまた呑兵衛としてはひとつの到達点ですので誇るべきことなのかもしれませんが、子供の頃の夢がいかに儚いものかと思い知らされました。
なお、スキットルでやっても結果はより悲惨になるだけです。
むしろスキットルが浮いてしまい磨かれたステンレスがどこか鈍色に輝くようでした。
浅草のコンビニでポケット瓶を買い求めた話は、別のエッセイにて書いたのですが、それを日本酒三合の後にいただいたことは書いておりませんでした。
ユースホステルの談話室で、英語を中心にやり取りをする中ではじき豆と共に頂くというのは何とも楽しいものでした。
ここで断っておきますが、私の英語は「イザカニッシュ」ですので文法も単語も滅茶苦茶ですし、中学英語程度の聞き取りを酔いのみで乗り切ってしまいます。
だからこそ雰囲気だけで自己陶酔していると思われるところも大きいのですが、断片的なやり取りだけでも滲み出てくる異国の方とのやり取りは、それだけで最高の酒肴になります。
向こうからすればとんだ呑兵衛に絡まれてしまったという旅の思い出だけが残っているのかもしれませんが。
いずれにしても濃厚に、ストレートに海馬へ旅の記憶を刻み込む一本は、これからも私の旅に随伴することでしょう。
つるさきのひとりごと 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。つるさきのひとりごとの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます