空振る想い

葉舞妖風

第1話

『九番ピッチャー北見に代わりまして、代打桂』


 アナウンスが広がると、球場は夥しい数の声援に包まれて俄かに沸き立つ。2点ビハインドの8回裏の攻撃、2アウトランナー一塁二塁。ここを繋げば2アウトながらランナーが溜まった状態で打順が上位に返り、長打が出れば同点、さらにはホームランが出れば逆転がみえるという場面。これ以上ないこの場面での代打の切り札の桂の登場は、球場のボルテージを最高潮に導くには十分だった。この展開に盛り上がらない人なぞいるはずがない。右も左も身を乗り出して応援する人間であふれているのが何よりの証拠なのだ。


『♪この一打にかけろ

 勝利を引き寄せろ

 アーチ描いて駆け抜けろ

 桂よぶっぱなせ~   』


 桂を打席に迎えた球場は桂の応援歌がこれでもかというほどどよめいていた。そのどよめく応援歌に合わせて、僕は周りの大人たちには決して負けまいと、手にしている応援メガホンを必死に叩いていた。この球場で一番桂のヒットを期待しているのは自分に違いないのだから、当然僕が一番必死に応援しなければならないのである。


 セットポジションから相手投手がボールを投げる。僕は桂の打ち返す打球を見逃すまいと相手投手の投球を目で追いながらホームを見つめる。けれど桂は僕の期待しているような見事な打球を打ち返すことなく、ストライクカウントだけが溜まっていく一方であった。そして追い込まれた桂がこのまま三振してしまい、このチャンスが終わってしまったらどうしようと思うと僕は泣きたくなった。そんなことはない、桂はきっとヒットを打ってくれると自分に言い聞かせるが、灯っているストライクカウントを示す黄色い二つのランプは獣の双眸となってそんな僕を容赦なく睨んでいるばかりであった。

 しかし一方では、桂への球場の応援の熱量は凄まじさを増していた。今日一番の勝負どころであるのだから打ってくれという期待感と、2ストライクと追い込まれてもう後がないという危機感が増幅しあって球場を鳴動させていた。

 そんな追い込まれて強くなった球場の応援を目の当たりにして僕は自分を奮い立たせた。追い込まれたからって不安になって応援が疎かになってしまうのは何事かと怒られたような気がしたからだ。普段の画面越しでは味わうことのできない迫力の球場の応援を直に感じられるというのは球場に来る醍醐味の一つであり、これまで何度も目の当たりにしてきたのだけれど、これほどまでに自分を奮い立たせてくれるパワー溢れる応援は初めてだった。そして残る気力を振り絞って僕がどれだけ全力で応援しても、それを上書きしてくる周囲の応援におののく。僕の応援が負けているようで少し癪ではあったが、この応援を味方につけたなら絶対に桂は打って勝利に導いてくれると確信めいたものを感じた僕の心は踊っていた。


 追い込まれた桂と相手投手との対決はボールとファールを挟んだ5球目で勝負が決した。その間の球場のボルテージは最高潮で、僕はひと時たりとも応援をぬからなかった。声援も途切れることはなく、団旗だってずっとはためいていた。味方につけた応援は最後までその心強さを失わなかった。だから桂はショートゴロに倒れてしまった時、僕は何がいけなかったのか分からなかった。

「あー、あかんかったかぁ」

 ファーストがショートからの送球をしっかりと捕球したことを確認した隣のおじさんはそれだけ言うと早々と席に腰を下ろした。そしてさっきまでは僕に負けじと熱くなって応援していたはずの周囲の人たちもため息をついてめいめい席に腰を下ろした。

 僕は納得がいかなかった。もちろん打ってくれなかった桂に対してもだけれど、簡単に今の結果に対して諦観出来てしまう周りの大人たちに対して納得がいかなかった。

「こら、攻撃が終わったんだから早く座りなさい。」

 呆然としていて立ったままの僕に父さんが声をかけた。その時僕の苛立ちが頂点に達して、手にしている応援メガホンを父さんに投げつけてやろうかと一瞬思ったけれど、僕は思いとどまった。父さんは僕が野球少年だから球場に連れてきてくれただけで、父さん自体は別にプロ野球のファンというわけではない。だからさっきの場面で桂が凡退して感じることがなかったとしても納得がいく。それにここで癇癪を起せば周りの迷惑になってしまうだろう。今の結果に諦観してしまう人達に迷惑をかけたところで思うところは一つもないのだが、騒いだことが原因でまた今度父さんに球場へ連れてきてもらえなくなってしまうかもしれない。それはとても困る。だから僕は渋々自分の席に座ることにした。

「なあに、まだ分からんぞ少年。9回は一番からの好打順なんやから。」

 席に座ると隣のおじさんが声をかけてきた。先ほど真っ先に席に着いた姿が脳裏に浮かび少し腹が立ったが、このおじさんもまだあきらめきっていないということが分かって安心はした。

「そうだね、おじさん。」

 僕は力なくそう言った。しばらく不貞腐れていた僕だが、目の前のチャンスを逃したけれど、ここを抑えればまだまだ勝機はあると自身の希望を鼓舞した。だからこの9回の守備もしっかりと見届けねばならないと決意する。しかしその決意をあざ笑うかのように球場に快音が響いたのは、僕がグラウンドに目を向けなおしたのとほぼ同時だった。何事かといま目を向けたばかりのグラウンドの方に注意を傾けると、相手打者が放った打球がレフトスタンドに吸い込まれていく光景が目に飛び込んできた。そのダメ押しの一発に僕が絶望しているのをよそに、隣の父さんは涼しい顔をしているのだった。


 結局試合には負けてしまった。ホームだからといって9回裏に3点ビハインドをひっくり返してサヨナラ勝ちとは問屋が卸さなかったようだ。

「今日は負けっちゃって残念だったな。」

 父さんが話しかけてきた。観に来たからには勝ってほしかったけれどいつも勝てるチームなんていないから仕方ないことなのだ。球場の雰囲気にあてられて「負けるはずない。きっと勝ってくれる。」と思い込んでしまったから喪失感が倍増してしまったわけではあるのだが。

「また今度の休み、連れてきてやるから。今度こそは勝つところ見ような。」

 父さんは僕のことを慮ってそう言ってくれたが、僕は乗り気じゃなかった。先ほど球場に連れてきてもらえなくなってしまうからという理由で父さんへの理不尽な怒りを制した僕が、球場に来るのに乗り気ではないというのはおかしいと思われるかもしれない。けれど見に来たいのは桂が活躍してチームが勝つところであって、負けるのを見に来たいわけではないのだ。

「いいよ、父さん。疲れるから家で見るよ。」

 僕の言葉を聞いた父さんは少しいたたまれない表情をした。

「それに僕、父さんのそのセリフもう聞き飽きちゃった。」

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空振る想い 葉舞妖風 @Elfun0547

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