正体不明のカジカさん

センリ

正体不明のカジカさん

 とある作曲家は、運命とは律義にドアを叩くものだと解釈した。

 逃れられない運命が音を立ててくれるのに。

 恋に落ちる瞬間は、親切に音を鳴らして教えてはくれないのだから。

 全く、不親切な事この上ない。


 それに気が付いたのは、偶然だったと思う。以前から頭の隅に存在した違和感が偶然目に留まり意識で顕在化した。きっとこの一瞬を見逃せばしばらく気が付かなかっただろう。

「好きな人ができた?」

 スタッフルーム。資料や段ボールなどがそこらに置かれたどちらかと言えば倉庫に近い部屋で中央に設置されたテーブルの正面に座る女、宇佐美うさみの驚いたようなオウム返しに頷いた。猫を連想させる形の良い目が開かれ、セミショートの黒髪が一瞬驚いた拍子に揺れる。

「どんな人なんです? その人」

 当然の質問が返ってくる中、俺はテーブルの脇に置いてあったコップの水を一口呷り一息つき口を開く。

「分からない」

「はぁ……は?」

 発言の意図が理解できないと言わんばかりに高い声を上げる。

「え、どういうことですか? ネット恋愛とか、出会い系とか。そんな感じですか?」

「いや、そういうんじゃない。相手を見たことは無いけど」

 要領を得ない回答に宇佐美の口元が引きつり始める。ミステリー作品で探偵が確信を焦らしているような気分を体験出来て楽しくなってきたのだが、そろそろ具体的に話した方が良いだろう。と俺の本能が告げた。しかし宇佐美はこれ程でせっかちな性格だっただろうか。そんなことが一瞬頭の隅をかすめた。

 しかし、どこから話したモノだろう。この感情に気付いたきっかけを探りながら賄いのカツ丼を箸で持ち上げた。口元に運ぶと海苔の香りが食欲を加速させる。サク、と揚げたての衣が小気味いい音を立て、中から肉汁が白米や卵と絡んだ。粒だった白米には汁も程よく染み込んでいて、一口のみ込む度にため息を吐きたくなる。

「最初に聞くべきだったんだけどさ、宇佐美ってカウンターじゃん? 毎週焼き魚定食買ってる人、覚えてない?」

 宇佐美はカウンターでの業務をこなしている。考えれば客と一番接しているのは彼女のはずだ。一縷の望みをかけた質問だった。彼女は視線を右上にスライドし記憶を探っている。数秒程そうしていると、視線がこちらを向いた。

「……いや、覚えが無いですね。そんなに出てるわけじゃないので、目立つと思うのに……すいません」

「いや、良いよ。ありがとな」

 一口にカウンターと言っても接客からドリンク作り、配膳やテーブル掃除など、彼女の仕事は多岐に渡る。ましてや水曜だけシフトに入っているわけじゃない。俺たちが入っている時間帯は仕事終わりのサラリーマンや学生などが来店してきて地味に忙しい。覚えてなくても仕方ないだろう。

「それで、どう関係あるんです? 焼き魚定食と」

 焼き魚定食。俺たちがアルバイトしている店で提供され始めた新商品だ。毎回秋刀魚を焼いて客に提供するため手間がかかり、数量限定と銘打ってメニュー表に乗せられている。店員として試食したが、身はホクホクしていて舌の上でふわっと崩れる。白米とみそ汁のみなシンプルなセットも焼き魚の味に自信があるからこそ。より秋刀魚が際立つだろうと言う店長の判断だ。色眼鏡がかかっているかもしれないがそこらの定食屋で食べるよりも美味しく感じられた。ここが喫茶店であるということを除けば、もっとメジャーに出ていてもおかしくないのだが。ナポリタンやサンドイッチ、ハンバーガーなど喫茶店の食事メニューは多岐に渡る。しかし珈琲を飲みに来る店で焼き魚は食い合わせが想像できずに敬遠してしまうのが人情だろう。

「アレを食うのがさ、綺麗な人なんだよ」

「……はい?」

 二、三度大きめの瞬きを繰り返した後、間の抜けた声を上げた。

「……え……あ……それだけですか?」

「そう。悪いか?」

 照れくささを隠すため丼を持ち上げ残りをかき込む。最後の最後まで美味しく食べられるのがこのカツ丼の好きな所だ。これも喫茶店で出すにはどうかと思うが。丼を机に置くと宇佐美が口元を手で隠しながら何かを考え込むような仕草をしている。

「悪くは無いですけど……意外というか、地味と言いますか」

 彼女の指摘は自覚していた。顔も声も知らずに恋愛感情を持つのは今時珍しいことではないのかもしれないが、人となりさえ分かっていないのはそう無いだろう。

「でもすごいんだって。流しに置いてある皿にさ、頭と尻尾が繋がってんの。それも小骨までほとんど。アレ地味に食べるの難しいじゃん。美味しいけど」

「丸々一尾ですからね。美味しいんですけど」

 それを初めて目にしたのは二カ月前。キッチンに入り普段通り積み上げられた洗い物から消化していると目に入ってきた。思わず驚きの声を上げたものだ。仮に一時間猶予があったとしても、あれ程丁寧に食べきれる自信はない。勿論茶碗には米粒一つ残ってなかったし、箸もきっちり揃えられていた。次の週も同様に丁寧に食われた皿を見て、一週間の楽しみのような物になった。時間が進むにつれて、皿の主に抱いていた感情が興味から恋愛感情に移り変わっていることを自覚した。食に対する真摯な姿勢に魅力を抱いていた。

「……まぁ、女性って決まったわけじゃないけどな。綺麗に魚を食べるのが女性だけの特権ってわけじゃないし」

 我ながら穴の多すぎる前提だが。宇佐美は呆れたように眉間にしわを寄せていたが、一つため息を吐くと「まぁ、分かりました」と話を切り出す。

「女性だったとして、先輩はどうしたいんです? 会った事も無いのに」

「そりゃあ、今相手がいなかったら告白したいよ」

「年が離れてるかもしれないのに?」

「どうでもいいよ」

「相手の外見が好みじゃないかもしれませんよ?」

「良いよ」

 俺は彼女の気前に惚れたのだ。外見は全く問題じゃない。

「案外、先輩が思ってるような人じゃないかもしれませんよ?」

「良いよ。好きになった部分は変わらないからな」

 しかし、言外に諭された理想を抱きすぎるなといった忠告は真摯に受け取っておこう。

「普通に断られるかもしれませんよ?」

「……良いよ。想いを伝えたいだけだし」

 実際問題、そうなる可能性が最も高いだろうことは俺にだって分かっている。

「なんて告白するんです?」

「……『焼き魚の食べ方に感動しました。付き合ってください』とか?」

「急に言われた方はトラウマものですよ。ソレ」

「……だよなぁ」

 知らない店員から同じ文言で告白されたとしたら、真っ先に浮かぶ感情は恐怖、次点で困惑だろう。互いの顔も知らずに想いを寄せるのは、一般的ではないのだから。

「……まぁでも、食べてるのが誰か、知っておくくらいは良いかもしれませんよ? その相手……」

「カジカさんの?」

「カジカさん?」

「ああ、勝手その人に着けてるあだ名、みたいな」

「……どこから出てきたんですか?」

 眉を潜める宇佐美にちょっと待ってとジェスチャーする。テーブルに置いてあったスマートフォンを手に取るとある文字を打ち込み、彼女に見せた。一瞬怪訝そうな表情をしたが、流石と言うべきか理解が速く、呆れたようにため息を漏らす。彼女と話していると表情がコロコロと移り変わるのが楽しい。

「良いんじゃないですか? 洒落てますよ」

「だろ?」

 得意げに携帯の画面を落としポケットにしまう。

 秋刀魚の身を全て残さず食べる、正体不明の人物。

 頭と尻尾、骨を残して身だけ取るから。かじかさん。

 我ながら冴えたネーミングではないだろうか。正面の彼女には不評の様だが。

「それじゃ、私行きますね。閉店作業頑張ってください」

「ん。お疲れ」

 荷物を纏めると手を振りながら彼女はスタッフルームから出て行く。一人分密度が減った部屋で、どうやってカジカさんを探ればいいかに思考を巡らせる。カジカさんの来る水曜日は厨房での仕事がメインで客に気を配ることは難しい。

 誰があの時間に注文を売るのかカメラで確認させてくれ、と言うのは無理な話だ。いくら個人経営の店とはいえ、経営倫理は存在する。何より店長がオーケーを出したら説教ものだ。

 その日だけ休ませてくれと言うのも頭の中で却下する。仮に休みを取れたとしても行き先はこの店。だったら働けと言う話だ。あの店長ならオーケーしそうだが。

 食事休憩の時間も終了が迫ってきて、閉店作業に移るため席を立ったその瞬間。

「……これ、行けるんじゃ」

 脳内にアイデアが舞い降りた。普段からは考えられない俊敏さでポケットの中をまさぐり、スマートフォンを手に取るとメッセージアプリを起動した。相手は先程ここを出て行ったばかりの女。宇佐美だった。



 それから一週間後。

 学校が終わり教室内で生徒が立ち上がり始める中、一目散に飛び出す。その勢いのまま電車を乗り継ぎ、店へ入るとエプロンを巻いた。宇佐美は既にカウンターに立っているが、準備が終わったのを認めると腰巻にしていたエプロンを肩にかける。

「じゃ、そっち頼むな」

「はい。先輩も頑張ってくださいね」

「まあ、たまに手伝ってるし何とかなるだろ」

「いえ、そうじゃなくて、愛想振りまくことですよ」

 目を細めながらからかうように言う。確かに宇佐美のような自然と目が引いてしまうような笑顔は作れないかもしれないが。それでも客を不愉快にさせない程度には笑顔が作れるはずだ。余計なお世話だ、と軽く手で払う。

 俺があの日思いついたアイデアは、今日だけ宇佐美と仕事を変わってもらうことだった。カウンターに立てば客と接する機会ができ、カジカさんが誰かも判明するかもしれない。店長と宇佐美が了承してくれるかがネックだったが、二人ともあっさりオーケーしてくれた。腐っても喫茶店なのでドリンクは粗方作れる。そもそも客が多い時間帯はたまにこちらへヘルプに来ているので勝手は理解しているつもりだ。厨房では大体店長が軽食を作っているので要領の良いアイツならばうまく立ち回るだろう。

 客足はテイクアウトも含めると予想していたよりも多かった。仕事帰りのサラリーマンや学校帰りの学生に少ない愛想を振りまきながら厨房にオーダーしたり、コーヒーを入れたり、商品を説明したりして時間が流れる。

 一時間程経ち、仕事に慣れてきた頃。

「焼き魚定食で。食後にコーヒーを」

 目の前でその単語が発され一瞬固まった。その注文をしたのは壮年の男性。白髪が目立っているが不潔といった印象は一切抱かない。皺のないカーキ色のジャケットが気品を漂わせる。目元にある笑い皺が彼の性格を想起させた。商品を配膳した後近くのテーブルを拭きがてら食事の様子を盗み見た。世間一般的に見れば丁寧に食べられている部類だが、先週まで目にしていた皿の上で泳ぎだしそうな程ではなかった。彼がカジカさんと言うわけではなさそうだ。

 それから三十分が経過した頃、再び焼き魚定食が注文された。学校帰りだろうか。ブレザーを着た女子高生。一瞬胸の辺りが撥ねるのが感じ取れた。隣に並んでいる友人との会話からテスト勉強がてら、といった雰囲気だ。それでもチョイスが渋いし胃に重たすぎる気もするが。明るい髪の毛に第一ボタンが外されたシャツ、ブレザ―のポケットから詰め込まれた学校指定らしきリボンが顔を出していた。

 注文後、同様に確認するが、魚の背骨は中心の辺りで真っ二つにされている。彼女もどうやら違うようだ。

 それからは二件が嘘のように焼き魚定食が注文されなくなった。短針は徐々に動いていき、次第にシフト終わりの時間が迫る。もしかして俺が入る前に来店していたのではないか。いや、それは無いだろう。今日は普段より一時間入りを早くしている。何より店長が午後はまだ一つも出ていないと話していた。朝一ならばともかく、午後の、それも中々出ないメニューを忘れていることは無いだろう。

 きっと彼女は、まだ来ていない。

 一人、また一人客が注文を繰り返すたびに心臓の鼓動が鼓膜を揺らす。次の客がカジカさんではないだろうか。次の客が想い人では無いだろうか。胸の辺りが、張り裂けそうな程になる。注文をさばきながらまだ見ぬ彼女の姿に想いを巡らせた。髪の色は、目の形は、雰囲気は、服装は、どんな声で話し、どんな表情で笑うのか。

「焼き魚定食で」

 そんなことを考えていた中で聞こえた注文に、裏返りかけた声が飛び出る。

 しかし、次の瞬間、俺は口から心臓が飛び出たかと錯覚した。それと同時に体験した、人生で初めての衝撃。 

 目の前に立つ人物を認めた瞬間、おかしな話だが、俺は「理解」をした。

 過去に散りばめられてきた点と点が、線で繋がるような。頭に電流が流れたような。一生かかっても解決の糸口が見つからないと思っていた問題が、湯船に浸かっていたら唐突に答えが下りてきたような。推理ドラマで探偵より先に事件の全貌が解けたような感覚。

「……あれ、街穂まちほ君?」

 肩まで伸びる、濡れたような黒髪に整った眉。左目尻にポツンと存在するホクロが、垂れ気味の目と相まって穏やかそうな印象を増す。黒を基調としたコーディネートは図書館で佇んでいるのがよく似合いそうだ。

「雪下さん……」

 彼女には見覚えがあった。当時とメイクや服装が違っていたから一瞬遅れてしまったが、それでもすぐに思い出すことができた。それ程に、印象深い人物だったから。

 彼女の名は雪下智香。

 俺の高校時代の先輩で。

 俺が、好きになり損ねた人だ。




 思い出すのは放課後の図書室。傾きかけた日が、誰も触れない書架を照らす。木と本の香りが充満するカウンターの中で、プルトップの開けられたホットコーヒーの匂いが広がるこの時間が好きだった。

「街穂くんってさ、好きな人とかいるの?」

「……はい?」

 人が丁度一人分入りそうな隙間を開けて、椅子に腰かけた雪下さんが語り掛ける。黒のセーラー服が良く似合っている。

 俺たちは図書委員会でよく放課後にこうしてカウンターに座っていた。お互い部活には所属していなかったし、そんなに人が来ることも無かったので主に雑談や読書で時間を潰していた。彼女が振る話に脈絡は無く、昨日何を食べたか、試験の結果は。あの映画は見たか、等日常的なものから明日世界が終わるなら何をしたいかといった変わったものまで。少なくとも俺はそんな取り留めのない時間が好きだった。

「……じゃあ、好きなタイプは?」

 答えを口元で転がしていた俺の反応が面白かったのか。軽快な笑い声を上げながら質問を変えた。

「なんで、今聞くんですか?」

「いいじゃん。恋バナしようよ」

 特に悪びれる様子もなく、背もたれに体重を預けた。パイプ椅子が軋む音が開いた窓から吹き抜ける風に溶ける。

「……」

 貴方のような人、と言える人間だったなら、どれだけよかったか。内心自嘲しながら、横顔を見た。

 雪下さんは完璧だった。勉強も運動も、性格も。そうデザインされたのかと考えたくなる程に。それ以外を偽物だと言うつもりは無いが、少なくとも彼女は本物だった。

「……自然にできる人、とか」

 やっとの思いで口から出たのは、そんな大雑把な答えった。

「何が?」

「何でも。自然にできるってことは、身に付いてるってことじゃないですか。作法とか。言葉遣いとか」

 意識をしていない部分に、人の本質は現れる。姿勢や気遣い。見る側が目を凝らさなければ気づかないような、細かい部分。些細なことと笑い飛ばせてしまうような、人によってはどうでもいい部分。

 だが、それすらも丁寧であったなら、きっと、その人は本物なのだろう。

「じゃあ、雪下さんは?」

「んー、私はね──」

 白く細い指で顎をなぞったその瞬間、下校時間を知らせるチャイムが鳴った。分かってはいたが、生徒は誰一人としてこなかった。開きかけた口元がキュッと弧を結ぶ。

「じゃあ、帰るね。今日の鍵よろしく」

 話は終わりだ、と言わんばかりにパイプ椅子から立ち上がる。スカートの折り目を払い終わると鞄を肩にかけ、コーヒーを空いた方の手で持った。時折吹き抜ける風に鼻歌を乗せながらカウンターを後にする。

 徐々に遠くなっていく彼女の背中に向け、燻っていた感情に肉付けをする。きっと今を逃したら、もう言えないだろうから。

「……あの──」

「駄目だよ。それは」

 呼び止められるのを、何を伝えようとしていたのかを分かっていたように俺の声に重ねる。その後に続く言葉を、言わせないようにも感じた。

「それは、リストカットと同じ。だからやめた方が良いよ。ちゃんと、取っておかなきゃ」

 何を言っているのか、理解できなかった。彼女は以前から二手も三手も先を読んだ発言をするが、それでも頭を捻れば理解できていた。しかし、それが今日は出来ない。

「ねぇ、街穂君」

 何も出来ずにただ棒切れのように立っていると、再び雪下さんが語り掛けた。今度は、俺の方を向いて。

「私ね、彼氏できたんだ」

 足から力が抜け、同時に地面が傾くのを感じた。一瞬前と同様に理解できなかったら良かったのに。

「あんな話を振ってから報告するとか、最低でしょ?」

 いつもと変わらない。飄々とした態度で笑う。

「だからちゃんと、嫌いになってね」

 彼女はそう言い残すとドアを開けると、最後に微笑んで「じゃあね」と呟き、図書室を出て行った。鞄からはみ出た黒い筒が、やけに網膜に焼き付いていた。

 彼女の胸に咲いていた桜のつぼみが開花の時を待っている、そんな季節だった。




 当時は理解できなかったが、今なら理解できる。あの時、自分自身の無意識の部分。

 俺はあの時、雪下さんに告白をしようとした。だが、付き合いたいとは思っていなかった。想いを伝えたいだけでもなかった。

 俺はあの時、雪下さんにフラれたかったんだ。

 本物に拒絶されることで、自分がどうしようもない偽物だと自覚したかった。彼女が発した「リストカットと同じ」だと言う言葉が頭の中でリフレインする。

 彼女は完璧だった。

 だからこそ、馬鹿な後輩が自傷行為目的で好きになることを許さなかった。

「久しぶり。元気そうで、良かった」

「雪下さんこそ、元気そうで」

 会計を済ませて、コーヒーを入れる。幸い彼女の後ろに客は居ない。少しだけなら、話しても問題ないだろう。

「……あの彼氏さんとは、上手くいってます?」

「あー、今は別の人」

 照れくさそうな笑顔を作って答える。記憶の中にある彼女と、何も変わってはいなかった。

「あの時言ったこと、分かった?」

「……たった今、分かりました」

 自分自身のことに今まで気づいていなかったという恥ずかしさのあまり手元を見て答えると、正面から噴き出す声が聞こえる。肩を軽く震わせると、

「そっか、ならもう大丈夫だね」

 安心した様子で笑った。

 コーヒーを渡し、しばらく待って厨房から出てきた焼き魚定食を届けに向かう。奥の席でスマートフォンを触っていた。一声かけてお盆をテーブルに置く。

「あの、いくつか良いですか?」

 隣のテーブルを拭きながら、彼女に問いかけた。

「ごめんなさい以外なら、いいよ」

 箸を扇状に割き、小さくいただきます、と呟きながら魚をつつく。相変わらず全てを見透かしたような人だ。過去の俺は雪下さんに恋愛感情的な好意を抱いていたのかもしれないが、純粋にそれだけで想いを伝えようとしたわけではない。今にして思えば、憧れの感情の方が強かったのかもしれない。そのことを詫びようと思っていたのだが……

 言葉を封じられ、次の話題を探る。

「……何で、あんなこと言ってくれたんですか?」

 あの言葉は、彼女にとってメリットは無かったはずだ。わざわざ俺なんかに遠回しで教えてくれた意味を、知りたかった。

「何でって、可愛い後輩を気にかけるのは、先輩の役目だからね」

 手を鳴らせば音が鳴る。そんな当たり前のことだと言わんばかりの声音で発された回答に、思わず笑みが零れた。きっと彼女の中では、悩む必要もない程に、当たり前のことだったのだろう。

 やっぱり、雪下さんには敵わない。

「雪下さん」

「何?」

 背中を向けたまま問いかける。きっと雪下さんも、こちらを向いてはいないのだろう。

「最近、この店に来たことありますか?」

「初めてだよ。今日が」

「……そうですか」

 彼女が発する回答が想像していたものと同じだったことが嬉しかった。少しでも、あの時憧れていた存在に、近づけた気がしたから。



「お疲れ様です。カジカさん、居ました?」

 スタッフルームで賄いのナポリタンを食っているとドアが開き宇佐美が声をかけた。何度も食っているはずのナポリタンは普段よりも塩気が強く感じた。

「いや、居なかったよ」

 今日は来なかったのだろうか。それとも雪下さんがカジカさんだったのだろうか。あの人はよく嘘を吐くから。まあ、関係ないか。

 俺はあの頃と何も変わっていなかった。本物に否定されることで自身がどうしようもない偽物だと認識したいだけだったのだ。そんな心持で相手に好きだと伝える等、失礼以外の何物でもないと気付かない。

「無理言って悪かったな。今度なんか奢るよ」

「いえ、気にしないでください。新鮮で結構楽しかったですよ」

 宇佐美は皿やコップの乗せたお盆を静かにテーブルに置いた。

「あれ、今食べるの珍しいな」

 水曜日ならば彼女はシフトに入る前に食事を済ませていたはずだが、今日は違っているようだ。

「はい、授業が長引いちゃって、時間なくて」

 手を合わせて小さくいただきます、と口にする。彼女の眼下にあるのは件の焼き魚定食だった。醤油で味付けされた秋刀魚と大根おろし、味噌汁の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。

「……そう言えば綺麗だよな、食べるの」

「そうですか?」

 しばらく食事の音だけが部屋に響いていたが、ふと思いついて沈黙を破りたくなる程に彼女の食べ方は目を引いた。頭から尾にかけて背骨に沿って切れ込みを入れ、身を持ち上げるようにして口元へ運ぶ。箸さばきも丁寧で、細かい骨に傷を付けないようにそれでいて時間をかけず身をはがしていく。繋がったままの骨が段々露わになっていき、まるで──

「……あのさ、宇佐美」

「はい、何ですか?」

 背中に嫌な汗が滲む。声音も情けなく震えていることだろう。対照的に彼女は澄ました表情で身を口元へ運ぶ。

「聞きたいことがあるんだけど」

「はい、食べながらでよければ答えますよ」

「……先週とかその前、賄い何食った?」

「あー、焼き魚定食ですね。確か。ハマってしまって」

「食器ってどうしてた?」

「私も店員ですからね。ちゃんと厨房の流しへ持っていきましたよ。そう言えば先輩が厨房へ入る前だったかもしれませんね」

 一つ一つ、火に当てられた氷のように頭の中にあった疑問が融解していく。

「……あの、もしかして」

 ソレを否定するだけの要素が消えていく。

「カジカさん?」

 気が付けば二カ月前から毎週見続けてきたのとまったく同じ、頭と尻尾。小骨まで繋がり水に放てばそのまま泳ぎ始めそうな骨が皿の上に鎮座していた。食べ始める際と同様に手を合わせ小さく「ご馳走様でした」と呟くと、彼女の口元は弧を描く。

「……だったら、言うことがあったんじゃないですか?」

 からかっているのだろうか、しかし彼女にカジカさんのことを打ち明けたのは一週間前。それだけの期間でこの食べ方は会得できるものではない。

 それに、仮に宇佐美がカジカさんだったとして、先週あの場で言い出さなかったのは何故だ。俺に告白されたくないのなら、今この場で言外に正体を明かしたのは何故だ。困惑が重なっていく中、長い睫毛が普段よりも多く瞬き、ダークグレーの瞳が揺れる。頬は上気していて、唇が微かに震えているのが見て取れた。

 ああ、そうか。頭から抜けていた。そんなことは有り得ないと、思っていたから。

「……」

 しかし、その言葉はあの時とは違っているのだろうか。頭の中でそんな考えが浮かび、喉の奥が塞がる。

 本物に否定されて、偽物と認識したいがための、言葉ではないのだろうか。

 ……いや、きっと違うのだろう。

 何故なら。

 あの時と違って、これから発する言葉を、彼女に否定されたくないのだから。

「や、焼き魚の食い方に感動しました。好きです。付き合ってください」

 最後まで発することができただろうか。ちゃんと彼女に、届いているだろうか。

 沈黙が無限に感じる。備え付けてある時計の秒針も点けっぱなしになっていたテレビの能天気な声も、全ての音が遠くなっていく。それなのに心臓の鼓動だけが嫌になるほどうるさい。お互いの息遣いさえ聞こえてきそうな空間で、不意に宇佐美が口を開いた。

「……はい、喜んで」

 白い歯を見せながら、泣き出しそうになりながら笑った。俺が今まで見てきたどの表情よりも、美しいと感じた表情だった。

 カジカさんは、俺が想像していたような人ではなかった。

 しかし、この人がカジカさんで、良かったと思えるような人だった。

 スタッフルームから料理の香りが段々と薄れていく。窓の外では澄んだ空気に星が、気持ちよさそうに瞬いていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

正体不明のカジカさん センリ @lari93_fa6

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る