通学路一方通行、道端で雑草枯れてる

なんようはぎぎょ

 2020冬、雲のない快晴の日。東京都足立区の議員が言った。

「同性愛が広がったら、足立区は滅びてしまう!少子化により、いずれ区民がいなくなってしまうんですよ!」


 田原まゆは、都営団地のリビングのテレビでそれを見た。LINEフレンズが歯磨きしている柄の黄色いパジャマで、肩まで伸ばした髪をオレンジの輪ゴムでくくってカップ麺を食べていた。

 テレビの中の議員は高齢で、ほとんど髪がなくグレーのスーツを着ている。

 やや距離を置いて向かい合う、取り囲むように群れたジャーナリストが、次々と捲し立てるように非難した。気の強そうな女性が口元を曲げて、議員の全部の人格を否定して、彼の妻についても悪口を言う。


 繭は別に同性愛者ではなかった。彼女は中学一年生で、偶然まだ恋をしたことがない。

 ぬるいお湯を入れて、すぐに箸でほぐして食べ始めたカップ麺は固い。場所によって粉スープの味に濃淡がある。

 日曜日の昼過ぎ、家に一人だった。明日にはまた一週間が始まる。

 勉強をしないといけない。友達と楽しく、自慢にならないように可愛い持ち物の話や苦手なことの愚痴、嫌いな子の噂話をしないといけない。繭はただ学校に行くのが辛くて、毎週日曜の昼から夜は特に地球に爆発してほしかった。


 繭の知っている同性愛者は、派手な女装とメイクをした、タレントや芸人たちだ。

 彼らは大体みんな体格に似合わず愛らしいキャラクターで、イケメンのタレントに色目を使ってフラれたり、恋愛相談に乗ったりする。クラスの友達はみんな大体彼らが好きだった。総じて、彼らは繭にとって可愛く無害なものだった。


 テレビで男性ジャーナリストが、議員の今までの職務全てに対して、なるべく難しい言葉を使って悪口を言っている。



 繭はチャンネルを変えた。おでこを出した渋いセクシーな総理大臣が、幾何学模様柄のネクタイをしめて画面をまっすぐに見つめて言った。


「国民の皆さん。問題があるということは、解決の必要があるということなんです。困難が去ると、いっそう美しい日本の景色が見える。ご存じですか?海の色は、空をそのまま映している。景色は、鏡ということです。前を向き、この日本という国を目に前向きに映す、それは前進ということです」


 繭はテレビを消した。何も面白くない。テレビなんて誰のための物かわからなかった。



 お母さんは昨晩も帰ってこなかった。テーブルの上には繭の昨日の晩ご飯のタッパー、箸とフォークが転がっている。

 繭はフォークを手に取った。先端が渇いたケチャップで赤黒い。

 軽く握り込んで、目の前を裂くように振り下ろす。空気が軽い音を立てた。


 メディアでナヨナヨするタレントの彼らは、親しげで繭も好きだった。カフェや美容系のYouTuberには、女子よりずっと女子っぽい人が多い。

 可愛い彼らに足立区が滅ぼせるなら、自分にだってできると繭は思った。

 台所には包丁が2本、引き出しにはアイスピックがある。酒飲みのお母さんが、買ってきてほとんど使っていないものだ。

 包丁は怖いのでアイスピックを手に取る。他にも小さいテーブルナイフ、自室にはハサミとカッターがある。工作用のカッターナイフも取って、黒いリュックサックに入れた。



 リュックのサイドポケットで、薄ピンクの飾りが揺れて目に留まる。お母さんが大切に集めているパワーストーンだ。

 何回抗議しても勝手に取り付けられる。無表情で外して、床にガツッと叩きつけて捨てた。




 簡単に着替えて、玄関で盛り塩を蹴って、積まれた段ボールから水素水のボトルを取り出す。

 共用廊下はプランターを並べる人が多い。名前も知らない、冬で葉が落ちた沢山の植木。たまにアロエやサボテン、プラスチックピンクの猫用の砂トイレ。

 埃をかぶったそれらは全て、見るたびに繭を嫌な気持ちにさせた。


 エレベーター横の告知ボードに、手書きの『コロナはただの風邪』ポスターが並ぶ。無人を確認して、近くのサボテンの鉢を蹴って割った。



 外は冷たい風が強い。

 駅までの近道には寂れた繁華街を通過する。狭い道の両脇に一か所密集して店が並び、いつでも排水溝の臭いがした。

 半裸の女の人が前屈する看板、90分6000円と書かれた何の店かわからない扉。30分飲み放題二千円スナック凛凛。大人の幼稚園。


 中華料理屋の破れた提灯の下で、さっきの議員みたいなお爺さんと、クチャっとした顔のアジア人風の少女がくっつく。

 お爺さんは顔が赤く、怒鳴るように大声で喋った。

「これ!これこれ取っておきなさい!だぁいじょうぶだからね、これこれ!」

 少女が差し出されたお札をわし掴んで素早くポケットに入れる。お爺さんの指は太く、何かわななくように、バラバラとテーブルの上で空を掻いた。


「キャァありがとうねぇパパぁ~」

「ハ、ハハ。だぁいじょうぶだからって!」


 繭は立ち止まってしばらく覗いて、すぐにまた駅に向かって急いだ。

 足立区が滅びたら排水溝の臭いも少しはマシになる。そう考えたら少しだけ、スッキリした気持ちになった。


 ◆


「あら!田原さんとこのお嬢さんじゃない~!」

 改札の近くで後ろから、聞いたことがあるような女の声がした。

 気にせずに改札を抜け人の流れに沿って歩く。ホームに上がったらすぐに来た電車があったので、それに乗った。無意識にリュックをきつく胸の前で抱きしめる。



 乗客が多い。窓の外で繭の団地が見えて流れてすぐに消えた。


 じき空いた席に座って、足立区をどうしようか考える。

 隣は白髪のカールした、花柄のコートに布マスクのお婆さんだ。顔を見られないように一応、フードを目深にすっぽり被った。


 景色はどんどん流れて、乗客は増えたり減ったりした。

 アイスピックとカッターを持っても、繭一人にできることは少ない。

 Googleによると、足立区は53平方キロあるらしい。具体的に想像のしにくい広さだ。


 派手に爆発する物、燃える物を考える。プロパンガス?圧力鍋?炭疽菌?

 特定のトイレ用洗剤に、漂白剤を混ぜると硫化水素が出るらしい。嫌がらせ目的で飲食店トイレに硫化水素を置いた男の記事が出る。殺人未遂で逮捕という扱いで、こんなことで簡単に殺人ができることを知って繭はぎょっとした。

 隣のお婆さんが立ち上がって、驚いてスマホの画面を隠す。


『まもなく終点、新宿、新宿。お出口は~右側です。本日もJR東日本をご利用いただきまして、誠にありがとうございました、お忘れ物のございませんよう……』


 リュックをまた抱きしめて、降りる人に続く。




 新宿駅は広かった。果てが見えないほどホームが長く、それが数えられない本数、並列に続いている。

 マスクをした群れるような人々の、流れる足は速い。前の人と後ろの人に、空気で押されるようにして進む。一番近くの階段、地下に向かって自然と続いた。人の波は黒々として、吸い込まれるような気持ちになった。

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