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外は高層ビルが並んで、見上げるほど高くカラスが飛んでいた。
繭は少しワクワクした。どこを向いても人が多く、視界に大量のマスクが入る。
『KEIO』表示の駅ビルの前の歩道で、切り花を並べて売る人がいる。道行く人たちはみんな黒に似た色の服を着て、花だけが不自然に赤い、人工物みたいに見えた。
更に先には人が密集して並ぶ、バスの発着所があった。
『新宿⇔松本』の標識の手前で、停まった大型バスに人が吸い込まれていた。
知らない土地に行くんだ、と繭は黒い大人たちを見て心がざわついた。
バス停には錆びた青いベンチが並んで、遠くで茶髪の男子が頭を抱えて座っている。
犬が煙草を吸っている柄のキャリーバッグと、パンパンのリュックを足元に転がして、青いダウンジャケットを着た体は小さい。同じ年くらいだ、と繭は思った。
小柄な体を縮こまらせて、両腕で頭を包んだまま動かない。
しばらく観察して、全く動く様子がないので飽きた。ビルの谷間は日陰ばかりで、見ているだけで背中が寒くなる。
高層ビルの窓に映る、空の色も薄くて寒々しい。
歩きながら水を取り出して、冷たいそれを一気に飲む。半分ほど減ったところで
「こんにちは、悩み事ですか?」
後ろからゆっくりした声が掛けられた
「待ち合わせですか?そうでなければ、一緒に食事でも行きませんか」
ベージュのトレンチコートを着た、太った中年男性だった。白いマスクを頬に食い込ませて、落ち着いた声でゆったりと喋る。
「ナンパ?」
「……はい。とても可愛らしく綺麗な女性だったので、つい」
繭は自分の全身について考えた。
紺色のもさいダッフルコートに、白い膝丈スカートにスニーカー。癖のある髪は整えていない。
背はクラスでも低い方で、先日やっと140センチになった。マスクの下の顔はお母さんに似て、鼻と口は小さく丸い。目も小さく垂れ気味で、よく眠そうな顔だと言われる。
一瞬だけ地元の中華料理屋にいた、お爺さんとアジア人のカップルを思い出した。
「ふーん。可愛いはたまに言われるけど、綺麗って初めて」
初対面の相手から、お世辞を言われる理由もないはずだ。
「じゃあねオッサン。ばいばい」
繭は去った。中年男性はにこにこついて来た。
「お腹はすいていませんか?今日は晴れているのに寒いですね。もしよかったら、暖かい楽しい場所に一緒に行きましょう」
無視をした。
「タカギと申します」
「……」
繭は段々早歩きになってタカギも追う。二人して競歩みたいになった。
「僕があなたに声を掛けたのはですね」
「はあ?」
「あなたが何か深く悩み、困っていらっしゃるようお見受けしましたので。だから一人でこんなところにいるのでしょう?」
「えっ」
無意識に歩くペースが落ちる。
「それも、大切な悩みです。僕は大人なので、あなたのそれを聞いてきっと、寄り添って一緒に考えられる」
「え……うん」
「好きな男性と上手くいかないとか、先生がわかってくれないとか。家族や友達と喧嘩したとか。きっと、誰にも言えない大きな悩みでしょう」
「は?お母さんは話通じないし、お母さんのスナックのジジイも勉強も全部うざいし、クラスの子はみんなつまんないけど。そんなの別にいいし。じゃあね」
「そっそうですか……。では、恋愛の悩み」
繭は立ち止まって振り返った。気分は頭の悪い生徒に教えてあげる先生だ。
「繭ね、足立区を滅ぼそう思ってんの。でもやり方がわからなくて、知ってんなら教えてください」
「あぁ繭さんとおっしゃる…………何だって?」
「は?だから、足立区を滅ぼすんです。今はまだアイスピックしかないけど」
タカギは眉をひそめて、繭の顔をまじまじと見た。
「……何でそんな見んの?モツ子デラックスやハルノちゃんにできんなら繭にだってやれるし」
黒い服の通行人も、チラチラ見ては過ぎ去って行く。
「ん~……ん?足立区……北千住とかだよな。ほろ、滅ぼす?したいの?繭、さんは住んでるの足立区?」
「そう。どうすればいいかな」
タカギはマスクの左右にエクボを作って、ウンウンと頷いた。
「僕にはわかるよ、その悩み」
「は?」
繭は去った。タカギはついてくる。
「繭さんくらいの年齢は、何でも悩みの種になって、何でもできるつもりにもなるよな。僕も少年漫画で育ったし、自分が主人公だと思っていたもんだ。自分が万能ではないって気付いた時はそれこそ、色々壊したいくらいは思ったかもな、ハフッハッハッ」
スマホにバイブで着信が入って、繭はほとんど聞いてなかった。お母さんからのLINE電話だ。無視していると、じきに止まった。
二人して競歩を続けたまま、タカギはウンウン、と納得している。
「繭さんは今辛いんだね。でも、僕は大人だから、楽しい経験や刺激が、それを慰めることを知ってる」
「は?つか繭いま足立区の話してんだけど」
「ウンウンウン、足立区?家に?帰りたくない日だってあるよな。僕もかつてそうだった。無理に帰らなくてもいいんだよ、誰にでもそんな時期があるんだ。もしよかったらこの後、二人だけで」
「お前ぜんっぜん話通じてないのやばくない?最悪ってよく言われるっしょ。あ、タピ屋」
「買ってあげるよ!好きなの選んで!」
スタンドの前にできた短い行列に並ぶ。タカギは並んでいる最中は無言で、何故かソワソワしながらマスクを深く引き上げた。
注文品は二つとも繭が決めて、両方タカギが素早く受け取り道端まで避ける。
宝くじ売り場の旗の影に入り、ピンクのストローの付いた大きなカップを繭が受け取ると、途端にまたタカギが滑らかに喋り出した。
「初めてこういうものを頼みました、華やかですね、うん味も悪くない。良かったら繭ちゃんとお呼びしても?」
「は?」
「それでは繭さんですね」
「……」
「繭さん、もしかして何か怒ってます?」
「何で?別に」
気付けば随分と移動していて、蟻の群れのように人が更に増えている。
目の前の大通りの横断歩道で、金髪のウイッグの客引きメイドが「萌え萌え~」と手を振った。寒そうな薄いメイド服で、誰もが無視をした。
「繭さんは、よく新宿にいらっしゃるんですか?」
「一人で来たの初めて。前は時々お母さんとお祖母ちゃんと来た。何で?」
「大変勇気があると思ったので。失礼ですが、おいくつでいらっしゃいますか?」
「13」
タカギの目が少し開いた。露骨に弾んだ声になって、しかし努めて落ち着いた表情を作る。
「そうなんですか。お知り合いになれて嬉しいです。僕、繭さんのような友達が欲しかったんですよ。繭さんは本当に素敵な女性です。僕は、」
「いやおかしくない?友達て。さっき会ったとこだし」
「……はい、すみません」
「別に。何で謝んの」
「んん……」
ドンキホーテのある交差点の歩道では、ホームレスが荷物を広げて寝ている。白髪交じりの髪が長く、ボロボロの服は穴だらけだ。ズボンの穴からは下着が覗く。通行人は全てホームレスなんて見えないふりをして流れていく。
「繭さん、フランス料理は好き?」
「嫌い」
「そうなんだね。中華料理は好き?」
「普通」
「そうなんだね。お金には困っているかい?」
「普通」
「そうなんだね、……お金は欲しいかい?」
「うーん、欲しいけど。でも繭今はそれよりもっと一緒にやってくれる仲間のが一番欲しい」
「うんうんうん!そっか出会いが欲しいお年頃だよね。繭さんはどんな男が欲しいの?」
「別に女でもいい。頭良くて勇気と腕力あって、あと色んなこと知ってる人。繭まだちょっとやり方わかんなくて計画中だし」
「繭さんは経験豊富な大人が好きなんだね。僕は今までに」
「タカギは話通じないし、逃げ足が最悪遅そうだし無理。しかもつまんないし意味わかんないし最悪。かなり最悪。何でついてくんの」
「……メッセージアプリの、助けてくれる人募集できる掲示板知ってる?」
「教えて。大人の仲間増える?」
「うん!増える増えるよ!ちょっとこれ検索して……」
タカギは緊張した真剣な顔で、繭のスマホにアプリを入れ込んだ。その最中一生懸命、繭は綺麗で頭も良いと褒めちぎった。
褒められるのに慣れていない。繭はむずむずソワソワとした。
「繭さん、ちょっとだけ。一緒にご飯食べに行きませんか?」
「……いいけど」
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