5

 トイレはエスカレーターで一つ下がった階にあった。繭は逃げ道を探したが手が外れず、ただキョロキョロ辺りを見ながら引かれる。

「パパとママがどこにあるですか?電話があるか?」


 ビルは中央が大きく吹き抜けて、その周りに様々な飲食店が並ぶ。あらゆる通路や店の前で、黒っぽい服にマスクの人が揺れている。

「お母さんは今仕事中。電話しても出ません連絡はやめてください」


 人とすれ違うたび怖い。あの中の誰か一人に、突然後ろから羽交い絞めにされたらどうしよう?さっきのトモヤの顔が浮かぶ。

「ウームズカシね。ゆっくり話するいいですよ」

「あの、お母さん、怒るし、迷惑だから。絶対に連絡はやめてください」


 トイレに着いてから逃げようにも中も人が多かった。

 やたら白くギラギラした装飾のトイレで、個室には行列ができている。観葉植物のついた鏡台では女たちが寿司詰めになって化粧品を顔に塗りつける。繭は全身から変な汗が出てきた。


「はい、トイレここ。じゃ私煙草行きますダカラ。と彼氏電話するだよ!チョット待ってお願いしますね」

「…………うん」

「ゆっくり良いよ~」


 手をひらひらさせ完璧な笑顔で、ウエイターのお姉さんは去った。


 ◆


 繭は並ぶ人に割り込んでエレベーターに走り込み、ビルから走って外に逃げた。

 流れる黒い通行人たちは、誰も繭を気にしなかった。急激に体が冷えて、ズッと急に冷えた鼻をすする。

 新宿駅があるはずの方角に進むと、正面から警察官が三人やってきた。


 大通りの少し先のビルの谷間に、太い石の柱が生えており影に隠れる。

 見上げると柱は門の形をして、中央に『花乃園神社』と書かれた木製の額が出ている。古い鳥居のようだった。



 警察官がすぐ前を通り過ぎる。心臓がバクバクした。初めて、人を刺してしまったと思った。思って改めて、力が抜けてへなへな座り込む。人に刃物を振ったのは初めてで、まさか刺さるなんて思わなかった。


 見上げると通行人が、波のように次々左右に流れていく。全員黒い服を着てマスクをつけて、誰一人はっきりと顔がない。その更に後ろ、さっきも見たタクシーや乗用車のライトが、洪水のように溢れている。


 お母さんは怒るだろう。お祖母ちゃんは泣くかもしれない。クラスでどうなる?高校受験は?

 全身が冷えた。目を逸らすと神社の参道に、点々と灯りがともっている。社に続く狭い道の左右に樹木が並び、提灯が奥へ続く。

 先は見えなかった。大通りの喧騒と比べ、一切の人影がない。リュックを抱きしめて、繭は暗さに惹かれるように進んだ。いつもは怖くなる無人に、不思議と心が安らいだ。



 しばらく進むと道が開け、左手に石造りの階段と、その上に意外と大きな社があった。右手には物置小屋とトイレと、雑木林が広がっている。

 左手側は先客がいて、中年カップルが階段の中央に座って抱き合っていた。

 繭はイラっとした。しかし怖いので反対に進む。



 トイレから離れて、大きな木の出っ張った根の上に座った。スマホを取り出すと電池が切れていた。

 全身に寒さが来て震えた。怖くて仕方がない、でも帰っても絶対怒られる。

 階段の中年カップルがキスを始めた。

 繭は泣いて叫びたくなった、自分が可哀想に思えてきた。昼に見たピンクのコート女の『可哀想ーー!』を思い出してすっと真顔に戻る。正直あれは気持ち悪かった。

 中年カップルが何やらゴソゴソと始めた。ぽっちゃりした女性の服がめくれて、三段になった腹が覗く。繭は夜空を仰いだ。


 両隣りをビルに囲まれ、空は細長く四角い。生ぬるい風が吹いて、頭上で葉の落ちた木々の枝がカサカサ揺れる。

 リン、と頭のすぐ後ろで、鈴の音が響いた。


「……?」

 振り返ると、生温い水がボタボタ降ってきて繭の顔を濡らした。

 水は黒ずんだ赤色をしていて、すぐに全身がまだらに染まる。繭の目と鼻の先に、赤褐色に膨れた髪の長い男の顔があった。


 繭の喉からヒー……と細い笛のような音が抜けた。スマホを取り落とし、リュックを抱えようにも全身が固まって動かない。


 頭上の大木に色の濃い八重桜に似た花が満開に広がり、はらはら周りに散り始めた。

 男の顔は繭と同じ目線の高さで、下半身が地面に埋まっている。両目は濁り切って溶けるような灰色、首から下はブヨブヨ水風船のように膨れ、ところどころ淡い緑色の脈が走る。長い髪の途中に鈴が絡まっており、昔デパートで見た雛人形のオスの方を、百回雑巾がけに使ったような服を着ていた。両袖だけ異様に長い。


 見渡すと辺り一面、背の高い木々に桃色の花が咲いている。石段も社も中年カップルも影すら見えない。

 男が口を開ける。両目と口から赤黒い水がこぼれた。膨れた顔の割に小さな口を、縦に開くように動かして喋る。


「時んじくぞいも待つを、い行きはばかり。恋ふれば苦すぃ、妹も我を待つらむんぞ、昔思ほゆ」

「は?」


「恨めしも桃のはだれの過ぎては行かむ。かくも人のことも離りぬれど、妹を忘れて思へや」


 男は深く沈み打ちひしがれた表情で、しかし滔々と歌うように述べた。繭は困った。


「…………ハロー?アンニョン?コンニチワ?」


 男は片眉をしかめる。

「あはれ……」

 言って水風船のような両腕を持ち上げ、無遠慮に繭の頭を掴んだ。


「はっ……さささ触んな!放せ!!なな何なんだぢゃんど喋れよ!!」

 繭は鼻水と涙を飛ばして叫んだ。男の力は強く離れない。赤黒い水をコポコポと吐き出しながら、妙に上下するイントネーションで続ける。低く響くいい声で、最近人気急上昇中の関西弁Youtuberの男に少し似ていた。



「愚か人ならざらめや、或いは唐土もろこしかも?わんが名は志貴シキと申す、我が園に立ち入るふぁたれそ」


 繭はぐしゃぐしゃな顔になりながら、今知っている単語を聞いた気がした。

「いま誰って言った……?繭、です。え、なんか撮影……?」

 言ってから一回鼻をすする。志貴の目と口からこぼれる液体が止まった。


 灰色く濁った目の、中心から黒色の瞳孔が点と沸いて円になる。二人の焦点があってきた。

「おう許さね、さても新しき言の変化へんくぇふぁ、水無瀬川の早き瀬に如しものかも」



 志貴の両手は離れない。繭は必死に考えた。ついさっきトモヤが急に一人でブツブツ話しだしたのを思い出す。確かトモヤは、繭が立ちあがり話を遮った時に傷ついた顔をした。

「うん……はい」

らさね、我は妹待つを、千二百年此処にいまし。さしもはらわたを断ち侍るうちにも」


「プ……プリーズ、ゆっくり、はなし……」

「や……」

 リン、と鈴の音が響いた。意識して話の意味をよく聞く。

 志貴は一回瞬きをした。

「妹に、恋ひ、いたもすべなみ」

「あー……」

 ゆっくり区切るように言われる。案外、伝えようとしてくれるようだ。


「我が、うつくしき、妹は何処ぃどこ

「あ!!あー……。あーね……」


「見まく欲し、もすぃ見いんぱ」 

「……あ?」


「妹や、何処にいて在りし」

「あ。あーね……」


「今更に、探しべきよしの無きがさぶすぃさ」


 そのまま「妹、何処……」と口の中で呟いて、膨れていた志貴の体が縮んでいく。段々とすっきり引き締まり、口回りが整うと結構イケメンになった。


「……でも繭知らないし。そんだけ待って来ないんなら多分、もう忘れてんじゃない?」

 志貴の両目から赤黒い液体が勢いよく吹きだした。繭は今度こそ大きくヒーーッと叫んだ。

何故いかに!!」

「ひ、ひ、ま、繭知らねーよブス!いい加減頭放せ!!嫌われたんじゃねぇの?最悪臭い!風呂入れ!放せ!カス!」


 赤褐色の膨れた太い木の根が一本、鞭のようにしなって繭の腹を勢いよく殴った。


 繭の体は軽々宙に吹き飛んだ。景色が他人事にスローモーションをして見える。志貴が「恨めすぃ……」と赤黒く泣きながら遠ざかる。あれ繭これどこまで飛ぶの?


「恨めし……ええ畏こしを、繭……」

 いや繭の方こそウラメシだし。そう思いながら何故か急に遥か昔お父さんとお母さんと食べた塩味の煮物を思い出した。お祖母ちゃんに連れて行ってもらった動物園のゾウの大きなフンとか、クラスの人気者が持っていたLINEフレンズの黄色い筆箱とか。どうでもいい事ばかりがどんどん頭の中を駆け抜ける。


 直後固く冷え切った石畳が、後頭部と背中を強打する。そのまま呆然と滲む空を見上げ、急激に意識が遠のいていった。

「恨めし……恨めし……」と志貴のすすり泣く声と鈴の音が、繭の体の下、地中から途切れず響いた。

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