第5話

 電車に揺られること、十五分。そのあと自転車を懸命に走らせて自宅マンションの駐輪場に自転車を止めた。

「ただいま」

 僕は鍵を使いドアを開けるといつものように誰もいない居間に声をかけた。


「寒くなったから、ジャンパー買ったんだよね。ちょっと派手かな」

 僕はそう言いながらキッチンに入り、手を洗うとコロッケとサラダを置いた。

「そう、これね、悠奈の好きな、三島ゆかりさんからもらったんだ」

 写真の悠奈の前にイチゴミルクの飴を置いた。独り言はもう癖になってしまった。ここにいるべき悠奈のことを僕がどんなふうに思っていてもそれは僕の自由。心の奥に仄かに灯った明かりが僕の生きる原動力になっている。それを奪う者はきっとこの先出現しない。

 アニメの世界の中ではこんな気持ちを振り絞って、キャラクターに命を吹き込む。

「なあ、これでいいんだよね。悠奈。ご飯でも食べようか」

 自分に向けて話しかけていることに気が付かないフリをして僕は年齢を重ねておじいさんになっても大御所の方達のように、この声を天にいる悠奈に届けるのだ。


 小さいクリスタルのオブジェの中に悠奈は入っている。僕の愛する悠奈はいつも僕の帰りを待っているし、彼女が愛したアニメの声優になることで僕はこうして今日も生きている。僕はもう誰も他の女性に心を移すことは一生ないだろう。ここで僕の帰りを待つ悠奈が僕の心の中の恋人であり、妻なのだから。結婚することは叶わなかった、僕から悠奈を奪い去った偶然のもたらした悪夢。

 なんとも情けない僕のことだから、声を上げて泣くことしかできなかった。白い顔に白い腕を見たのが最後で、病院に入った後もう二度と顔を見ることは叶わなかった。


 スマホに入っている留守番電話の声は消去していない、何度も聞いている。いつまでも、これからも悠奈はここにいる。確かにここに悠奈は生きているんだと僕は思う。これを削除しない限り、永遠に一緒にいられる。

 僕はこの怒りと哀しみをどこにぶつけたらいいのか、それすら分からない。僕が送った細い指輪も戻ってこなかったが、悠奈のスマホだけは返された。親御さんから、涙ながらに聞かされた真実だけが今も僕を苦しめる。だが、あの時送った指輪をつけたまま悠奈が天へ旅立ったのだと思った僕は、同じ店で僕のサイズの指輪を買って身につけている。

 周りは僕を既婚者だと思っている。そう、僕は悠奈の夫。



 だが、あれから二年が過ぎて、やっと怒りが少し薄れた。

 悠奈がいつまでもこんな醜い顔をしている僕のことなんか、愛してくれないと言うことに気が付き始めたから仕事場でも自然と笑顔になれるし、創ろうこともなく笑うこともできるようになった。

 悠奈に向ける笑顔を思い出そうと懸命にレッスンとオーディションを受けて、やっと今の事務所に入ることができた。

 

 僕は毎朝、悠奈に言ってくるよと声をかける。

 そして悠奈も僕の声を聞いているはずだ。

 僕のことをいつまでも見守る妻は、僕の中にいる。

 僕の声はこれからも死ぬまで、外の世界に響き渡り、天まで届くはずだと信じている。どんな声だって食らいついていくことが僕に与えられた使命なのだ。

 どんなときも、どんな日も、どんな役も僕は演じていくだろう。それを悠奈が望んだから、僕の命が尽きるまでこの仕事を辞めることはない。天が僕を望むまで、もしくは悠奈が呼んでくれる、その日まで。

 

 

                  了

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