あおの、そら。 ─The blue sky cut off by the window.─

aza/あざ(筒示明日香)

あおの、そら。 ─The blue sky cut off by the window.─

 






 彼女はずっと窓の外を見ていた。

 来るはずの無い人を、待っていた。




 お嬢様が見据える門戸。

 辰之助しんのすけさんは、来ない。







   【あおの、そら。 ─The blue sky cut off by the window.─】

 



 いつだって、その人は家の右側の窓辺か縁側にいた。本来ならこの家の婿を貰い当主になられる方。


 香織かおるお嬢様。


 お嬢様はおきれいな方で幼心にああ、美しい、と思ったものだった。


「あら、辰太しんた

 物陰からこっそり窺っていたのだけれど、別に隠れていないせいかあっさり見付かってしまった。僕を見付けて微笑むお嬢様は本当にきれいだ。この辰太と言う名はお嬢様にいただいたのだと父に聞いた。お嬢様のかつての婚約者から字をいただいて。

 お嬢様の婚約者は先の大戦で亡くなられたらしい。未だご健勝のご当主の、忠実なる従者である鳴海さんのご長男だったそうだ。

「いらっしゃい。一瞬辰之助しんのすけさんかと思ったわ」

 お嬢様は戦死の知らせを聴いてもずっと待っていらっしゃる。こうして門扉の見える建物の右側で。いつも見えるように。

 今日僕は阿佐前の門からでなく敷地の繋がっている鳴海の門からここを訪れていた。鳴海の家は阿佐前と背中合わせに建っている。お嬢様が僕に気付くはずも無いのだけど。

「ご、ごめんなさい……」

 僕は謝った。期待させたなら、とても申し訳無いことをしたからだ。

 辰之助さんは、戻って来ないとしても。お嬢様は。

「良いのよ。辰之助さんも鳴海の門から帰って来るなら良いのにね」

 でも、無いわね。だって、戻ったら一番に阿佐前に来るから。

 お嬢様の婚約者だからなのか長年仕えている鳴海の長男だからなのか。僕にはわからないけれど確かに、そうかも、とは思った。

「お嬢様」

「嫌ねぇ。辰太。私とあなたは遠くても親戚なのよ? しかもあなたの名前は私が付けたの。『お嬢様』なんて呼び方はやめて?」

 それに、とお嬢様が続ける。

「この家はあなたのお父さんが継ぐのよ。あなたのほうが『お坊っちゃん』になるじゃない?」

 揶揄うみたいに笑ってお嬢様が、香織様が言った。

「『お坊っちゃん』はやめてくださいよ」


 僕の家は阿佐前の遠戚筋に当たってあの大戦で土地と家を失っていた。戦争に行けなかった父さんは足が悪く、この食うどころか寝るにも困る時代、どこも自分たちだけで手一杯で仕事も無かった。孤児は溢れ返り物乞いは多く、物取りや強盗も日常茶飯事な場所が幾つも在ったそうだ。僕たちの家族も明日をも知れぬ身だった。勿論せっかく生き延びたのに死んだりなんてしないけれども、僕が生まれたのは終戦少し前で、父さんたちは僕と言う乳飲み子を抱えていた。そんな時期ご当主と鳴海さんが僕たちのところへいらっしゃったのは本意で運が良かったとしか言い様が無い。

 ご当主は仰有ったらしい。「赤ん坊を抱え困っているのだろう。ウチに来ないか」条件は、父さんが阿佐前の次期当主になること。正確には僕が、家を継ぐために、と言うことだった。

 ご当主は、香織様をそっとしてあげたいのだろう。父さんの言だった。僕のいる父さんたちからすればこれ以上に無い申し出だった訳で二つと言わず一つ返事でお受けした。そうして取り敢えず特に物も持っていない僕たち家族は、馴染みの無いこの土地へご当主らに付いて引っ越しして来たのだが。


 父さんは阿佐前を継ぐに当たってご当主のお仕事を手伝い始めた。今も覚えることは膨大で、鳴海さんに手解きをしてもらい慣らしている最中だ。僕は来年小学校に上がる。今度通う小学校も阿佐前と鳴海が支援して再開出来た場所なのだと言う。

 ご当主も鳴海さんも素晴らしい方だと思う。ご当主は自らの財産を切り崩し鳴海さんがこれを巧く采配して田舎と言え多少の損害を被った地域の復興に力を注いでおられる。何より恩人だ。悪く思うことなんか微塵も有りはしない。父さんが、僕が家を継ぐことに反発が無いか心配だけどもたとえ反発されても最大限努力するだけだ。それで、僕はこのご恩に報いたい。……ただ。


 引っ掛かることも、在るのだ。


「お嬢様」

「だから、普通に呼んでくれないかしら辰太。なぁに?」


 香織お嬢様のことだ。


 そっとしてあげたい、とお考えのご当主。僕もこのお気持ちを汲んで差し上げたい。けれども、お嬢様は、香織様はどうお感じになっているのだろう。香織様が僕たちに良くしてくださっていることも、しんた、と呼ばれはすれどきちんと字を与えられていなかった僕の名に『辰太』と付けてくださったこともわかっているけれど。

 まったくお嫌では無いのだろうか。辰之助さんを待つ香織様。辰之助さんがどんな形でもお戻りになったとき。

「お嫌ではないですか?」

「何が?」

「他人の僕たちがいることがです。お嬢様は、辰之助さんとお過ごしになったここへ、辰之助さんがお帰りになったとき、他人の僕たちがいるのはお嫌ではないのでしょうか。……辰之助さんも」

 香織様は、お嬢様は嫌では無いのか。正直、もう骨すらお戻りにならないかもしれない。しかし、だ。万に一つお帰りになったとき。

 僕たちがいることをどう、思われるだろう。

 ずっと考えていたことだ。家族で。僕たちが家を継ぐこと自体構わないとして、お嬢様はどうなのだろうかと。僕たちを、真意は邪魔に感じてらっしゃるのではないか。だってご当主が新しく婿を取らなかったにせよ、僕たちを後継者に据えると言うことは、もう、辰之助さんの存在をあきらめたことになるではないか。


 居場所を、奪ってしまったことになるのではないか。


 ゆえに。

 僕は、ずっと気掛かりであったのだ。


 名付け親でも在る香織お嬢様に苦しい想いはしていただきたくない。きょとんとしたお嬢様を僕は見詰めた。次いで苦そうに笑ったのを見て胸が痛んだ。余計なことを言ったかもしれない。でも、だけど、……僕が言い訳を胸中でしていると。

「わかっているのよ、辰太。もうね、辰之助さんは戻らないと思うの。わかっているの。これはね、私の我が儘」

 ふふっと笑んで香織お嬢様が言う。“我が儘”? 僕が不思議そうな表情でいたのだろう。お嬢様は窓の外に目線を移し教えてくださった。

「辰之助さんが亡くなったことはとうにわかっているの。でもね、私は待っていたかったのよ。そうだから、お父様がこうして辰太たち家族を呼んだことも。お父様が、私の気持ちを配慮してくださった。けど、もしかしたらお父様も辰之助さんをあきらめられなかったのかもね」

 だって、辰之助さんを気に入り過ぎて、私と結婚させようとしたんだもの。苦笑しながら語る香織様の目は門に焦点を合わせて。

「わからないかもしれないけど。私たち、勝手に親が盛り上がって結婚決めたでしょう? めずらしいことじゃないけどね、辰之助さん言ったのよ


“帰ったらちゃんと話し合おう”


 って。私、訊き忘れたの。


『何』を話し合うのか」


 結婚の『何』を話し合うのか。

 お互いの気持ちか。結婚そのものについてか。


 二人の決断か。


 父親の決定を覆すなんてまず有り得ない時代だ。だのに、辰之助さんは「話し合おう」と言ったらしい。お嬢様は笑う。「困ってしまったわ」聞き忘れて、気になって、だから、待たずにいられないのだと。


「こんな私が結婚なんて出来ないわ。大きな家の一人娘だって言うのに我が儘でしょう? ね、辰太が、辰太の家族がいてくれて良かったわ」

 あ、家が焼け野原になったことを良かったとは言えないわね。お嬢様は不用意な発言と口を押さえ。


 よく晴れた、青い空を仰がれた。




 辰之助さんは、十年経っても、二十年経っても、帰って来なかった。無事父さんは阿佐前を継ぎ、ご当主は数年後安心なさったのかご逝去され、鳴海さんもその数箇月してから亡くなられた。

 お嬢様は。


「お嬢さ……、香織さん。お夕餉いただきましょう」


 父が年老い、僕が阿佐前を継いだころ、お嬢様もお年を召されたせいかお体を壊すことが多くなった。寝ていることも多くなった。

 多分、若い人にはわからないかもしれないが、戦前戦後、巷では人の寿命はだいたい平均五十年前後と言われていた。戦後食文化や生活水準の向上で寿命は延びて行ったし戦前だって長生きな人はいたけれどやはりまだまだ、短命な人はいた。

 お嬢様も、そのようだった。

「ありがとう、辰太さん」

 僕が成長するにつれ僕は“辰太”から“辰太さん”になった。大人として認めてくれているのだろう。僕は微笑するお嬢様、香織さんに笑い返した。

「お体、どうですか?」

 食事を乗せたトレーをベッドテーブルに置いて体を起こす手伝いをし僕は尋ねた。香織さんは笑っているだけだ。節々が痛いのかもしれない。

 香織さんは床に伏せっていることが多くなった。現在はベッドにいる間隔が長くなったみたいだ。

 そうでも、香織さんの目が窓から離れることは無い。

「あら、美味しそう。希恵きえさんにお礼言わなくちゃ」

 必要が無いからと父さんの代から家政婦さんは雇っていなかった。最後のお手伝いだった八女やめさんが亡くなって家事の一手を引き受けたのは僕の妻の希恵だった。希恵は辰之助さんの妹である公美きみさんの次女だった。そのためか、希恵は何の疑義も持たず不平も洩らさず、何より香織さんとは知己だから夫の僕より大事にしているようだった。……一応、見合いじゃなかったんだけどな。

「呼びましょうか? 僕から言っても良いですけど」

「あとで……言えたらで良いわ。香太こうたくんも手が放せないでしょう」

 息子の香太は何にでも興味を持つ年頃で、確かに手を焼いていた。僕は苦笑いして頷いた。


 負担を掛けないため消化の良いものを少量多彩に揃えていたが、けれど食の進みの遅い皿を見ながら香織さんを見やる。香織さんは食事を口に運ぶ横で、ふ、とたまに窓を見た。少し虚ろで、ここではないどこかを焦点に合わせたみたいな瞳で。部屋の中は遠くの喧騒が響いて来る外はかなり静かなものだ。


 お嬢様が見据える門戸。

 辰之助さんは、来ない。




「お嬢様はおきれいな方でなー……まるで幻の女よぉ。いやー、幾つになられても変わらなくてなぁ。親父より年上たぁ到底思えんかったわぁ」

 酔っ払う息子に釘を刺しつつ僕もお猪口の酒を呷る。

 今日は親戚の集まりだった。戦後数十年。夏の長期休みに集う親戚たち。子供たちは携帯ゲームを持ち顔を突き合わせ大人たちは酒とつまみに宴会状態。

 この状況を率先して作り上げている一番の酔っ払い、息子の香太は幼子時代と変わらず希恵に叱られている。が、一切反省の色は無い。こんな風だがこれで抜かりの無い性格をしていて立派に阿佐前を任せられるのだから自分の息子とは言え人間は奥深いと考える。

「とーちゃん、“オジョーサマ”はどーしてずーっと外見てたの?」

「んぁ? ああ、それはー……じーちゃんに聞いたほうが良いだろ。な、じーちゃん! お嬢様が何で一人窓の外を見てたか教えてやってよ」

 面倒臭いのか大量摂取した酒の浸透が頭の働きを鈍らせるのか香太が僕にお鉢を回して来た。すかさず「まったく、何でも面倒になったらお父さんに回すんだから!」と希恵に小突かれていた。お嬢様、香織さんが亡くなるまで、香織さんの前ではこの肝っ玉と言うかすぐ手が出るところや乱雑なとこを完璧に隠していたんだから女は凄いと思う。

「じーちゃん! ねぇねえ何でっ?」

 孫が勢い込んで膝に乗って来る。男の子のように短く髪を刈っているが、孫娘だ。こう言う、お姫様みたいな特別な女性の話は大好きだろう。


「あー、そうだな……美香よしかは昔戦争が在ったこと、知ってるかい?」


 香太の嫁に似て、真ん丸くきらきらした黒目勝ちの双眸が僕を映す。僕は頬が緩むのは、やっぱり可愛いからだろう。

 香織さんはお嬢様はこの感情をご存知だっただろうか。一人逝ってしまった。見送る者や惜しむ者はたくさんいたけれども。

 あの儚い笑顔の中で感じてくれていたなら、僕はきっと、救われる。







   【Fin.】

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あおの、そら。 ─The blue sky cut off by the window.─ aza/あざ(筒示明日香) @idcg

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