第3話 たまにはおつきあいもありますよね

美里は、子供ができる前はバリバリと仕事をするタイプだった。


終電、タクシー当たり前。10時前に終わると、「お、早い!」とわくわくしてきて、先輩後輩問わず、その辺にいる同僚を誘ってその時間から飲みに行く。終電は12時半過ぎだから、10時過ぎから飲んでも二時間ある。二次会へ向かうサラリーマンを横目に、


「いいよなぁ、あれ二軒目だよー」

「三軒めかも。」


などといいながら、でもそこまでやっている自分たちに酔い、ビールに舌つづみを打ち、しばしば終電を逃す。そんなときのために、たまに自腹でタクシーに乗っても問題ないところに住んでいた。


塩味の効いた、リンゴの入っていないシンプルなポテトサラダ。

カラッと揚がったゴボウの唐揚げ。

酒盗を乗せたクリームチーズ。


よく頼んでいたメニューだ。子供の好むものではないので出番は少ないが、今でも自分で作るときもある。

ゴボウの唐揚げは、唐揚げ粉を使った手抜きバージョンだけれど。


***

「今年もおつかれさまー!」

「おつかれさまでしたー!かんぱーい!」


ちょっと早いけれど、12月に入ると付き合いでつぶれてしまい、内輪での忘年会なんかしていられない……という理由で、今日は美里の所属する部署の忘年会だ。花菜は壮介とお留守番。きっと、作ってきたおでんに歓喜しているだろう。柔らかく煮た大根とさつまあげ、それと味が染みた煮卵は、花菜の大好物だ。


「辻橋さん、お疲れ様でした!」

「里中くんも、いつもありがとう。」


ビールで喉を湿した美里に、隣に座っていた後輩の里中が話しかけてきた。今年30歳になった彼は、部署の中では二番目に若いがよく気のつくやり手で、仕事ぶりもそつがない。体力もあって、美里が定時に帰ったあとのやり残した仕事を引き受けてくれる率も彼が一番高く、先輩後輩とは言うものの、貸し借り的には美里の大幅な債務超過だ。しかし。


「……里中くん。なんか、目の下暗くない?」


まじまじと顔を見つめて、思わず美里は詰問する口調になった。居酒屋の明かりは間接照明で、決して明るくはないが、それでも里中の目の下のくまははっきり見てとれる。それに、30になるやならずの彼の頭髪には、白いものが混ざっている。


「あー、最近あんま帰れてないんすよね。クマって化粧品で隠せるんでしたっけ?」


あっけらかんという彼に、頭を抱える。


「里中くんもさー、もう若くないんだから、体調とか考えなよ?」

「まぁ、そうなんすけどね。仕事は待ってくれないんで。」

「30過ぎたら無理効かなくなるよ?」


そうはいいつつ、後ろめたさと、それから同時に嫉妬も禁じ得ない。定時後の彼の仕事量の何%かは、美里が本来抱えるはずだったものだ。里中があとを引き受けてくれるから、美里は週に三日か四日、五時に帰れる。そうでなくても、ほぼ定時には会社を出ることができる。それはとてもありがたいけれど、美里の義務でもある。


義務といえば言い過ぎかもしれない。栄養という面では、シッターに預けても、保育園を夕食を出してくれる園に転園させても問題はないだろう。でも、そうでなくても長時間預けられている花菜を思うと、せめて晩ごはんくらい親子で囲める時間にしたいと思うのだ。できれば、家族で。


一方で、そういう時間の枷のない里中は、コンビニ弁当を食べて無限定に仕事に取り組めるのだろう。その生活に戻りたいとは思わないが、ふとした雑談で自分のいない時間のことが話題になると、たまらない焦燥と憧憬が内心にぽっかり浮かぶ。


今でも必要に応じてたまには深夜まで残ることはあるし、最近の働き方改革の流れから会社全体の残業時間も減ってきてはいる。たぶん、客観的にはバランスはとれている方だろう。むしろ、新時代の働き方としては理想なのかもしれない。でも。


「なんつーか、夜中にこう、すべてのピースが揃った感じするときありません?」


つきだしのきんぴらをつまみながら、里中はそんなことをいう。


「贅沢な時間の使い方だよね。東京の夜景を独り占め。」


そんな時間はもう持てない美里は、少し面憎くなって、意地悪な言い方をした。少なくともしばらくは、美里にはそんなに根を詰められる時期は来ない。たまになら遅くなってもいいが、次の数日間、明らかにパフォーマンスが落ちるし、その状態で元気の塊である花菜を相手するのはけっこうしんどい。


「そうですか?お子さんと一緒に寝られるなんて最高じゃないですか。」

「そりゃ可愛いよー。でも私は里中くん、うらやましいけどな。」

「そんなことないですよ。はー、俺にも白馬のお姫様が来ませんかね。牧野さん、うまいことやったなぁ。」

「白馬のお姫様って何よ。」


凛凛しい姿のお姫様を想像して、美里は苦笑する。今からの時代、それくらいたくましくないと生きていけないかもしれない。


里中の理想の白馬のお姫様は、職務に就き、白馬に乗って奔放に駆けていいのは週に一、二度、と決められたらどう思うだろう。守るものができ、それのために奔走しながら、たまには気晴らし遠駆けに行っておいで、日が落ちるまでには帰ってくるんだよと言われたら。


白馬なんかもう要らないだろうとどこかに押し込められるよりははるかにいいだろう。馬刺にしちゃったよ、などと言われたら立ち直れまい。


それでも、週に一、二度では身体ならしにはなっても、最前線には出れない。守るものができる、というのはそういうことだ。


相棒だったはずの白馬はその間、他の楔のない者が乗りこなし、知らない癖がつき、やがてその者に惹かれるようになり……



そこまで想像して、美里は我に帰る。次の皿はシーザーサラダ。部署内の無礼講だから、取り分けなどはなく銘々が勝手に取る。見れば、大皿には美里のぶんだけがちょこんと残っていた。


「どうしたんです?」

「白馬のお姫様は、白馬に乗れなくなったらどうなるかなーって考えてた。」

「俺はとりあえず、白馬に乗ってて欲しいですよ。」

「なんのこっちゃ。」

「何でしょうね。」


苦笑して、シーザーサラダに意識を向けた。底に残ったドレッシングにレタスもクルトンもしんなりしているが、これはこれで好きだ。


と、ビール瓶を片手にマネージャーの加藤が「飲んでるかー?」と割り込んできた。


「「いただきます。」」


美里と里中は元気に反応し、グラスを空ける。加藤とお互いに接ぎあって、少しぬるくなったビールを飲んだ。


「辻橋は両立、どうだ?」

「おかげさまで、なんとか。」


にこやかに対応する。実際、理解ある職場で救われていると思う。


「牧野は元気か?」

「はい、大変みたいですけど。寝かしつけたあとにPC立ち上げてたりしますよ。」

「寝かしつけもやってるのか、あいつ。頑張るなぁ。」

「ごはん食べさせたり、洗濯や掃除もしてくれますよ。」

「いい旦那持ったなぁ。俺なんかは、子供はほとんど嫁さんに任せてたな。夜中にタクシーで帰ると、嫁が渡してくるんだ。そこからとんとんして一緒にタンスにもたれて寝たりな。」

「えー、寝かさないんですか?」

「置くと起きちゃうんだよ。な、辻橋。」

「そうですねー。背中センサーついてますよね。」

「うげ。」


嬉しそうに語る加藤に、しかし、と美里は思う。


加藤の妻は、どんな気分だったろうか。24時間続く家事育児の中、夫は疲れきってタクシー帰宅。妻も限界だったろう。


美里も何度も仕事での徹夜経験はあり、身体に来るものであることも知っている。しかし一方で、それは思い返せば甘美なものでもあった。期日までに終わらせることができた達成感と、誰よりも会社に、そして社会に貢献している自負。一緒に踏ん張る仲間の存在。今だったらアドレナリン中毒という言葉でくくられてしまうかもしれないが、あの快感は本物だったと思う。


それに比べて、花菜が小さいときの徹夜はただ苦しかった。24時間、一人でおむつがえと授乳の日々。花菜の母は確かに美里しかいないが、おむつがえと授乳だけなら誰でもできる機械的作業だ。乳腺炎の気配におびえながら、ただただ食べて、出して、あとは誰でもできる終わりの見えない作業に従事する。休養も思うようにとれず、ホルモンの影響か感情の触れ幅も激しい。壮介とも、何度喧嘩したことか。


「牧野が頑張ってくれるから、辻橋も復帰できてるんだもんな。いやー、男にしちゃよくやってるよ。」

「私も頑張ってますよー?」


若干かちんときて、しかし表情は柔らかに言い返す。美里が復帰できているのは確かに壮介(と保育園)のおかげだが、壮介と美里の負担感はイーブンか、どちらかというと美里寄りだ。


「そりゃそうだ、辻橋ももちろん頑張ってる。中間報告見たが、よくまとまってるし、調べてあるな。時間のない中で大したもんだ。」


慌てたように言い繕う加藤。


「おかげさまで。ご指摘いただいたところを踏まえて、また来月あたり最終版の叩きを持っていきますね。」


あからさまに変えた話題に乗ってやるのも社会人の努めだろう。うん、とうなずいて里中に話を振る加藤のグラスに、瓶に残ったビールを注いだ。


「お前も早く帰れるときは帰れよ?昨今、残業には厳しくて叶わん。」

「まぁ、そうなんすけどね。詰めれば詰めるほど新しい疑問が沸いてきて、止まらなくなるんですよね。」

「まぁ、そこまでしないと考えがまとまらないってのは、分かるけどな。時間で切れと言われても、乗ってるときは仕方ないよなぁ。」


甘い。アメリカの砂糖菓子のように甘い。お迎えの時間は容赦なく迫ってくるのだ。週に一、二度の壮介担当の日でも、寝るまでに美里が帰ってこないと、花菜は翌朝あからさまに機嫌が悪い。それでも、息抜きや付き合いで月に何度かは飲み会に行ったりもするけれど、「乗ってたんだから仕方ない」で深夜残業はない。壮介がそんなことで遅くなったら、花菜が寝たあと壮絶な夫婦喧嘩だ。……たまになら片目をつぶって見過ごすけど。


奥さん専業のバブル世代に言っても仕方ないかぁ、と、鶏の西京焼きをつつきながらそっとため息をつく。どこかのインタビューで、経済界の重鎮が「仕事とは人生そのもの」的なことを言っていて、加藤が感銘を受けていたことを思い出した。美里からしたら、人生の他のパーツ……家族のことや近所のこと、趣味、そういったものはこの人の頭にはないのね、という感想だったが。重鎮は成功者だから、たぶん死ぬまで仕事に打ち込めるだろうが、大半の労働者は定年を過ぎたらぽいっと「仕事のない世界」に放り込まれる。そこで生きてくるのは、これまで仕事以外に得てきたものが多かろう。そこに考えが及ばない人が重鎮ねぇ、と思ったものだ。


「お、しゃぶしゃぶきたー」

「ぷるぷるー!」


だいぶ昔に流行り、一部で定番化したコラーゲンしゃぶしゃぶだ。少し冷えたぷるぷる状態で運んできて、テーブルであたためて透明にくつくつ言い出したら具材を入れる。久しぶりに見た。20代の頃はとくにありがたみは感じなかったが、30代の今だと違うのだろうか。


「おつかれー、つじはしー」


だしが溶けてきたところにとりあえず野菜を入れていたら、女性の先輩である山本が声をかけてきた。10ほど上の彼女は、役員が狙えると噂のやり手で、3年ほど前、子供が出来る前のプロジェクトで一緒になり共に汗を流した仲だ。美里の仕事復帰と同時期に彼女も異動してきて同じ部署になったが、チームは違うため仕事上の関わりはない。というか、美里が基本的に一人か、兼任アシスタント一人をヘルプでつけてもらえれば十分なコツコツ系の仕事をしているのと異なり、彼女は五人のメンバーを率いて大口案件をこなしている。ちなみに昨年、周囲を驚愕の渦に巻き込みながら年下の夫と結婚した。子供はいない。


「あれ、まだビールなの?ここ、『川音』飲み放題だよ?」

「そうでした。なんか、切り換えるタイミング逃しちゃって。」


空の日本酒グラスと一升瓶を出してくる山本から、ありがたくグラスを受け取って九分目まで黄色がかった『川音』を注いでもらう。北陸の某県で醸されるこの酒は、キリリとした味わいで最近人気の銘柄だ。オークションサイトなどではなかなかいい値のつくことでまた評判になっており、普通は飲み放題などになる酒ではない。一口飲んで口許がほころぶ。ビールも嫌いではないが、こういったゆっくり飲める酒の方がやはり好みだ。


「辻橋は最近どんな感じ?」


少し雑談をしてから、山本はのそり、といった雰囲気で一歩踏み込んでくる。


「んー、まぁぼちぼちです。なんとかリズムが出来てきた感じですかね。」


山本の狙いがわからないので、とりあえず一般向けの模範回答をする。最近も何度かランチに行ったりはしているのだが、そのときには見なかった真剣な雰囲気だ。


「一人ね、できる人が欲しくて。辻橋なら任せられるかな、って思うんだけど。アンタ、あんな小口の仕事で満足してんの?」


耳貸して、と前置きしてひそひそと語られたのはそんな話だった。たしかに、美里は部署異動を伴わないから部長の一存で投入できる人間ではある。


「メンバー、先輩入れて6人ですよね?回らないんですか?」

「んー、まぁよくやってくれてるんだけどねー。ちょっと物足りない。」


分からなくもない。この人は、自分が出来るだけに他への評点も辛いのだ。うまく行っているときはいいが、ちょっとしたカンに触れると容赦なく叱責が飛んでくる。それが重なれば、お互いギスギスしたりもするだろう。


「結局、私が全部仕切って細かくタスク分けしてそれぞれに振らないといけないんだけど、それが完璧に仕上がってくるならまだしも、出来上がりの添削までやってると私個人の仕事に手が回らなくて。だれかサブマネージャーをやってくれる人が欲しいんだ。」


要は、彼女の考えを先回りしてある程度お膳たてしながら仕事を割り振りし、かつメンバーが地雷を踏まないようにチェックする作業を誰かに任せたい、ということだろう。


「辻橋なら任せられると思って。」

「ありがとうございます。」


山本に認められている、というのは素直に嬉しかった。出世しそうな人だからどうの、とか、派閥がどうの、とかではなく、やはりこちらが認めた人に「お主、なかなかやるな。」と言われるのは嬉しいものだ。


「ただ、私、どうしても休みも多くなりますし、基本は定時なので……どれくらいお手伝いできるか。」

「そんなに休んでる?」

「有給、のこりあと5日弱です。午前休とか午後休とかもよく……」

「誰かに預けられないの?牧野くんは?」


仕事で直接関わったことがない山本は、壮介をくん付けで呼んだ。


「やってくれてはいます。半分とはいいませんがそれ近くは……。ただ、今年はとくに復帰したてで、保育園から病気を貰ってくることも多かったですし。」

「まぁねぇ。」


少し不満そうだ。子供がいないときは、美里も思っていた。預けたらよくない?誰か頼れないの?確か、病気でも預かってくれるサービスとか、あるんでしょ?


産んでみて、育てて初めて、我が子とは愛すべき存在というだけでなく、全身で自分に愛を届けてくれる存在だと知った。普段長時間預けているぶん、せめて子供が苦しがっているときに、自分の存在を必要としているときに、横についていてやるくらいはしていたい。子供だって、いや、子供だからこそ、相手がよく知らない大人であれば緊張するし、いい子でいようとする。そんな状況に、辛そうな状態で置いておきたくはなかった。


また、一方で、病児保育はなかなかのハードルだ。保育園に代わる預かり型の病児保育は常に満員だし、預かり時間も保育園に比べて前後それぞれ一時間ほど短い。病児保育を依頼できるベビーシッターは数が少ないし、必ず派遣できますと謳うところは月会費だけで目が飛び出るほどのお金を要求される。


「あと、まだ全然具体化してるわけじゃないんですが、第二子も考えてまして……そうすると、ますます休みが増えますし。」


一人っ子は可哀想だ、と思っているわけではないが、美里も壮介も今はアイドル状態で営業しているが、本来わりとしっかり働きたい方だし、そうするとある程度大きくなってからは子供だけでの留守番が増えるだろう。そのときに一人より二人いたほうが何かと心強いのではないか、という程度には考えている。


「んー、じゃ、なかなか今は難しいかなぁ。」

「すみません。お声をかけていただいたのはとてもありがたいんですが。」

「うん。」


しっかり頭を下げる。美里が本格的に仕事ができるようになった頃にまた声がかかるかは分からないが。


「はいはい、山本さんと辻橋さん、しゃぶしゃぶ食べてくださいねー。鍋空かないと、〆のうどんができないんでー」


里中が、取り皿にきれいに盛ったしゃぶしゃぶを回してくれた。ひそひそと話していたから中身は聞こえていないと思うが、雰囲気は読んだのだろう。


「ありがとう~。ねーねー里中くん、やっぱり最近忙しい?」

「まー、なかなか帰れないっすね。」

「じゃ、そこに一件足すのは難しいかぁ。」

「ちょっと無理ないすかね。」


山本は美里のことは諦めたようで、里中に話を振っている。笑顔で参加しているふりをしながら、美里の胸の奥がちくんと傷んだ。


『アンタ、あんな小口の仕事で満足してんの?』


山本の言葉が刺さる。正直、満足はしていない。山本がやっているような、華やかな仕事への憧憬はある。今だけ、今はアイドル状態、徐行運転をしているだけ。そう、自分に言い聞かせる。


こくん、と『川音』で喉を潤した。甘い薫りのそれが、少し苦いような気がした。


「〆のおうどんと、シャーベットですー。お飲み物、ラストオーダーでーす」


店員がいろいろまとめて運んできた。そろそろお開きの時間に近くなってきたらしい。


うどんを取り分け、つるりと三口で食べてから、溶けないうちにレモンシャーベットに取りかかる。甘さ控えめでわりと好みだ。どっちかというと、日本酒よりハイボールとかが合いそうだが。


***

「お疲れ様でしたー」

「お疲れ様でした!」


お店の外で部長を見送ってから、三々五々解散する。里中は若手を誘って二次会に行くようだ。午後9時半。美里も誘われたが、断った。ほぼ毎日、花菜に合わせて10時前には寝ている美里には二次会はなかなかきつい。明日は土曜日なので、なおのことだ。アルコールが残っていては花菜のエネルギーに対抗できない。


「あれー、辻橋帰るの?」


一人で歩いていると、山本が後ろから声をかけてきた。


「あ、お疲れ様でーす。山本さんは二次会行かないんですか?」

「私が行っても場違いでしょ。」


たしかに、ぎりぎり美里くらいまでだろう。管理職である山本が行ったら、若手が萎縮する。


「良かったら、どこかで飲んでく?」

「あー、すみません。今日はちょっと……」


今日は何度もこの人の誘いを断っているな、と思う。


「最近早く寝てるので、この時間になるともう眠くてたまらないんですよ。よかったら、今度早い時間から行きませんか。」

「そうねー。」


少しおどけた調子で言い訳をして、並んで歩く山本の顔をそっと見ると、満更でもない顔をしていた。彼女クラスになると仕事の采配が自分に任されているから、仕事の総量は多くても特定の日に早く帰ることは可能だ。


「久しぶりに辻橋と飲むかー。すっごいオシャレな串揚げとかどう?ワインに合わせて。」

「いいですね。是非お願いします。」


最近は花菜が風邪を引くことも少ないから、たぶん熱を出して予定を見送ることもないだろう。


「じゃ、今度誘うね。」

「あ、当日だとアレなんで、日程だけ今度調整させてください。」

「はいはい。ママさんは大変だ。」


ちょっとだけため息をついてそういうと、山本は「私JRだから、こっちから帰るねー」と道を左側に曲がっていった。


「ママさんは大変、なんですよー。」


美里は小さく呟いて苦笑すると、地下鉄の駅に向かって歩いていった。

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美里さんちのばんごはん 久乃 @Hisa_no

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