オトナシボーイの現状維持

 聴覚障害者として生を受けて三十年。


 聞こえないがゆえの不利、不便さ、コンプレックスともそれなりに折り合いがついてきて、今はいかに生きるかを模索することに必死だ。


 あれこれ悩んでいられるのは、十代、二十代の特権である。


 そして今は、現状維持に力を入れている。もう無理のきく体ではないし、日々の仕事や生活もきちんとこなしていかないといけない。余裕がまったくないわけではないが、何か好きなことをやろうという気持ちが薄れかけている。


 こんな時、ああ大人になっちまったのかなと思ってしまう。


 以上、他愛ない与太話。


     〇


〈私はこのやり方でいいと思うんです〉

〈それはわかるけれど、ひとまずはこのやり方に従ってほしいと思います。そうでないと僕が山田部長に怒られてしまうから〉


 新しい職場での仕事に慣れて二年近く。


 それなりに経験を積んできて、一か月前に後輩ができた。相手は健常者の女の子で、八重歯がかわいらしい。愛想も男性受けもよく、おまけにタイトスカートからのぞく足がきれいだ。これは関係ないか。

 

 ただ、この女の子には少々意固地なところがあった。


〈でも、このやり方にはムダが目立つと思います〉

〈まぁ、それはわかります。ただ、今の段階ですぐに変えるのは時期尚早かなと〉

〈では、いつ変えるんでしょうか〉


 ペンを持つ手が止まる。


 俺はどう返したらいいものか、と思いあぐねていた。


 俺は彼女――仮に、Tさんとしておこう――と椅子をくっつけるようにして筆談していた。声を出さない会話だから、周囲にはどんな風に見えているかはわからないだろう。筆談のメリットはここにもある。


 俺はTさんの表情を窺い見た。


 彼女は真顔で口を結んでいる。明らかに不満げだ。パソコンの画面と手元の書類とを見比べて、固い表情が一向に崩れない。


〈具体的にいつ、とは決められない。君はまだこの仕事を始めたばかりだし、やっていく内に不備が目立つかもしれないけれど、それでもここは呑んでほしいのです。君のやり方は折を見て、自分から山田部長に申告してみますから〉


 Tさんは俺を上目遣いで見た。まだ顔は固い。


〈わかりました〉とTさんは書いてくれた。


〈とりあえず、マニュアル通りにやってみることにします〉

〈そう言ってくれると助かります。何かわからないことがあったら聞いて下さい〉


 Tさんはうなずき、パソコンに向き直った。


 俺は一旦席に戻り――それから数秒考え込み――トイレに行くふりをして、喫煙所に赴くことにした。職場から三分ほどの距離にあるホテルの中だ。普通は利用者以外は入れないと思うのだが、なぜか喫煙所は使えるときている。


 ちなみに、ここを教えてくれたのは山田部長――俺の上司である。その彼は自分に先駆けて、喫煙所にて一服かましていた。


 やや剥げかけの、ちょっとお腹が出ている五十代の部長は俺を見るなり、「おっ」と目を丸くした。それから人懐っこい表情を浮かべ、ついついと肘で突いてくる。


「サボりか?」


 山田部長がそう言ってくるのはわかったので、俺はうなずいた。


 ポケットからタバコを取り出し、火を点け、ふぅーっと息を吐く。うつむきながら太腿を指で叩く。イライラしていると自分でもはっきりとわかり、それが余計に胸に不快感が渦巻いた。


 すると山田部長はポケットからメモ帳とペンを取り出した。彼がこういうことをする時は俺と話す時なので、つい顔を向けた。


 さらさらとメモ帳に何事かを書き、それを俺に見せてくれる。


〈何かあった?〉


 俺はタバコを持っている手で、ぽりぽりと頭を掻いた。それから自分のペンを取り出し、山田部長のメモに書き込む。


〈Tさんがちょっと。その、仕事の進め方で食い違いがありまして〉

「あー、そっかぁ」


 山田部長は大げさに身を引いてみせた。表情とリアクションがわかりやすい人は、例え口が読めない時があっても何を言いたいのかがわかる。


〈Tさんとはうまくやれてるの?〉

〈まぁ、はい。うまくいく時はうまくいくんですが、やっぱり細かいところでどうしてもそりが合わないところもありまして〉

〈そういうこともあるよね。仕事だとね〉

〈ですね。まぁ、こういうこともあると割り切ってやっていきます〉


 山田部長はぽんと俺の肩に手を置き、それから喫煙所から立ち去った。サボりについては言及されなかったので、許してくれたということだろう。


 それにしても――だ。


 Tさんがああいう風に感情をあらわにするタイプだとは。今回は一応従ってくれたが、これから先うまくやっていけるのだろうか。


 加えて俺は聴覚障害者だ。


 障害者から教えてもらうことは健常者にとっては屈辱なのではないか――そう思う時がある。それは健常者が障害者を――意識的にせよ無意識的にせよ――自分たちより下のランクに位置づけているという意味に他ならない。


 だから俺から教わる、そして指摘を受けるというのはTさんにはもしかしたら苦痛であり、屈辱であるのかもしれない。


 ただ――


 Tさんの心境はTさんにしかわからない。俺の考えすぎということもあるだろう。


 むしろ、そうであることを願いたい。


 俺はタバコの火をもみ消し、サボりを終わらせた。


     〇


 オフィスに戻ると、コーヒーの匂いがした。給湯室から山田部長がマグカップを手に出てきて、ふんふんと鼻歌を歌っているところだった。


「お」

「あ、どうも」


 俺はひとまず山田部長に先を促した。何かいいことでもあったのか、山田部長の足取りはやけに軽い。


 Tさんの方を見れば――まだ、伝票の処理に苦戦しているようだった。


 俺は彼女の提案をやんわり却下したことが地味にしこりとして残っていた。どうしたものか、と思案しているところに山田部長からメモが差し出される。


〈コーヒーでもどう? Tさんにも聞いてるんだけど〉

「あ、えっと……大丈夫です」


 そう? と眉を寄せる。


 時刻を見れば午後四時過ぎ。こんなタイミングでコーヒーを飲めば、夜に眠れなくなってしまう――とどこかのニュース記事で読んだ。


 そこにTさんが、「私もパスでーす」と言った。


「ええ、なんでよ?」

「四時過ぎにコーヒー飲んだら寝つきが悪くなるんですよー。知ってました?」

「え、いや、知らない。そうなの?」


 Tさんの口はなんとか読み取れたので、俺はうなずいた。


「そうなのか……」としょんぼりした様子で山田部長はカップに口をつける。とりあえず仕事を進めてほしいのだが。


 俺はひとまず自分の仕事を進め――退勤時間近くになるまで席を立たずにいた。


 掛け時計を見、そろそろだなと考えていると、不意にTさんが席を立った。どうやら終了したみたいだなと見当をつけた俺は、Tさんに体ごと向ける。


 彼女はメモ帳に〈終わりました〉と書いてあった。


〈お疲れ様でした。こちらからKさんに確認を取りますね〉

〈はい、わかりました。それからひとついいですか?〉


 む、と俺は内心で警戒した。また何か言われるのだろうか。


 Tさんはさらさらとメモ帳に書き記し、すっと俺に差し出してきた。


〈さっき私の提案したやり方、ちょっと試してみたんです〉

〈なるほど。それで、どうでしたか?〉

〈ダメでした。なんか、余計に遠回りみたいになっちゃって。こっちの方が近道だと思っていたんですが〉

〈そうなんですか。まぁ、そういうこともありますよね〉


 俺は椅子に背を預けた。


 なんだ、と胸をなで下ろす。

 

 ただ、Tさんはなおも言いたいことがあるらしく、まだペンを走らせている。


〈あの、さっきは生意気なことを言ってすみませんでした〉

〈いえいえ、気にしないで。むしろTさんから提案もらえて、自分としては嬉しかったりもしたので。今はまだ経験を積む時期だと思うから、それができたら仕事上のムダとかも見つけられたりできるかもしれないよ〉

〈そうですか?〉

〈そうそう〉

〈高井さんもそうなんですか?〉


 Tさんは小首を傾げる。なかなか様になる仕草だ。


 俺は首を振ってから、苦笑気味に書いた。


〈自分なんかまだまだですよ。今でも部長に叱られるし、ミスも山ほどあります〉


 Tさんは何か考えている。俺は手持ち無沙汰で、Tさんからの返答を待った。


 やがて何か納得がいったのか、Tさんは「ありがとうございます」と頭を下げた。よくはわからないが、どうやらTさんの中で合点がいったらしい。


 Tさんは席に戻り、他の仕事に取りかかった。


 俺はといえば、もうすぐ退勤時間であるため仕事をしているフリをして片づけを始めた。注意深くパソコンを見ながら、使用済みのポールペンを机に入れたりとか。


 やがて、退勤時間になった。


 俺は即座にパソコンの電源を落とし、鞄を持って立ち上がった。山田部長の席に歩み寄り、「失礼します」と声をかける。本日頼まれている仕事はもうほとんど終わっているし、進みかけの仕事は別の人が進行中だ。


 そういったことは山田部長に漏れずに報告しているため、スムーズに返答がきた。


「おー、お疲れ様。また明日ね」

「はい、また明日」


 ふと振り返ると、Tさんはまだ席に着いていた。


 Tさんの席に近づき、ちょっとだけ顔を寄せると、彼女は「あっ」と驚いたような顔をしてみせた。


「まだ、帰らないの?」

「えっと。まだやることがありまして」


 ちなみに今のは口話だ。簡単なやり取りならばメモ帳がなくてもなんとかなる。


「そう、ほどほどにね。おつっ……こほん、お疲れ様」

「お疲れ様です~」


 タイムカードに打刻し、いざ退勤。


 会社から出て、俺は息の塊を吐いた。ようやく終わった。


 ごきごきと首を鳴らし、駅へと赴く。


 今日もなんとか仕事を終えることができた。


 今週はまだ三日残っているが……まぁ、定時で帰れただけでもよしとしよう。晩ご飯はどうしようか。あまり手のかからないものがいい。生姜焼きにでもするか。ご飯は……ああ、そうだ。朝にタイマー設定しておいたか。ありがとう、今朝の俺。洗濯物もあらかじめ干してあったな。よくやったぞ、俺。

 

 家に帰ってからやらなくちゃいけないことが最低限で済んであると、非常に気が楽だ。やはり朝の内にできる限りのことはしておいた方がいい。

 

定時で帰れる喜びを胸に、俺は下手くそな口笛を吹いた。

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オトナシボーイの徒然草(つれづれぐさ) 寿 丸 @kotobuki222

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