オトナシボーイの恋愛模様(後編)

 恋は嵐だ。


 前触れもなく突然やって来て、辺り一帯をかき乱して、根こそぎ奪っていく。慎重に守ろうとした俺の心は、当然のごとく瓦解した。


 大学時代の時だ。


 俺はそこで、同じ聴覚障害を持つ女性のことが好きになった。

 

 彼女は大きなくくりで言うと難聴――中途失聴者だ。病気や事故などで聴力を失ったが、音に対する感性は残っていたり、健聴者とほぼ同じように発話ができたり、補聴器をかけたりすることで日常生活を不便なく送れたりもする。

 

 もっと細かく説明をしたいところだが、今回の話にあまり関係ないので控える。

 

 彼女は二つ上の先輩だった。


 同じサークルに所属していて、入学時から色々とお世話になっている。しっとりとした、背中まで届く黒髪とえくぼが印象的な人だ。ゲームやアニメといったサブカル系の話にも詳しく、なんならネットでのアンダーグラウンドな知識まで持っている。

 

 それでいて実力もしっかりと備えている。

 

 俺が所属していたのは文芸サークル。小説やエッセイや詩や論文などを書き、そこで仲間たちと批評し合うのだ。といっても実態はゲームに興じているだけのお遊びサークルに近かったから、真面目にやっていたのはごく少数だった。アリに例えればサボるアリが七、八割で働きアリが二、三割という程度。それでもサークルとして存続できているのだから、俺は事あるごとに不思議な気持ちになった。

 

 その先輩は様々なジャンルの書き物をしていた。小説、エッセイ、詩、論文……とにかくなんでも。

 

 しかも一日に一本は書き上げてくる。わずか一ページだけの短いものもあるが、十ページ、長くて百ページ以上のものを書いて持ってきたこともあった。その時は俺も含めて、みんな仰天したものだ。

 

 しかも単位は落としていない。成績不良という話も聞いたことがない。

 

 どうやったらそんな風にうまくできるんですか、と聞いてみたらこう返ってきた。

「ナイショ」

 

 指を口に当て、ふふふと笑う。

 

 その仕草はとても可愛らしい。年上の女性に可愛らしいというのも変な気がするが、実際にそう感じたのだから仕方ない。

 

 俺もその人に負けられないとばかり、色々と書いてみることにした。といっても単位取得のためのレポートを書き上げるのが関の山で、とても先輩のようにマルチにやれる自信はなかった。

 

 ある時、俺のレポートを読んだ先輩はこう言った。

「高井くんって、文章力あるよね」

「そうですか?」

「うん。大抵の子は理屈ばっかりか、感情が先行して書いてしまうことが多いの。でも高井くんは理論的なところと高井くん個人の印象をきちんと述べている。そのバランスが絶妙というか、読ませる力がある感じ」

「それは……恐縮です」

 

 俺はすっかり照れていた。こんな風に真正面から褒められたことなど、小学校低学年以来かもしれない。

 

 先輩は人の目をまっすぐに覗き込む癖がある。曇りのない眼に見つめられると何も言えなくなり――いや、むしろ余計なことを白状してしまいかねない。目と目を合わせることなど中高時代にはまったくなかったから、どうしていいのかわからない。自分という人間の本質を見抜かれそうで落ち着かなくなる。

 

 人と目を合わすって、こんなに怖いことだったろうか。

「高井くん」

「は、はい。なんですか?」

「小説、書いてみる気はない?」

「はぁ。でも、あまり書ける時間がなくて……」

「じゃあ、日記は?」

「日記……そうですね、先輩からおすすめされた通り、できるだけ毎日書くようにしています。ただ……」

「ただ?」

「なんていうのか、チラシの裏にでも書いとけって内容ばかりになっちゃって」

「ああ、それわかる。自分でも思ってもみない言葉がざくざく出てくるよね。人に向けて使わない言葉も平気で書けちゃったりする。でもね、そこが日記のいいところなんだよ」

「そうなんですか?」

「掘り下げていくと、どんどん自分の知らない自分が出てくるの。それを見つめるのは怖いけど、やり始めたら止まらない。そりゃあ自分が嫌になる時もあるかもしれないけれど、それを怖がっていたら小説を書くのなんて夢のまた夢だよ」

「いや、俺はまだ小説を書くって決めたつもりじゃ……」

「決めなくていいの。やってみようと思った時でいいの。本来、書くってのは楽しいものだからさ」

 

 快活に言い放つ先輩の姿に、俺はどうしようもなく惹かれた。

 

 ただ――その先輩には、彼氏がいた。

 

 しかも健聴者。しかも手話ができる。しかもイケメンで、さらには俺みたいな奴にも優しく接してくれる。先輩はその彼氏のことを『半端メガネ』と言ってからかっていた(おそらく成績が中の中であることと関係していると思われる)が、俺からしてみれば完璧超人に近かった。

 

 俺は入学した時からその先輩に彼氏がいたことを知っていたから、好きになってはいけないと自分を戒めていた。

だが、自分の想いを抑え込めば抑え込むほど、どうしようもなく気持ちが高まっていく。

 

 好きになってもしょうがないのに。

 

 告白したって、どうせフラれるだろうに。

 

 俺がその先輩のことをより強く意識するようになったのは、ある出来事がきっかけだ。


 部室にはたまたまその先輩と彼氏だけがいて、俺が扉を開けると二人はばっと距離を取っていた。そして二人とも素知らぬ顔をして、俺に向かって手を振ったりしている。

 

 キスでもしていたのだろうか。

 

 俺は内心の動揺を隠し、「こんにちは」などと挨拶をしていた。けれど、先輩と彼氏が幸せそうにキスをしている光景がありありと想像できた。

 

 悔しかった。

 

 悲しかった。

 

 そして、屈辱でもあった。

 

 俺じゃあどうあがいても先輩の彼氏には勝てない。だって健聴者だし。手話もできるし。イケメンだし、優しいし。

 

 彼氏と比較すると、自分が矮小なものに思えてくる。

 

 他者と比較して、とことん落ち込む。自分の劣っているところばかり見つめて、そんな自分に嫌気が差して……その繰り返し。何にもならない。


 自己嫌悪の塊だ。


 俺の様子がおかしいことは、すぐに先輩は察した。


 二人で食堂の脇のベンチに腰かけて、互いに手話で会話する。


 先輩の手話は綺麗だ。言葉のひとつひとつが丁寧で、読み取りもしやすい。お互いに聴覚障害者だから気兼ねなく話せるというのもある。


 ただ、その時の俺は緊張していた。

「最近、どうしたの?」

「いや……」

「みんな、様子がおかしいって言ってるよ」

「そう、ですか」

「何かあった?」

 

 俺は正直に打ち明けた。先輩に恋をしていることを。でも、彼氏がいるからということは言わなかった。言ってしまうと、余計なものまで吐き出してしまいそうな気がして。それは先輩にとっても俺にとってもよくないことだと思って。

 

 当然、先輩は驚いた。

 

 そして――申し訳なさそうに眉を寄せた。

「ごめんね」

 その答えは予想できていたものだった。

「私、高井くんの気持ちに応えられない」

 彼氏がいるから、とは言わなかった。それがせめてもの救いだった。

「でも、嬉しい。こんな私を好きになってくれて。それから正直に言ってくれたことも嬉しい。ありがとう」

 

 俺は戸惑った。告白されて嬉しいなんてことがあるのだろうか、と。そしてなぜ先輩はこんな自分をと言ったのだろう。書き物がたくさんできて、単位もきっちり取れるような人がなぜこんなことを言うのだろう。

 

 俺はうつむいた。


 恥ずかしいのか、ショックなのか、自分でもよくわからなかった。

 

 人生初の告白はとてつもなく緊張して――とてつもなく悲しいものだった。

「高井くん」

「はい」

「高井くんには私なんかよりも、もっといい人がいるよ」

 

 そんな人はいない、先輩よりもいい人なんかいない。それに、私なんかなんて言わないでほしい。

 

 そう反駁はんばくしたかったが、まともに口を開けなかった。

「高井くん」

「はい」

「ありがとうね」

「……はい」

 

 こうして、俺の恋はあっけなく終わった。

 

 その後、先輩とは微妙にぎくしゃくしていた。周りの人も気づいていただろうが、誰もなんとも言わなかった。彼氏すらも。

 

 おそらく、気を遣ってもらっていたのだろう。俺がそのことに気づくまで三か月程度はかかった。フラれたことばかりに衝撃を受けていて、まともに人のことを見られていなかった。あまりにも未成熟すぎた。

 

 その先輩が卒業する時、俺は何か用意するべきか考えて――結局、やめた。物で釣るような真似をしても、虚しいだけだった。花のひとつでも買っておけばよかったのかもしれないけれど、サークルでお金を出し合って用意することになっていたから、その必要はなかったのである。

 

 振り袖姿の先輩に俺は見とれていた。

 

 先輩は友達や講師と写真を撮っていて、とてもゆっくり話せる状況じゃない。俺たちサークルの部員は卒業する人たちに花を贈って、簡単な会話をして、それで終わりということになった。

 

 ただ、先輩は最後に俺にこう言ってくれた。

「これからも、頑張って書いてね」

「はい」

「君の文章、好きだから」

「ありがとうございます」

 

 好きだから、というシンプルな言葉。それに舞い上がりそうになるも素直に受け止められない自分。

 

 告白などしなければよかったのだろうか。

 

 けれどそれでは自分の想いを鬱々と抱えていくことになる。そうなれば先輩どころか彼氏にもサークルのみんなにも迷惑をかけてしまうことだろう。どこかで踏ん切りをつけなければ、俺は一生後悔することになっていた。

 

 これでよかったんだ、と自分に言い聞かせた。

 

 それからしばらくはちょっとした女性不信になりかけていた。好きになってもどうせフラれると思っていた。優しい言葉、誉め言葉を投げかけられても、謙虚に振る舞って「ありがとう」と言うしかない。他意はないんだと、そう思うようになった。

 

 恋をしてもしょうがないと、三十過ぎた今でもそう思っている。だから年齢イコール彼女いない歴になっているんだろう。自分から働きかけない限り、実る恋などあるはずがない。

 

 今、先輩はどうしているのか。

 

 連絡先は交換してあるけれど、自分から聞く気になれない。仕事などで忙しいだろうし、風の噂で彼氏と結婚したと聞いた。ちょっとはショックを受けたけれど、まぁそうだろうなとも得心がいっていた。むしろそうでないと困る。

 

 恋というものは人を狂わせる。

 

 ありきたりな文句だが、実際に経験してみるとそうだとしか思えない。だから昔から恋愛漫画やラブソングなどが流行っている。どうしてそういうものが流行るのかと不可思議に思うこともあったが、今ならわかる。恋をする主人公、歌い手に自分を重ねているところがあるのかもしれない。

 

 恋とは難しい。理論でも理屈でもない。

 

 だからこそ面白いなんて、俺にはとても思えない。

 

 厄介なだけで、実らない恋だとわかっているのなら、無益なだけだ。

 

 少なくとも俺は俺の経験を踏まえてそう実感している。

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