オトナシボーイの恋愛模様(前編)
俺はこれまで、身近に彼女という存在がいた試しがない。俗にいう、年齢イコール彼女いない歴だ。
交際寸前までいったことは何度かある。しかし、その度にフラれてきたり、成就しなかったりした。自分からフるということはなく、いつも自分から追いかける立場だった。
色々なタイプの相手がいた。自分と同じ聴覚障害者、あるいは健常者、あるいは彼氏持ち、あるいは同じサークルの先輩……その度に抱いた恋心は、ことごとく打ち破られてきた。
簡単に振り返ってみよう。まずは小学生の時から。
三つ年上の女子がいて、たぶんその人が初恋だったと思う。当時の俺は障害児が集まる特別支援学級というのに通っていて、その女子が色々とサポートしてくれていたのだ。校庭で遊んだり、登下校で一緒になったり。俺はその頃はまだピュアだったから、いつも一緒にいてくれるその子が好きになるのは至極当たり前といえた。
だが、その子が卒業してしまったのを機に、俺の恋心は消失する。
卒業という概念をよくわかっていなかった俺は、突然いなくなってしまったように思えた。どうしてどこにもいないのか、特別支援学級の教師に尋ねてみたこともあった。「卒業しちゃったの。中学校に行ったのよ」と言われ、その日は何も手につかなくなったことをなんとなく覚えている。
だが、偶然その子と出会う機会があった。
その子は制服を着ていて、ずいぶんと大人びていた。小学生にとって中学生というのは、壁の上の存在だ。ポニーテールがよく似合っていて、小学校にいた時のような幼さはすっかり失せていた。顔立ちも心なしか、前より細く見えた。ますます綺麗になって、どこか近寄りがたいものを感じて、俺はすっかり引け目を覚えていた。
けれど俺の胸中など知らず、その子は気さくに話しかけてくれた。
「あ、高井くん!」
その子の通っていた中学校は、小学校からそう遠くはない。帰路が重なっていたということもあっただろう。声をかけられて俺の心臓はどきりとした。颯爽と駆け寄ってくるその子の前に、俺は内心でうろたえていた。
「久しぶりだね、元気だった?」
「う、うん……」
「突然いなくなっちゃってごめんね。高井くん、私がいなくて寂しかった?」
「うん」
「そっか。……これから会うのは難しくなると思うけど、高井くん元気でね」
「うん、元気でね」
「ありがとう。それじゃ、またね!」
手を振って走っていくその子の後ろ姿を、俺はただ見送っていた。
それきり、その子と会う機会には恵まれなかった。
たぶん、それでよかったのだと思う。
中学校の時分には、好きな人が二人いた。一人はクラスメイト、そしてもう一人は特別支援学級にたまに顔を出してくる大学生だ。
まずはクラスメイトについて話そう。前にも言ったと思うが、合唱コンクールの時に話しかけてくれた女子だ。そして音楽教師のボイコットのせいで練習が中止になり、やる気を出さない男子に声かけを行ったあの女子だ。
俺は当時は地味で目立たず、休み時間の時には机に突っ伏して寝ているふりをしているか、あるいは意味もなく窓の向こうを見ているような――いわゆる、陰キャラだった。いつからそうなってしまったかはわからない。小学校とは別の区の学校に入ってしまったのが運の尽きといっていいだろう。それまでとは違う環境、新たな人間関係の構築に戸惑い、すっかりコミュニケーションをすることが怖くなってしまった。何をやっても笑われるんじゃないかと、本気で思っていた。当時は国語や歴史が得意のつもりだったけれど、中学校に上がっては思うように点が取れなかったのも一因がある。
つまり、自信がなかったのだ。
そんな俺だから意中の女子に話しかけようという勇気はなかった。いつも遠巻きから見ているだけだった。クラスメイトと明るく談笑して、笑顔を振りまいて、俺はその女子のことをまぶしく感じていた。
しかし、合唱コンクールを機に俺の気持ちは冷めていった。
やる気のない男子に声かけをして、練習が成り立たないとみるや泣き出す。なんでこんなことで泣いているのか、理解しかねた。別にその女子の非ではないはずなのに。そして、周りの女子も泣いたりあるいは同情するように手を差し伸べたりしていた。一丸となって固まっているその光景に、俺は冷えつくものを覚えていた。
「高井くんは真面目だよね」
「ああ、うん……」
それが、女子と最初で最後の会話だった。卒業することになっても、結局話せずじまいだった。だけど、それでよかったのかもしれない。
もう一人について話そう。
特別支援学級に時たま顔を出してくれる大学生がいた。その人は数学が得意で、知っていることも多く、黒髪で、えくぼがチャーミングな女性だった。大学二年生ということだったから、おそらく歳は十九、二十歳だったろう。当時十四、十五の少年にとってこの年齢差は大きい。年上のお姉さんというのはそれだけで魅力的だったのだ。
俺はその人と、手話で会話していた。手話ができる年上のお姉さん。最高ではないか。帰り道、そして電車の中で手話で会話する度に俺の心は跳ねたものだ。
ある時、こんな会話を交わした。もちろん、手話で。
「高井くんは、もっとできる子だと思うの」
「どうしてそう思うの?」
「飲み込みがいいし、頭の回転も速い。その気になれば学年トップにもなれるんじゃない?」
「止めて下さいよ。俺はそんな大した奴じゃないです。数学や化学の成績は悪いし……」
「うーん……成績が悪くても、頭のいい人はいくらでもいるよ」
「そうですか?」
「そう。でも、そういう人たちっていつも叩かれるんだよね。出る杭は打たれるっていうのかな」
「出る杭……」
自分がそうであるとは思えなかった。飛びぬけて何かしらの特技があるわけではない。せいぜい、和太鼓がちょっと上手いぐらいだ。頭の回転が速いと言われても、正直ピンとこなかった。
とにかく、俺はその人を慕っていた。そしていつしか恋心に変わるのにそう時間はかからなかった。その人から誕生日プレゼントをもらった時には、嬉しさのあまりその場で転げ回りたくなった。
その人からもらったのは文庫本。「アルジャーノンに花束を」という本だ。
簡単に説明をすれば、知的障害を持っている男性が手術を受け、高知能を得るというお話だ。彼は障害者から天才となり、そのせいで周囲から疎まれてしまう。最後には手術の後遺症で知能が減衰してしまう。
節々に共感できるところがあったのと、年上のお姉さんからもらった本ということもあり、熱心に読みふけった。その本をテーマにして感想を語り合った時は忘れない。
だが、その人もいつの間にかいなくなった。
それだけではない。俺は偶然、その人が携帯電話を手に何やら楽しそうに話しているのを見ていた。電話しているのを見て、聞こえる人なんだと今さらのことを思い知らされた。
深い崖の向こう側にいる存在に思えてならなかった。
相手が誰なのか知りたかったが、聞くのははばかられた。彼氏かもしれないと考えると、無性に胸を掻きむしりたくなった。
いつの間にかいなくなった年上のお姉さんは、優しかった。頭がよかった。俺のことを買っていてくれていた。それだけでも十分だと思うし、今になって必要以上に掘り起こすこともないだろう。野暮なだけだ。
その人とは連絡先を交換してあったのだが、今ではもう一通も交わしていない。昔、免許を取って弁護士だったか教師だったかになったという連絡があって、「おめでとうございます」と言って、それっきり何も来なくなった。忙しくなって、俺のことなど構っていられる余裕などなかったのかもしれない。
寂しくなかったといえば、嘘になる。けれどもう会えない人にこれ以上こだわってもしょうがない。
次の話に移ろう。今度は高校生の時だ。
中学校時代の雰囲気を引きずって、俺は孤独というか、孤立というか、とにかく一人きりの時間が多かった。まともに俺に話しかけてくれる人はほとんど皆無に近く、教師ですら俺を持て余しているようだった。特別支援学級もない学校だったから、聴覚障害者の扱い方なんてわかるはずもない。
ここで疑問に思う人もいるだろう。「なぜ、ろう学校に通わなかったのか?」と。
ろう学校――ろうは漢字で「聾」と書く――は聴覚障害を持つ子供たちが集まる学校だ。そこでのコミュニケーション手段は主に手話。もしくは口話と読唇。教師は主に板書して、子供たちにノートを取らせる。昭和、平成初期の時分には発話と読唇を中心に教えていたそうだが、平成後期に入ってからは手話がメインとなりつつある……らしい。
らしいと言ったのは、俺自身がろう学校に通っていなかったせいだ。だからろう学校でどんな教育が行われていたかあまり知らないし、生徒たちが普段どんなコミュニケーションをしていたかも知らない。
もし……ろう学校に通っていれば、今とは違う人生を送れていたのだろうか。
話を戻そう。
振り返って、高校時代は灰色に彩られていた。誰も話しかけてくれないし、自分から話しかけもしない。一人きりだった。一人で教室にいる時間が長かった。
転機となったのは個別学習で和太鼓の授業を受けていた時だ。
当時、その授業を受けている生徒の中に見栄えのいい女子がいた。背が高く、足も細く、ニキビもない肌は艶がある。その子も長い黒髪をしていたから、俺はきっと黒髪かつロングの女性が好きなのだろう。
ともあれ俺はその女子を目で追っていた。その女子の近くには大柄な男子がいて、近寄りがたかった。もしかしたらつき合っているのかもと思うと、甚だ残念でしょうがなかった。好きになってもしょうがないと思っていたのだ。
しかしある時、その男子が休んでいた時があった。
加えて授業の最中に、その女子とペアを組む機会ができた。俺は和太鼓の腕に関してはちょっと自信があったから、その子に身振り手振りで和太鼓の叩き方を教えたりした。
「こう?」
「こう」
「こんな感じ?」
「そうそう」
という具合の会話――会話になっているかはさておき――を交わしている時、内心ではひどく緊張していた。すぐ近くにいることも信じられないのに、自分が彼女に和太鼓を教えているのだ。しかも上手く叩けると、「ありがとう!」と言ってくれた。こんなに心が弾んだのは、中学以来とても久しぶりだった。
授業の終わり際、俺はぷるぷると震える手をなんとか堪えて、メモ帳とペンを手にその女子の元に向かった。「あ、あの……」と呼びかけようとしてみても、声にならない。しかしその女子が振り返って俺に気づくと、ぱっと顔を明るくした。
「高井くん、——はありがとう!」
名前と、「ありがとう」だけは読み取れた。たぶん、「——」の部分は「さっき」のことかもしれない。
「い、いや……どういたし、ま、まして……」
普段言い慣れていない言葉を使ったから、つい噛んでしまった。けれどその女子は気にも留めず、俺の手元のメモ帳に視線を落としている。
「それ、なぁに?」
「あ、ちょ、ちょっと話してみないかな、と」
「メモで? ……あ、そっか」
俺の耳が聞こえないことを思い出したのだろう。その女子はぽんと手を叩き、「いいよ」とうなずいた。さすがに飛び上がる思いがした。後の授業はもうないから、俺はその女子と心ゆくまで話すことができた。
以下は筆談でやり取りした内容だ。
〈高井くんって、太鼓が上手いんだね〉
〈中学時代からやっていたから。音も振動も大きいし〉
〈ああ、そっか。響くもんね〉
〈そうそう。南野さんはどうして太鼓を?〉
〈うーん、なんとなく。ストレス解消かな?〉
〈そうなんだ。加納くんも?〉
〈加納くん? なんで?〉
〈いや、いつも一緒にいるから。もしかして、彼氏?〉
〈あーまぁ、そんなところかな〉
俺は内心で落胆した。しかし、次の彼女からのメッセージには仰天した。
〈実はちょっとしつこいなぁって思ってる。もしかしたら別れるかも〉
俺はなんと返したらいいのかわからなかった。初めて話すはずの男子生徒に、ここまで漏らしてもいいものだろうか。そして俺に一体どういった答えを求めているのだろうか。
思考をフル回転したが、結局当たり障りのないことしか書けなかった。
〈そうなんだ。なんだか、大変みたいだね〉
〈うん、大変〉
えへへ、と彼女は笑った。可愛らしい笑顔だった。
年頃の男子が女子から微笑みかけられると、それだけで心臓が跳ね上がる。相手が美人ともなれば、そのまま好きになってもおかしくないだろう。加えて自分が教室の隅で机に突っ伏せているような影の薄いキャラクターであれば、余計に感動もひとしおだ。まさか自分にこんな機会が巡ってくるなんて。
その南野という女子とはそれからも話す機会があった。加納という男子がいる時は極力避けて。彼氏がいる女子に話しかけるなんてあまり褒められた行為ではないだろうけれど、それでも俺は彼女と話をしたかった。
でも、俺は彼女に告白もできないまま恋の終焉を迎える形となった。
なぜか? 理由はただ単に、俺に勇気がなかったからだ。告白という重要なステップを踏むことができなかったからだ。
彼女の誕生日にプレゼントをしたことがある。下北沢のおしゃれな店で買った、それなりの値段のブレスレットだ。普段使いには難しいのに、俺はそれが彼女に似合うだろうと舞い上がっていた。
それに、修学旅行の出先で彼女と一緒に和太鼓を叩いたことがある。メールの交換も頻繁に行っていた。
恋にまつわるイベントとしては、上出来すぎるではないか。
彼女とはメモ帳なしでも簡単な会話ならできるようになり、さらには加納とも別れたという。ここまでお膳立てされておいて告白に踏み切らなかったというのは、俺の人生における最大の後悔である。
告白しなかったのは勇気がなかったから。
フラれるのが怖かったから。
そして自分のことを引け目に感じていたから。
聴覚障害というコンプレックスをその時はまだ払拭できていなかった。こんな俺から告白されたとして、彼女は喜んでくれるだろうか。突き放されたりしないだろうか。告白をした後で、話をするのも声をかけるのも気まずくなったりしないだろうか。
今ならば考えすぎだ、と当時の俺に言ってやることができる。
相手は――彼女に限らず――そこまで自分のことを重要視しているわけじゃない。それがわかっていれば、告白に踏み切ることができたかもしれないのに。
けれど、人生にもしとかたらればとかはないのだ。それを十代の内に理解するのはとても難しい。自意識ばかりが肥大化していて、そのくせ自分のことも他人のこともよくわかっていない。わかっていないのに、顔だけはわかっていると言わんばかりだ。愚かしいが、その時の俺にはその愚かしささえ理解できていなかった。
今ではその女子――南野とはちょこちょこ連絡を取り合っている。もちろん、友人として。SNSでもつながっているし、たまにコメントをもらったりもする。けれどそれ以上の関係は求めていない。
何を今さら、という感覚が拭えないのだ。
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