人喰い鬼のはなし
灰崎千尋
人喰い鬼のはなし
昔むかし、ある山の奥深くに、人喰い鬼がたった一人で住んでいました。
人喰い鬼は、もともと人間の若者でした。
山奥で炭焼きをしながら、母親と二人でつましく暮らしていたのですが、あるとき国中がひどい飢饉に襲われました。山は動物の気配が消えひっそりとして、麓の村の田畑は干上がってからからの土ばかり。やがて村では口減らしが始まり、年老いた者が山に捨てられるようになりました。
最初のうち、若者は山で
すまねぇ、すまねぇ、南無阿弥陀仏……
胃の腑から酸っぱいものが込み上げてくるのを耐えながら、若者は老婆を肉の塊に変え、家に持って帰りました。
「今日は久しぶりに狸が罠にかかっておったから、狸汁じゃ」
若者はそう嘘をついて、母親と一緒に老婆の肉を煮込んだ汁を食べました。食べてはいけないものだとわかっていても久しぶりの肉は旨く、若者は思わず涙をこぼしました。それを見た母親は何故だか妙な胸騒ぎがして、碗の中に入った肉をよぅく見ました。見てもわからなかったので口に入れました。ずいぶん久しぶりとは言え、どうも狸とは違う味に思えます。
「狸、なんじゃな?」
尋ねられた若者はどきりとしましたが、「そう言ったろう」と無理やり笑いました。
人の肉はそれきりにしようと思った若者ですが、飢饉はまだ終わりません。仕方なくまた、山に転がっていた死体に手を付けました。
着物を脱がせ、腹を裂き、首と手足を落とします。そうやって黙々と人の肉を捌いているところに、虫が知らせたのか母親がやってきてしまったのです。
「お前、なんてことを……!」
「おっかあ、なんでここに」
母親は、以前食べた『狸汁』に思い当たりました。珍しく手に入った、狸に似ていないあの肉も、きっと──
母親は若者の手にしていた鉈を奪うと、その刃で自らの首を掻き切りました。吹き出した血が若者の顔と衣を紅く染め、母親は若者のそばに倒れ込み、息絶えたのでした。
若者の人としての心は、そのときに壊れてしまいました。若者は死んだ母親の肉も持ち帰って、鍋で煮こんで食べました。
それ以来、若者は人の肉を食べずにはいられなくなりました。生きた人間も殺して喰い、飢饉が終わって口減らしがなくなると、村に下りてきて殺しました。遂には生きたまま喰うようにもなりました。そうしていつの間にか人間よりもずいぶん長く生きながらえ、若者は身も心もすっかり人喰い鬼になってしまったのです。
ある日、人喰い鬼が家で横になっていますと、がらりと戸を開けて入って来る者がありました。
「やい、お前が人喰い鬼だな! よくもおっかあを喰いやがって……!」
それは年端もいかぬ小僧でした。手足がぷるぷると震えながらも、懸命に鎌を構えています。
人喰い鬼はもはや、どこで誰を喰ったかなど覚えていませんでしたので、少年にもとんと見当がつきません。しかしこの辺りで人喰い鬼といえば自分しか居ないはずなので、少年の仇が自分なのは間違いないだろうと思いました。
「そりゃあ悪かったな。しかしお前のおっかあだから喰ったわけじゃない。旨そうだったから喰っただけだ。たぶんな」
それを聞いた小僧は顔を真っ赤にして、ヤァー!と叫びながら人喰い鬼におどりかかりました。けれども
「おれはこれ以上生きている理由も無いが、死ぬ理由も無い。諦めて帰れ」
人喰い鬼は小僧を家の外へぽいと放り投げて、また横になってしまいました。小僧を喰わなかったさしたる理由はありません。強いて言うなら、旨そうに見えなかったから、でした。
小僧は悔しくて情けなくて涙をぽろぽろ流しながら、山を下りて行きました。
明くる日も、その明くる日も、小僧は人喰い鬼のところへやってきました。その度に人喰い鬼は、蠅を追い払うように小僧をぽいと追い出しました。その間にも人喰い鬼は辺りの村々で人を喰いましたが、小僧のことを喰おうとはしませんでした。
ある日、人喰い鬼は小僧の首根っこを掴んだまま言いました。
「お前、村の子なのにこんなことしとる暇があるのか。もう稲刈りの時期じゃろう」
小僧は口をぎゅっとへの字に曲げて、
「おいら、村で生まれたけど、村の子じゃあない」
と、ぼそぼそ言いました。
うん?と人喰い鬼が首を傾げると、むっつりとした顔の小僧が続けます。
「おいらの家は、
話しながらじわじわと涙を滲ませる小僧を見ながら、嗚呼そんな女を喰ったかもしれん、と人喰い鬼はぼんやり思い出しました。子供と女だけの家で、子供が小さな畑に出ている間、ひとり飯炊きをしていた女を喰ったことがありました。そのとき懐に入っていた櫛をぺっと吐き出した覚えがあります。
「うん、なるほど、確かにおれはお前の仇じゃ」
人喰い鬼は小僧を掴んでいた手を離し、土間にどっかりと座りました。
「小僧、おれを殺して、おれの首を村へ持って帰ると良い。そうすりゃまた村の子になれる」
小僧は人喰い鬼の言っていることがわからず、目をぱちくりとさせました。しばらく思案しましたが、やっぱり納得できません。
「今日まで殺されなかったくせに! だいたい、仇をとったらあんな村出て行ってやるわい!」
「覚えておらんか? おれはこれ以上生きている理由はない。だが今、死ぬ理由はできた。それだけじゃ」
人喰い鬼はひどくさっぱりとした笑顔で小僧を見つめます。
「それにな、村を出て行くとしても、文無しではすぐに行きだおれちまうのが落ちよ。少しでも蓄えにゃ」
小僧はなんで、どうして、と小さな声で繰り返しますが、人喰い鬼はもう心を決めてしまっていました。
「さて、しかしお前の力では俺の首は斬れんかもしれんな。途中まではやってやるから、あとはどうにかしてくれよ。うん、人喰い鬼らしく、怖い顔で死んでやらんとなぁ。どれ、こんなもんか」
人喰い鬼は目をひん剥いて口を歪めると、自分の鉈を首にあてがいました。小僧が何か言うのも聞かず、そのままエイ、と思いきり力を込めます。
人喰い鬼の体は、ばったりと倒れました。その首は少しの肉と皮だけでつながっていて、小僧はしばし迷った後、それをどうにか切り離しました。
小僧は人喰い鬼の首を小さな腕に抱えました。その首は漬け物石のように重く、恐ろしい形相をしているものの、僅かに口の端が笑っているようにも見えました。
「……人喰い鬼といっても、
小僧は人喰い鬼の首を持って、えっちらおっちら、山を下りて行きましたとさ。
人喰い鬼のはなし 灰崎千尋 @chat_gris
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