いつか三人で
サトウ・レン
いつか三人で
彼女との間にはカバン一個分の距離があり、僕と彼女を隔てるその空間には缶ビールが二本置かれている。塗装の剥げた赤茶けたベンチの背もたれにすこし深く腰掛けると、ぎっ、と小さく音がなった。照りつける夏の陽光を浴びて顔全体に力が入るのを感じながら虚空を見つめて「暑いね」と言うと、彼女はくすりと小さく笑って、
「昔っから、暑がりだよね」と答えながらも、手の甲で首すじの汗をぬぐって「まぁ、でも確かに今日は暑いね。ごめんね。昨日の今日で、急に誘っちゃって」と続けた。
「いや、全然、構わないよ。どうせ仕事も休みだったし」
「私も不規則な仕事だから、土日に合わせることができなくて、だからちょうど休みが同じって聞いて、すごくほっとした。どうしてもふたりで話したくて」
「それで用、って? 昨日の同窓会じゃダメだった?」
どうも乗り気になれなくて断り続けていた、毎年夏に行われている高校時代の同窓会に昨日初めて、そしてすこし遅れて参加した僕は、そこで彼女と七年振りに再会した。半分ほど残した泡立つビールの入った透明色のビアマグを握って、ほおを赤らめて僕に『久し振り』とほほ笑む彼女の表情にどきりとしながらも、そんな内心を気付かれないように『真田さんも来てたんだ』と答えると、彼女はその笑顔を意味ありげに変えた。
『もう真田さんじゃないんだよ』
と横から割り込むように会話に入ってきたのは、彼女と高校時代にとても仲が良く、そして同窓会中、最後まで名前を思い出せず、結局直接本人に名前を聞けないままになってしまった元クラスメートの女子だった。
『結婚したんだ……』
『あれ、なんか残念そうじゃない。もしかして』
『いやいや、そんなんじゃないよ』
軽く手のひらを振って否定しながらも、そこに否定しきれない感情を抱いていたのも事実だ。ただ、そこにはもうすこし複雑な事情もあった。
僕らは十代の日々に別れを告げ、お酒を酌み交わせるような年齢になり、
その場に成人を過ぎた僕と彼女が、いる。すこし不思議、というか、違和感はあった。
『なんで、ずっと来なかったの? 地元にいるくせに』
と隣に座る彼女が僕に耳打ちした。
『いや、なんとなく忙しくて』
『本当? 正直に教えてよ』
『嘘じゃないよ』
僕の答えを彼女はまるっきり信じていないように見えたけれど、『そっか』と呟いて、それ以上、深く聞こうとはしなかった。
僕は、いま周りで騒いでいるような彼らほど十代を楽しんでいなかったのだろう。同窓の集まり、というものに魅力的な色を付けることができなかったのだ。
同窓会が終わる直前、『ねぇ――? あの、さ。彼、と……。あぁ、やっぱり、うん……』と彼女が奥歯に物が挟まったように、何かを言いかけてやめた言葉が耳に付いて離れない。
「平日の昼間っからお酒って贅沢だと思わない。特別感があるっていうか」
昨日の光景を頭に描いていた僕の景色を今に戻すように、彼女が、こつ、こつ、と缶ビールのプルタブの辺りを指で叩いて、僕にそんなことを言った。
「普段あんまり飲まないんだ。同居人はビールが好きじゃない、というか、全然飲めるんだけど、味があんまり好みじゃない、みたいで。僕がやたらビールを飲むからかもしれないけど、すごい嫌な顔をするんだ」
「へー。もったいない。……っと、その話もちょっと気になるけど話を戻すよ。ほら、みんながいる時に、彼のことを聞くと、ね。いや、一応、人妻、だしね。変な目で見られたくないじゃない」
「なんか高校時代の同級生に、人妻、って言われると。違和感がすごいある。それに、一応、って……」
「それは、言葉の綾、というものだよ」
「まぁ、いいけど。聞きたいのって、彼のことだよね?」
「うん。あぁまずせっかく買ったんだから、飲もうよ。素面で話すのもなぁ、って思うし。ねぇねぇどっちにする。敢えて別の銘柄にしてみたんだ」
違う銘柄のビールが二本、汗を流して並んでいる。僕が飲み慣れているほうを選ぼうとすると、「えぇ」と彼女が抗議の声を上げ、結局僕は、僕自身が選ばなかったほうを選ぶことになってしまった。最初から答えが決まっているなら、選ばせるなよ、と思いながらも学生時代にも同じようなことがあったな、と懐かしくもなった。
だけどあの時の僕は、その光景を見る第三者でしかなかった。
『ごめんね。こっちが良かったんだ』と、あの時も彼女は悪戯をした後のような表情をしていた。
まず彼女が、そして次に僕が缶のプルタブを引くと、ぷしゅり、と立て続けに音が鳴った。
「ほらほら、乾杯、乾杯。昨日、遅れて来たからって、誰ともしなかったでしょ。ふたりっきりの乾杯」
ふちを当て合うと、かつん、と小気味の良い音がした。
暑さも相まって普段よりも、のどを通って、体内をめぐるアルコールが心地よく感じられた。
「美味しいでしょ」と、彼女がどこかの回し者なのかは知らないが、美味しい、特にいつも以上にそう感じたのも事実なので頷くと、「その同居人は分かってないね」と言った。
「分からず屋だからね」
「ねぇ覚えてる? 高校時代の彼の口癖。『人生楽しいのは、高校時代まで。それ以降は惰性。転がり落ちていくだけの残りの人生を考えると、ぞっとする。そんなの味わうくらいなら、俺は死を選ぶね』って。あの頃から、彼のああいう言い方にはもやもやとしてたけど、私の今の仕事で関わり合うひとたちを知った後で聞いた言葉だったら、引っぱたいてたかもしれない」
確か彼女はいま、市内の大学病院で働く看護師だったはずだ。
「いつも、そんなこと言ってたからね」
「それでも、いつまで経っても彼のことがつねに気になる。当時は、まぁさすがに今も、とは言わないけど、やっぱりなんか定期的に気になって仕方なくなる、というか……。罪作りな男ですよ。彼は。すこし目を離すと、すぐに消えちゃいそうで、心配になる。ねぇあなただけは高校卒業してからも、彼と顔を合わせてるよね?」僕がほおを指で掻きながら答えずにいると、「もちろん私は会ってない。というか卒業と同時に別れを切り出されて、そのまま連絡先まで変えて、遠くに行っちゃったからね。しかも何故か、あなた、と同じ大学だよ。こんなこと言ったら悪いけど、どう考えたって学力差あったじゃない」
「学力については返す言葉もないけど、選んだ大学に関しては偶然だよ」
「あなたにとってはそうかもしれないけど、ね。……今でもよく、同窓会とかで当時のクラスメートと話すと彼が話題に上がるの。クラスの中心にいたわけでもなく、人付き合いもよく無かったし、さらに当時のクラスメートとほとんど連絡を取り合ってる様子もない。なのにいっつも彼の話題が出て……、で、そのエピソードに大体あなたが関わってる。外見とか話し方とか、そんなのはひとつも似てないのに、後になって考えると、どこか近いものがあるように感じる、不思議な関係……」
「さあ、自分ではよく分からないけど」
「嘘」
「まぁ、うん……」
「ほら。もし彼のそれ以降を知っているひとがいるなら、あなたくらい。だからこの機会は逃したくなかったの。元カノの勘を舐めないでね。勘の鋭さには、ね。自信があるんだ。彼は今も、近くにいる。合ってるでしょ?」
「合ってるよ」
別に隠す必要もないことだ。
彼女が口に付けた缶ビールを斜めに傾ける。最後の一滴まで飲み干したようだった。
僕も三分の一くらい残っていたビールを飲み干した。
体内のアルコールが、うだるように暑くうんざりするような夏に新たな視点を加える。それは、あの頃の僕たちではきっと体験できなかったものだ。
秘密を共有するような笑みを彼女が浮かべ、おそらく僕も似たような表情を浮かべているだろう。
「ねぇ」と彼女が僕との間にあった距離を縮め、僕の膝に手を置く。彼女の不意の行動に驚き、緊張を覚える。「あなたのビールが嫌いな同居人に伝えておいてよ。ビールは美味しいし、楽しい。子どもじゃ体験できない大人の愉しみを知って欲しい、って。あなたの目が、世界を面白くもつまらなくもするから。最初からつまらないなんて決めつけないこと。元カノより、ってね」
本当に彼女の勘は鋭い。でもあくまでも彼に対してだけなのだろう。それも含めて彼女らしい。
「伝えるよ」
「今度は三人で、また乾杯しよ。あなたたちが同居することになった経緯も詳しく聞きたいし」
「それも偶然だよ。大して話すようなものじゃない」
借金を背負った挙句に知り合いの家を転々としていた彼が僕の住んでいるマンションを訪れ、やたらとその部屋の住み心地が良かったのか居座るようになり、僕が諦めただけだ。
今日は違う銘柄のビールを二本買って帰ろう。まぁ酒が飲めない人間に無理やり、というのは趣味じゃないけど、普段飲まないだけで、あいつは全然飲めるし、ビールだってほとんど飲んだことないくせに思い込みで勝手に好き嫌いを決め付けてるだけなんだ。
とりあえず、まぁ彼女がいるところに連れて行くのは決定事項だ。そっちはどれだけ嫌がろうと、無理強いしてやる。
彼女と別れて自宅への帰路を歩きながら、
僕の同窓会の案内を見ながら、『言うなよ。俺のこと絶対に言うなよ。特にあいつには。あんなこと言っておいて、転がり落ち続けながらも生にしがみついてる――』だの、なんだの、と言ってた同居人になんて伝えようか、と思いをめぐらせながら、きっと今のぼくは笑みをこぼしているだろう。
僕と彼が近い存在なら、
ビールで味わう心地よい酩酊感とともに変わる世界を楽しめるはずだ。かつて僕が彼の感覚に共鳴して十代を過ごしたように。
だから、友よ。いつか三人で飲もう。
その時にはきっと、あの頃の僕の彼女への想いも笑い話にできると思うんだ。
いつか三人で サトウ・レン @ryose
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