第4話 今のわたしはもう、あの時とは違うから(後編)
ふたりはチェス盤を挟んで向かい合う。
いつもと同じ、風景だった。ただ違うのは、ここは伊織の部屋で、むき出しのフローリングに直に座っていて、ふたりとも目尻が赤くなっていることくらいだ。
千佳がずるずると鼻水をすすり上げる。盤上はどう見ても千佳の方が不利なはずなのに、それでも伊織は防戦に徹している。彼の真剣な眼差しが、神の目となって六十四マスの世界に降り注いでいる。
伊織が駒を動かす。すかさず千佳が一手打ち、駒を取り上げていく。いつもとは違う。信じられないくらいにスムーズに、伊織の軍が崩れていく。千佳は伊織を見つめる。彼は冷静だ。動揺も興奮もしていない。
ほんのちょっとだけ、手加減してくれていることが、分からない千佳ではない。
「広島って、どれくらいかかるの?」
「新幹線で、たぶん、四時間くらい」
飛行機に乗らなくても行ける。そう思えば、ものすごく近く感じた。
一手、一手と局は進む。次の手、その先、さらにその向こう。ひとつの駒の動きによって、無限に広がる可能性を思索しながら、千佳は駒を動かす。
雷の気配が、穏やかな空気に混ざって消えていく。
「広島なんて、大阪のちょっと向こうじゃない」
インターネットの普及によって、世界はずっと小さくなった。東京だって広島だって、同じ国の中なのだ。遠距離恋愛、どんと来い。
「ちょっと向こう、だなんて。むちゃくちゃだ」
いつの間にか、ずいぶん大きく骨ばってきた伊織の手。まとめノートを取り上げて、「賭けをしよう」と言ったあの時は、まだ声変わりだってしていなかったのに。
千佳のビショップが、斜線を走って伊織のクイーンをつぶす。
「わたしは性格が悪いからね。むちゃくちゃ言うよ」
伊織のキングが、クイーンの仇を打って、
「わたしが勝ったら、交通費は伊織くんが負担ね」
「じゃあ、僕が勝ったら?」
「何言っているの? 伊織くんが払ってくれるんでしょ?」
「マジですか」
「マジですよ」
だって性格が悪くなきゃ、チェスは強くなれないから。
もう、外の雨音は聞こえなくなっていた。心臓が早く、早くとせっついてくるのを抑えながら、千佳は確実に、伊織の黒軍を追い詰めていった。
「賭けをしよう」
かつて、伊織はそう言った。
「賭けをしよう」
今度は千佳が、そう言った。今までの二年間を、そしてこれからの青春のすべてを賭けて、千佳は伊織のキングを、かつて自分があげた宝物の指人形を、追い詰める。
伊織は十分すぎる手加減をしてくれたと、そう思う。
※
車内のアナウンスは、もうじき広島に到着することを告げた。新幹線が停車するのが待ち遠しくて、千佳は早々に席を立った。
車窓の景色が都会のものになる。景色の流れが減速する。新幹線がホームにすべり込む。『間もなく、広島。広島』という声。続く流暢な英語。ちらほら席を立ちはじめる他の乗客。
志望校には受かった。木原やマオちゃんともべつの学校になって、もちろんそこに伊織はいなくて。それでももう、千佳はひとりではない。他人の顔色を窺ったりしないで、SNSなんか気にしない、明るい女の子に生まれ変わったのだから。
「賭けをしよう」
すべてはそのひと言ではじまった。
扉が開く。夏の空気がムッと顔に押し寄せてくる。夏の生暖かい空気の向こう、千佳が知っているよりもひと回り背の伸びた伊織が、両手を広げて、笑っている。
「千佳!」
駅のホームが、白と黒の市松模様に変わっていく。行き交う人びとが、ポーンへ、ルークへ、ビショップへと、姿を変えていく。伊織と過ごした二年間のすべてが、その白と黒の盤の上に蘇る。
「伊織くん!」
千佳は跳んだ。
跳んで、伊織の腕へと飛び込んだ。
いつか、手加減なしの伊織に勝つ。
そして今度こそ、ほんとうに賭けに勝つことが、今の千佳の目標なのである。
チェスゲーム 山南こはる @kuonkazami
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