第4話 今のわたしはもう、あの時とは違うから(中編)
伊織の家はマンションで、父と母と三人暮らし。兄弟はいない。母だと名乗る女性が挨拶に来てくれて、「二年間、伊織に良くしてくれてありがとう」と笑顔で言ってくれた。千佳の想像は間違っていなかった。伊織の両親は優しくて善良だ。たぶんそれは父親も同じはずで、こんな優しくて善良な人たちが、子どもの友人の来訪を拒むだなんて、ちょっと信じられない。
伊織の言ったとおり、室内は片づけられていた。カーペットもクッションもないフローリングの床に、段ボールが高く積まれている。ただ唯一、ベッドだけが残されていた。
「そこ、座ってよ」
「うん」
千佳が腰かけると、スプリングが小さく跳ねた。
「ずっと連絡できなくて、ごめんね」
千佳が言うはずだった言葉、言うべきだった言葉を、伊織はあっさりかっさらって、
「なんかさ、連絡しづらくて……。木原にも、すごい怒られた」
「……伊織くん。転校する話、いつ決まったの?」
「終業式の日」
そんなに前から。
「すぐ言わなきゃって思ってたんだけど……。ごめん、言い出せなくて。木原には言えたのに。でも千佳には言えなかった。……千佳のこと、がっかりさせたくなかったんだ」
同じ学校に行くために。そのために、頑張っていたのは自分の勝手なのに。
伊織は段ボールを開ける。いつも持ち歩いていた小さなチェス盤を、フローリングの上に広げて、
「転校したくない、って言ったんだ」
子どもにとって、学校は世界のすべてであって、
「……生まれてはじめてだよ。あんなわがまま言ったの」
あの優しくて善良そうな両親に、伊織がそんなわがままを言ったなんて。
信じられなかった。伊織は小さな駒を一つひとつつまみ上げて、市松模様のチェス盤の上に並べていく。千佳が白、伊織が黒。先手である千佳の方が有利なはずなのに、チェックメイトを取れたことは一度もなくて。
雨の音の中に、小さな雷鳴の気配がする。
「両親も、驚いていたよ。……父は単身赴任を考えてくれたらしいんだけどね。……でも結局、僕はうなずいた。家族と友だちなら……。やっぱり、家族を選ばなくちゃいけないから」
「そんなの、当たり前だよ」
比較の対象に上がること自体が間違いだろう。家族は家族だ。何よりも優先されるべきなのだ。
「千佳。うちの両親にとってね、僕は夢なんだ。だから、良い子でいなきゃいけない。……ごめんね」
彼の言い方、考え方に、重く引っかかるものを感じる。わがままくらい、言うだけならいいんじゃないかと千佳は思う。
伊織は駒を並べ終わったチェス盤を見せ、「どうぞ」と視線で言う。千佳はベッドから降りた。冷たいフローリングに直で座り、いつも通り、白の駒を先手で動かす。
「言ったっけ?」
「何を?」
「……うちの両親、ほんとうの親じゃないんだ」
初耳だった。
ということは、先ほど挨拶してくれたあの女性も。
伊織は黒いポーンを進軍させて、
「僕はこの家の養子。両親との間に、血縁はない。……一応、遠縁の親戚ではあるんだけど。ものすごく、遠縁」
でも先ほど、伊織を見ていたあの女性の目は、ほんものの母親の目だったはずで。
雷の音が忍び寄ってくる。
「……まだ聞きたい?」
「うん」
思えばいつも、伊織には自分が話してばかりだった。伊織に問うても、いつもはぐらかされるだけ。家庭の話、クラスの話。自分の話。千佳はいつも賭けに負けて、自分のことを語っていた。
「実の両親は、事故で死んだんだ」
「交通事故?」
「うん、そう。……飲酒運転の対向車が車線をはみ出してきて、正面衝突。後部座席の僕だけ助かった。それだけ」
盤上に動き。死角から伊織のナイトが千佳のポーンを奪う。
「……それ、木原くんは」
「知っているよ。でも女の子に話したのは、千佳がはじめて。……ねえ、千佳」
「何?」
ポーン同士の殴り合い。千佳のポーンは斜め前へと攻め入って、
「僕の初恋の話、聞きたい?」
いつの間にか黒いビショップが、角地のルークを強襲してきて、
「聞きたい!」
もちろん、賭けなしで。
「分かった。じゃあ話そうか」
いつも君にばかり話させているからね。と彼は付け加えた。
「幼稚園の時の話だよ」
それから彼は淡々と、初恋の話をしはじめた。
「幼稚園の時、教室の隅っこでさ。チェスで遊んでいたんだ」
幼稚園、教室の隅、チェスゲーム。
「僕は人見知りでさ、知らない子と話したりするの、すごく苦手だったんだ。だからそうやっていっつも、ひとりでチェス盤を広げていたんだ」
父のチェス盤を勝手に持ち出して。
「でもそんなことしていたらさ、駒、盗まれちゃったんだ。黒のキング。意地悪な男の子が「貸せよ」って、そのまま持っていかれちゃった」
千佳の心の中で、何かが動いた。
雷の音が近くなる。
「僕、泣いたよ。幼稚園であんなに泣いたの、はじめてだった。でもね」
記憶のフタがカタカタと音を立てて、ほんの少しずれた隙間から、何かが静かに流れ出てきて、
「ある女の子が、僕を慰めてくれたんだ。その女の子はね、「元気出して」って、宝物にしていた指人形をくれたんだ」
指人形。
人気キャラクターの、ソフビの指人形。
伊織はフッと視線を上げる。
「僕は性格が悪かったから、友だちなんていなかった。……だからその子が励ましてくれた時、僕はね、すごく嬉しかったんだ」
覚えている。幼稚園の教室の片隅で、ひとりでチェス盤を広げていた男の子のことを。
「その子はどうやら、僕のこと、忘れてしまったみたいだけど……。僕にとって、あれはたいせつな思い出なんだ。……その子が、僕の生涯の中で、はじめてできた友だちだったから」
伊織の声がどこか遠くで聞こえる。
千佳の心の中で、思い出が次つぎに重なって、一本の線へと収束していく。ソフビの指人形。それを黒のキングの代わりにした。教室の隅のチェスゲーム。一局終わったその後は、チェス盤の上でお城ごっこをして遊んだ。
千佳の声が、震えた。
「で、でも……。でも、伊織くん、その子は」
千佳の記憶の中、ともにチェス盤を囲んだその男の子は『高橋くん』だった。下の名前は忘れてしまったけれど、それでも少なくとも『出原くん』ではなかった。
伊織は微笑んで、千佳の次の手を待つ。
苗字が変わる。結婚、離婚。親の再婚。でも中学生の千佳にとって、それはあんまり馴染みのないことであって、
「あ」
――養子縁組。
伊織と両親は実の親子ではないと、たった今しがた、聞いたばかりではないか。
「気づいた?」
伊織はそう言いながら、盤上から黒のキングをつまみ出す。代わりにポケットの中から、ソフビの指人形を取り出して置いた。
古いソフビの指人形。黒ずんでいるけれど、それは間違いなく、千佳がその男の子にあげた指人形だった。
記憶の奥底から、懐かしい声が蘇る。駒の動きが難しくて覚えられなかった。根気よく教えてくれた男の子の声。盤上でお城ごっこをはじめた自分のはしゃぐ声。それに付き合ってくれた、男の子の笑い声。
千佳の視界の中で、男の子の像と目の前の伊織が、重なってつながった。
「千佳」
伊織が駒を動かす手を止めた。
「今までありがとう。あの時、千佳が友だちになってくれたから、僕は実の両親が死んだ後も、元気でいられた」
「そんな、わたしは」
今まで分からなかったのに。目の前にいる伊織があの男の子だなんて、ただの一度も気づかなかったのに。
「それと、ごめん。転校のこと、言い出せなくて。千佳は……、千佳だけは、悲しませたくなかったんだ」
「……うん。あ、あの、伊織くん。わたしこそ、その……。大嫌いなんて言って、ごめんなさい」
「ううん。いいんだ」
外で降りしきる雨の気配がする。雨粒が目に入ったみたいに、視界が滲んで前が見えなくなる。白と黒の駒が揺れる。市松模様のチェス盤が、水の底に沈んだみたいに見える。
泣かないって、決めたのに。
伊織のために笑っていよう。そう、決めたのに。
「伊織くん。わたし、伊織くんがいなくても、がんばるよ。がんばって、志望校行くから」
「千佳……」
「がんばれるもん。大丈夫、今のわたしはもう、あの時とは違うから」
鼻水が垂れて口に入ってくる。必死にすすっても、透明な液体は次から次へと垂れてくる。
他人の顔色が気になって仕方なかったあのころ。仲間はずれにされていることを知って傷ついたあの日。学校に行けなくなった日々。差し出してきたノートを、彼は目の前で取り上げて、こう言ったのだ。
「賭けをしよう」
そのひと言から、すべてがはじまった。
「伊織くん、賭けをしよう。最後の賭け」
勝負はまだ五分五分。ほんの少しだけ伊織に分があるが、それでもまだ、挽回の余地はいくらでもある。
「何を賭けるの?」
そう言う伊織の顔だって、目の端がほんの少しだけ赤くなっている。
「わたしが勝ったら、わたしの彼氏になって」
「……!」
赤くなった目が、見開かれた。
「……千佳が負けたら?」
「その時は、わたしの友だちでいて。伊織くんに好きな人ができるまで、永久に」
「……僕にデメリットがないようだけど」
伊織の言葉に、千佳は笑った。
「いいじゃない。わたしは性格が悪いからね」
千佳のビショップが、角地から動かないルークを遠くから狙い殺した。
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