第4話 今のわたしはもう、あの時とは違うから(前編)
日めくりのカレンダーがめくられないまま十日が経ち、夏休みは終わりを目前に控えていた。
八月二十六日。明日、出原家はこの街を後にする。
千佳は伊織が引っ越す日付を、木原からのLINEで知った。伊織からは何のメッセージもなく、そして千佳もまた、伊織に何の言葉も送れないでいた。「今までありがとう」も「ひどいこと言ってごめんね」も、そのひと言を送るということが、巨大な壁みたいに千佳の前に立ちはだかっている。
今日は朝からずっと雨が降り続いていて、まだ三時を少し過ぎたばかりなのに、外は日没前みたいに真っ暗になっていた。空気は蒸しているはずなのに、秋の雨みたいに冷たい。家の庭先で、母の育てていたアサガオが萎れかけていた。
明日の何時に出発するのか。車で行くのか交通機関を使っていくのか。それすらも千佳は知らない。居間でぼんやりTVを見ていると、ブーブーとスマートフォンが震えた。画面を見る。木原和彦。
「もしもし?」
『おう、いま暇?』
「うん、何?」
左手でTVのリモコンを取り、電源を切ると雨の音だけが部屋に取り残されて、
『伊織、明日の朝に行くって』
「……そう」
『見送り、するよな?』
当然だよな? という意思が言下に強く含まれているのを感じる。
「……」
真実に頭をぶん殴られたその日から、千佳は伊織に会っていない。千佳が最後に見た伊織は「大っ嫌い!!」という自分の叫びに打ちのめされ、泣きそうな子どもみたいな顔をしていた。
『おい、テンちゃん。テンちゃんってば』
「……うん」
『明日は俺も一緒に行くから。な?』
「……うん」
その後、ひと言二言やりとりして、千佳の方から電話を切った。TVの音が消え、木原の声もなくなった今、薄暗い居間には自分の戸惑いだけがたっぷり満ちている。
窓ガラスを、雨が叩く音が聞こえる。
二年間の間、千佳は何度もこの家に伊織たちを招いた。このリビングで勉強したことも珍しくない。千佳に男の子の友人ができたことを、母は誰よりも喜んだ。ケーキやクッキーを焼いてくれたこともあった。伊織も木原も喜んでくれた。ふたりとも、母の大のお気に入りだった。そしていつだって、普段よりちょっとだけ濃いカルピスが、グラスの中でそれを見守ってくれていた。
時計の針が動く。三時半。ちょっと行って、顔を見てくるだけでいい。引越し作業の迷惑にならない程度にする。「ごめんね」そして「ありがとう」それだけ言えれば、それでいい。
千佳はポケットにスマートフォンと鍵だけを突っ込んで、傘を片手に家を出た。
※
実を言うと、千佳が伊織の家を訪ねたのはこれがはじめてだった。
興味があった。行ってみたいと何度も思った。でもそれを言うと、伊織はいつもお茶を濁していた。きっと親が、子どもの友人が来るのを歓迎しないタイプなのだろうと思っていた。でも伊織の語る両親像は、優しく善良な人たちそのもので、千佳はいつも心の隅っこに、どこか拭えない違和感を抱いていた。
場所は木原から聞いていた。引越し前日だというのに、慌ただしさはない。ほんとうにここなのかどうか、不安で緊張する。心臓がバクバク音を立てている。
チャイム、押す。ピンポン、音鳴る。「はい」と声。名乗る声が、用件を伝える声が、無意味に震えた。「お待ちください」という声は大人の女性のもので、きっとその人が伊織の母なのだろう。少なくとも彼に、年上の姉がいるという話は、聞いたことがない。
ややあって、玄関が開いた。
伊織がいた。
「あ……」
千佳は狼狽えた。てっきり声の主である女性が出てくると思ったから。二年間、当たり前に会って話してきた伊織。「賭けをしよう」とチェス盤の向こうで言った彼の目を、直視することができなかった。
「……来てくれたの?」
「あ、えっと……。その……」
ありがとう、ごめんね。寂しい。離れたくない。言いたいことはたくさんあった。道中、雨に打たれながら、何度も心の中で予行練習をしてきたのに。
「よかったら、入ってよ。……もう片づけちゃったから、何にも出せないんだけど」
いいとも悪いとも言う前に、伊織は廊下の奥へと舞い戻る。
「……千佳? どうしたの」
「あ、ううん。なんでもない」
なんで教えてくれなかったの?
その言葉は、飲み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます