『万叶玉花湯』は作れない


「ノラ。ちょっと頼みがあんだけどよ」


 ある日、不意に男がやってきて、少女にそう言った。

 それに少女は、いやそうな目で応対する。


「なんだかいやな予感がするのだけれど」


「べつに無理難題を押し付けようってわけじゃねえよ。ちょっと、これを見てほしいんだが」


 言って、男が手渡したのは、古い文書。


「『万叶玉花湯ワンイェイーファタン 食譜シープ―』……つまり、レシピ?」


 タイトルを読み上げながら、少女は受け取る。悠久の時を経たヤケやシミが随所に見られる、60ページほどの書物。それを、ぱらぱらと流し読み。


「なに? この『異本』がどうかしたの? 見たところ、普通の『異本』みたいだけれど」


「いやな。それ、昔のすげえ料理人が構想したっていうレシピなんだが、おまえに作ってほしいんだよ。おまえの能力なら、料理もプロ並みにできんだろ?」


「当然。料理についても、昔、本で読んだから、できはするけれど。……そもそもなんで可愛いわたしがハクなんかに手料理を振る舞わなくちゃいけないのよ。恥を知りなさい」


「俺、おまえにそんな嫌われるようなことしたっけな……」


 急な毒舌に男はうなだれた。

 そんな男を尻目に、少女は流し読みを終える。その裏表紙に手を置き、やや空を見上げ、そして、息を吐いた。


「まあ、それはともかくとして――」


 少女は言う。少しだけ、悔しそうに歯噛みして。


「こんなもの、作れるわけがないじゃない」


 こんこん。と、指の裏でその『異本』を叩いて、少女は告げた。


        *


『万叶玉花湯 食譜』。


 十八世紀中頃。中国においては清時代の中期、乾隆帝けんりゅうていの時代。名の記録はないが、当時の伝説的料理人である何某がその乾隆帝の命により作成し、記したとされるレシピだ。


 全61ページにも及ぶレシピ。……そう、レシピではなく、レシピだ。この膨大なページ数を、すべてたったひとつの料理のために書き上げた、異端の一冊。当然、数多の食材を用い、気の遠くなるような調理手順を踏み、膨大な時間をかけて作ることが予定・・されている。


 というのも、この料理、どうやら作られたことがないらしい。というより、作れる料理人がいなかった。それは、このレシピを書き上げた著者も含めて、である。


 清時代の末期。食通であった、かの有名な西太后せいたいごうが、当時の選りすぐりの料理人たちに『万叶玉花湯』の調理をさせたらしいが、すべて、失敗に終わった。という記録すらある。


 数々の高級食材。あらゆる調理手順。それくらいなら金と時間をかければなんとかなっただろう。しかし、問題はそれだけにとどまらなかった――。


        *


「作れねえってのは、どういう意味だ?」


 男は問いかける。男の常識から言って、『料理が作れない』という表現の意味が理解できなかったのだ。レシピ――食材や作り方は明記されている。少女の学習スキルを思えば、調理工程に不都合があるとも思えない。なれば、作れないとはどういう理由なのか?


「言葉通りよ。これは無理。数々の高級食材。これはそれぞれ、質だけじゃなく新鮮さも求められる。それが、軽く数十種類。そもそもこれら食材をここに書かれているクオリティで揃えることがまず無理ね。春夏秋冬、各季節の特産。しかも、広大な中国全土の方々から取り寄せなければならない」


「それくらいならなんとかなるさ。金に糸目は付けねえ」


 男はこともなげに言う。彼はこう見えて、親と呼ぶべき者の遺産により結構な財産を有しているのだ。


「じゃあ、まあ、無理だと思うけれど揃えたとして、これだけの調理手順だと――しかも、食材の劣化を考えたら相当数の作業を並行して行わなければならないから、二本しか腕を持たない人間、ひとりじゃ不可能よ。可愛いわたしにはできるとしても……そうね、少なくとも、世界屈指の料理人が、十五人は必要かしら」


「……それはまあ……現地で中国料理を極めたやつらを雇うとして」


 金の心配はしないとしても、必要な準備の多さに若干引き始めた男である。


「簡単に言ってくれるわ。その料理人たちと、完璧なチームワークで調理を進めなきゃ、きっと齟齬が出るわ。その訓練に数か月は要するでしょうね。それと、調理環境。調理手順によって調理場の室温や湿度を調節しないと。調理器具も、当時用いると想定されていたものに近いものを準備しなきゃね。あとは――」


「ちょっと待て。……俺は料理なんてよく解んねえんだけど、料理ってそこまで厳格にレシピに沿わねえと作れねえものなのか?」


 男の言葉はもっともだが、それに対し、少女はため息を吐いた。


「そんなの、適当でいいのよ。普通ならね。でもこの料理は、普通じゃないから」


 少女の言葉に、男は唖然とする。そして、軽く息を吐いて、諦めた。


「じゃあ、まあ、……そのへん適当にアレンジして作れる範囲で、やってみてもらえねえか」


「どうしてもっていうなら、やってみるけど。……でもせめて、あと二人は助手が欲しいところね」


 言うが早いか、男と少女、二人しかいなかったはずの部屋に、唐突に、もう一人が割り込んだ。


「ノラ様。そういうことでしたらぜひわたくしにお手伝いさせてください」


 丁寧な所作でうやうやしくかしずきながら、そのメイドは言った。


「……いきなり出てこないでよ、メイちゃん。まあ、メイちゃんなら、仕込めばなんとかなるだろうけど」


 としても、あと一人は欲しい。そう思う。


「ウチも忘れてもらったら困るで!」


 それを汲み取ってか、メイドの影から現れる、もう一人の姿。それは、跳ねるアホ毛が印象的な、幼女の姿をしていた。


「ごめん。パラちゃんは邪魔だからすっこんでて」


「なんでやねん!」


 こうして、不安しかない準備は整った。


        *


 男はひとり卓につき、厳かに『万叶玉花湯』の調理をただ眺めていた。


「メイちゃん! これお願い! 下処理を、一分二十秒で!」


「かしこまりました。こちらの出汁取りはもうまもなくでございます」


「次は花菇ファグー竹蓀ヂュスン猴頭菇ホウトウグーでも出汁を……合わせるときはわたしがやるから」


「心得ております。ある程度はお任せください。それより、パララ様を――」


「……! なにやってんの、パラちゃん!」


 いそいそと食材を運んでいた幼女に、少女は叫ぶ。「わわっ!」。幼女は驚き、トレイごとずっこけそうに――。


「気を付けて! ……あとそれ違う! タオじゃなくてシンだってば! それと茘枝リーヂーじゃなくて龍眼ロンヤン!」


「?? えっと、……どっちがどっちなん?」


 幼女の言葉に少女はため息をつく。軽く汗を拭って「まあ、どっちでもいいわ」と諦めた。


「ノラ様! 下処理、出汁取り、すべて完了です!」


「ノラー! 遠心分離機の使い方解らへん!」


「いま行くから!!」


 怒号。すでに人知を超越した少女にとっては珍しいことに、完全に許容量過多キャパオーバーにて余裕なく叫んだ。その怒りは珍しく、しかしなお彼女は楽しそうに、忙しなく厨房を駆け巡る。


 そんな姿を見て、男は思った。

 あいつの、あんなに余裕がない姿も、楽しそうな姿も初めて見るな。と。温かい烏龍茶をすすりながら、少しだけ自分も、相好を崩して。


 そうして、現地入りから約九時間後、簡易版『万叶玉花湯』が完成した。


        *


「お待たせしました。……どうぞ」


 当然といえば当然で、しかし、彼女にしては珍しい調理服姿。新品のそれを正当に汚して、汗だくで、少女は料理人のようにその一皿を男の前に差し出した。


 まだ息が上がったままの少女。そして、差し出された一皿を交互に見、男は息を飲む。


「これが、『万叶玉花湯』……」


「極限まで簡易に仕上げた模造品だけれどね」


 調理帽を脱ぎ、少女は男の前の席に腰を降ろしながら言った。ちなみに、メイドや幼女はすでに、少し離れた別の卓につき、うなだれている。というかぶっ倒れていた。


 さきほどまでの戦争のような調理が終わって、静まり返った中。男は差し出された一皿に集中する。


 得も言われぬ芳香だ。その香りだけで、唾液が次から次に湧いてくる。軽く汗も滲み、いくつものスパイスが使用されていることがうかがえる。だが、問題は、その見た目だ。


 極限までの澄み切ったスープ。それがすべてである。わずかに湯気が昇り、その姿を眩ませてはいるが、男の見る限りそれは、ただの白湯を注いだだけのようにしか見えない。それほどまでに濁りなく、限りなく澄み切っていた。


 とはいえ、その見た目は拍子抜けすぎる。具材の欠片すら見て取れないスープ。あれだけの食材と調理手順はどこへ消えたのか? しかし、この鼻孔をくすぐる芳醇な香りは、間違いなくそれらすべてを内在している――。


 の、かなあ? とか。とりあえず納得して、男はスプーンを持ち上げた。


「じゃあ、まあ、……いただきます」


 せめてこれだけの食材と、少女たちの労力に感謝しながら、男は神妙に、それを口に運んだ。


        *


 眼球が、飛び出すかと思った。


 体が熱を持つ。瞬間、口にしたことを後悔する。


 だが、次の瞬間には、際限ないほどの複雑で、めくるめくようなうまみの連発。甘くも、辛くもない。しかし決して、無味でもない。味の四面体。そう言われる、甘味、酸味、塩味、苦味。それらがまったく感じられない。だが、五原味として追加される『うま味』。それだけが強烈に、そして鮮烈に繰り広げられる。


 体が、細胞レベルでこのスープを吸収する。しかし、決して麻薬のように次から次に求めたりなどしない。あくまで取り入れた分だけを過不足なく染み渡らせる。それが、ただスープを飲むだけで理解できた。


「これは……なんというか、うまい! いや、そんな言葉だけじゃ言い表せねえ! これは、もうなんというか、……うまい!」


 料理に関して造詣が深いというわけではない男ではあるが、しかし、それ以上の言葉が思い付かなかった。それほどまでに『万叶玉花湯』は複雑で、かつシンプルだったのだ。


「でしょうね」


 あまりの言葉足らずに、少女からは罵声が返ってくると覚悟していた男だったが、疲れが表出したその言葉に、やや拍子抜けする。


「あなたは『万叶玉花湯』の生まれた経緯について、ちゃんと知っているのかしら?」


 少女は疲れを吐き出すようにゆっくりと、話し始めた。


        *


 このレシピが記された十八世紀中期。当時の清の皇帝、乾隆帝。彼の功績として有名な十回の外征、『十全武功』。その最中、乾隆帝は自軍の兵士たちの疲れや衰え、士気の低下を徐々に感じていった。


 だから、彼は命じたのだ。『清の兵士たちが世界最強の精鋭となるための料理を考えてもらいたい』と。もちろん食事以外の部分にも方々手を尽くした乾隆帝だったが、日々の食事にまで気を遣い、軍の強化にあたったのは革新的な方策だった。


 結果、世界最強のレシピは完成した。しかし、問題はそれが、当時の技術では到底、調理し得なかったこと。だが、それでもそのレシピの部分部分を応用し、その一部でも普段食に応用し兵士に振る舞うことで、十分な効果は得られたのだという。


 話の最後に、少女は言った。


「もし、この料理を完全な形で安定供給できれば、きっと人類はもう一段階、進化できるでしょうね。精神的にも、肉体的にも」


 まあまだ、この二十一世紀でも、それは不可能でしょうけど。そう、付け加えて。


        *


「ところで、今回どうして、急に『万叶玉花湯』を作ってほしいなんて言い出したの?」


 少女は男をまっすぐ見つめ、問うた。


 だから男はやや目を逸らし、答える。


「怒らねえで聞いてほしいんだが」


「怒らないわよ、いまさら。というかそんな元気ない」


 まだ調理の疲れが癒えないようで、目尻を落としたまま、眠そうに少女は言った。


「うまい飯が食いたかっただけだ。いろんな国の、いろんな料理を食ってきたけど、どうもいまひとつでな。だから、『異本』になるほどのレシピで作る料理ならあるいは……ってな。特にこのレシピは中国のもんだったから、俺の好きな辛い料理なんじゃねえかと……見たところ、辣椒ラージャオとかの香辛料も多く使われているみたいだし」


 少し言葉を濁しながら、男は言う。たったそれだけの理由。それだけにこんな労力がかかるとは思わず、申し訳ない気持ちで。


「えいっ」


「おぐっ!」


 口元に向けられた不意打ちに、男は驚愕し、思わずそれ・・を口にしてしまった。ジャリジャリ。と、咀嚼。そして徐々に広がる、猛烈な辛み。


「……辣椒?」


「そ、トウガラシ」


「……うまい」


「ちっ……」


 辛い物好きな男へのトウガラシでの攻撃は失敗に終わった。だから少女は舌打ちする。


「料理のし甲斐がない男だわ」


 言葉とは裏腹に、満面に笑んで、少女は言った。



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可愛いノラちゃんの『異本を使ってみよう』のコーナー 晴羽照尊 @ulumnaff

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