ラウドノイズ

宇目埜めう

ラウドノイズ

 雨の雫に打たれたことで、今日が六月だということを思い出す。


 赤黒い海に浸り、横たわる目の前のそれが、月明かりに浮かぶ。それが誰なのか、分からない。それどころか、自分のことさえ見失いそうになる。ただ響く声だけが、私の存在を証明している。しとしとと降る雨の音が、その声を搔き消すことはない。

 雨とは違う、別の液体の温度を頬に感じて、そっと手で触れてみる。しとしとと降る雨が、それを洗い流すことはない。擦っても擦っても残り続ける。ヘドロのような液体。鉄のような生臭い香り。生温かい感触。頬から手を離すと細く糸を引いて、すぐに途切れた。


 不意に、横たわるそれと目が合う。色を失った虚な漆黒の瞳。月の明かりを吸い込むような闇。


 私は、六月の夜伽を終えたことを思い出す。頭の中で声が響いた。瞑想するようにゆっくりと目を閉じる。私はおもむろにそれに身を委ねた。




「見つけたよ、見つけた。今日から夜は私のもの」


 その声はある日突然、前触れもなくやって来た。姿のない声。音のない声。私にしか聞こえない声。とても聞いていられない、不快な声。

 その姿なき声に、私は『ラウドノイズ』と名前を付けた。

 ラウドノイズのことは、誰にも話さなかった。誰にも話せなかった。親、友人、そして愛するあの人にさえも秘密にしていた。私とラウドノイズだけの秘密。

 もしかしたらあの人は、怒るかもしれない。もしかしたらあの人は、浮気を疑うかもしれない。でも、浮気なんかじゃない。断じて違う。私は、最初からラウドノイズが大嫌いだ。不快で気持ちの悪いラウドノイズ。


「夜は私のもの」


 ラウドノイズは、夜の帳が下りるとともに現れる。ラウドノイズが現れると、私の体は闇に解けるように消えていく。夜の闇と同化する。夜はラウドノイズのもの。ラウドノイズは夜になると必ず現れる。

 私は眠れなくなった。

 心だけは、かろうじて私のものだ。心だけは、何があっても私のもの。

 ラウドノイズの声が聞こえるときは、必ずあの人の温かい声を思い出すことに決めた。耳障りの良い、甘く温かいあの人の声。それが、私のささやかな抵抗。

 心だけは、差し出さない。何があっても、心だけは絶対に。その誓いの証が、あの人の温かい声。


 ラウドノイズは、夜明けとともに消える。ラウドノイズは夜しか存在できない。私は夜明けが楽しみになっていた。


 ピチャリ——

 ラウドノイズが消える時、必ず聞こえる音。


 ピチャリ、ピチャリ——

 夜が終わる音。


 私はいつしかその音を美しいと思うようになっていた。私が、私の体を取り戻す合図。心と体が溶けあう合図。

 毎日毎日、何度も聞いているうちに、それが涙と何かがぶつかる音だと思うようになった。この世のものとは思えないほど美しい調べ。狂おしいほど美しい——。

 それでもやっぱりラウドノイズの声は不快だった。いつまで経っても不快な声。私が何をしていても、誰といても、必ず夜になると現れる。夜とともに現れる。夜はラウドノイズのものだから。


 ある夜、愛するあの人と二人で過ごしてるところにラウドノイズがやって来た。迂闊だった。ラウドノイズは夜になると必ず現れる。知っていたのに。分かっていたのに。愚かな私。あの人は、ラウドノイズに気がつかない。


 朝まだき、ラウドノイズは美しい調べとともに言った。


「もうずっと、夜は私のもの。ねぇ、今度は心も私にちょうだい」


 ラウドノイズの不快な声。夕暮れ時と彼は誰時は、決まって耳を塞ぐ。耳を塞ぐのが癖になった。


「もうやめて。もう来ないで!! あなたなんて存在しない!!」


 耳を塞ぎながら大声で叫ぶ。喉が枯れるほど叫んでるのに、音がしない。私の声だけが、頭に響く。まるでラウドノイズのように不快な私の声。他の音は聞こえない。

 私の声が反響して、耳鳴りがした。たまらず目を大きく見開くと、そこにはラウドノイズがいた。

 かすかに見えたその顔は、泣き笑いのように不気味な顔をしていた。涙のように頬を赤黒い雨が伝い、ピチャリ——と音を立てる。その顔があの人の顔と重なって、夜明けが来たことを知った。

 このときから、ラウドノイズの顔が見えるようになった。


 ラウドノイズの顔はどこかあどけなく、怒り、妬み、嫉み、その全てが混ざり合った顔をしていた。作りのあどけなさに不釣り合いな感情が乗ったその顔は、不気味以外に表現のしようがない。

 夕暮れ時になると、耳を塞ぐことに加えて、目も瞑らなければならなくなった。夜が近づくと目と耳を先に奪われて、すぐに体も奪われる。体を失うことが夜の合図。

 私はそれがたまらなく不快で、悔しくて、苦しかったから、その腹いせに一層叫ぶようになった。ラウドノイズに私の苦痛の一部でも味あわせてやろうと思った。

 もうすでに、私はラウドノイズに近づいているのかもしれない。そう認めることで、あんなに不快だったラウドノイズの声が少しだけ温かく思えた。不覚にも、ほんの少しだけ。

 近くと遠くを並べてつなぐ。そんな遊びを思い出した。そんな遊びがあった気がした。本当にあったのかどうかは、もう分からなくなっていた。


「もうずっと、ずっと夜は私のもの。ねぇ、そろそろ心も私にちょうだい」


 ラウドノイズの声は、それまでと変わらず響き続けていた。

 酷く不快で、だけどいつの間にか心地の良い声。夕暮れ時から彼は誰時まで続く声。

 消えるまで続くその声に、感覚が麻痺していく。私の手はどこを塞いでいるのだろう。私の手は何を振り上げているのだろう。

 ふと、私は私ではない別の何かなのではないかと思った。気が付いた。

 私の声は私のものだろうか。

 私の体は私のものだろうか。

 私の心は——。

 耳鳴りとともに、あの人の温かい声がかろうじて聴こえる。耳鳴りのその奥で、微かに聞こえる温もり。耳鳴りとあの人の声、どちらが温かいのか分からなくなる。


 私とラウドノイズは、夜になると繋がることができる。あの人とは違う。繋がっていられるのはラウドノイズだけ。いつまでも私と繋がっていてくれるのはラウドノイズだけ。それはとても魅力的で、甘美なもの。あんなに不快だったのに。あんなに苦痛だったのに。すべてラウドノイズが望んだ通り——。

 気がつくと私は歌い、踊っていた。叫ぶように歌うその声は、ラウドノイズそのものだった。狂ったように踊るその体は、ラウドノイズの意志だった。それでも、心までは差し出さない。最後の抵抗。抵抗すれば、ラウドノイズはその声を聞かせてくれる。

 大声で歌い、踊っているうちに私は私を失っていくのを感じた。ラウドノイズが初めて笑った。怒りと妬みと嫉み、全てを混ぜた、あどけない顔で歪に笑う。鮮明に映ったその顔は、私そっくりの顔をしていた。


 ピチャリ——ピチャリ——ピチャリ——

 夜と昼が溶けあう音。

 もうあの人の温かい声は聞こえない。もう二度と聞こえることはない。




 目を開けると、横たわるそれと再び目が合った。変わらず赤黒い海に浸りながら横たわる目の前のそれが、誰なのか私にはやっぱり分からない。


「なぜ……あなたなの……?」


 何処からか声が響く。

 横たわるそれが応えることはなかった。


「なぜ……私なの……?」


 何処からか声が響く。

 私がそれに応えることはない。


 私は、六月の夜伽を終えたことを思い出す。

 薄く白んだ空に初めて夜明けを知る。私はようやく手に入れたその心で、歓喜に震えていた。

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ラウドノイズ 宇目埜めう @male_fat

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