第5話  光を求めて

真っ暗な中、灰色の雲が薄明るく空一面に広がっている。

地面は暗闇から浮かび上がるように、積もった雪が広がり、所々に枯れた雑草の葉先が頭をのかせている。神奈川県にも関わらず、山の麓だからか冬は結構寒くなる。

朝6時、賃貸マンションの屋根なしの駐車場で私の車は車内が見えないほど雪に埋まっていた。

「はぁー、もう最悪!」

思わず口に出てしまう。ヘラでフロントガラスを擦ってみたが、凍りついて全くガラスが見えてこない。私はお湯を持ってくるためにマンションの部屋に駆け戻った。

こんな時期に小児科研修なんて本当にツイてない。人間も生き物なので、冬は基本的に調子が悪くなるのだから、それが子供なんて・・・と階段を駆け上がりながら考えていた。

病院までは5分で着くが、朝7時半に患者が食事を始める前までに、状態を一通り確認しておきたい。必要があれば食止め(食事を中止する)のオーダが出せるからだ。「こんな氷を落としている暇ないんだよー。」と心の中で叫びながら、急いで温かいお湯を2Lのペットボトルに入れた。 ほんと憂鬱な日々が始まる感じ・・・。そんなことを考えながら駐車場までペットボトルを抱えて走り戻ってフロントガラス目掛けてお湯をジャバジャバかけた。


 6時30分。病院の駐車場に車を止め、我ながら行動が早い自分に感心した。

病院の正面玄関に向かいながら、時計を見た。月初め・・・今日が初日であることを思い出した。初日は新しい医局で業務内容や引き継ぎをするために、集合時間は8時半なのだ。

「こんなに焦って早く来る必要なかったし・・・」

自分に染み付いた習慣を恨んでみたものの、仕方ないのでコーヒでも飲もうと食堂に向かった。朝の6時半。重い雲のせいか外はまだ真っ暗だった。

食堂の入り口近くで向かい側からでパジャマ姿のトトロのような生き物がこちらに近づいてくる。しかも三角のナイトキャップまでかぶっている。

消化器外科の教授、泰山 嘉明だ。この姿からは想像もつかないが外科医なら知らない人はいないほど、世界的な肝臓手術の権威である。

「泰山先生、おはようございます。」

私はしっかりと頭を下げて言った。

「如月ちゃーん、久しぶり〜。早いねぇ、初日なのに。朝ごはん食べる?」

とニコニコしながら教授は言った。とぼけたように見えて、ちゃんとレジデントの日程なども把握している。不都合なことに私の名前もしっかり覚えられている・・・。

「小児科初日なのをうっかり忘れていて、いつも通り早くきてしまったんですよ。だからコーヒーでも飲もうかと思って。食事は済ませてきたんです。ありがとうございます。」

と正直に答えた。

「相変わらず真面目だねぇ。仕事ばっかりで男泣かせてたらだめだよぉ〜。」 

とニヤニヤする。「来たーっ。」と私は思う。教授は5年生の時の外科の口頭試問を覚えていて茶化しているのだ。


 医学部5年生の夏、2年間付き合っていた同級生の彼にさよならをした。理由は簡単だった。私はタバコが嫌いだ。タバコの匂いに敏感で、頭痛と気分不快が強くそばにいることができないため、喫煙者は私の人間関係の中には入れない。彼が私に告白してきた時、彼は喫煙者だった。しかしタバコはもう一生吸わないから付き合って欲しいと言われ、そんなに一生懸命になれるなら一緒にいてもいいと思ったのだ。彼についていたタバコの匂いも徐々に薄くなっていき、私たちの関係も悪くないのかと思っていた。しかし付き合って1年くらい経ってからなんとなくタバコの臭いがするのだ。問いただしたところ、彼は私の態度がそっけないのでイライラしてついタバコを再開してしまったという。もう絶対吸わないから一緒にいてほしいと言ったが、私は躊躇なく別れを決めた。誰に相談することもなく。結局は好きということはなかったのだろう。

ちょうどその頃に外科の口頭試問があった。運悪く同じグループの8人の中に彼はいた。こんな感じの教授なので口頭試問もふざけた感じに進んでいった。全問正解の私になんと教授は「如月ちゃんさぁ、そんなに完璧だとBFも泣いちゃうよ。」と言ってきたのだ。その場にいた同級生は凍りつき、彼は下を向いてしまった。とぼけた仮面を被った頭の回転の速い教授は、すぐ状況を察してしまったわけだ。その後の口頭試問がどのように進んだのかはよく覚えていない。けれど、彼はそこそこ人気者だったので、皆が彼をかばい、わたしはひどい人扱いをされた。元々、女子のグループを作って行動するのがあまり得意ではなく、一人でいるか、性格的に男子と過ごす方が楽だったので、女子からは「成績はいいけど、男と遊んでいる人」という印象があったようだが、この一件で確実に定着してしまった。


 「先生も朝早いですね。泰山先生は昨夜は病院だったんですか?」

私は話題を変えてみた。教授はお膳を受け取りながら振り向いて答えた。

「僕はね、週末以外は病院にいるんだよ。何か聞きたいことがあればいつでも聞きにきていいからね。はい、コーヒー。」

教授は私にコーヒーを手渡し、自分の朝食のお膳を持って教授室に戻っていった。とぼけたように見せておいて、この人の頭の中は全て計算されているのだ、といただいたコーヒーを見て思う。

「ごちそうさまです。」

もうすでに食堂の外にいた教授に大きな声で私がいうと、振り向かずに手を振っていた。

食堂の窓辺に座ると、いつの間にか外は明るくなっていた。紙コップから立ち上る湯気がコーヒー香りとともに私の体内時計にスタートの合図をきる。


 まだ静かなエレベーターホールに向かい5階のボタンを押した。ドアが開いた途端に子供たちの賑やかな声が飛び込んできた。高くて飛び跳ねるようで、空気を弾くような明るい声。その声の側から中央ステーションを抜けて奥の方へ向かう。小児科の医局のドアを開けると、すでに数人のレジデント(研修医)が集まっていた。

「あ、なっちゃん。なっちゃんも小児科回るんだね。よかったー。頼りになる女子がいて。」

裏のない、ほんわかとした笑顔で声をかけてきたのは小児科志望の笹塚 愛子だ。愛子は本当に普通に穏やかで、誰とも平和に仲良くできるような女の子だと思う。花で言うとタンポポだろうか。目立ちすぎず、けれどさりげなく周りを幸せな気分にしてくれる。私が話をする数少ない女子の一人である。

「愛子、一緒の時期で私も良かったよ。一応救急系に行くから小児もちょっとは知っとかないといけないのかと思って。でもさぁ、子供はあんまり得意じゃないんだよね。」

子供はあまり好きではない。どちらかと言うと苦手だ。可愛くないと思うわけではなく、何を考えているのかわからないのでどう対応していいのかわかず、結局近づきたくない苦手なものの一つとして私の脳には認識されてしまったのだろう。

「あはは。なっちゃん、わかるわぁ。子供の相手とか出来なさそう。でもなんでもできるから大丈夫だよ、なっちゃんは。」

彼女ははっきり言うが全く嫌味がない。そんなことを話しているうちに、レジデント全員が揃っていた。

小児科は人気と聞いていたが、レジデントの人数も多く10人だった。全員が同級生だ。基本的に2年目の研修医しか研修できないことになっているのは、1年目の研修医も回ってきていた頃に親とのトラブルが多く、このような決まりができたらしい。

 医局のドアが開き、背丈のよく似た小柄な中年の男女が入ってきた。里山 睦彦と里山 悦子。大学ではオシドリ夫婦で有名な小児科医だ。仲良く二人でレジデントの指導も担当するらしい。二人とも身長は155cmくらいだろうか。いつもニコニコしていて動きもなんだかコミカルでアニメのキャラクターの様である。子供たちにも好かれていることが容易に予想できる。

「おはようございます。学生の時に講義に出ているはずだから、みんなは僕らは知っているよね。いよいよレジデントも最後の研修ですね。皆さんの成長を嬉しく思っていますよ。」

穏やかな、男性にしては高めの声で旦那の方が言った。

続けて妻の方が優しく話す。

「小児科志望は6人と聞いていますが、右側に小児科志望の先生、左側に他科の先生と言うように移動してもらってもいいかしら。 差別をするわけではないけれど、基本的に大人を診る科を志望している先生には見学をしていただいて子供をどうやって相手をして診ていくのかと言うことを学んでもらい、小児科志望の人には手技やより専門的なことをしていただくことにしています。」

同じ研修なのに、なぜ小児科希望と異なるのか不満にも思ったが、私はもとより小児科は気が進まなかったのでほっとした気持ちの方が大きかった。

 小児科希望は10人中6人。4人が見学組かと思っていたところで呼吸器内科入局志望の田中 知恵美が言った。

「私は呼吸器内科志望ですが、呼吸器は子供もみないといけないこともあるので研修をしっかりしたいと思って来ました。なのに同じレジデントで見学だけと言うのはどうかと思います。」

研修医たちは少しザワっとした雰囲気に包まれた。

そうだよね、その通り。私も関わりのある科なら言うかも、とちょっと笑ってしまいそうになった。田中智恵美が私の含み笑いに気がついて、すごい顔で睨んできた。別に彼女に笑ったわけではないのに、美人が台無しだと私は思った。

 田中知恵美は学生時代から成績も良く、典型的な優等生だ。美人なのだが、愛想がないので男子からはあまり人気がない。百科事典とかけて「知恵蔵」とあだ名が付けられている。

私のような人間と一緒に研修するのは不本意と言わんばかりにプイっとそっぽをむいてしまった。

「そうね、じゃあ田中さんは小児科志望と同じにしましょう。小児科志望の先生7人は外来に行きましょう。残りの3人は中央ステーションに行ってくださいね。担当ナースが案内してくれますよ。それでは1ヶ月、頑張りましょう。」

 、ね。あまりにもあからさまなその対応に、最初からあまり気が進まないものが、さらにモチベーションまで下がってししまった。

は救命救急科入局の岸際 拓哉と整形外科入局が決まっている滝沢 隼人だ。3人になり静まり返った医局で岸際がまず沈黙を破った。

「なぁ。俺たち、この中で3週間やっていける?」

「同感」

私と滝沢がハモったので、3人で吹き出してしまった。なんだかこの3人なら楽しく過ごせそうな予感がした。


 中央のナースステーションに向かうと、正面で看護婦長と思われる貫禄のあるナースが私たちを待っていた。忙しいのか、私たちを見るなり、急ぎ寄って来て。小さな体育館のようなレクリエーションルームに案内した。

「先生方は今週、入院中の子供たちがどんなふうに過ごしているか見てもらうことになっています。どの病棟の子でも構わないので一人は症例をまとめて提出するように指示がありましたよ。わからないことがあったら、リーダーナースでも、医局員の先生でも誰でも遠慮なく聞いてくださいね。」

そういうと、足早にナースステーションの方へ戻って行ってしまった。

慌ただしいが、気持ちはあるのが伝わってきた。

少し重い扉を開けると、眩しいくらいのあかりが目に飛び込み一瞬周りが見えなくなるくらいだった。人工芝のグリーンが鮮やかに部屋を彩る。天井がガラス張りになっていて、太陽の光が隅々まで届いている。・・・朝は天気悪かったのに、よくなったんだ・・・。

太陽の光が降り注ぐレクリエーションルームでは、たくさんの子供たちが遊んでいた。ボール遊びをしたり、車の乗り物に乗っていたり。大きな黒板があって絵を描いている子もいた。私が想像していた病気の子供たちのイメージとは全く異なり、みんな生き生きとして輝いている。車椅子に乗っている子もいて、中には点滴を下げてきている子もいた。この時間はここで何かしら皆とコミュニケーションを取る時間なのであろう。

私たち3人を見かけると数人の子供達が集まってきた。

「今度の先生達は背が高いねー。」

一人の男の子が言った。確かに私は168cm、他二人は180センチ近い男子である。

私はしゃがんで子供達に挨拶をした。

「如月 夏と言います。心臓のお医者さんになりたいけど子供達のことも知りたいと思ってきました。」

私にしてはかなり努力をして子供に近くなるように話しかけた。

他も続いて自己紹介をした。

しかし自己紹介の後、3人とも子供たちとの会話が見つけられずにいた。子供たちは数人でキャアキャア同時に話しかけるので何を言っているのはっきり聞こえない。3人固まってウロウロとしていると後ろから呼ばれた。

「なっちゃん先生!」

振り向くと点滴を繋いだ丸刈りの男の子が立っていた。4、5歳ぐらいだろうか。

「先生、一緒に折り紙しようよ。」

顔色が良いとは言えないが、元気の良さそうなくりくりしたかわいらしい目をしている。

「折り紙!いいねー。やろうやろう。お名前なんていうの?」

「カケル、水野 翔っていうの。」

「翔くんかぁ、カッコイイ名前だね。折り紙好きなの?」

そんな話をしながら要求されたことが折り紙であったことに安心して、一緒に病室へ向かった。他の二人は私に手を振っている。その周りを子供たちが次は私というように話しかけていた。


 子ども達にかわるがわる連れて行かれ、遊びに付き合っていたら、あっという間に夕方になった。研修医控室に戻ると残り組の二人が椅子に足を伸ばして座っていた。

「なっちゃんせんせー。」

岸際がからかって言ってきたが、無視して窓際の机に向かった。

「なっちゃんさ、子供相手、意外と上手なんじゃない?」

と滝沢が話してきた。

「まさかでしょ。」

私は間髪入れずに答えたが、滝沢は構わず話を続ける。

「だって子供達、俺らには全く寄ってこないのに、みんななっちゃん先生、なっちゃん先生って大人気だったじゃん。俺らは楽でいいけど、疲れんだろ、本音は。大変だったら引き受けるから遠慮なく言えよ、な。」

さすが整形外科医、言うことが爽やかである。この業界では面白いくらい科によってカラーがある。整形外科と救命救急、どちらも体育会系だけれど、整形外科は爽やかな感じで救命救急はもうちょっと怠惰な感じ、悪く言えばチャラい感じだ。同じく私の志望する循環器内科も体育会系に分類されるが、循環器内科はせっかちな人間が集まっている。

「お気遣いありがと。」

私が答えると、岸際が絡んできた。

「おいおい、俺にも少し気を使えよー。爽やかタッキー。」

「拓哉は地で遊べるだろー。精神年齢変わんないから。」

笑顔がアイドルのような滝沢隼人は後輩達に大人気だ。

「ふざけんなー。」

そう言って笑う岸際も、滝沢とは対称的な印象で同期の女子にモテている。

岸際は笑って滝沢の頭をグリグリしていた。私はこの3人なら心地よく研修期間を過ごせそうだと安心した。女子といるよりもずっと楽だ。

夕方6時、外はすでに真っ暗になっている。しかし小児科組はまだ部屋に戻らない。

「俺することないから帰るわ。じゃあまた明日〜。」

と岸際が足取り軽く帰っていった。他科ではこんなに早く帰れることは少ないので、嬉しいのだろう。滝沢も整形外科に顔を出すと言って荷物は置きっぱなしで控室を出て行った。


 窓を開けると冷たい空気と一緒にふわっと何かが吹き込んできた。窓の外を覗くと濃紺の空からふわふわと白いかけらが落ちてくる。柔らかい大きな綿雪が少しずつ窓の縁を白く染めていく。5階から下を覗くと地面はもう真っ白だ。

「車・・・」朝の憂鬱さが思い出された。メンバーに恵まれ、少し明るい気分になっていたが、すぐに気分は下りに向かってしまう。小児科研修がそれほど嫌なのか、たまたま鬱期なのか自分でもよくわからなかった。

とりあえず、物の場所や子供達のことを知っておこうと思い、病棟内を見て回ることにした。

 夜7時半、小児科病棟の廊下はすでに消灯しており、長い廊下は真っ暗で奥まで見えなかった。冷たい空気が奥から自分に向かってくる様な変な気持ちに包まれる。5階は小児科の病棟が4つ、エレベーターホールから四方に伸びている。それぞれ、5-1小児循環・呼吸器、5-2小児血液・腫瘍疾患、5-3小児消化器・代謝、5-4小児神経・精神に分かれていた。小児血液腫瘍かの病棟からは救急につながる渡り廊下があり、救急センター内には血液腫瘍専用無菌室などが設置されている。

渡り廊下の奥にある小さな面談室の明かりが一つだけついていた。私は吸い込まれるようにその灯のついている部屋に向かっていた。人気の少ない病院はホラーそのものだ。

 面談室のドアは閉まっていて中の様子は見えないが、女の人が啜り泣く声が聞こえる。そこに男の人が何か言っている。どうやら病気の子供の両親と主治医と面談をしているようだ。病棟から離れていて、誰もいないので声が妙にはっきりと聞こえた。

「まだ9歳なのに・・・。足の切断からやっと立ち直ってきたのに、転移なんて・・・。次は腕もなんて・・・。あの子はどうなるんですか。肺の転移だけじゃなかったんですか!どうやって伝えるんですか?」

嗚咽と共に母親の何処にぶつければ良いか分からぬ気持ちが言葉となって次々に溢れてくる。話の内容から子どもの病気が骨肉腫だと予想できた。

お母さんと思われる女性は泣き崩れ、おそらくお父さんの男性が背中をさする影がすりガラスから分かった。 

「お母さん。今は温存という手術もあるので・・・」

向こう側を向いているからか主治医の声は十分には聞こえない。

 9歳で大腿切除・・・。そういえば今日、右足がない女の子が車椅子に座ってたっけ。勝手に事故かと思っていた。車椅子に付いていた名前・・・なんだったか『夜』の漢字がついていたはず・・・。

自分の記憶からその時の映像を引っ張り出してくる。そうだ車椅子には緑色のテープが貼られていた。5-2病棟だ。病棟ごとにテープの色が決まっている。

5-2病棟は小児腫瘍の病棟だから間違いなくその子だろう。


 私は5-2病棟に向かった。自分が何をしたいのか分からなかったが、とにかくそのカルテを、その女の子のことを知らなくてはならない様な気がしてならなかった。夜のナースステーションは1、2人のナースがいるだけで、モニターの音だけが耳に届いた。

「先生、遅い時間までどうしたんですか? 研修医の先生たちは皆さんお帰りになりましたよ。」今夜のリーダーの看護師がいった。

「ちょっと気になることがあって。」

時計を見たらすでに夜8時をすぎていた。

自分が何を理解できるのかもわからない、何の役にも立たない、自分のただの好奇心でしかないのではないのかという疑念が襲いかかる中、いや知ることでこれからの患者さんたちを診る上で手助けになる何かがあるはずだなどと正当な理由をつけて、電子カルテからその子を探した。

「初日から熱心ですね。ステーションの奥でコーヒーも飲めるし、甘いものもありますから疲れたら遠慮なく使ってくださいね。」

誰もがホッと落ち着いてしまうような安心感が心に届く。

小児科のスタッフは本当に心から優しく思いやりに溢れているように思える。病気の子供たちと毎日過ごしていると、本当に人の生きる価値などが見つけられるのだろうか。それとも子供たちから澄んだ心を学ぶのだろうか。

子供たち・・・

本来なら未来を担うはずの子供達。ここにいる子供達にどれだけの期間が与えられているのか。ぼんやりとそんなことを思いながら電子カルテを開いた。

病名を見ていくとすぐにその女の子は分かった。


神田 美夜 9歳 女子 

診断名

#骨肉腫 #右下腿切除後 #肺転移 #右肺中葉切除後 #リンパ節郭清後


現病歴

3歳よりバレエを習っていた。週に4日バレエの練習を行っていた。6歳の時に右足の膝関節に疼痛を認め、近隣整形外科医院を受診。その時は酷使による関節炎と診断され、1ヶ月練習を中止した。しかし全く改善を認めず、腫脹と疼痛が強くなったことより再度同じ医院を受診した。レントゲンにより、患部の骨溶解像を認めたことより骨肉腫疑いで当院紹介受診となった。


 言葉が出なかった。週4回のバレエの練習を3歳から続けていた女の子。バレリーナになることを夢見ていたのだろうか。美しい名前。母親はどんな想いでこの名をつけ、どんな想いでこれまでの彼女の人生に付き添ってきたのだろうか。まだ10年にもならない少女の人生。

カルテを読みながら、血の気が引くように、脱力感が全身に広がった。徐々に目の前が暗くなってくる・・・いつもの、あの感じ。

そうだ、小児科を苦に思っていた一つの理由は、絶望感が強いからではないだろうか。まだ短い人生しか過ごしていない子供達の未来を前にして、できることが限られているという自身の、医療の無力さを見せつけられること・・・。

「先生、大丈夫ですか?顔色悪いですよ。お茶でもどうですか?」

さっきのリーダーさんだ。声をかけてくれたのがありがたい。

「ありがとうございます。お腹減っちゃったのかもしれません。」

私は笑って誤魔化した。

「先生、控室でお茶でもどうですか?ちょっと疲れたんだと思いますよ。初日で環境も変わったばかりですから。」

 私より10歳くらい年上だろうか。物腰がとても柔らかく、人を包み込むような雰囲気を出している。ナース服の上に可愛い柄物のエプロンを着ており、名札にはひらがなで「おおの かなこ」と丸文字で書かれていた。名札にはメロンパンナちゃんのシールや花のシールで飾られている。

「先生、どうぞ。」

夜の勤務で疲れているはずなのに、そんなことはカケラも思わせない穏やかな笑顔。いつも眉間に皺を寄せて難しそうな自分の顔が頭に浮かぶ。

湯気の出るマグカップからアールグレイのいい香りがした。

「ありがとうございます。」

遅れて私はお礼を言ったが、その先の言葉が見つからなくて黙っていた。

まるで私の頭の中で考えていることがわかっているかの様に、さんは話し始めた。

「この病棟に来ると衝撃ですよね。まだ小さいのに、これから生きるためのことを考えなきゃならないなんて。」

私は彼女が話すのをじっと聞いていた。

「でもね、子供ってすごくエネルギーがあって、大人みたいな絶望感は長くは続かないんですよ。未来にちゃんと向き合って、ほんとすごいなって、頑張らなきゃって自分が励まされちゃう。」

照れているような笑顔が、彼女の正直な心を伝えていた。同時に、朝に見たレクリエーションルームの光景が蘇った。子ども達はどの子もキラキラと目を輝かせて遊んでいた、あの時間。

「そうなんですね。実はちょうど廊下で家族と主治医が話ををしているのを聞いてしまって。それでカルテを見ていたんです。」

おおのさんは、なるほどと言う顔をして聞いていた。

「神田さんのことね。また手術になるかもしれないって。あのお母さんも気持ちは分かるけど、自分の感情を抑えることができなくて、子どもの前でもないちゃったりするのよ。子供の方が困っちゃうよね。でもね、私がお母さんがかえったあと側にいったら、あの子、こう言ったの。『バレリーナになりたかったのはお母さんなの。私はママの代わり。ママを喜ばせたいから頑張ってたよ。練習がつらくて辞めたいと思ったこともあったけど、ママは厳しくてそんなこと言えなかったから。今は練習しなさいっていわれないのはほっとする。でも、ママが悲しんでるのはやっぱりやだな。なにかママが喜べるようなことをしたいの。だから私手術も頑張れるよ。』って。私その場で泣いちゃいそうだった。なんとか堪えて彼女に『偉いね』って声をかけたのを覚えてる。」

おおのさんは流れ出てしまいそうな涙をこぼれないように遠くの上の方を見ていた。

「ありがとうございます。すごく勉強になりました。もう少し、ゆっくり子供たちと接して知っていこうと思います。」

まだ暖かい紅茶をいただいて、私は再度お礼を言って病棟を後にした。

帰り支度をして駐車場に向かうと、地面はうっすらと雪が積もっていた。澄んだ空気の中、深黒の夜空に一つ一つの星がそれぞれの輪郭が分かるほどしっかりした明るさで輝いていた。


 小児科での勤務も一週間が過ぎ、なんとなく私は5-2病棟にいる事が多くなった。岸際と滝澤に病棟で会うことはあまりない。他の病棟かひかえしつにずっとこもっているのだろうか。

レクリエーションルームに行くと、今日も子ども達はそれぞれ楽しそうに遊んでいる。岸際と滝澤も子ども達の相手をしていた。いつもと違うのは小児科志望組の田中智恵美がいた事だ。彼女は1人の男の子の担当らしく、点滴の中に薬を入れに来る時間で来ているようだ。

知恵美はこちらの視線に気が付いたのか、またあのちらっと見てプイッとする不可解な行動を取っていた。まあ、好きにして下さいよと思っていたところに、丸刈りの翔くんが私の白衣を引っ張った。

「なっちゃん先生。これ、プレゼント。」

渡されたのは可愛い黄色いヒヨコの飾りのついた髪ゴムだった。

「先生、可愛いから似合うと思うよ。」

と翔くんは少し赤くなって言った。遠くから岸際が吹き出しそうになってこちらを見ている。そりゃそうだ。逆立ちしてもこんなに可愛いらしいものは私には似合いそうにない。

「可愛いねー。どうしたの、これ。先生もらっちゃっていいのかな?」

私は無難に返事をした。

「あげる!」

とお礼を言う前に、そう言って走ってみんなのところに戻っていった。ふわふわの手触りの良い愛らしいヒヨコ。私は名札に縛ってつけた。なんとなく視線のする方を振り返ると、智恵美がこちらを睨んでいた。何か気に触ることをした覚えもないので、気にしないことにして、レクリエーションルームを後にした。

翔くんの病棟も5-2病棟だ。急性リンパ性白血病。もう7ヶ月も入院しているが、治療は成功してもうすぐ退院だという。ご両親は小学校への入学ができることを期待している。短髪なのも抗がん剤の影響だと後になって知った。


 光の降り注ぐレクリエーションルームとは異なり、病室は少し薄暗い。冬の天気の影響もあるが、特に今日は電気をつけないと字も読みにくいくらいだ。

蛍光灯の下、ベッドの上で本を読んでいる女の子がいた。肌が透き通るように白く、大きな目としっとりとした睫毛、まるで陶器でできた人形のようだ。部屋の入り口に近づくと、こちらに気づいて声をかけてきた。

「先生、翔のお気に入りの先生でしょ。」

綺麗すぎてとっつきにくいかと思ったが、案外人懐っこいようだ。

「翔くんと仲良しなのかな? どうしてそう思うの?」

私はベッドの前まで寄っていって話かけた。ベッドには『神田美夜かんだみや 9歳』とあった。あの子だ。

「翔が退院前に大好きな人にプレゼントしたいと言っていて、何がいいか相談されたの。てっきり同年代の子かと思ってヒヨコの髪飾りを提案したから。先生の名札についているヤツ。先生とは思わなかったわ。」

美夜は笑いながらいった。笑顔には全く曇りがなく、清々しいくらいだ。

「先生はなんでお医者さんになったの?」

彼女は話を続けてきた。私が医者になった理由・・・。私が医者になった理由は、自分が生きる価値を見つけることができなかったからだ。そんなことは病院にいる子供達に正直に話すべきではないと思った。

「いろんな先生それぞれに理由があるよね。他の先生にも聞いてみた?」

私はちょっと探り入れてみた。

「うん。スポーツが好きで、怪我をした人を助けたいとか。家族が病気だったからとか。成績が良かったからとか。美夜も自分の病気を先生たちはどんどん治療してくれるから、お医者さんになりたいなって思うんだけど、片足じゃ無理かな。」

冗談半分なのか、本気なのか、ちょっと戯けるように彼女は言った。

「車椅子に乗っていてもお医者さんになった人はいるよ。大変だとは思うけど。私はね、中学、高校と心の病気で学校になかなか行けないことがあったんだよね。でもね、そこで周りの人にたくさん助けてもらってね。なんとか卒業したし、病気も少しずつよくなった。だから自分も人を助けてあげられたらいいなと思ってお医者さんになったよ。幸い成績は悪くなかったし。」

私がそう話していると、彼女の大きな目から涙がこぼれてきた。私はさっとベッドのカーテンを閉めた。

「どうしたの?」

私は一言だけ聞いて、彼女の返答を待った。カーテンの外にはまだ他の子供たちは戻ってきていないのか、静かだった。窓ガラスにポツポツと雨の当たる音が聞こえる。

「先生。私生きていけるかな。全然、死ぬのが怖いとかはないんだけど、辛いんだよね。お母さんとお父さんにごめんなさいって。普通じゃなくてごめんなさいって。喜んでるお母さんが好きだったからバレエも頑張ってきたけど、私ちっともバレエ好きじゃなかった。最近はお母さんがいつも泣いてばっかりいるから、私は元気でいなきゃいけないと思っちゃって、全然平気な顔して、笑わせようとしたり。時々馬鹿みたいって思っちゃう。自分なんか生まれなきゃ良かったのにって。」

透き通るような肌はピンク色に染まり、そこに涙が次々に流れ落ちる。

小学生の頃の自分と重なる。どんなに成績が良くても、スポーツが出来ても喜んでいる顔はなかなか見られなかった。頑張っても頑張っても評価されない。愛されていないと思った自分。自分は存在しない方がいいのではないかと思ったあの頃。でもこの子は私とは違う。美夜は両親に愛されている。

「美夜ちゃん、頑張りすぎちゃったんだね。先生もおんなじ事を小学生の時に思ったのを覚えているな。でも美夜ちゃん、お母さんは美夜ちゃんのことが大好きで、心配だから泣いちゃうんだよ。ずっと美夜ちゃんのこと見てきたんだから。あまりにも美夜ちゃんがお利口さんすぎるのも可哀想になちゃうんだと思うよ。だからもっとわがままになったらいい。本音で、私だって辛いのに、ママばっかり泣かないでよ!ぐらい言ってもいいと思うよ。親はきっと子供に困らされて初めて大人になれるんだと思うよ。美夜ちゃんが出来すぎていて、ママはまだ大人になりきれてないんだね、きっと。もっとママを困らせちゃえ〜。」

私はあまり深刻になりすぎないように、笑顔で話した。

 美夜は驚いたように赤くなった目をまん丸にして固まった後、クスクスと笑った。キラキラと輝くその笑顔からは、心の中に光を見つけたことがはっきりとわかった。

「先生、面白い。なんかスッキリしちゃった。」

美夜の言葉を聞いて、私もほっとした。さんは、子供たちの絶望感は続かないと言っていたが、間違いではないがしっくりもこない。子供たちは子供達なりに現状を咀嚼して、絶望に打ち勝てる事を見つけ出しているのだと思う。そんな事を思っていたらカーテンの外から女性の声が聞こえた。

「美夜、寝てるの?カーテンを閉めてどうしたの?開けてもいい?」

美夜の母親のようだ。私はカーテンを開けた。美夜の母親は怪訝そうな顔でこちらを見た。

「初めまして。この病棟に今月から研修している如月と言います。」

私は丁寧に頭を下げて挨拶をした。その女性は私を頭から足の先までジロジロと見て、不機嫌な視線をこちらに向けていた。

「ママ!」

美夜が笑顔で手を伸ばした。その女性は驚くように美夜に視線を移した。

「どうしたの?すごく嬉しそうね。何かいい事あったの?」

二人の話が始まりそうだったので、私は失礼しますとその場を離れた。


病室を出ると翔くんが膨れっ面をして私を待ち構えていた。

「美夜のやつ、余計なこと言ったでしょ。」

どうやら一通り話を聞いていた様子である。何をどう子供相手に話せばいいか、私の頭の中でぐるぐるといろんな言葉が渦を巻いている。翔が先に口を開いた。

「明日退院するんだ。僕もお医者さんになるよ。そして先生をお嫁さんにする。」

ん?頭の中がさらに混乱する。どう返事をしようか話と考えているつもりが口から言葉が出ていた。

「ありがとう。でもね先生、翔くんが大人になる頃にはおばあちゃんになってるかも。」

自分の口はやはり自分のもので、意地悪だなぁと思っていたら、後ろから急に怒鳴られた。智恵美だった。

「ねぇ、ひどくない? 子供が夢を持って話しているのもわかんないわけ? だいたいなんで夏みたいな子供嫌いに・・・」

怒鳴り散らしている智恵美の白衣を翔が引っ張った。

「先生、なっちゃんのこと悪く言わないでよ。僕が勝手に好きになったんだから。僕、先生たちみんなすごいなーって、かっこいいなーって思ってるんだ。でもなっちゃん先生は特別。遊ぶの下手だけど、子供のこと好きなんだなって。」

翔は言葉は穏やかだったが、可愛い目は智恵美を睨んでいる。智恵美はしゃがんで翔に目線を合わせて言った。

「翔くん、この人仕事のことしか考えてないから。騙されちゃだめよ。」

おいおい、どっちが子供相手にとんでもないことを言っているんだよって突っ込んでやりたかったが、まずは素直な子供たちの心を濁さないことが大切であると判断し、二人の間に顔を出して話をした。

「ごめんごめん、意地悪な返答だったよね。翔くん、優しい言葉をありがとう。好きなんて言われたことなかったから、照れちゃって変なこと言ったね。翔くんがそういってくれたから先生でも頑張れる気がするよ。翔くんも元気で過ごしてね。明日の退院の時間、後で教えてね。」

そう言って私は逃げるようにナースステーションの方に戻った。逃げる理由など何もないが、智恵美と話をするのは面倒くさかった。

ナースステーションのパソコンでカルテを見ていると、おおのさんが私を呼びに来た。

「あの、神田美夜ちゃんのお母様が多分先生の事だと思うんですがなっちゃんという先生にお話しがあると言っています。お部屋を準備しましょうか。」

ちょっと困ったようなおおのさんの表情をみると、お母さんはちょっと気難しい人なのだろう。あっちもこっちも本当に面倒だと思ったが、こちらは親への対応である、慎重に行動すべきだ。立ち話では面倒な事になりそうなので、面会室を準備してもらい、そこに通しておくように指示をだした。5分でカルテをさっと見直し、間違いの無いように神田美夜の経過や治療内容を記憶に詰め込んだ。

 研修医が余計な事をするのはこの医局では許され無さそうな印象だが、これまで救急の場をみてきて、上司に確認すべき事と、その前に自分で出来る事はわきまえているつもりだ。しかも私が呼び出されたのだから2人でまず話すのは問題無いであろう。

 面談室までの廊下は相変わらず薄暗く、冷たい空気が漂っている。私は深呼吸をして面談室のドアをノックした。

 ドアを開けると髪を一つにまとめた線の細い女性が座っていた。ドアが開くのに気付き、こちらを振り向いた。色が白くて美しく、美夜によく似ていた。

「先ほどは失礼しました。」

彼女はすっと立ち上がって挨拶をした。ついさっきは大きな不信感を体中にまとい、娘を守るべくその雰囲気でまるごと覆い尽くしていた人とはまるで別人だ。

「いえいえ、こちらこそ簡単な挨拶だけで失礼しました。何かお話しがあるようなので、個室を準備させていただきました。どうかしましたか?」

私はフラットな余計な感情は出さずにたずねた。

彼女は真っ直ぐとこちらを見て話し出した。

「お忙しいのにすみません。ただお礼を言いたいのと、先生の意見もお伺いしたくて。」

そういう彼女の声は震えていた。

「美夜ちゃんのお母さん、どうぞお掛けください。ちょっとゆっくりお話ししましょうか。」

私は彼女に椅子に座るように促した。彼女が椅子に腰掛ける一つ一つの仕草が、踊るようにかろやかでまるでミュージカルのワンシーンの様だった。私も彼女の正面に座ると、彼女は続けて話を始めた。

「美夜の・・・美夜のあんな笑顔は初めて見ました。いえ、赤ちゃんの時はそうやって笑っていたのでしょうが、物心がついてからはいつも曇ったような笑顔でした。容姿も環境も、経済的にも恵まれているのに幸せでないわけは無いと私は思っていましたから、作ったような笑顔なのは顔立ちが美しいからそう見えるだけかと思っていました。」

彼女の頬に涙が流れ落ちた。

私は彼女が出来るだけ落ち着けるように、優しい表情を作って頷きながら話を聞いていた。涙は次々とこぼれ落ちてくる。長い睫毛は漆黒に美しく艶めいている。彼女はすみませんというようにンカチを取り出し、涙を拭いてまた話し出した。

「病気になってからも、手術をしてからも彼女の様子は大きく変わりが無く、いつも変わらない能面の様な笑顔でした。その姿を見ていると、心の病気もあるのではないかと思い、本当にかわいそうで、悲しくて。彼女は外に心を開くことなくこのままを過ごしていくのかと思い、精神科に相談しようと考えていたところでした。」

「そうでしたか。」

私は、聞いていますという意味で相槌を打った。

「でも今日初めて彼女は私に本当の事を話してくれたんです。辛かったって、自分の好きなことをしたかったって。泣きながら話してくれました。彼女が泣いたのを見るのも初めてでした。本当に、母親失格ですよね。それなのに、先生にあんな態度で接して本当にすみませんでした。」

美夜がお母さんに素直になれたことに私は心底嬉しかった。本当に心を閉ざす前に心を外に解き放つことができて。私は出来なかった・・・。

「構いませんよ。親が子供を守る態度を示すのは当然のことですから、よくわかっています。失礼なんて全く思っていませんでした。むしろ、私が担当でもないのに勝手に話をしていたのですから、ご両親が心配しても仕方がないと思っていましたよ。美夜ちゃんとお母様がお話しできる様になったと伺い、私も安心しました。」

私がそう言った時、彼女は母親らしい優しい笑顔をしていた。

「本当にありがとうございます。やっと私も自分がどうすれば良いかわかった気がします。美夜の治療も、可能性のあることを本人とも相談しながら進んでいきたいと思います。」

 その言葉を聞いて、私の胸の中で渦を巻いていた灰色の雲から晴れ間がのぞいてきているように感じた。私が介入してきたことが、ただの好奇心ではなく役になってたことで、自分の行動への正当性が示されたからだろうか。それともこの親子の間が埋まったことが嬉しかったのだろうか。

私は美夜の母親に挨拶をして、面談室を出た。

ナースステーションに戻ると、おおのさんが心配そうに話しかけてきた。

「先生、大丈夫でしたか?」

「いいお話ができましたよ。つないでくれてありがとう。」

私が笑顔で答えると、おおのさんは不思議そうな顔をしていた。

ホワイトボードに目をやると、明日の退院予定患者のところに翔の名前があった。それぞれ、皆ちゃんと自分の行くべき光を見つけて向かっていく。私はそう思った。






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