第3話 奇跡は起きる

ミーン、ミーン、ジー、ジー・・・

騒々しい音と、ギラギラ照りつける日差し。周りは緑というよりもはや山の中だ。網戸には時折、クワガタなどが挟まって出られなくなっていたりする。

背後には小高い山が生い茂っており、田舎の臨海学校のような場所にある病院に私はいた。

神奈川県の海沿いにある湘南大学の附属病院で300床の中規模の病院。屋上の職員食堂からは海岸線が見え、昼時などはあざやかな空と海の青にまるでリゾート地にいるようだ。

しかも比較的大きな病院にしては慢性期医療病院であるため、緊急などの処置はできないことから救急医療も2次救急まで、要するに緊急手術や命に関わるような症例は受けられない病院ということになっている。


ずっと救急ばかりを見てきたので、慢性期の疾患や患者さんの勉強もしたいと思ってこの病院を研修カリキュラムに選択した・・・といえば聞こえがいいが、忙しすぎる毎日に疲れていたので少しのんびりしたい気分もあった。


「如月先生が来てから救急多いよね。」

と一緒に昼食をとっていた内科部長の小澤先生がニコニコしながら言った。大学病院本院で循環器内科に所属していたとのことだが、数年この病院にいたせいか、本当に穏やかでゆったりした空気が彼の周りを包んでいた。

「え?これまではそんなことなかったんですか?」

私は聞いた。

「周りに大きな病院がないから、時々重症患者も運ばれてきてたきてたけど、こんなに来なかったかな。特に心肺停止はこの1ヶ月で2件あったよね。まあ、今年が暑すぎるのもあるかもしれないけど。」 

ふぉっ ふぉっ ふぉっと漫画やドラマで出てきそうな笑いをしている。久々の救急が嬉しいのか、若い医師がたくさん経験が積めるのが嬉しいのか、私にはわからなかった。

せっかくゆっくりできるところでトレーニングできると思っていたが、救急から縁は切れない星の下にいるらしい。諦め半分でぼんやりと考えていた。


夕方の5時過ぎ、スマホが鳴った。壮太からだ。蒼井壮太、3歳年下の幼なじみであり、同じ大学の後輩でもあった。今は私の恋人の立場に位置している。近くに住んでいたわけではないが、親同士が仲がよく、集まってはBBQをしたり、スキーに出かけたりしていていつも一緒に遊んでいた。そんな壮太が同じ大学に来るとは思っていなかった。

「なっちゃんさ、今日は時間通り帰れるんでしょ。迎えに行くからどこかご飯食べに行こうよ。そっちの方、海綺麗じゃない。」

そう、ここにきてからは大体定刻通りに帰ることができる。本院にいた頃は夜9時前に病院を出られることはなかった。

「あー、いいかもね。」

私は返事をした。そんな自分の返事に後悔することが多い。なんでもっと気の利いた返事ができないのかと。壮太はいつも優しい。一方で私はいつもこんな感じだ。

壮太といると癒される。どんなに疲れていても壮太に会うとホッとして帰る場所だと実感する。ただこれが恋人に対する気持ちなのかはわからない。ドキドキも不安も何もなく、そこには何を言葉にしなくても理解してもらえる安心な場所。

壮太はどう思っているのだろうか。壮太は私と同じところに来るために、医学部受験も相当頑張ったに違いない。壮太は試験のたびに追試を受けているのを私は知っている。


病院の正面玄関を出るとコバルトブルーのビートルが停まっていた。可愛いフォルム、深くて柔らかい青色、壮太にイメージにぴったりだと思う。壮太が運転席から出てきて、助手席のドアを開けてくれる。日本人離れしたマナーは父親がイギリス帰りだからだろうか。行く場所に分けて自分のビートルか親のベンツやBMWで迎えに来る。でも私は自分のクリムゾンレッドのプリウスが好きだ。プリウスなのに看護師さん達は「先生の赤いアルファロメオ、カッコいいですよね。」と言っている。先入観というのは見たものさえ違って見えるのだろう。

窓を開け、潮風を感じながら海辺の道路を走る。ビートルの乗り心地は悪いと私が言っても、壮太は嬉しそうに笑っている。

夕方の柔らかい光が海に反射してキラキラと輝いていた。


「着いたよ。」 

海沿いにテラスのある、小さいが小洒落た一軒家の前。

一軒家の後ろにはピンクから紫色にそまる夕焼けが水平線をうつしだしていた。

「ここ、お店なの?」

私は聞いた。

「看板ないんだけどさ、フレンチレストランなんだよ。親と前に来て、なっちゃんといつか来たいなって思ってたんだ。研修病院がちょうどよく近いみたいだったから予約したんだ。」

得意げというか、誇らしげというかなんとも嬉しそうである。投げたボールをくわえて持ってきたしっぽを振る犬のように見える。

久しぶりにゆっくりできた夜だった。


日曜日、朝からよく晴れていて海岸沿いの道路に車を走らせているだけでも気持ちが良い。朝の海は静かに青空をそのまま映し出していた。出勤だがドライブ気分なのは壮太が運転しているからかもしれない。私の車は病院の駐車場に置きっぱなしなので、送ってもらったのだ。病院の入り口前でおろしてもらう。壮太が出てきてドアを開ける前にさっさと自分で車をおりた。

バタンとドアを閉め、「じゃ、」というサインのように右手を軽く頭の横にだし、よく見もせずに医局に向かった。もう少しちゃんとお礼を言ったり気持ちを伝えればいいのに、と少し後悔する。壮太はきっといってらっしゃーいと笑顔で見送っているのだろう。


休日の朝の医局。いつもにも増して蝉の声が響いている。医局の黒板には『日当直 池田拓哉』と指導医の名前が記載されているが姿はない。当直室でのんびりしているのだろう。確か、整形外科の講師だ。


蝉の声がなければ、耳鳴りがしそうなほど広くて静かな医局で、退院した患者の書類や来週入院してくる患者の資料をまとめていた。ふと顔を上げると窓の向こうには深い緑が広がっている。周囲は山に囲まれ、大きな道路もない。私はそんな自然以外の音のないところで仕事をするのが好きだった。

私が物書きをしているせいか、一年目の研修医も話しかけずに静かに教科書などを眺めている。時々ちらりとこちらを見ている様子もうかがえる。

医者の世界は暗黙の封建社会だ。研修医、特に1年目は自分の勝手に行動することを許されていない。あくまでも暗黙の、だが。

「病院一回り、回診しようか。神経内科と脳神経外科よろしくね。問題やわかんないことがあったら連絡して。あ、点滴入らないとかは自力でどうしても無理なら呼んでいいよ。」 

「ありがとうございます!。」

元気のいい初々しい声が響く。たった一年前。なのに、もうずっと昔のように思われる。一年目の自分はどんなだっただろうか。


朝なのに、廊下からは強い日差しが照りつけている。外から目を打ちに向けると、視界が暗緑色になるほどだ。冷房の効いた廊下から内科病棟へ向かう。6床室の扉を開けると湿った南国のような空気が押し寄せてきた。

「なっちゃん先生。おはようさん。」

白髪で少し痩せ型の『おじいちゃん』という感じがぴったりな男性がいつものように話しかけてきた。この部屋は呼吸器内科、消化器内科の高齢の男性患者が揃っていた。南国のような空気のせいかなんだかみんなバカンスのようにのんびりした雰囲気だ。

「おはようございます。この部屋暑くないですか?」

私はきいた。

「年寄りはさぁ、冷房が苦手なんだよ。冷えて風邪ひいちまう、なぁ」

と周囲の患者に向かっていうと、他の5人も皆うんうんと頷いている。まあ、皆が良いならいいか、と思う。

「なっちゃん先生さぁ、美人なのにいつも眉間に皺を寄せていると、シワが取れなくなるよ。」

と胃がん術後の竹林さんが、微笑みながら言った。周囲も温かい目でうんうんと話を聞いている。きっとこの人たちにとって私は孫のように見えるのだろう。ありがたく言葉を受け取ることにした。

「この病室は楽しくていいですね。」

私は笑いながら、次の病室へ移動した。この病室の人たちは数週間で退院する。しかしこの病院には数年入院している患者も少なくない。


病棟を回っているとジリイィジリイィと酷い音が私のポケットから鳴り響いた。救急のピッチの音。「朝からかぁ」とげんなりする。今日はこの病院が地域の2次救急当番だ。

「なっちゃん、よく引くよね。明日は静かだといいね。」

壮太が昨日言っていた言葉からの期待は、朝一番に覆される。

ピッチを受けると、こちらが名前を言う前に

「先生、心肺停止が2件きます!」

「2件?同時に?」

というとこちらの疑問を察して続けて説明してくれた。湘南でマラソン大会が行われており、この気温で熱中症で倒れる人が何人も出たとのこと。その中で重症な人が当院に運ばれることになったらしい。しかしこちらも医師は一人、後期研修医一人、看護師1人、あと2人は超新人だ。そんな言い訳を聞いてもらえるわけもなく、あの慣れ親しんだ音が近づいてくる。私の足はすでに救急外来に向かっていた。

こんな猛暑日にマラソン大会なんで、この結果は予測できるものでしょうよ、と心の中でつぶやいていると後ろの階段からから嵐のような足音が降ってきた。

「おい!聞いたか!CPA(心肺停止)が二人来るぞ! 俺、整形だから何か期待するなよー。お前、確か救命回ってきてるよな?一人見ろ。俺はピヨピヨ達と一緒にもう一人を見るから!」

と走って救命室に向かっていった。

「研修医に心停止一人任さないでくださいよ!」

と半分冗談、半分本気で返事をする。確かにね・・・私にもう一人ピヨピヨつけられてもかえって足手纏いだ。

「先生、優秀ナースは私につけてくださいねー。」

と大きな声で言った。


救急室の冷房を最強にし、扇風機を用意させた。氷嚢を準備しているところに2台の救急車が続いて到着し、ストレッチャーにそれぞれ患者を乗せて入ってきた。

「一人はそっちの診察室、もう一人はこっちにお願いします。話はそれからそれぞれの医師が聞きますから。」

とショートカットのスレンダーな看護師が気の利いた対応をしてくれた。竹内 加奈、昨年まで大学本院の救命にいた看護師だからか、動きに無駄がない。救急要請から病院到着まで8分も経っていないらしい。助かる可能性は十分にある。

「竹内さん、こっちをみよう。あっちは3人いるからさ。モニターつけて。あ、消防士さん、報告しながらでいいからしばらく残って心臓マッサージ手伝ってくれるかな。」

本来、消防士は報告が終わったら速やかに帰らせてあげないといけないのだが、人手が足りない。一人ずつならなんとかなるが、同時に二人を受け入れるほど、この病院に余力はない。

「了解しました!」

と若手消防士はすぐに返事をしたが、上司と思われる消防士はいい顔をしなかった。


よく日に焼けた小柄で引き締まった体の男性、確か65歳だと言っていた。ストレッチャーからベッドに移す。持ち上げた足は真夏に校庭で触った熱せられた鉄棒のようだった。服をハサミで切り、体を冷やしながら心肺蘇生を継続した。血管確保を行なっていたところでキンコンキンコンと大きな音でモニターが鳴り響いた。暗闇の中に一筋の明かりが見えた気がした。『心室頻拍』いい脈ではないにしろ、心臓から刺激が出ているのだ。考えることなく体は動く。気づいたら電気的除細動をセットし

「クリアー!」

と叫んでいた。

さっとみな患者から手を離す。電気的ショックが入った。心電図モニターがシーンと平な線を映し出す。皆、呼吸をするのも忘れるくらいの注目の中、モニターからピッピッピッと規則正しい音が続いた。わあっと歓声が上がった。

「挿管準備、人工呼吸器持ってきて!」

返事が遠くなりながら、竹内が走っていった。

人工呼吸器に乗せ、落ち着いたところで振り向くと、まだそこには救急隊員が立ってずっとこちらを見ていた。

「救急隊員さん、手伝いありがとうございました。いなかったら助けられなかったと思いますよ。」

と私は心からお礼を言った。

上司の救急隊員さんも目頭を熱くしていた。二人はしっかりと頭をさげ救急車に戻っていった。時計を確認すると、患者が到着してから10分しか経過していなかった。


一通り落ち着いたので隣の診察室を覗くと、患者の周りに妻、息子と思われる人が、患者のそばで泣きながらベッドのそばに立っている。ベッドの対側には池田先生が立ち神妙な空気が漂っている。恐らく死亡確認の最中なのだろう。診察室を通り過ぎ、受付近くに行くと一人の初老の女性が何かを探すように立っていた。目立たない程度紫色に白髪を染めた、上品な印象だ。さっきの一連の作業で汗だくボサボサの私は話しかけるのを躊躇ったが、周りにあまりにも人がいないので仕方がない。

「何かお困りでしょうか。」

疲れていたがいつもの作り笑顔で言った。

「あの、わたくし高野と申します。主人がマラソン中に倒れて、救急車でこちらに運ばれたとうかがって参ったのですが。」

状況を詳しく知らないのか、とても落ち着いた様子である。どう説明するかを考えていると、彼女は私の考えていることが見えているかのように付け加えた。

「あの・・・心臓が止まっているとも聞いたので・・・。何が起こったとしても大丈夫ですから会うことはできますでしょうか?」

そう話をする彼女はなんだかさっき来た患者と同じ空気を纏っている感じがした。


「ご案内します。私は救急で担当していた如月と申します。ご主人は一命を取り留めましたが、意識が戻ってくるかはまだわかりません。」私のその言葉にも、彼女は驚くこともせず、ただ安心したように

「助かったんですね。」

とこぼれるように言った。

人工呼吸器につながり、麻酔下で深く眠っている夫を見て、その女性は涙を浮かべていた。悲しそうではなく、「生きていてよかった。」という言葉が伝わってきそうな笑顔だった。

心肺停止から心拍再開までの時間は10分程度、その間心肺蘇生は行われていたとすると、意識の回復する可能性は低くはないが、これまで通り動いたり、会話ができ可能性は非常に低い。


「如月先生〜。1人でお疲れさん。」

死亡確認を終えた池田先生が私を呼んだ。人が死んだ後とは思えないほどすがすがしい、一仕事終えた感でいっぱいの整形外科医。頼りにしているわけでもないが、一応指導者なので相談しなくてはならない。期待せずに私は報告をした。

「先生、お疲れ様でした。私の方の患者さんは蘇生して、人工呼吸器にのせときました。でも蘇生後脳症とかどうでしょうかね。心拍再開までは10分くらいしか立ってませんけど。」 

「えらい!よくやったな。今後も任せたよ。明日には内科や救急担当もくるからさ、それまではムンテラ(家族への説明)もおまえに任せた!ついでに1年目にも色々教えてやってね。人工呼吸器とか。オレ、もう忘れちゃったからさ。」

と池田先生は仕事をぜんぶまるなげにして当直室へ戻っていった。

研修医達は困ったように申し訳なさそうにそこに立っている。そう、こちらが普通の反応だと思う。目の前で人が死んだのだから・・・。

「疲れた? 目の前で起こったことをまとめてきたら良いよ。時間経過も含めて。何が問題で起こったか、どうしたら良いかなど、予防も含めてレポート作ってみてよ。あと、何か勉強になりそうなことがあったら呼ぶから休んでていいよ。」

「ありがとうございます。」

余程疲労したのだろうか二人は泣きそうなくらい嬉しそうな顔で返事をした。

外からギラギラと照りつける太陽と、室内の冷房とのギャップが不思議と調和を保っている。


夕方、また壮太から電話がかかってきた。

「どう?今日は忙しかった?」

優しい、どちらかというと幼い感じの穏やかな声。タンポポの花が壮太のイメージにはぴったりだと思う。私は当直室から今日の出来事をは話した。

「よかったね、助かって!なっちゃんやっぱり凄いね。」

壮太の言葉からはお世辞でも無く、心の底からそう思っていることが伝わってくる。

けれど、その言葉を聞きながらとの胸の中は一層どんよりと灰色に曇っていく。何かに地面の下から引きずり込まれるような、そんな気さえした。

「どうしたの?」

と電話の向こうで心配そうに壮太が聞いてきた。

「いや、本当に助かってよかったのかなったてさ、思うんだよ。蘇生後脳症で話すことも出来ない、動く事もできないかもしれない。それでも奥さんは喜べるのかなって。あれを一生介護をするのは大変だよ。」

私は思ったことを口に出していた。

「そんなのよかったに決まってるじゃん。僕はなっちゃんに何かあっても、生きていてくれたらそれだけで良かったと思うよ。」

間髪入れずに、壮太が言った。私には想像すらできない、希望に満ちた言葉。彼の周りは太陽のような光に包まれている。彼の心は健全だとおもった。


夕方、全病棟を一回りした。一度酔っ払いが自転車から転んだと夜9時ごろに処置をしたが、その後は呼ばれなかったので医局で書類仕事をした。

いつの間に寝たのだろう。朝、スズメの鳴く声で目が覚めた。私は医局のソファで寝てしまったらしい。結局あの後は静かな当直だったようだ。顔を洗ってICU(集中治療室)に向かった。6床あるベッドの一つに『高野 勝 65歳 蘇生後』と名札が下がっていた。あとは綺麗なシーツのベッドだけである。昔は救急もしっかり見ていたこの病院のICUは今は術後の患者さんが一晩様子を見る程度だ。以前はここも沢山の重症患者で埋まっていたのだろう。

窓の外はすでに日中のような日差しである。それでも朝早いからか、外からの風が心地よい。

昨日の今日が嘘のように、高野さんのレントゲンの肺野は綺麗で、人工呼吸器もすぐに外れそうな雰囲気である。

「先生、ベッド一般の個室にうつしませんか?1人のためにICU開けとくの大変なんで。」

ナースの竹内が話しかけてきた。

「昨日はお疲れ様ね。状態良いみたいだから移そうか。竹内さんがよく見ててくれて助かったよ。ありがとね。」

私は竹内の夜中の管理が良かったことを患者の病態から理解した。

「女医さんがみんな先生みたいだったら良いのにね。でも先生男の先生みたいよね。」

と笑いながら転棟の準備をしに行った。女医と看護師は今ひとつ上手くいかないことが多い。男みたい・・・か。確かに私は看護師にいつもよくしてもらっている。

苦笑いをしながらICUを出ると、高野さんの奥さんが立っていた。

「あの・・・。主人の具合はいかがでしょうか。」

昨日とかわらず、落ち着いた、穏やかな、不安を全く感じさせない空気を彼女はまとっていた。薄暗いお堂の中で鈍く神々しく輝くお釈迦様のように見えた。

ちょうど良いので私は彼女を家族室へ呼び、経過や今後の予測されることなどを一通り説明した。彼女は柔らかい表情で一つ一つうなずきながら話を聞いていた。


月曜朝のミーティングで医局に内科医師があつまったと言っても指導医5人に研修医4人、後期研修医の私の合計10人。研修医はまとめたレポートを

「38歳男性、昨日のマラソン大会で熱中症で運ばれ、心肺停止でした。蘇生を試みましたが死亡しました。」

あまりにもニュースのような報告で、私はこけそうになった。指導医はみな温かいまなざしを送り、一つ一つ丁寧に教えている。ポカポカと春のようなのんびりした医局。嫌いではないがあまりに穏やかすぎて私の居場所はないように思えた。続いて私が申し送りをした。先ほどの反応とは全くことなり、指導医の先生方はフンフンとうなずきながら何か納得している。

「如月先生、1人で大丈夫そうだから後も主治医とお願いしてもいいかな。」

と小澤先生が言った。

「了解しました。」

とだけ返事をした。部長に言われたら仕方がない。後期研修医なのに全てを任せてもらえるというのは光栄だとも言えるだろう。この頃から、私は自分が研修医であり、トレーニング中であるという甘い考えを捨てるようになった。


ゆっくりと流れる時間の中で、自分だけが違うスピードで過ごしているような気がする。一通りの仕事を終え、病院の玄関にいくと、いつから待っていたのだろうか、壮太が手を振っていた。柴犬の忠犬ハチ公が頭に浮かび、なんだかおかしくてわらってしまった。胸の中でピンっと張っていたいとが緩んでいく。こんなに居心地の良い場所は自分の育った家の中にもなかったように思う。

壮太の家に行ったのまでは覚えているが、目が覚めたのは夜の0時前だった。

リビングでは壮太がテレビを見ていた。

「あれ起きちゃった?帰ってきた瞬間にソファに倒れたから、せっかくベッドに移動したのに。ちゃんとお化粧も落としておいたよ。化粧したまま寝ると肌荒れるっていつも言ってるから。」

と笑った。確かに、汗でぐちゃぐちゃになった化粧の顔は綺麗に拭き取られ、さっぱりとした感触だった。

「サンキュー。シャワー借りるね。」

私がお風呂に向かうと、壮太はテレビを消して寝室へ行った。


朝、高野の奥さんはいつも同じ時間にやってきた。毎日毎日、そばに座っては本を読んであげたり、話をしたりして二人の時間を楽しんでいるように見えた。

個室に差し込む光は何故か彼女の周りだけが柔らかい。

意識がもどり人工呼吸器が外れ、高野は彼女をじっと見るようになった。2人のまわりはほんわりとした穏やかな明るい光が包み込んでいる様に見える。映画のワンシーンのような美しい光景がここには広がっていた。

彼女の充分以上の手当に答えるように、高野の病態はみるみる改善していった。2週間目にして彼は言葉を発するようになったのである。

「高野さん、調子いいですね。どうですか?食事もできそうですかね。」

私は経口での食事が可能の時期を探っていた。ミーンミーンと蝉の音が響く。

「うーうーうー」

と高野の発語は言葉にはなっていなかったが、彼の目にはしっかりした意思表示があるのは理解できた。

「大丈夫ですって言っているみたいですよ。先生」

ふふふと微笑むように高野の妻が答えた。食事を始めることを妻は心待ちにしていたと嬉しそうに言った。このように心から喜んでいる人に、水を差すようなことをいわなければならないのが、いつも私の心を閉じさせる。単純に喜ぶことを許されないのが、医師の定めだ。

「食事ができるようになるのは、改善の兆しですばらしいことですが、そこには誤嚥などのリスクがあるのを理解してください。でも奥様は毎日みていらっしゃるのでこちらも安心していろいろ進めることができます。」

とできるだけ前向きに説明した。

「はい。何があっても大丈夫です。いつも気を使ってくださてありがとうございますね。ね、あなたもこの病院に運ばれてよかったわね。」

「あうー。」

と表情の出ない顔だが、優しい目で高野は返事をした。


毎日新しい患者が次々と入院しては治療をし、退院をする。この仕事をこなしながらも私は高野の経過から気持ちを離すことができなかった。次々と新しい作品が出版されるように経過が待ちどおしくてしかたなかった。毎日の私と壮太の会話もこのことばかりで、壮太はまるで自分が高野の治療に加わっているように感じたに違いない。

時が流れるのを感じさせないほど、信じられないくらいの回復力で、高野は車いすから立ち上り、歩行器を使って歩くリハビリまで進んだ。会話はうー、あーなどの発語のみだがこの夫婦には十分だった。


40度を超えるような暑さの中で運ばれてきた高野が退院したのは、木々が少しずつ色づき始めたころだった。

「先生、ありがとうございます。初めてお会いした時から、私奇跡だと思いました。先生が私に主人が生きていることを伝えられた時、私は一緒に運ばれた方がお亡くなりなられたのがわかりましたから。覚悟していたんです。だから生きていることだけで奇跡だと思いました。それがこんな風に自分の足で歩くことができるようになるなんて、人間の可能性ってすばらしいものですね。」

高野の妻は、穏やかな優しい笑顔で私に言った。いつもよりずっと神々しく見える彼女の姿。また高野の力強いまなざし。この夫婦はどんなふうに出合って、どんなふうに暮らしてきたのだろうか。そとからは涼しい、柔らかなひかりが次の人生へと向かう二人を送り出しているように包み込んでいた。


「なっちゃん、今日は時間通りに帰れるの?」

壮太からの変わらない電話。彼はきっと高野夫妻と同じ人種のように思える。明るく、穏やかで、あたたかな空気があふれる世界。私はまったく別のところにいる。暗く冷たい深い穴の中のような、ただいつも一筋の光にすがりついているような場所。このまま彼と一緒にいることは彼の人生を幸せではないものにするのではないかという不安に駆られた。

「どうしたの? また玄関でまってるね。」

いつも通りの声。タンポポのような明るい笑顔。彼はキセキを起こすことのできる人間なのだと思う。私はどこかでその奇跡を待っていたのかもしれない。






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