第2話 止まった時計


「時間かかりましたね。」

研修医の久保田 輝久が口をきった。私は何もいわずに救急車をまっていた。無表情の私をみて久保田は何か言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。

真っ暗な暗闇の中、真っ赤なライトが辺りをチラチラ照らしながらこちらに近づいてくる。点のようだった灯りはあっという間に火の玉のように大きくなり、わずかに聞こえていたサイレンはすぐそこでけたたましく響いている。

冷たい空気の中、私も含め数名のスタッフが立ち並んで待っいた。私の頭の中には40分前にきた電話の内容が映画のワンシーンのように映し出されていた。

「16歳男性、緊張性気胸疑い、バスケット部の合宿所で呼吸苦を訴えて運ばれて来た。すぐそっちへ運ぶ。」 

私は受話器を置きながら、背中に何かすっーと走るようななんとも言えない落ち着かない心地がしていた。嫌な予感は的中した。


「車に乗った後すぐに意識がなくなった。モニターをつけたときには既にアレスト(心停止)だった!」

救急車の後部扉が開くとすぐに、叫びながら白衣を着た男性がストレッチャーとともに降りてきた。中年の男性医師で全身を汗で濡らしながら心臓マッサージをしながら状態を報告し続けている。体からは熱った蒸気と汗、しかし顔は青ざめ冷や汗のようにも思える。ストレッチャーで運ばれて来た少年の胸には太めの注射針が5、6本刺さっていた。

安田隆光、当院の小児科でちょっと冷たい印象の落ち着いた先生だ。私も研修医の時に指導を受けたことがある。常にエビデンスから物事を判断できるという言葉がぴったりな人物。安田先生は当直先の小さな診療所から連絡をくれていた。レントゲンさえない、御殿場の山中にある小さな診療所だ。そういった地域の診療所は、医師が足りないので大学病院に当直医の派遣を依頼していることが多い。

「久保田、手袋はめて。トロッカー準備」

私はストレッチャーを移動させながら指示をだした。

「怖いんですよ。如月先生は」と小声でブツブツ言う久保田の声がきこえた。

『緊張性気胸』気胸は肺が何らかの傷害で胸膜内に空気が漏れる疾患で若い男性に多い。少量であれば自然に吸収されて大きなことにはならないが、漏れ続けると縦隔を圧迫し、心停止をきたす。トロッカーカテーテル(太目の先が固く鋭いカテーテル)を胸郭内に挿しこみ、空気を抜く以外に救助方法はない。しかしあの小さな診療所にそんなものがあるわけはなかった。太い注射針の直径はせいぜい1mm、トロッカーの直径は4mmで長さも全く異なる。しかし可能性のあることは何でもしたのだろう。

ストレッチャーを押しながら、頭の中で現場の情景が次々に思い浮かぶ。

「レントゲン、ポータブル! トロッカー準備できてる?」

私は周囲に声をかけながら、処置の準備をした。


救急外来のエントランスが眩しく照らされている。光の方向から二人の女性が叫びながら走り込んできた。

「光輝!!!」

「こうちゃん!!」

ストレッチャーにしがみつく。 看護婦さんが宥めながら

「ご家族はこちらへ」

と待合室へ連れていく。泣き叫ぶ声が徐々に遠のいていく、家族が遠くへ移動しているのか、私の気が遠くなっているのか、何か大切なことをしなくてはならない時、いつも同じような感覚を覚える。深く、遠く、何もない無の世界。

「みんな離れてー。」

とX線撮影をする技師の声で我に返った。 

レントゲン写真を映し出すと、皆の時間が止まった。細長く、平たく映る中心部分と左側は真っ黒な胸。

レントゲンに写った少年の心臓は縦隔内で半分以上押しつぶされていた。心臓マッサージを続けながらトロッカーを挿入したが、押されたときに僅かな空気が出てくるだけで、少年の心電図に変化はない。反対にここにいた誰もの心臓が飛び出すほど鼓動していたに違いない。手も震えるようなドクンドクンという自分の鼓動の中に、うめくような声が響いてきた。

「すまなかった。」

見たこともない安田先生だった。さっきの赤くほてったからだとは対象に真っ白になった表情は自分の手の及ばなかった何者かに支配されたように見えた。

「安田先生、あとはやっておくので少し休んで下さい。」

私がいうと、安田先生は真っ直ぐ私をみていた。何か助けを求めているような深い視線。

「わかった。ありがとう。ちょっと休ませて貰うよ。」

安田先生は視線を床に移し、処置室をしずかにでていった。


「開胸準備しますか?」 救命救急室のナース、佐々木和美が言う。28歳だが既にベテランだ。「開胸心マッサージ⁉︎」研修医達が嬉しそうに目をキラキラさせていう。救命室の雰囲気からすると救急医は時々やっている様子だ。胸を切って直接心臓を出してきて行う蘇生術・・・。

私はこのお祭り騒ぎの様な救命救急が嫌いだ。なんでもかんでも盛りに盛って治療をするこの雰囲気。

救命室の明かりが急に眩しく感じ、頭の中で何かがぐるぐると回る。落ち着かない、やるせなさのようなそんな気持ちが胸の奥に渦巻いている。

私の右手が自分の頭の重みを支える。またどこか遠くへ行ってしまいそうな感覚。

「如月先生!」頭の中にナースの声が響く。


「開胸心マッサージの適応は心停止から15分以内だよ。・・・体に傷をつけて、さらに家族を傷つける。」

私は誰に言うでもなくつぶやいた。

「でも若いじゃないですか! 助かるかもしれないんじゃないですか?!」

佐々木は訴えるように私に言った。

相手をするのが億劫になる。どう言う神経でものを言うのか。私だって助けられるなら助けたい。最後まで戦いたいのはわかる。ただ、帰ってこないものは帰ってこないのだ。私たちは神様じゃない。

「若くてこれが氷山の中で止まった心臓だったら戻ってくるかもしれない。でもね、通常の環境の中、ずっと押しつぶされて来たわけだ。ステーキ肉だって形が変わるよ。わかる?」 

ナースが悔しそうに私を睨みつける。目に涙を浮かべて患者の家族のところに向かった。

「先生、言いますね。」

久保田が、ナースを庇うように話しかけてきた。その目はちょっと不満そうだ。

「医者は神様じゃない。適応を調べておくと勉強になるよ。」

私がそう言い、振り向いたところに、安田先生がいた。


「雪女と言われる理由がわかるよ。成長したな。」

と言った。そして付け加えた。

「今回はすまんかった。」

無念さが嫌というほど伝わってくる。

何にすまなかったのか、16歳の少年に対してか、家族に対してか、自分の至らなさにか。ただ、一本のトロッカーがあるだけで救えたかもしれないのに、という悔しさ・・・。

「あの診療所ですから、これ以上のことはできません。レントゲンがなくても気胸を診断して、完璧な対処だと思いますよ。・・・田舎の夜間診療所こそもう少しものはあるべきですよね。」

自分の胸も押しつぶされるほど、不安と孤独に一人で対応した安田先生に私は心から敬意を示したかった。


処置をやめた救急室はため息さえ響き渡るほど静かだった。研修していたクリニカルクラークシップの学生達は自分とあまり歳の変わらない少年の死を目の当たりにし、青ざめた顔でじっと眺めていた。額にはじっとりと汗をかいている。

「こうちゃん、嘘でしょ?」「光輝!光輝!目を覚ましてよ!起きなさいよ!!!」 

救急室に大きな泣き喚く声が響く。まだ温かい、寝ているようなその少年に、母と姉はすがりついて叫んでいる。痛いほど伝わってくる。受け入れられない現実。若い人の死は壮絶だ。さっきまで元気でいた人が急に生きていないものになってしまう。それが愛する者ならどんな気持ちなのだろうか。同じ体験をしなければ決して理解できることではないだろう。きっとそこから自分の時間も止まってしまうだろう。考えるていると、目眩がしてきた。心をどこかで閉じなければこの仕事は続けられない。気持ちがどこかに吸い取られていく。深く、遠い遠いどこかへ。


私は安田先生と患者のそばで泣き続ける患者の家族に死亡確認を行なっている。まるで外から見ているかのようなそんな景色・・・。写真に写っているような、時間も止まっているような、そんな景色。

いつからだろうか、この感覚を感じるようになったのは。

たくさんの患者を診てきた。たくさんの患者の命を救ってきた。ほとんどの患者は自分の足で家に帰るのを送り出してきた。なのになぜ、この世をさってしまった患者だけが自分の中にずっと残っていくのだろうか。


いつの頃だろう。桜が舞っている、そんな頃だったかもしれない。私はまだ後期研修医だった。

冷たい空気の中、救命救急に向かう坂道の両側に立ち並ぶ桜の木々が灰桜色に染まる。これからもっともっと蕾を膨らませて、全てをピンク色に染めるまで後ひと月くらいであろうか。 

ぼんやりと薄紫色からピンク、空色と素晴らしいグラデーションに描かれたキャンバスは徐々に明るさを増してくる。夜明けとともに当直も明け、一晩の報告と申し送りをする。


昨日は比較的静かな夜だった。報告することも多くはなく、カンファレンスはスムーズに終了し、蜘蛛の子が散るように皆自分の仕事に散っていく。

私は後期研修医のルーティンである、回診前の患者の状態確認をしに病棟へ向かった。明け方の静かな廊下で、配膳準備するカートの音だけがカチャカチャと響く。毎日の同じ時間の、同じ作業。違うのは漂ってくる食事の香りと救急車の数か・・・。そんなことを思いながら、個室のドアをノックした。

「あ、夏先生。おはようございます。」

骨と皮だけのように痩せた、しかし目だけはキラキラと輝いている女の子、いや女性が言った。

「片岡さん、おはよう。今日は調子が良さそうだね。」

自分とそう大きくは歳が変わらないのに、ずっとずっとあどけない、純粋な表情。

「昨日はよく眠れて夢も見なかったんです。」

素晴らしい春の朝、窓から柔らかい光がさして彼女の表情が照らし出される。頬の影が痛々しい。

彼女は、もう2週間入院している。自宅で倒れているのを父親が見つけ、救急センターに運ばれてきた。片岡由美子24歳女性。まだ少女のようなあどけなさが残る。自殺未遂などではなく、栄養失調だった。

『神経性食欲不振症』。

拒食症として世の中ではダイエットのしすぎのように言われているが、この病気はそんなに単純なことでは起こらない。真面目で、優秀、完璧主義の性格、さらには母親との関係があるとも言われている。無意識の成熟拒否、ボディーイメージの障害が特徴的である。

彼女もひどく痩せて、体力も落ちているはずなのに目だけは爛々として異様なエネルギーに溢れている。

ベッドサイドには大きな時計が置いてある。置き時計にしては大きすぎる時計。

彼女の時を一刻一刻刻んでいるのだろうか。


「昨夜は少しご飯は食べられた?」

ダイレクトすぎるかとも思われたが、気を遣っても仕方がない。反応を見るようにして私は優しい笑顔のまま返事を待っていた。

「よく食べてます。ほら、こんなに元気だもの。」

溢れんばかりの笑顔だ。

空になった御膳には使用した形跡のないスプーンとお箸が置いてあった。

看護師から、食事はゴミ箱に捨てていることの報告は受けていた。

「片岡さんは、帰ったら何かやりたいこととかあるのかな?」 

なんとなく口が動いて聞いていた。

「うーん。大学も途中で辞めちゃったし。医学部失敗しちゃったから薬学部に入ったんだけど、自分には合わなかったんです。医学部、もっと頑張ったら入れたのかな。」

本心なのか、涙ぐんだようにも見える、くしゃくしゃの困ったような笑顔で由美子は言った。彼女の細い腕には頼りない一本の点滴ルートだけがつながっている。

「入れるよ。勉強だけだよ、医学部に入るのは。入ってからは体力が必要だけど。ねぇ、元気になるために少し点滴から栄養入れないかな?」

私が言った瞬間に彼女の顔が強張った。彼女が口を開こうとした瞬間に個室のドアがノックされた。

「大好きなパン屋さんのシナモンロール買ってきたぞ。」

と明るい声で小太りの優しそうな中年男性が入ってきた。救急の午前の面会時間が始まったばかりだ。この2週間、父親が毎日病室に見舞いに来くる。母親の姿は救急車で運ばれてきた時にチラッと見ただけでその後は一度も面会に来ていない様子だ。

「お父さんがいらしたから、また後でね。」

父親に挨拶をして部屋を出た。

後ろから口論のような声が聞こえた。春の温かい光が廊下の窓から広がっている。春の風そよぐ自然の音でも聞こえるかと思い、少し窓を開けてみたらいつもの音が響いてきた。

サイレンが近づいてくる。反射的に救命救急室に足が向かいそうになるが、今日は明けで、病棟当番だ。昨夜の重症患者が少なかったので、午前中時間ができた。こんなことは滅多にない。片岡由美子の主科である精神科の医師に今後のプランを確認するために救急センターの建物と病院の渡り廊下の途中にある、薄暗く鍵のかかった病棟に向かった。空気までもが重いような気がしてくる。

大学病院の精神科なんて、重症患者は入院させないのだからもっと気持ちの良い場所に病棟を作れば良いのに・・・とここを通るたびに思う。カビ臭い辛気臭い空気が漂っている。もちろん、中には外の景色が見える窓があるのだが。


暗い廊下にインターホンの音が響く。中からカチャッと鍵の開く音が聞こえる。「あら、如月先生。」

ふっくらとした大柄の看護師が顔を出した。

「稲島先生ですよね、奥にいますよ。」

余裕のある笑顔で師長は教えてくれた。

「ありがとうございます!。」としっかり挨拶をして中に入った。

オフィスチェアの背もたれに寄り掛かるように足を組み、まるで窓際で日向ぼっこをしているような白衣姿が見えた。

「よ、なっちゃん。いつも難しそうな顔してるねぇ。」

とポロシャツの上に白衣を羽織るラフな格好をした医師が私を見て行った。稲島 純也 精神科准教授。私の実家が精神科と知っているので、会うといつも勧誘をしてくる。精神科の先生は、なんだかこうのんびりしていて調子が狂う。私の父は今こそ精神科医だが、元は外科医なので精神科には似つかわしくなく、せかせかしている印象だ。

「救急病棟に入院してる片岡由美子さんのことで、今後のプランをお伺いしたくて来ました。」

私は言った。

「先生はどうしたい?」稲島先生は微笑みながら言った。いい加減な笑顔。真面目に見る気もないのではないかと、腹のそこが熱くなる。

「気力はあるんですけど、生きる目的もなくて、ボディーイメージの障害も強いので退院してもまた帰って来ちゃうと思うんですよ。特に母親は仕事に忙しいのか見舞いにも来ませんし。」

と私は自分の中の怒りを見透かされないように冗談っぽく話をした。

「その通り、いいところに気がついたね。母親がケアしてくれたら少し良くなるんじゃないかな。」

当たり前のことしか言わない。自分は動かない。そんな稲島先生が私は嫌いだった。

「先生、それってうちの科の仕事じゃないし。しかもデリケートなところなので、講師以上の医師かベテランのカウンセラーでお願いしますよ!」

言った後、本音が出てしまったことを悔やむ。親しく接してくれていても相手は准教授だ。深呼吸して気持ちを落ち着ける。

「栄養状態はもうギリギリなので、衰弱死する可能性も出てきていますので。」

私の話をふんふんと頷きながら稲島先生は聞いている。

「なっちゃん先生、やっぱり精神科センスあるよ。うちの科おいでよ。」

胸がムカムカする。循環器内科志望なのを知っていてずっとこの調子だ。

「稲島先生、患者の話してるんですけど。パワハラ委員会に報告しますよ。」無表情のままで淡々と私は答えた。

「えー。冗談だってば。じゃあ、数日中に人送るね。」

とテキトーな返事をする稲島先生に、数日中なんて遅いんだよっっ!と心の中で悪態をつきながら、

「じゃあ、よろしくお願いします。」

と丁寧に頭を下げて病棟を出た。廊下の独特の空気が頭の中を刺すように、何か血の気が引くような気分になった。疲れているのかもしれないと食堂で休憩を取ることにした。


珍しく、昼の時間通りに食事だなぁと自分で変な気分になった時、院内ピッチが鳴った。

「はい、如月です。」

電話の向こうの声はちょっと困った様子である。

「救急病棟ですけど、片岡さんが点滴を拒否するんですよ。先生からお話ししてもらえませんか?」

ため息をつきながら病棟リーダーが言った。後ろでは本人と処置をする看護師が揉めていそうな声が聞こえる。

「わかった。すぐ行きます。」

そうだ、ゆっくりなどさせてくれるわけはない・・・か。私は病棟へ向かった。


片岡由美子は採血の検査も入院後は拒否し続けている。採血したのは救急で運ばれてきた時だけだ。そのときでさえで血糖値はかなり低く、電解質異常もきたしていた。その後食事はほとんどしていない。高カロリー輸液なんてとてもさせてくれないので、なんとか末梢血管からわずかなブドウ糖と電解質の保液をしていたのだが、それもなくなれば命に直結するだろう。 救急に4部屋だけある個室の一つをノックした。

「どうぞ。」

中からハキハキとした声が聞こえる。

「こんにちは。看護師さんを困らせていると聞いたよー。」

冗談っぽく話しかけたながら、ベッドサイドに向かった。

「えー、そんなことないですよ。点滴でしょ? 私、必要ありません。」

ちょっとムッとしたような声だ。私は黙っていた。

「夏先生、話があるんです。私、自分の体にもう傷をつけたくないんです。ほら、点滴を入れたところなんてこんなに黒くなっちゃってるし、失敗するから沢山傷になってるし。」 

見せてくれた左腕にはたくさんの痣ができており、脱水で針を刺すことが難しいであろうことが予測できる。

少し開いた窓から、柔らかい風がふわっと入ってきた。その風に振り向き、由美子は遠い目で外をぼんやり眺めながら私に言った。

「先生、私植物になりたいなって思うことがあるんです。人間って存在するだけで何かしら周りに影響を与えて、傷つけるでしょ。私は誰も傷つけない植物になりたい。大きな木のようにずっと静かに周りを見て過ごしたい。」

春のほんのり暖かい空気に纏われながら彼女の言葉は私を取り囲んだ。

黙っている私を見て、由美子は付け加えるように話をする。

「死にたいわけじゃないんですよ。でもいなくなりたいと思うことはよくあるんです。・・・だからそっとしておいて下さい。私ももう成人していますから、自分で決める権利があると思うんですね。」

今度は私の目を真っ直ぐに見つめていた。私は言葉が見つからなかった。医師としては励ます、生きる道を選ぶように話をしなければならないはずなのはわかっているが、それができなかった。

「片岡さん、私はまだ研修医だからそのの話にすぐに返事をすることができないかな。だから上の先生に話を引き継ぐことにするね。」

由美子の視線を感じながら私はその部屋を出た。

冷たく肩からのしかかるような空気と闇が私の中に襲いかかってくる。自分の過去と由美子の姿が重なる。由美子の返事も聞かずに私は部屋を出た自分。抜け出せずにいる自分の奥底にある精神状態に私はまたもや鍵を閉めた。

看護師にはとりあえず彼女の言葉をそのまま伝え、私の指導医である7年上の救命救急科講師、大宮雅弘のところに向かった。大宮は元サッカー部で超体育会系だ。実際、救命救急科自体が体育会系でサッカー部OBが多い。その他にはサーフィン部OBが多いといったちょっと軽めな印象である。まあ、そんな感じなのでカッコ良いとも言われていた。

「え?そんなのダメに決まってんじゃん。救命にいるんだから、治療しないとかないわけだ。・・・でも成人してるから本人に聞かないわけにはいかないか。トラブルになりがちだから同意書もらわないといかんなぁ。お前さ、同世代なんだから片岡さんの相談にのってやれよ。話したらわかるんじゃない?まだ若いんだからさー。」

全く精神疾患を理解できない人の発言を聞きながら、命を助けるだけが救急の仕事なのか?と呆れもするが、結局は自分もその場から逃げてきたのだということに対してもやるせなさを覚えた。

同時に、自分自身も由美子と同じように自分の存在価値を見つけることのできない人間ことをはっきりと見せつけられたような気がした。医師になった理由、それは自分が何か人の助けになることができることで自分の存在価値を認めてあげたかったからだ。天井が落ちてくるような、目の前が真っ暗になるのと同時に体から力が抜け立つこともできなくなっている自分に気がついた。

「おい、お前大丈夫か?」

大宮先生の声が聞こえる。目の前が見えない・・・時々ある血圧が下がった時の症状だ。大丈夫ですと声を出したつもりだが、声は届いていないようだ。私は這うようにして、壁づたいに歩こうとしたが、目がはっきりと見えないので、何かにぶつかりそうになった。

「お前さぁ、いつもカッコつけてないで調子悪い時くらい頼れよな。」

と大宮はひょいと軽々私を拾い上げ、救急のベットに置いた。

「しばらくそこで寝てろよ。カンファまではそこから動くな。命令だ。」

そう言って大宮は部屋を出て行った。扉が閉まる音と同時に私は眠りに落ちていた。


どれくらい寝ていたのだろうか、カンファはとっくに終わって、私のベッドサイドには患者さんと同じ夕食のお膳が置かれていた。せっかくなので食事をいただくことにした。もう冷たくなっていたが、私の胃はホッとしたようだった。考えると最近まともに食事をしていなかった。

医局に戻ると大宮先生がテレビを見ていた。今日は大宮先生は当直ではないはずだ。

「よお、やっと起きたか。もう今日の仕事は終わったよ。それとお前、ここにきてから痩せただろ。飯食えよ。体力勝負だから。当直は1週間休みにしてやるから、少し体を休めろよな。」

大宮はただ、体調を気遣っただけなのか、もしく単細胞のふりをしているだけで、私から何かを察したのだろうか。私はその後、由美子の担当を外され、部屋に行くことを禁止された。


私は当直がないので個室以外の病棟管理をしていた。あれから4日、カルテを見ると片岡の状態はあまりよく無さそうである。血圧は下がり、徐脈になったり、時には頻脈になったりしている様子だ。モニターさえもつけさせてくれないので詳細な状態はわからない。

ふと外を見ると桜はちらほら咲き始めていた。


5日後に片岡由美子はICU(集中治療室)に移動したことがわかった。相当状態が悪いことがそれだけでわかる。私は病棟管理にまわされているので、ICUにもなんとなく行きづらかった。ICUのナースステーションに見たことのある小太りの中年が真っ青になって受付をしている。その手は遠目で見ても震えているのがよくわかる。片岡由美子の父親だ。その後を小綺麗なスーツを着たキャリアウーマン的な女性がついていく。私の心臓は破裂しそうなほどに鼓動し、喉が詰まるような感覚が襲ってきた。

片岡由美子が死んだ・・・そう悟った。恐る恐るICUを除くと、片岡由美子の父親がベッドに覆い被さるようにして震えている。

「お前のせいだ!」

と大きな声で女性を罵っている。女性は呆然としてただただ立ち尽くしていた。ヒールの音が一歩、そして一歩とベッドに近づくと、彼女は由美子の額、頬と撫でている。

「お前は一度だって由美子に愛していると伝えたことがあったか? 会社がどうこうって、社長がなんだってんだ!」

男性は由美子を母親から庇うようにして怒鳴った。

「由美ちゃん、ごめんね。ママが悪かった。ママが間違ってた。ごめんね。本当にごめんね。ママが悪かった。」

と流れるままの涙を拭いもせず、ただひたすら謝っていたそばには大宮先生が立っていた。ただ、黙って、3人を見守るように。


窓の外はオレンジ色の光が桜の花の隙間から漏れ、霞のようにも見える。たったの5日間、救急に接することがなかっただけで全てが夢のように見えるのは、鮮やかな夕焼けと満開の桜のせいだろうか。魂の抜けたような私の体と脳に声が届いてきた。

さっきまでお前のせいだと叫んでいた父親の声だ。謝り続けている母親の肩に手を置き、

「誰のせいでもないんだ。由美子が決めたことなんだ。」

と自分に言い聞かせるように言っていた。全てが夢のように見えた、あの日。ICUのベッドから離れた場所で見た風景。片岡由美子の顔は全く見えなかったが、微笑んでいると確信した自分。全てが現実であり、これからもたくさんあるであろう出来事。いつの間にか私の白衣は涙でずぶ濡れになっていた。




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