「——こんなところで泣くな。なんで帝国に行くんだ」

「医者になりたくて……」

「公国でもできたろ。帝国に来た結果、早速嫌な思いしてんじゃねーか」

「……公国のお医者様は、『お医者様のような人』か『医学知識のある魔術師』しかいません。『もどき』の人は薬を経験で出しますがほとんど効きません。『魔術師』は名医が多いですが、有名なのと数が少ないためもっぱら富裕層のかかりつけなのです。その魔術師ですら、軽い脳梗塞の兆しすら察知できないのです……」

 アデリーナは拳を強く握った。

「公国の人々は考えるのを止め始めているのです。『どうしてだろう』が無いのです。全て魔法が万能であり、国教の教えで人の体を切り開くことが禁じられているのが要因です。だから症状と体の異常の因果関係がわからない。——わたしはそんな、『知らなくていい』なんて嫌なのです……知らないことから目をそらしたくないのです」

「だから帝国へ?」

 アデリーナはこくりと頷いた。

「産褥熱って知ってますか? 公国では産褥熱で亡くなる妊婦さんの死亡率は十四%です。野犬に噛まれたらほとんど助かりません。他国では予防できている感染症すら脅威になります。わたしに思想は分かりません。でも、助けられる命を助けようとしない姿勢はおかしいと思います。確かに私は田舎者で野蛮人で無能力者かもしれません。——今は」

 いつの間にか、アデリーナの声は怒っていた。次第に自分が理不尽な説教を受けたことに腹が立ち、臓腑がぐらぐら煮えてきていたのだった。その奮起した様子を見ていた楠田は、この田舎から出てきた小娘の本性を見た気がしていた。

 その時、後方座席から何か重いモノが落下する音が聞こえた。

「部長!」

 男声の悲鳴が聞こえ、アデリーナと楠田は席から身を乗り出して後ろを見た。

 そこには胸を掻きむしって廊下でのたうち回る、あの酒焼けの男がいた。

 楠田の動きは速かった。食べかけの握り飯もそのままに、席を飛び出して駆け寄っていく。アデリーナもそれに続き、先ほどまで得意げに自分を罵っていた男の喘ぐ姿を見た。

「どうした?」

 楠田は単刀直入に問いかけた。酒焼けの男の連れは狼狽しきっていた。

「わ、わからん! さっきまでカードをしていたのに、突然苦しみだして……」

 男はかすれるような呼吸を繰り返していたが、満足に呼吸が出来ていない様子だった。さらに胸を押さえて痛がっている。

 楠田は無言で立ち上がって男を飛び越え、車両後部の非常ボタンを迷わず押した。

『はい、どうされました?』

「三号車で急患発生!」

『停車の必要は?』

「ない! 医者を呼べ!」

 短いやり取りでどこかと会話をした楠田は、オレンジ色の箱を携えて戻ってくる。

「それは?」

 アデリーナは、心臓のアイコンに稲妻が走っているような絵を見て尋ねた。

「AED。一応な」

『——えーただいま、三号車。三号車に急患のお客様がいらっしゃいます。ご乗車のお客様の中にお医者様、または医療関係者の方はおられませんでしょうか——』

 そのアナウンスから程なくして、頭の白い、皺の刻まれた顔が風格のある痩躯の老人が現れた。老人は内科医を名乗り、患者のむくんだ足の様子を一瞥してすぐに「肺塞栓症」と診断した。

「五時間の旅だ。おまけに太り気味だ。歩かずずっとカードをしていて水分もとらなかったのだろう? 動いた衝撃で足の血栓が肺に流れたのだな。——酒を飲んだ? お前さん、酒が水分補給になると本気で思ってるのかね?」

 型にはめたような、帝国の格式ばった発音を聞いていて、アデリーナは不謹慎にも興味が湧いてきた。帝国の医者の処置を、この目で見られるのだから。

「ドクター、処置は?」

 楠田は相変わらずの調子で尋ねたが、医師は首を振った。

「無理だな。抗凝固剤もなければ当然、器具もない」

 老医師の冷たい診断に、患者の連れはきゃんきゃんと何か訴えている。だが手段が無ければなにも出来ない。

「AEDじゃだめすか?」

 楠田の問いに老人は「心臓の問題ではない」と短く答えて考え込む。だが、もう患者の呼吸は切迫しており、唇の色も悪い。時間が無かった。

「血栓が溶かせれば良いのだ。だがそんなものは……」

 『血栓を溶かす』。

 それを聞いた時、アデリーナの脳裏に医学書の一文が呼び起こされた。血液凝固の仕組みは知っている。ならばそれを解す術式を施せばいい。それも自分はできる。

 自分はこの男を治せる。

 そこまで考えて、アデリーナの心にどす黒い感情が生まれた。

 この男を助ける価値は?

 この男を助けて感謝される可能性はない。自分の事をあそこまで酷く侮辱した男の命なんて知ったことではない。そのままのたうち回って死ねばいい、と。

 しかしアデリーナは、医学書の見開きに金文字で書いてある言葉を思い出した。


 ——我々が喜ばれる時は、人が不安に満ちている時である——


 彼女は先ほどまでの自分の考えを恥じた。

 まさに今ではないか。この男は絶望の中にいる。助けて欲しいと願っているはずだ。差し伸べられる手があるのなら差し出すべきだ!

「あ、あの!」

 場にそぐわない若い娘の声に、老医師と楠田、その場のみんながアデリーナを見た。

「わたし、溶かせます。——たぶん」

「……抗凝固剤を常備している?」

 老人の問いをアデリーナは否定した。

「いえ、その、ま、魔法で……。そういう術式があるんです」

「お嬢さん《フロイライン》。これは医術の領分だ。まじないでは……」

「まじないのつもりはありません! 帝国の医学書を読んで初歩は頭に入れています! わたしにやらせてください!」

 そういってアデリーナは、教会から餞別としてもらった、毎日読んでいる医学書を見せた。

 それは古ぼけた、二十年ほど前に出版された時代遅れの循環器の医学書だった。

「公国の田舎娘に何ができんだ! おい爺さん! はやく部長を!」

 きゃんきゃん吼える外野を尻目に、医師の目はその古書に釘付けになっていた。

「——よろしい。やってみなさい」

 老人は静かに場所をゆずり、アデリーナは促されるまま、虫の息の男の脂ぎったみぞおちに手をかざした。そして何かの真言を唱え始めた。

 アデリーナは自分が何の言葉を唱えているのか分からなかった。その言葉の意味はすでに消失しており、研究すら行われていない。

 曰く「神の言葉に触れるのは不敬」なのだそうだ。


 絶対におかしい。


 神がこの世におわすのであれば、理解出来ない道具を我々にお与えになるはずがない。神は地上に這いつくばる我々が、これらの道具を使って何をするのかを見て嗤っているのだ。絶滅かもしれないし、豊穣や富をもたらすかもしれない。

 全ては我々、下等な人間の行い次第。

 神の力はもはや神の御手を離れ、我々の手にある。ならば我々はこの力を理解し、応用し、賢くはなくとも懸命でなければならない。営みは発展的に続けられなければならない。

『天にまします御神よ。我らの勇気に笑いたまえ。我らの錯誤を嗤いたまえ』

 公国古語で綴られ、解読されている唯一の結文をアデリーナは唱え終わった。

「——術式、終わりました」

 その合図を聞いて老人は患者の診察を改めて行った。男の呼吸は安らかになり、汗も引いてきた。唇の色も元に戻りだしている。

 老医師は聴診器で呼吸音を確かめている。そしてあらかた、今手持ちの機材でできる簡単な診断をしたところでアデリーナに向き直った。

「見事だお嬢さん《フロイライン》」

 老医師の眼は、先ほどの厳しい眼と打って変わってとても優しかった。そしてその短い称賛の言葉をうけたアデリーナは、恐怖と緊張と達成感のあまりに泣き出してしまった。

 アデリーナは一人で、人の命を救ったのだ。


   ***


 一ヶ月後。

 アデリーナは大学近くの調味料屋の屋根裏に下宿していた。

 都会に来たことで多少は垢抜けた様子だったが、相変わらずの瓶底メガネで、街を行く同年代の同性とは比較に出来ない。

「アデリーナちゃん! お客さん!」

 調味料屋の女主人が下階から声を掛けてきたので、登校準備をしていたアデリーナは慌てて外へ出た。

「すみません! あの、お客様って?」

「外だよ」

 アデリーナは外に出て、店の前でつまらなそうに立っている若い男——楠田を見つけた。楠田は糊の効いた『営団』の制服をと着込み、左襟には何かの記号をあしらった徽章が輝いていた。

「あ、楠田さん。その節は……」

「おう。今日から授業開始か?」

「はい。……あの、ご用事は?」

「コレ」

 そう言って、楠田は便箋を手渡した。

「営団からの感状授与式の招待だ。来いよ?」

 アデリーナは驚いた。まさかの感状である。自分ができることをしただけなのに、大ごとになってしまった。

 あの処置をしたあと患者は担架で途中下車し、最寄りの病院へかつぎ込まれた。予後は良かったようで、その話が楠田から伝えられたのは事件から一週間後だった。

 さらに驚いたのは、アデリーナが長年参考書にしてきたあの医学書の執筆者が、当日居合わせたあの老医師だったということだった。

 老医師は、自分が書いた本で学んだアデリーナを信じたのだった。

「あ、あの。わたし、こんなの行けません。田舎者だし、世間知らずで……」

「それもこれから勉強しろよ。知らないことから目をそらしたくないんだろ」

「ま、まぁ…」 

 もじもじと迷うアデリーナの様子を見て、楠田は鼻を鳴らして笑った。

「ドレスコードは便箋読め、服が無いならレンタルしろ。じゃあな」

 楠田は踵を返し、雑踏へと消えていった。

「もう……いつも押しつけてばかりなんだから……」

 アデリーナは眉をハの字にして、やり場のない抗議を呟く。

「アデリーナちゃん! 時間!」

 女主人がアデリーナの勉強道具をひっさげて掛け時計を指さした。

 アデリーナは叫びそうになったが踏みとどまり、店の自転車を借りて大学へと駆けていく。

 アスファルトの道を自転車で駆けるアデリーナに迷いは無かった。今の自分なら人を助けられる。今までの勉強は決して無駄ではなかった。そして、これからさらに勉強すればもっと沢山の人を助けられる。自分が唱える失われた言葉の意味すら理解できるかもしれない。

 今は突っ走るしかない。あの鐵路をひた走る列車のように、目的に向かって真っ直ぐ、サプサンよりも早く駆けるのだ。

                                        おわり

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鐵路 日向 しゃむろっく @H_Shamrock

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