新解釈_伽羅先代萩

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新解釈_伽羅先代萩

仙台藩伊達六十二万石で実際に起こった事件を歌舞伎で誇張して再現した「先代萩」を筆者の解釈で御紹介するので歌舞伎の演目内容とは趣が異なる事をお許し願いたい。


仙台藩国家老の仁木弾正は、姉で東北管領家へ嫁いだ姉の栄御前と仙台藩の乗っ取りを画策していた。東北管領は平安時代から天皇の命令に依って東北地方の大名を統括していた名門であるが、徳川幕府に為ってからは有名無実と為って居た。名誉職であったが財力は無かったので、名目だけの管轄下の仙台藩の殿様が急逝して後継ぎが子供であったので、乗っ取ってしまおうと管領の妻、栄御前が画策したのが此の事件の発端だった。


仙台藩は藩主の殿様が労咳で急逝してしまったので、世継ぎの若君鶴千代を亡き者にしてしまえば、殿様の腹違い弟の仁木弾正に世継ぎの芽が廻ってくるからだ。弾正の不穏な動きを警戒した城代家老は、妻の政岡を若君の警護役として御殿へ上げる事にした。その際に三男の千松を若君の遊び相手にする為に母親に同行させた。


御殿に上がった政岡は弾正の悪巧みを明敏な頭脳で素早く嗅ぎ取ると、若君の周辺から男性の近習を遠ざけて中臈と腰元だけの奥女中社会にしてしまった。政岡に悪事を悟られたか?と感じた弾正は、妹の八汐を局として送り込んだ。女性であれば政岡は断る訳にはゆかないが、八汐は弾正の妹と知っているので警戒警報を心の内に発令した。


御殿髪に結った局八汐は御殿医を自分の局に呼んだ。御殿に上がって気が着いたのであるが、鼠が沢山いる。此れでは若君さまの御膳にも不衛生であるので、鼠を殺す毒饅頭を創ってくれる様に、帯に手挟んだ黒塗りの扇子を拡げて御殿医に耳打ちするが、自分は薬剤は作るが毒薬は作らない、と御殿医は断った。

狡猾な八汐は、「そうか、断るのか!お前の口からどんな噂が流布されるか判らないので、断るのであれば、今、此処でお前を刺殺するがその覚悟はあるのじゃな?」と言って、金襴の懐剣袋に巻き付けてある、懐剣房紐をズンと振り解いて、怖ろしい懐剣をギラリッと抜いて恐喝した。此の時の八汐の顔は此の世の者とは思えない程の鬼女だった。


三日後に御殿医は毒饅頭を奥御殿に十個持参してきた。八汐は上機嫌で彼に酒や御馳走を振る舞って、日が暮れてから帰宅させた。城から出て暫く行った処で、御高祖頭巾に顔を隠した八汐が帯に手挟んだ黒鞘懐剣を引き抜き、後ろから近づいてブスリッと心臓を狙って刺し通して殺した。「最初から、妾の言う通りにすれば死なずに済んだものの、馬鹿なやつめが。毒饅頭が手に入った。若君、政岡、待っておれ!」


仁木弾正が御殿に八汐の様子を窺いにきた。八汐は手に入れた毒饅頭を兄に見せるとふたりは顔を近付けて笑った。次はどうやって若君に毒饅頭を食べさせるか?を話し合った。


その時、廊下を通り過ぎた奥女中がいた。「待ちゃ!」八汐が権式高い声を挙げて腰元を呼び止めて、廊下から部屋に入る様に言った。奥女中が八汐の部屋に入ると、八汐は廊下側に座って襖を閉め退路を絶った。


「そちゃ、政岡付きの奥女中であるな? たった今、わらわと御家老さまの話を聞いたであろう?聞いておれば生かしてはおかぬぞよ」と言って懐剣袋に二重三重に巻き付けてある、紫房を握ってくるくると巻き戻してゆく。八汐の醜く歪んだ白塗りの厚化粧に皺が寄った。


八汐の形相に腰を抜かした奥女中が、「いいえ、聞いては居りませぬ。何も聞いては居りませぬ」と頭を畳に擦り着ける。「そうで在るならば、此の饅頭を食して見よ。食べるなら聞いていない証拠じゃからな」八汐は右手に抜き放った氷の刃の懐剣、左手に毒饅頭を持って奥女中の目の前に差し出した。


何も知らない彼女は喜んで饅頭をひと息に呑み込んでか、直ぐに大量の血を吐いて死んだ。八汐は毒饅頭の効果を確認して笑いながら、横たわる奥女中が帯に手挟んでいる懐剣を袋ごと抜きとって、紐をぱらぱらと解き、懐剣の鞘をクイッと払って、青白い懐剣を抜き、奥女中の袖で喉を抑えてスパッと掻き切った。どくどくと血が溢れ出たが袖で抑えているので、返り血は浴びないのだ。巧妙な妹の殺しの手口を見ている。兄の弾正も呆れて口が塞がらなかった。


御殿医の妻、小槇は夫が背中から刺されて遺体で帰ってきたので、夫が言い残した言葉を思い出した。「万一、儂が帰って来ないか、殺されたら、此の書状を持って奥御殿の政岡様の処に掛け込むが良い。さもないとお前も殺される」と言っていたのを思い出した。


小槇は書状を開いて速読した。局の八汐から、ネズミ退治用の毒饅頭を作れと命じられた。断れば殺す、と強要された。命を取られる訳には行かないので、云われる儘に毒饅頭を作って八汐様に差し出す。小槇はその書状を持って御殿女中の衣装を着て政岡に面会、一部始終を報告した。


鼠取りの為の毒饅頭を作った?御殿には鼠一匹いないのに?何の為に八汐は命じたのだろう。しかも作った御殿医は、八汐に毒饅頭を届けた帰りに、懐剣で背中を刺されて殺されている。一刺しで殺めるとはよほどの武家女だ。


小槇の報告が終った時に、慌ただしく奥女中の遺体が、八汐の腰元達の手に依って運ばれてきた。

腰元のひとりが口上を言った。「此の奥女中は御廊下で八汐さまにぶつかっておきながら、謝りもせずに通り過ぎ様としたので、八汐さまが叱責されたのを逆恨みして、己の懐剣を抜いて斬り掛った。そのため八汐さまに懐剣で無礼討ちにされたのです」そう言って冷たい顔をして立ち去った。


政岡が奥女中の遺体に被せてある絹地の打掛を剥いで見ると、遺体の切り傷は喉首に一箇所だけだった。不思議だ、喉首を切る無礼討ち等は例が無かった。政岡は遺体の口元に顔を近付けて臭いを嗅いだ。猛毒の砒素の香りがする。この奥女中は毒殺され、しかも懐剣で突き刺されとどめを刺されたのだ。


小槇の夫の御殿医が作った毒饅頭を食べさせられたのだ。八汐は政岡の奥女中を使って毒饅頭の成果を試し、成功したので自ら懐剣で無礼討ちに見せ掛けて殺害した。


むむむ、何と云う卑劣な事を!毒饅頭は鼠を殺す為では無く、本当の狙いは若君さまの御命を縮め参らせる事だったのだ。政岡は、八汐一味の非情で残忍な仕打ちに背筋が凍った。


東北管領の妻で八汐の姉の栄御前が、若君鶴千代君の御機嫌伺いにくるとの知らせを、中臈沖の井が伝え聞いてきた。政岡は悪い予感がして、鶴千代君の遊び相手で御殿に上がっている我が子の千松に、「そなたは若君さまの家臣なのですから、何が起きても若君さまをお守りするのです。自分の命に代えても」と諭すと、千松は「ハイッ!」と元気よく応えた。


二日後、栄御前が煌びやかな金襴緞子の打掛を羽織って、仙台城奥御殿に現れた。後ろに五人の腰元を従えて、真っ赤な二重のふきがついている打掛の裾を、静々と引いている。腰元は紺色の着付けで裾引き、黒繻子の立矢の字の左側帯に、黒鞘の懐剣を直挿で手挟んでいる。通常、腰元は御殿内では立矢の字の帯は右上から左下に結ぶ右側帯が普通だ。左上から右下に結ぶ左側帯は、街中で暴漢に襲われた場合、懐剣を抜いて立ち回るために右肩を自由にするためだ。何故左側帯の結びなのか、不気味だ。


栄御前の後ろに妹の八汐が、煌びやかな打掛姿で続いている。静かな御殿の大広間に、青畳と裾引きの音がシュルシュルと響き不気味だ。その後ろに五個の白い饅頭を皿に盛り上げた菓子台を捧げ持った腰元が続いている。奥御殿の大広間に、盛装した鶴千代と乳母政岡、千松と、中臈沖の井が揃って正座して出迎えた。政岡は金襴の打掛、掛下は真っ赤な綸子の衣装、朱色の懐剣袋を帯に手挟んでいる。八汐は、対象的な鮮やかな銀蘭の打掛、白い綸子の掛下姿、帯には着付けと同じ白の懐剣袋が帯に手挟んでいる。衣装の競演の幕が切って落とされた。ずらりと並んだ奥女中の打掛の帯山が見事に膨らんでいる。そして、この場にいる奥女中の懐剣房紐がゆらゆらと揺れている。

政岡、八汐、二人の懐剣がこのあと抜かれることも知らずに・・


東北管領の妻である栄御前は、自分の高い身分を象徴する様に、金襴緞子織の鉢巻きをしていた。威厳があり見事だ。打掛や帯、そして懐剣袋に金襴の織物を身に付けるのは常識と云える程、武家の上流階級の婦人達の礼装であるので珍しくはないが、額に巻くのは管領家の奥方さまにのみ許されていた習わしだった。


栄御前が此の鉢巻きをしてきたと云うことは、有無を言わせぬぞ!と云う固い意思を、

賢い政岡は直感、身体が震えた。きた!。悪魔が遂にやってきた、背中がぞくぞくする。


栄御前が顎を勺って八汐に目配せをした。大仰に、恭しく栄御前に頭を下げて八汐は、腰元が捧げてきた白饅頭が五個乗っている菓子台を、若君鶴千代の座っている目の前に置いた。

八汐は、鶴千代に向かって「此れは管領家から若君さまへの御見舞いのお菓子です。おうおう、美味しそうなこと。どうぞお召しあがり下さりませ」と言い鶴千代に三指を着いて平伏した。


政岡は、白饅頭をひと目見て、此れが小槇の夫の御殿医が作った毒饅頭だと見抜いた。

若君に「食べては為りませぬ」と必死の思いで鶴千代に耳打ちしたが、政岡が毒殺を恐れて極めて粗食な食生活を強いられていたので、若君は食べ物に飢えていたため、政岡の忠告を振り切って本能的に手を出した。政岡は慌てて鶴千代を抱き抱えて食べさせない様に必死で止めた。


「何しやる!」と栄御前が金切り声で政岡を叱りつけた。それでも政岡は、鶴千代を抱き締めて、饅頭を欲しがる若君の眼を打掛で覆った。そうさせてはならじ、と栄御前が芝居を打って激怒した。

「無礼者ぉ、政岡!そちゃ、此のわらわの見舞い菓子を拒否するのか?」

「何と云う慮外者めが!」と意気込んで、帯に手挟んだ懐剣袋の房に手をかけ、巻き付けてある懐剣房紐をひと巻ずつ解き出し、直ぐにでも懐剣をぬきまするぞと、圧力をかけた。「管領家からの見舞いの品を拒否されては面目が立たぬ、妾が命に代えても、鶴千代殿の口を割ってでも食べて貰うぞよ」と言って、更に懐剣を抜く仕草をして、鶴千代と政岡の目の前に迫った。


政岡の眼が宙を彷徨った。自分が饅頭を食べようか?それとも懐剣を抜いて不忠者の名を背負って、栄御前と八汐を、懐剣で刺し殺してから、この場で自害して死んでゆくか迷った。政岡に取っては今まで生きてきた時間よりも、永遠の様に長く感じられた。


政岡が思案していたその時、隣に正座していた千松がパッと畳を蹴って、「この菓子欲しい!」と、栄御前が手にしている白饅頭に手を伸ばし、ひとつを掴んで口に放り込みパクリッと噛んで、奥御殿の迎賓の間を駆け廻った。


奇想天外な行動を取った千松を、栄御前と八汐は驚きと憎しみを籠めて眺め、乳母の政岡は如何仕様も無い母親の顔で千松を見た。遊び回っている千松の足が縺れて咳こんで、口からゲボゲボと血を噴水の様に吐き出した。千松が食した饅頭は明らかに毒入りの証拠であった。


真っ青に為ったのは、栄御前、八汐そして政岡だった。予想もしない千松の行動に驚く栄御前は、若君毒殺の企てが判らぬ内、妹の八汐に千松を殺める様、目で指示した。


姉の意を介した妹の八汐は、銀蘭の打掛をパッと脱ぎ、紫色の懐剣房を握り、縦に引いて、巻いた房紐ををあっという間に解き、黒鞘の柄を強く握り、懐剣をギラリッと鞘から抜いた。真っ白な綸子の着物の裾を翻し、真っ赤なふきを跳ね上げて、懐剣を片手に握って千松を追いかけ回すが、身の軽い幼児の足は速くて捕まえる事ができない。「不埒者の千松、待てぃ!妾がそなたに仕置きを加えて

しんぜよう。懐剣の餌食にしてくれようわいのう!待てぃ!千松・・」と手に持つ懐剣の凍る刃が千松を追う。

やがて毒が回って千鳥足に為った千松を、八汐が懐剣を片手に、ようやく捕まえた。その間の政岡の心境は如何ばかりか?筆舌には尽くせない。断腸の思いとは此の時の政岡の気持ちを云うのであろう。何と云う強靭な精神力なのだ!


髪を振り乱した八汐は、右手に持った懐剣を口に咥えて、必死で捕まえた千松を両手に抱き上げて綸子の着付けの膝に乗せた。そして氷の様な鋭い懐剣の刃を一度横に構え、振り上げ、鬼の形相で一気に振り下ろして千松の首筋をグサリィと刺した。「どうじゃ、千松!懐剣を深く刺しこまれていく気持ちは!恨むなら非情の母を恨め!」八汐の懐剣の刃先が千松の喉元に刺さる。ブスッ!グエッ! 「痛い!かかさま!」と千松の悲鳴が挙がったが、政岡は顔色一つ変えない。八汐は突き刺した懐剣で、千松の喉首を力強くグリ、グリ、と何度も抉った。握った懐剣は八汐の手の強さで、千松の首筋深く刺し込まれた。八汐の目がつり上がって般若の顔だ。千松の首から鮮血が噴水の様にビューッと吹き上がって、八汐の顔と純白の綸子の衣装に血汐の飛沫がザザザッと掛った。


殺害を指示した栄御前でさえも顔を背ける惨劇に為ったが、赤鬼と化した八汐は、「無礼者、こりゃ千松そなたが悪いのじゃぞえ、管領家から献上の品を盗み喰い、足蹴にするとは呆れた悪飢鬼じゃ、親の顔が見たいわ。」と政岡を睨みつけながら千松の喉首を、懐剣で錐の様に揉んでは、グリ、グリ、と強く抉り、更に懐剣を握った手を大きく円を書くように抉り廻す。八汐は懐に挿しこんでいた手鏡を手に取り、千松の首筋に突き刺している懐剣の柄頭を、トン、トン、トンと叩く。叩くたびに懐剣が傷口を広げる。そして千松のか細い声が大広間に響く。八汐は手鏡を広げ、鏡に映る政岡の表情を伺う。

「おのれぇ!不埒もの。こりゃ千松、痛いかいのう、苦しゅうないか?」「此れでもか?此れでもか?苦しゅうないか、痛くはないかいのぉ!」と、幼い千松のか細い喉首を刺しては抉り廻す。八汐は突き刺した懐剣を一度引き抜き、更に突き刺し、突き立てた懐剣を抉って抉って抉り回す。そして八汐は千松を甚振りながら政岡に問いかける。「他人のわしでさえも目を背ける。政岡!そなたの子、千松の首筋に懐剣が突き刺さったさまをみて、なんとも思わぬか!」政岡は「何のまああ、管領家からの大切なお菓子を蹴散らした、千松の成敗はお家のため」涙を見せずに気丈に答えた。「そりゃ政岡、これを見やれ!これでもかぁこれでもかぁ!これでも悲しゅうないかいのぉ-!」と懐剣を突いて抉り回す。懐剣に力を入れるたびに着付けの袂が振れ、金襴緞子の胸高で形の良い、大文庫結びの羽根の垂れが大きく揺れる。その度に千松の苦しむ声。「かかさま、かかさま、苦しい!痛い!」


政岡はその声を聴いても涙をこらえ、若君を打掛の中に被せてその修羅の場を見せない。政岡の右手は帯に手挟んだ懐剣袋の房に手をかけ、直ぐにでも懐剣を抜いて八汐に襲い掛かりたいが、我慢している。おそばに控える奥女中、沖の井、松島も打掛の中の懐剣袋の房に手をかけているが、涙目で我慢している。栄御前はその政岡をみて、「八汐、更に突け、更に抉れ、慮外者に思い知らせよ!」と声を荒げる。その声を聞いた八汐は更に千松への憎しみを強めた。もう人間では無かった。悪鬼その物だった。千松の声が次第にか細く為って、もう事切れる寸前だった。しかし、八汐は憎しみをこめて懐剣で抉り続ける。「突きますとも!抉りますとも!栄御前様、八汐にお任せくだされ!憎き政岡の子を妾の手で妾の懐剣で甚振りまする!」懐剣の柄に力を込めて「これでもか!千松、どうじゃ!これでもかぁ!」と更に抉り続ける。八汐の懐剣の動きに合わせて千松の身体はビクビクと反応し続け「あぁ~」とか細い千松の声。八汐の背中に大きく結ばれている大文庫の垂れが、八汐の握る懐剣の動きに合わせて左右に揺れ動く。綺麗な着付けの妖艶な女性の動きだ。本来であれば武家の女性の凛とした姿だが、その動きは殺りくの動きだ。

栄御前は政岡の表情を見続けていた。可愛い我が子が、目の前で妹の八汐ごときに嬲り殺しにされているのに、政岡は若君鶴千代に、千松が嬲り殺しされる姿を見せまいと、必死で抱き締めていた。千松の頭がガクリッと、垂れ下がったのを見た栄御前が、「八汐、千松への仕置はもう良いであろう、其処までに致せ。されど、武家の習いじゃ、不埒ものの千松ではあるが、懐剣でとどめを刺せい!」と命じた。


その声に気を取り直した八汐が、懐剣を千松の喉首から引き抜いた。とどめを刺すべく握り直した、懐剣の切っ先を千松の心の臓の上にあてがい、無言のまま懐剣で突き刺した。更に力を籠めてもうひと突きして、深く刃が差し込まれた、哀れ五歳の幼子、千松は八汐の懐剣に依って絶命したようにみえた。しかし千松の傍らにいた八汐には、未だ千松が動いているかに感じた。それを見て八汐は何を思ったか、すくっと立ち上がり、千松を見ながら、「こりゃ千松、妾の刃に苛まれた気分はどうじゃったかいのう。これから本当のとどめを、この八汐が刺そうわいなぁ。」と言って、「栄御前さま、お願いがござりまする。管領家名代であられる御前さまの御懐剣を、お借りしとうござりまする。この八汐の手で千松のとどめ刺しを、お許しくだされ。千松も武士の子、その御懐剣でとどめを刺されれば、本望かと存じまする。」


栄御前は、突然の八汐の申し出にも頷き、自分の帯に手挟んだ懐剣袋から、蒔絵の懐剣を鞘ごと抜き取り、「八汐、妾に成り代わりこの懐剣で千松のとどめ刺しを許す。頼むぞえ」、と、八汐に差し出した。八汐は、栄御前から懐剣を受けとった。そして裾引きの、ふきを翻しながら、千松の身体に跨り馬乗りになった。「千松、この八汐が御前さまの御懐剣でそなたを黄泉の国へ旅立たせる。覚悟しや!」と

懐剣を鞘から抜いて両手で柄を握り、振り上げながら「不埒者の千松、御前さまの情けじゃ。八汐が御前様の懐剣でとどめを刺すわいのう。千松覚悟ぉ!」と更に叫びながら、千松の喉元に向けて突き刺した。その瞬間「ううっ」と千松のか細い声と、小さく身体が震え、そして力強く握っていた拳がゆっくりと開いていった。八汐は更に「よくもわしの白綸子の着物を、そなたの血で汚してくれたな。わしの恨みを思い知れ!」と首にとどめを刺し、鋭い懐剣の刃が頚動脈を切って千松は絶命した。


八汐が行った御前さまの懐剣による、とどめ刺しの時間は、この場にいる皆には長く長く感じた。

政岡の打掛の中に隠れている鶴千代君も、八汐と栄御前の声と、千松の苦しむ声は聞こえており、身体が震えていた。政岡はその震えを感じ取っていた。

八汐が勝利の勝鬨を揚げる様に、幼児の命を奪って血に染まった懐剣を宙に突き上げた。そして八汐は、御前の懐剣から血の滴りを懐紙で拭い、刃を鞘に戻し、「御前さま。これにて不埒もの千松の始末は、あい済みましてござりまする」

八汐から懐剣を受け取った栄御前は、「八汐、大儀であった」と褒め、懐剣の鞘を自らの懐剣袋に収め房紐を巻き直し、薄茶色の掛下に巻く金襴の帯に差し込んだ。八汐は続けて、千松を甚振り、なぶり殺しにして、千松の血潮がついた自らの懐剣の刃を、懐紙で拭き取り、自らの帯に手挟んである懐剣の鞘に収め、懐剣袋の房紐を巻き直した。


この修羅場は時間にしてどれ位だったか判らないが、千松の亡骸と流れ出た多量の血が、若君の身代わりになり、千松が八汐の手にかかって、甚振られ、なぶり殺しで絶命したことを物語った。八汐は、腰元に命じ掛下の上に打掛を羽織り、千松が蹴散らしたお菓子をひとつずつ拾い集め、菓子台の上に乗せ、惨劇の場、御殿大広間から立ち去ろうとした。


「待ちゃ、八汐!」、栄御前は八汐に声をかけ止めた。此の場に及んでも表情を変えない政岡は、我が子と若君を摩り替えていたと考えた。八汐は、その場に残った。

我が子が目の前で此の様に甚振られ惨殺、なぶり殺しされて平気な親がいる訳が無い。絶対に助けに入るだろう。それをしないのは八汐に殺されたのは政岡の子供の千松では無く若君鶴千代君であったのだと考えた。

「でかしたぞ八汐、そなたは若君毒殺の企てが露見するのを防いだばかりでは無く、本物の若君を仕留めたのじゃ」と大声で喚いた。そして栄御前は政岡に御家乗っ取り派の連判状を、政岡に見せてから立ち去ろうとした。その声を聞いた政岡が、鶴千代を抱き締めながらすっくと立ち上り、声を張り上げ、栄御前と八汐に言い放った。

「お待ち下され、栄御前さま!今、何と仰いましたか?「若君毒殺の企て」と仰いましたね。更にその連判状には仙台藩乗っ取り計画と書いてありました」更に政岡は懐から一枚の書状を取り出して拡げて大声で読んだ。


小槇改め、松島の夫であった御殿医が、もし自分が帰らない時は此の文を奥御殿の政岡さまに、至急お届けする様に致せ。八汐に脅されて仕方なく鼠取り用の毒饅頭を作って差し出した。もしかしたら若君毒殺に使われるかも知れない。と、結んであった。


「此の文が本当であれば、あなた達は若君さまに毒饅頭を食べさせ様としたのですね。栄御前さま、千松はわたくしの実の子供です。忠義の為に毒饅頭と知って居て我が子千松は食べたのです」


「我が子を見殺しにしたのは、御前さまがわたくしの出方をずっと見続けていたので、心を鬼にして八汐殿の為すが儘にして耐えていたのです。どんなに苦しかったか、此の胸が張り裂ける思いで、我が子が、八汐殿の懐剣で、甚振られ嬲り殺しにされるさまを見ていたのです。が、それももう終りました」


「栄御前さま、八汐殿、此れだけ証拠が出揃えば、もう言い逃れは出来ませぬぞ!」黒地に金糸の打掛を脱ぎ捨てた政岡が、青い懐剣房紐をくるくると解きながら、若君を護って大広間の片隅に寄った。続いて中臈の沖の井と、松島に改名した小槇も、懐剣房紐を素早く解きながら、政岡と若君を背中に庇って立った。


「それぇ!者ども、御家に不忠を為す悪人共を、残らず成敗致せ!」と政岡が下知をすると襖がガラッと開いて、紫矢絣の裾引き衣装に黒繻子の帯を胸高に、立て矢の字に締めて、黒塗りの懐剣を誇らしく帯に直挿しで手挟んだ腰元二十名余が大広間に乱入して、栄御前と八汐を取り囲んだ。


「なにィ何時の間に?」腰元達の全員が政岡側に付いたので、八汐は狼狽して顔色を変えた。

栄御前は何が起きたのか?呆然と立ち竦んで居る。打掛を脱いだ松島が前に出て言った。


「私は八汐殿に脅迫されて、毒饅頭を作った挙げ句に殺され非業の最期を遂げた御殿医の妻、小槇です。主人が八汐殿の懐剣で無残にも刺され殺されました。憎き八汐殿を相手の仇討は女一人では叶わない。そのため、あなた達の陰謀を伝えるために、御殿へ、急ぎ政岡さまに御注進したのです」


「私は八汐殿の配下の腰元達に、夫の遺書を見せて、説得して廻ったのです。最初腰元の皆様は、わたくしの云う事を半信半疑でありました。でも今、此の場で起こった千松さまの哀れな御最後を私達は襖の陰から一部始終をしかと拝見致しました。

八汐殿の懐剣で手に掛かり無残にも横たわるその遺骸は若君ではござりませぬ。間違いなく政岡殿の一子千松様です。そのお子様が見事にお毒見役を果たされたのです。千松様が御立派な忠義の働きをして死ぬ事を、政岡様は予想はされていたのでしょうけれども、自分達の犯罪を隠そうとして、幼い子供を惨殺する非道は決して許される事ではありませぬ」


「政岡さまは断腸の思いで、可愛い我が子が、八汐殿の懐剣で喉首を刺され、抉られても、とどめを刺されても、見事に栄御前さまを欺き通されたのです。政岡さま親子こそ忠義の鏡です。あなた達の悪業は天が知る事に為り、腰元の皆さまは、政岡さまのとった振る舞いに、涙を流し感動して全員がお味方に着く事に為ったのです。潔く観念して討たれてお仕舞いなされ!」

松島が云い終ると、紫矢絣姿の腰元達が構える薙刀が栄御前と八汐を取り囲んだ。薙刀を持たない腰元たちは帯に手挟んだ直挿しの黒鞘懐剣の柄に手をかけ今まさに鞘から刃を抜かんとした。迎え撃つ極悪非道の悪女、八汐も、血相を変えて懐剣を逆手に構えて身構える。栄御前も事態が窮地に陥った事を悟って、蒔絵柄の懐剣の鞘を払って八汐と背中合わせに為った。

政岡派に寝返った腰元達の構える薙刀は襖の中へ、政岡は沖の井と松島を従え、襖の中へ入り、打掛姿の三人が八汐と栄御前に正対するが、政岡は後ろに退った。そして、沖の井と、八汐、松島と、栄御前の、二組の一騎打ちが開始された。


掛下姿の沖の井が「八汐さま御覚悟お召され!」と言って懐剣を振り上げて間合いを詰めて行く。

八汐は千松の血に染まった白綸子の衣装の袖を翻して「何を小癪な、お前如きが笑止千万じゃ、存分に掛って期やれ!」同じく掛下姿の八汐も懐剣を振り上げて文庫結びの帯の垂れを揺らして、沖の井の隙を窺う。


陰謀の首謀者仁木弾正の姉、栄御前は頭と器量は良かったが、武芸の心得は全く無かった。

武家娘育ちで御殿医の妻の小槇は、政岡が籠城している奥御殿に掛け込んでから、中臈松島に名前を変えて、夫の仇を討つべき、黒鞘懐剣を胸前に構え千歳一隅の機会を待っていた。


遂にその時が来た。夫を手に掛けて殺した八汐に仇討をしたかったが、八汐は後でも闘えると思って栄御前に闘いを挑んだ。気位だけは高いが、懐剣の素養が無い栄御前は遮二無二懐剣を振り廻して松島に斬り掛った。

松島は栄御前の懐剣攻撃を軽く躱して、スパッと懐剣を横に薙ぎ払った。キーンと金属が触れ合った鋭い音がして、握力の無い栄御前の懐剣が叩き落とされた。東北管領の奥方様の身分を象徴する、金襴の帯地で作られた鉢巻きを、松島の懐剣がズバッと切り裂いた。


「ひぃっ!」と悲鳴を挙げて栄御前が立ち竦んだ。棒立ちに為った栄御前にドスンと、懐剣を両手に持った松島がぶつかって行った。キャーッ、脇腹を松島の懐剣で刺されて悲鳴を揚げ、崩れ落ちて腹を抑えて転げ回る。松島が空かさず御前の身体に飛び付き紫綸子の衣装を拡げて跨り、懐剣を両手で逆手に持って、右の胸に「お覚悟ぉ!」と叫びながら、グサリイと突き刺した。


「ギャーッ」と悲鳴を挙げた栄御前は、松島の鮮やかな鞘型地紋の紫衣装の胸を掴んで「おのれぇ、おのれぇ」と喚いた。死に物狂いの栄御前の馬鹿力で、松島の胸が肌蹴て白いふたつの乳房がボヨヨンと剥き出しになった。政岡、八汐、沖の井、そして二十人の腰元達の見ている前で、羞恥心が最大となり、松島の怒りを爆発させた。

白い両乳房を露出させた儘、松島は懐剣を栄御前の右胸から引き抜くと、右手に握り直してグサリッと、栄御前の左の脇腹に、柄元まで刺し通してから、グイッと抉った。「ギャーッ、痛い、痛い、痛いぞえ、助けてたもれ、お願いじゃ、助けて、助けてたもれえ」

眼から涙を流して哀願するが、松島は問答無用とばかりにグリグリッと栄御前のはらわたを抉りまくった。


「ううー、ああ、苦しい、苦しい!あー 死ぬ死ぬう」胸から腹から、真っ赤な血がドクドクと溢れ出て青い畳に流れ落ちている。栄御前の呼吸が小さく為ってきたので、政岡が、「松島殿、ご主人の恨み、思う存分とどめを刺しなされ!」と後ろから声を掛けた。


松島は政岡の声を聞き留めると、栄御前の襟を左手でグイッと鷲掴みにして、首を引き起こした。数回、呼吸を整えてから、「お家に仇為す悪女め、夫の仇ィィ~」、と絹の声を張り上げて、血に染まった鋭い懐剣の切っ先を白い喉首へ突き立てひと息に刺し通した。「ブスリ!」

松島の恨みの懐剣は柄元まで突き通すと栄御前はグエッと断末魔の呻き声を挙げて絶命した。


姉の栄御前が、討たれるのを間近に見ていた八汐は、ふてぶてしく開き直って言った。

「かくなる上は、お前達をひとり残らず地獄の道連れにしてやるから、覚悟して掛ってきやれ!」

八汐は白綸子の衣装をグイッと聳やかし、懐剣を逆手に握り直して見栄を切った。

悪人顔が更に憎々しい顔に為った。


中臈の沖の井が、「八汐さま、お覚悟召され!」と金切り声を挙げて、懐剣でエイッと斬り掛った。

「ふん」と八汐は鼻で笑って、沖の井の懐剣攻撃を鋭い一撃でキンと音を立てて、振り払った。

八汐の動きは軽やかで腕の振りは速かった。沖の井は、八汐のカウンターに一間程弾き飛ばされて倒れそうになったが、蹈鞴を踏んで立ち直って再び懐剣を小脇に構えて八汐に突き掛った。


沖の井の必殺の攻撃は、八汐に難なく躱されて沖の井は畳の上につんのめった。起き上がろうとした沖の井に、風の様に走り寄った八汐の懐剣が襲った。見守る誰もが沖の井の最後を思って眼を閉じた。しかしその時、ガツンと金属音がした。政岡が若君を腰元に託し、懐剣を抜いて八汐の懐剣を受け止めていた。


八汐と政岡の懐剣が押し合って、ふたりとも顔を寄せてギリギリと睨み合った。八汐の白綸子の衣装と政岡の赤い衣装が擦り遇って凄い迫力だ。


懐剣には刀の様に鍔が無いので、押し合いに為れば、懐剣が滑って指が切られたり、切断されたりするので、政岡は自分の握る懐剣を渾身の力で、八汐の懐剣に押返した。女丈夫と云われた政岡は。女性にしては大柄でがっちりした体格だった。


それに引き換え八汐は、キリギリスの様な痩せた身体の持ち主だったので、政岡の腕力の方が勝って、八汐は畳の上に膝を着いた。政岡は、八汐の上に圧し掛かる様に懐剣を上から全力で押した。


一騎打ちは、離れている場合には身体が軽い方が有利だが、押し合いに為れば身体の重い体力のある方が凌駕する。此の二人の闘いもそうだった。身の軽い八汐は此の様な展開に為るとは想像もしていなかった。


今までに何人もの男女を自慢の懐剣の腕前で刺し殺してきたが、懐剣同士の鍔迫り合いに為って、体力に勝る政岡に上から力任せに懐剣を押し付けられている。


八汐は未経験の極めて不利な状況に追い込まれて、闘争心に陰りが出た。額には大粒の冷や汗が湧き出ていて、背中から滝の様に汗が噴き出してきた。むむっ、拙事に為った、と思った時、政岡がエイッと裂帛の気合を掛けて、グイッと懐剣の交叉を外して下へ滑らせた。


スパッと骨を断ち切る音がして、八汐の懐剣を握っていた右手の親指が、ポトリと青い畳の上に鮮血を撒き散らして落ちた。ひぇーっ、八汐の手から懐剣も落ちた。親指が無ければ物は握れないので、八汐は左手で懐剣を拾って、鬼の形相で、政岡を突いて出た。


不意を突かれた政岡は間一髪で懐剣を揮って、八汐の懐剣を払い飛ばすと、蒔絵の懐剣は宙高く飛んで天井に突き刺さって止まった。


素手に為った八汐は、護身の為に髪に挿している簪を抜き取って、左手で逆手に構えた。此の絶対不利な状況に陥っても、闘争心を失わない八汐は、流石に武家の女であった。


八汐の両側から脱兎の如き勢いで、沖の井と松島が同時に駆け寄って、体当たりで八汐の両脇腹に懐剣を、ドスッ、ドスッと叩き込んだ。うううう、はらわたを刺し通された八汐の口から、鮮血がゴボゴボと溢れてきた。


沖の井と松島は八汐の白綸子の胸に顔を押し付けて「お家の仇!」「主人の仇!」「千松さまの恨み!」と、グリグリッと懐剣で八汐のはらわたを、深く抉り廻した。「ギャー、い痛い、ウウウーッ」

あまりの痛さに八汐は、眼を剥いて二人を突き飛ばそうと試みるが、しがみ付いて離れないので、二人の頬を左手に持った簪でグサリ、グサリッと突き刺して、反撃した。


キャーッと、沖の井と松島が頬を刺された痛さに、気を失いそうに為って、懐剣から手を離してその場にうずくまった。八汐は右の脇腹に刺さっている、松島の懐剣を必死の形相でグイッと抜き取った。鮮血がドクドクと噴き出して、白綸子の脇腹と小袖が血に染まった。


八汐は左手に握った懐剣を逆手に振り上げて、正面にいる政岡に向かって斬り付けるが、両脇腹を刺された上に、腸をえぐられ致命傷を負ったまるで牝獅子のようだった。

真紅の掛下衣装の政岡の眼が光った。ゆっくりと八汐の前に進み出て、言い放った。「八汐殿、お覚悟召されい、お命頂戴仕る。」政岡が懐剣を順手で構えて、金襴緞子の大文庫の羽根をゆらゆら揺らせて、八汐の正面から体当たりでドスンとぶつかり、九寸五分の懐剣を鳩尾にブスリッと叩き込んだ。


ギャーッ、政岡は細い身体の八汐の背中に左手を廻して身体を引き寄せると、ドスッと懐剣を突き刺した。可愛い我が子を甚振り嬲り殺しされた、母の恨みの懐剣の一刺しは、憎き八汐の背中まで突き抜けて止まった。


此の儘では懐剣が八汐の身体の筋肉に喰い込んで抜けなくなるので、政岡は右手の懐剣を抜く為に左手で八汐の身体を押し退けた。体重の軽い八汐は政岡の腕力で青い畳の上にすっ飛んで転がった。頬を刺された沖の井と松島が頬から血を流しながらも、傍に駆け寄り、両側から八汐の両腕を掴んで羽交い締めにして身体をひき起こした。


政岡が、八汐の手に掛かり亡骸と為った千松を抱いて、八汐の前に跪いた。そして自分の懐剣を千松に握らせると、自分の手で千松の手を覆って、八汐の首筋にめがけて懐剣を振り下ろし、とどめを刺した。ググエエ、断末魔の悲鳴を挙げて、八汐の息がとまった。其処へ、二度、三度、政岡と千松の四本の手が、懐剣に力を籠めて振り下ろされた。その度に八汐の身体がビクッ、ビックッと動いているかのように反応した。稀代の悪女、局八汐の最期だった。前代未聞の子供の亡骸と乳母による「親子仇討」だ!政岡は、我が子千松の仇が討てた。全てが終わったと思った。


その時、傍にいた沖の井と松島、そして鶴千代と千松付きだった数名の腰元たちが、政岡へ涙ながらに懇願した。「私たちにも千松さまの仇を討たせて下さいまし」、皆皆は懐剣袋や黒鞘の懐剣に手をかけ懇願した。政岡は「皆の働きで、仙台藩にあだなす二人の悪女を討ち果たすことが出来た。是非、皆の恨みの刃で千松の仇を討ってくれれば、千松も喜んで旅立つことができる」と、八汐への、とどめ刺しを許した。いや、皆の気持ちが嬉しかった。


許しを得た者たちは、八汐と、栄御前の亡骸を囲んだ。中臈沖の井は栄御前の傍に膝まづき、奥女中松嶋は、八汐の傍に膝まづいた。腰元たちは数人ずつに別れてそれぞれの亡骸の傍に膝まづいた。そして中臈と奥女中の二人は羽織っていた打掛を脱ぎ、帯に手挟んだ懐剣袋の房紐を解き、刃を抜き放ちとどめ刺しに備える。腰元たちも、黒繻子帯に手挟んだ、黒鞘の懐剣の柄に手をかけ、鞘から刃を抜き放つ。そして、思い思いに「千松さまの仇!」「稀代の悪女め!」「恨みの刃を思い知れ!」と

言葉をかけ、栄御前と八汐の身体にそれぞれ恨みの刃を突き刺した。

皆は横たわる千松の亡骸を見ながら涙を流しながら「グサリッ、ブスッ、グサリッ、ブスッ」と、

何度も何度も突き刺した。それぞれの懐剣を持つ手が震えてる。涙を流しながら、あるものは首筋、あるものは脇腹、あるものは心の臓に向けて懐剣を突き刺した。涙が枯れるまで突き刺した。懐剣を突き刺しては抉り、引き抜いては再び突き刺し抉り回した。


皆の恨みや思いは二人の遺体が物語っていた。身体には無数の切り傷、刺し傷がついた。

最後に、これまでの腰元とは違った、紺色の着付けに文庫結び帯、白鉢巻、白襷姿の薙刀腰元が二人名乗り出た。黒鞘の懐剣直刺しは紫矢絣姿の腰元と同じだ。


「私どもが、憎き二人の首を薙刀で掻き切ります。皆さま、お下がりくださりませ」

腰元二人は薙刀の刃先を振り上げ、「お覚悟!」と叫び、局の八汐と、管領家の奥方、栄御前の首をはねた。しかし、八汐の首はこの世に未練があるのか、少しの皮一枚を残して切れなかった。それをみた薙刀腰元の一人は、八汐の亡骸の傍に近づき正座した。そして、帯に手挟んでいた黒鞘懐剣を

引き抜き順手で持ち、刃で八汐の首の皮をきりりと削ぎ落とした。「申し訳ございませぬ。一刀のもとに切ることができず、お詫び申し上げまする」、と言い終えたあと、「御免!」という間もなく、

握っていた懐剣を自らの心の臓に突き立て自害した。死にきれない薙刀腰元は首筋に懐剣の刃をあて、自らにとどめを刺した。天晴れな武家女の最期だった。周りの皆は手をあわせた。


その時だった。八汐、栄御前へのとどめ刺しを終えた腰元の数人が自らの懐剣を手に、あるものは自分の心の臓に、あるもの達は向かい合った者同士で互いの喉元に向けて懐剣を突き刺した。死にきれず身体がビクビクと痙攣している者には同僚の奥女中が腰元の背後に回り懐剣を横腹に突き刺し

とどめを刺した。あるものは仲間の傍に跪き、握った懐剣を苦しむ腰元の喉元にあてがい、「許せ!」と深く突き刺し、安らかに旅立てさせた。死んだ者、残った者、それぞれの目には涙が光り、仇討を終えた満足感で笑みを浮かべていた。


かくも終わった。首の無い二人の胴体が、仙台藩の悪事を断ち切った。


八汐と栄御前の無残な死体と、自害して果てた薙刀腰元たちの遺体が、残った腰元達に依って運び去られ、沖の井と松島は頬の手当の為に奥医師の元に担がれて行った。政岡が、残った腰元達に対して、「千松と二人だけにして賜もれ」と伝えた。

惨劇の場となった、奥御殿の大広間に残った腰元達は、乳母政岡の悲しみを慮ってを流しながら退出して行った。


大広間には政岡と千松の遺体だけが残されている。政岡は、八汐の懐剣で甚振られ、喉首を切り刻まれ、心の臓にとどめを刺された、無残な千松の遺体に、自分の打掛を脱いで覆った。そして初めて大粒の涙を零した。すまなんだ、すまなんだ、わたくしの息子に産まれて来なければ、此の様な、嬲り殺しの目には合わなかったであろうに、許せ、許せ、千松よ、許せ、許しておくれ、鬼の様な母を許しておくれ。鎮まり返った大広間に政岡の鳴き声だけが悲しく木霊していた。


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