第3話

 意味が分からなかった。歌を愛する男は、話が分かるじゃねえかと呟いて、俺を殴る。掴まれていた服が離されて、地面へと体が投げ出された。ぐらぐらする頭の中で二発目、三発目が来ることを覚悟してぎゅうっと目をつぶる。しかしそれらが来ることは無く、口の中の血の味を感じながら、恐る恐る目を開けた。

 目を開ければ、今にも殴りかかってきそうな、血走った目と目が合った。思わずヒイッと声が出る。すぐに逃げろと自分の本能が訴えかけてきたが、腰が抜けてしまったようで動けない。

 勘弁してくれ、俺はただの物書きなんだ。武道に関して、俺はてんで駄目なんだ。俺が書いた物語がたまたま金持ちの坊っちゃんに気に入られて、そこから名前が売れた、幸運なだけの男なんだ。体なんて幼少の頃少しだけ鍛えただけで、最近の運動といえば外を歩くだけ。大の男にボコボコに殴られてしまえば、俺は死んでしまう。不死では、ないのだ。

「……お前の気持ちは分かる。だがこいつも全て分かっていてあの肉を持ってきたわけじゃない。お前もそれは分かっているはずだ。だから一発だけなんだろう?」

 よくよく見てみれば、武術に長けた男が歌を愛する男の手を掴み殴りかかるのを止めていた。俺はひゅ、ひゅ、と息を吸って、自分を落ち着かせるように息を整えながら、地を這って少し距離をとる。

「そうだよ、そうだとも。分かっているさ、頭で理解はしているんだ。理解してはいるが、感情が追いついてくれないんだ。体が、理解してくれないんだよ。俺は、どうすればいい。やりきれないんだ。この怒りを、絶望をどうすればいいんだよ。俺は一生歌を歌っていたいから不老不死を望んだんだ。なのに、歌を完璧な状態ではもう歌えないじゃないか。生きがいを失った俺はどうすればいいんだ。これではもう、生きている意味など無いじゃないか。生きている意味が無いなんて、死んでいるのと同じだ。ああ、そうだ。俺は死んでいるんだ。こいつに、殺されたんだよ!」

 半ば叫ぶように男はそう言って、うなだれた。当然だ。暴れようとしたところで、この屈強な男に押さえつけられているんだから動けるわけがない。妙に冷静になった俺は、俺も物語が書けなくなればあのように取り乱すのだろうなと思った。

「落ち着け、落ち着け、酒でも飲もうじゃないか。俺は聞くことしか出来ないが、まあ詳しく聞いているうちに何かしらの解決策が浮かぶかもしれない」

 努めて優しく言うようにはしているのだろう。しかしこの目に見られているのならば、これはもはや脅迫である。俺ならばどんな状況であろうと、この男の提案を飲まないだなんて出来ないだろう。

 それにしても、この男が人を気遣う人間だとは思わなかった。いつもあまり話さないような人なのに。……まあ、ただ不器用な人なのかもしれないな。

 ようやく立てそうになったので、ぐ、と足に力を入れる。武術に長けている男は「もしかすると今日中に戻らないかもしれないから、その時は明日この店で何を決めたかお前が教えてくれ」と言ってそのまま二人で行ってしまった。

 遠巻きに見ていた大工を生業とする男がとことこと近くによってくる。守られるしか出来なかった俺を笑いに来たのかと、そちらを半目でじとりと見れば、その男はその視線に気づいているのか気づいていないのか、飄々とした顔でははと笑った。

「お前さんも大変だなあ。まああまり気にするなよ。俺はやりたいこととか生きがいだとか、そういうもんが無いからこそ言えるのかもしれんが、お前さんは悪くないよ。知らなかったんだろう?ならば仕方ないさ」

「……そうかな」

 知らなかったら、全て許されるのだろうか。そうは思えなかった。逆の立場であったなら、俺はどうしていただろう。……相手を絶対に許せないだろうな。生きがいとは、生きる意味そのものだ。あの男の言う通り、俺はあの男の生きる意味を奪ったのだ。知らなかったから仕方がないなど、ただの言い訳に過ぎない。俺がどういう気持ちだったであれ、どういう事情があったであれ、やったという事実は変わらないのだから。

「……やりたいことが無いといったが、それならお前は、なんで不老不死を望んだんだ?」

「死ぬことが怖い。ただそれだけさ……それだけでは不十分かい?」

 何を考えているのか分からない表情で大工を生業としている男は言う。俺にはあまり分からない動機だった。確かに俺も死は怖いと感じるが、それだけでは不老不死になりたいと行動する原動力にはならないからだ。

 そう考えている俺を察したのか、男は笑顔を作って口を開く。

「まあ、お前さんには分からないだろうよ。俺にも不老不死を望むほどやりたいことがある人間の考えることは分からないからなあ。それだけ何かをやりたいと思えるのは、少しばかり、羨ましいよ」

 何かをしたくないという原動力よりも、何かをしたいという原動力の方が良いに決まってる。少し寂しげなものを含ませてそう言った男に、俺はなんと声をかければいいか分からなかった。

「さあさ、陰気臭い話は、やめにしようじゃねえか。日も上がってきて、仲間たちもほぼほぼ出揃った。何から決めようかねえ。こんなにも心が浮き立ったのは初めてだ!」

 寂しげな表情をさっと隠して、男は仲間たちの方へと体を向けその場を取り仕切り始める。いつの間にか集まっていた、ばらばらとまとまりのなかった仲間たちは皆笑顔で、おおそうだなと言って話し合いを始めた。

 あまりの変わり身の速さにあっけにとられて、少しの間その集まりの会話をぼうっと見ていた。そういえばこの男は何か大事な話をするときは毎度場を仕切っていたなと思い出して、なるほど、この集まりはこの男なくして成り立たなさそうだ、と思った。それと同時に、こうして仮面を被ることを得意とする人間は潰れてしまうのも早そうだ、と思った。少し気にかけてみるとしようと決めて、会話に混じる。

 自分が不老のものだとは周りに教えないこと。周りに気取られないようにすること。旅をする気がない者、場所を転々と移動する気が無い者については、とある山の中に家を作るから、そこになるべく住むようにすること。

 どこの山に建てるか、というのははもう目処を立てているらしい。本決定してから作る気でいたと言って、大工を生業としている男は「多めに見積もって、そうだな、二ヶ月は待ってくれ」と言った。ならばそれまでに身の回りの整理をするようにとなって、その後解散となった。

 話し合いが終わるまで、二人で飲みに行ってしまった男たちは戻って来なかった。だから明日またこの場へ来なければいけない。長いこと待たせるなんて恐ろしいことは出来ないから、早めに寝よう。


 かなり憂鬱だった。何がどうなったか等々、特に細かいものを決めたわけではないから対面する時間も少ないと思うのだけど、それでもあの男と会うのは憂鬱だ。あの男は立っているだけで圧が強いのだ。あの男との対峙は、目の前に危険が迫ってくるような、自分の生存本能が刺激されるような、あまり心地が良いとは言えないものだった。執筆するのにいい刺激かもしれないがそんな負の刺激はごめんこうむりたい。

 足を引きずって目的地へと行けば、武術に長けている男のそばにもう一人。例の、歌を愛する男がいたので、俺の足は一層重くなった。

「お、」

 歌を愛する男がこちらに気がついて手を振った。どうして見つけてほしくないときほど、早く見つかってしまうのだろう。うんざりと思いながら、それを悟られないように顔に力を入れた。見つかったからにはのろのろと歩いていくわけにもいかないの。俺は小走りで向かった。

「待たせてしまったようで。申し訳無い」

「かまわねえよ、俺たちも今来たところだからな」

 な、と武術に長けている男に確認をとっている。男は無言でうなずいた。

 この二人、大分打ち解けているようで驚いた。この男はいつも無言で、誰かと仲良く話しているところなど俺は今まで一度も見たことが無かったのだ。一日でこんなにも仲良くなるものなのか。歌を愛する男の肝が据わっているのか、それとも武術に長けている男が案外話してみれば気さくなのか、俺には分からなかった。

「昨日な、こいつと色々と話したんだ。で、決まった」

 何が、と問う前に、歌を愛する男はずかずかと歩き俺のすぐ目の前に立って、俺の肩をがっと掴んだ。昨日殴られたことを思い出して、思わず身構える。

「考えてみれば簡単な話だった。喉がおかしいなら、その状態で最高の歌を歌えるようにすればいいだけだ。俺たちは不老になった。つまるところ、普通に生きるよりも時間があるってことだ。お前は物語をずっと書いていたかったから、不老不死を望んだんだろ?その邪魔をしてやる。一日に数時間、俺の歌の練習に付き合えよ」

 肩を掴んだ力を強くしながら男は言う。ちらりともう一人の男を見れば、こくりとうなずかれた。昨日、そう話がまとまったのだろう。これだけで場が収まるのならば、軽いものだ。ありがたいことに、騒動を綺麗にまとめてくれたのだ。後で礼を言っておこう。

「了解した。早く最高の歌が歌えるように願おう」

「そうしておいてくれ」

 二年も悩んでいたんだ。おそらく喉の違和感は歌を歌うにあたって、かなりの障害となっているんだろう。となれば、最高の歌を歌えるのは十年後か、はたまた五十年後か……まあそれは分からないが、気長にやっていけばいつかは出来るようになるだろう。焦ることは無い。俺たちは不老なのだから、たっぷりと時間がある。

 軽く昨日決まったことを伝えて、そのまま帰った。明日からは、とある広場に昼食後に行かなければいけない。あと、二ヶ月。書き途中のこの物語を書ききってしまないといけないから、忙しい二ヶ月になりそうだ。




 次のページは、白紙だった。その次のページも、また白紙。白紙のページが続いて、もう書いていることは無いのかと思い始めた頃に、ページが破られた痕跡を見つけた。これを書いた人が破ってしまったんだろうか。それとも、父が破ってしまったんだろうか。本を閉じて、ぐ、と体を伸ばす。

 八百比丘尼伝説の続きの話だと父は言った。山の中にある大きなこの家に、寡黙で優しく、武術に長けている男。日記のように見えるこの本。

「……いやいや、まさかな」

 ふっと思い浮かんだものを、自分で否定する。だってありえないだろう。父が不老の人間だなんて、あるはずがない。これは、きっとただの空想の話で、作り話だ。作り話な、はずだ。

――はは、あはははは!壊してやる、壊して壊して壊して、貴方に不幸を、貴方に絶望を!

 狂った女の笑う声が聞こえた気がして、ぶるりと震えた。不老の者の末路は皆、あのように悲しいものなのだろうか。それは、なんと、辛いものだろう。不老というのは、どれほど、孤独なものだろうか。想像しか出来ないことが、歯がゆかった。

夜遅くまで起きていると、余計な心配やありえない空想をしてしまうからいけない。明日、またこの本について考えよう。そして、その上で父に何かしら聞いてみよう。

 霞がかってきた意識の中で、蝋燭を消して机の上に突っ伏した。リリリリリという鈴虫の鳴く声がまた戻ってきて、私を取り囲む。微睡む意識の中で、その音は、親が子にする子守唄のように聞こえた。

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何年もの時を経て、師は死を選ぶ 若子 @wakashinyago

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