第2話
二人で住むには大きすぎる家の廊下を歩いて、父の部屋の前へと行く。父さん、と外から声をかければ、父はがらりと障子を開けて、無言で本を手渡す。ありがとうございます、と言うと、無言のままで障子を閉めた。
そっけない。いつものことだといえば確かにそうだったかもしれない。けれど……父は私に対してだけこのような態度をとるのではあるまいか。父が死を望むのは、私に原因があるのかもしれない。そう考えて、ぞっとした。
―――もし私に原因があったとして、父に生を望むのは、父と一緒に暮らしたいと願うのは、なんと傲慢なことだろうか。
自分という存在が父に死を選ばせているのだとすれば、それなら……私は、どうすればいいのだろう。分かるような、分からないような、不思議な感覚だった。分かりたくないだけかもしれないな、と息を吐く。とりあえず、本を読もう。このタイミングで渡すのだから、なにかしらの思惑があるはずだ。
本を携えて、一寸先も見えぬ闇を、手元の小さい蝋燭の明かりでかき分けながら進んでいく。リリリリリという鈴虫の鳴く声が辺りに反響していて、周りを取り囲まれたようで。嘲笑のようにも聞こえるその音を煩わしく思った。
自分の部屋に入り、蝋燭を机の上に置く。もらった本をぱらぱらとめくれば、それは物語やお伽話というよりは日記のように見えた。訝しく思いながら、初めのページから読み進めていく。
「もし、旅の方。不老に興味はありませんか?」
若く、美しい女だった。美しい女であったが、薄汚い格好をしていた。何故このような山の中に女がいるのだろう。妖の類のものか。男は警戒をしながら、女に尋ねる。
「……何か用か」
女は気味の悪い笑みを浮かべた。恍惚としていて、しかし仄暗い笑みだった。いよいよこれは人間ではない、と刀に手をやった。
「ああ、そんなに怖がらないでください。私には貴方を害する力はないのです」
確かに刀を携えていないし、自分を倒すだけの力は無いように見えた。しかし、と思う。妖は、人を騙すものだ。この華奢な体の中にどんな力があるのか分からない。この姿でさえ、妖が化けているのかもしれないのだから、油断などできそうにもなかった。
「私を、殺してほしいのです」
「……は?」
「私を殺してください、旅の方。私は特殊な肉を食い、不老のものとなってしまった哀れな女なのです。死の訪れない生など、生きていると言えるのでしょうか。私は、孤独な女です。誰も私に寄り添ってなどくれぬ。いつまでも老いぬこの身を羨ましがられるのです。いつまでも若々しいこの肌を羨ましいと言われる。何が羨ましいのでしょう。ああ、気味が悪い。気味が悪い。人間は、変わるものなのです。それが人間の摂理というもの。いつまでも変わらぬこの身は、人間の摂理から外れてしまっているのです。どうか、どうか私を人間の道へと戻してくれませんか。人は、不老というものが羨ましいのでしょう?きっと、私の肉を食らえば不老になるのです。さあ、さあ、私を殺してください」
そう言って女が男に迫ってきたので、男は慌てて後ろへ下がった。女はこちらに迫ってきた拍子に何かにつまずいてしまったようで、地面に突っ伏してしまい泥だらけになっている。男に、手を差し伸べる勇気は無かった。
何故山菜を採りに来ただけなのにこんな目にあわねばならないのだろう。熊よりかはましだろうか。いや、こちらの方が不気味だ。
手を刀にかけたまま、男は女を注視した。女は起き上がることもなく口を開く。そのまま首を落とされることを望んでいるようだった。
「……不老に興味が無いのでしたら、金銭はどうでしょう。不老になる肉、さぞや金になることでしょう」
男の思考がぐらりと揺れた。不老になる肉。確かに金になる。おそらく売っただけの金があれば、家族をずっと養っていけるだろう。危険を冒してまで山に食べ物を取りに行かなくて済む。男にとって魅力的な提案であるそれは、しかし男の倫理観により寸前で止められた。
人の肉を売って金にするなど、家族に顔向けできぬ。子どもが出来たとして、そんな汚い金でその子を育てるのか。いや、しかし、金。金である。実際、特に何も起きてない今でさえ生活が苦しいのだ。いつ冷害が起こるかも分からない。日照り、不作、徴兵、租税……倫理観は自分を生かしてはくれない。自分を守ってはくれぬのだ。しかし、しかしだ。自分を獣の道ではなく人としての道を歩ませてくれるのは倫理なのだ。倫理観なくして人間は人にはなれぬ。自分が人であるために、人の道を違えないために、倫理は必要なのだ。獣の道へと落ちたいか?答えは否である。
「残念だが、他をあたってくれ」
「何故ですか、何故なのですか。不老はいらないと?金はいらないと?ああなんて綺麗な人なのでしょうか。とても綺麗で、残酷なお人だ。恨めしい、恨めしい。貴方の幸せを全て奪ってしまいたい。貴方の大切な人を全て呪ってしまいたい。いいや、呪ってやる。奪ってやる」
ぶるりと男が震えた。女がのそりと立ち上がってゆらゆら歩み寄ってくる。その目は血走っていて、獣のようだった。
「はは、あはははは!壊してやる、壊して壊して壊して、貴方に不幸を、貴方に絶望を!」
狂ったように笑って、女は男に向かって走り始めた。男は恐怖で何も考えられなくなって、無我夢中で刀を抜く。男の視界が、赤に染まった。
「ってな話のある、いわくつきの肉がこちらになりますぜ!」
そう言って商人は肉が入っている袋をこちらに見せる。前から思ってはいたが、どうにもこの商人は物語を話すような物言いをする癖があるからいけないな。どこまでが本当でどこまでが嘘なのやら分かったもんじゃない。
「……これは本当に、不老になる肉なんだな?」
「そりゃ分かりません。商品になるものに手を出しちゃあいけないってもんですよ旦那。それに、不老になるのかどうかの検証なんぞ出来ませんて。不老なのでしょう?ならばこれを食べてとりあえず自分が五十年は生きませんと。旦那も、それを待っているのは嫌でしょう」
その通りだった。その通りではあったが、何か釈然としない。舌打ちを一つしてドサリと金を渡してやった。
「どうもご贔屓に!ああこれは余談ですが、この肉、仕入れて二週間何もしていないのにこの鮮度を保ち続けているんです。……どうか、取り扱いにはご注意を」
「分かっているさ」
頭を下げる商人を尻目に、肉を持って、数人の仲間たちのもとへと向かう。不老不死を求める仲間たちはこれを見てどのような反応をするだろうか。買えば願いが叶うという壺を持ってきて得意げに買ったときの状況を話していた一人の男は罵声を浴びせられていたなということを思い出して、顔をしかめる。
不老不死などと酔狂なことを言いだしたのは誰だったか。まあそんなことはどうでもいい。俺たちは不老不死を求めるという目的があるからこそまとまっているだけで、各々見ている方向は違うのだ。……ただ中にはかなり腕の立つものがいるから、持ち逃げをしようなんて思わないだけだ。この肉を食って不老になったとして、どうやら不死ではないようなので殺されてはたまらない。
仲間たちのもとへと持っていくとその反応は様々だった。だがその場にいた全員が、その肉を食った。肉は不味かった。特に体が変わったような感覚は無かったので、また外れだろうか。
二日目。体に異常なし。もう俺には伝手も高価なものを買うだけの金もないので、家にこもってつまらない物語を書いた。
三日目、体に異常なし。他の者達も体に何かしらの異変が起こっていないのだろうか。それとも俺が買ったのはなんてことはない肉だったのか。まあそれはそれで良いのかもしれないな。ふっと考えてみれば、良いじゃないか。死がある生もまた、良いもんだ。
四日目。ふらっと商人のもとへと行った。何か面白いものが無いかと思ったが、今日はこれといったものは無かった。商人は自分のことを酷く心配しているようだったので、体に異変はないから大丈夫だと言っておいた
五日目。少し喉のあたりに違和感がある。風邪でもひいてしまっただろうか。大人しく家でずっと寝ていよう。
六日目。喉の違和感は消えない。特に体調が悪いわけではなかったから、定期的に開かれる仲間たちの集会へ。歌を歌うことを愛していた者が苛ついていた。
八日目、特に何も無し。喉の違和感が消えないから、医者にでも行ったほうが良いのだろうか。もしかしたらあの肉を食ったからかもしれないな。医者に行くのはやめておこう。
十一日目。定例の集会。仲間たちに聞けば、全員喉に異変があったらしい。これはもしやすると当たりなのでは無いか。心が浮ついたが、しかし確証は持てなかった。心が浮ついているのは仲間たちも同じようで、不老であることがお偉いさんにばれたら困る。ではどうするか。山に住もう。できるだけ固まっていたほうが良いのではないか。いいや俺は各地を旅する。等々、和気あいあいとはいかないまでも、大いに盛り上がった。とりあえず様子を見よう、とのことで二年後の年が明けてから四日後に集まることとなった。来ていない者も何人か居たので、伝言係を一人が請け負うらしい。
大体三ヶ月が過ぎた。驚いたことに、髭が全く生えない。髪も伸びない。なかなか快適な体になったものだ。二年後、どこかしらに篭もることになるなら今のうちに金を貯めておいたほうが良いだろうから、少しの長編を書いてみようか。また金のある人から声がかかればいいもんだが、なかなか無い。まあ気楽にやろう。まだまだ時間はある。
明日が約束の日だ。興奮しすぎて眠れない。早く寝なければ。これといって時間が決められているわけでもないのだが、それでも明日は早く行きたいのだ。自分がいない間に今後の方針を決められては、たまったものではない。そんな楽しいことを奪われてたまるものか。そうだ、俺は不老だ。不老になったのだ。やはり執筆のいい刺激になった。それに、もう死に怯えなくてすむというのは、なんと素晴らしいことだろう。これからはいくらでも書けるのだ。終わりなくかける。自分の書く世界が、無くなることが無いのだ。ああ、何を書こうか。いや、今は寝なくては。明日。もし寝坊して出遅れてしまったら目も当てられない。
やはりというべきか、自分だけでなく皆も浮かれていた。日が昇り初めた頃にいつもの店の前に着いたというのに、もう複数人ついていたのだ。いつ着いたのかと問えば、昨日日が落ちた頃からだそうだ。ここらは夜あまり治安が良くないと言われるのに。呆れていれば、確か大工を生業とするその男は変ににやつきながら、その口を俺の耳元によせた。
「お前さんも浮かれているんだろ?こんな朝早くにここに来るなんざ、物書きという人間は出不精ばかりだと思っていたが案外そうでも無いらしい」
かあっと顔が熱くなった。いやらしいやつだ。睨みつけてやれば、「おお、怖い怖い」などとうそぶいてさっと離れる。浮ついていた気持ちが急に冷えてしまった。ここでずっと気分が落ちてしまうのももったいない。なんとかして気分をあげようと、近くにいたもう一人に声をかける。
「なああんた、今日はこれからのことについて考えるんだろう?いつから話し合いを始め…」
男がこちらに顔を向けて、話しかけたことを後悔した。この顔は確か武勇に優れている男だ。如何せん、この男はひどく無愛想なのだ。そして眼力が凄まじい。この目は、駄目だ。どうにも苦手だ。その視線がこちらに向けば、蛇に睨まれた蛙のように身が縮まってしまう。
「……もう少し人が来てからだろう」
「そ、そう、だな」
なんとも気まずい。何を話せばいいのか。ここから少しだけ離れてもいいのか。視界の端で、こちらに向かって走ってくる男が目に入る。助かった。そちらに体を向けて、少し大きな声を出す。
「早いな、お前もー…っ」
どうやら今日は運が悪いらしい。男はこちらに近づくなり、俺の服を掴み上げる。この男は歌を歌うことをこよなく愛していた男だった。
「お前が、あの肉を、持って来た野郎だな?」
はい、と答えた。体格のいい男だったので、これは殴られたら痛いぞ、と体に力を入れた。自分は何かしただろうか。不老不死を求めるこの集団に不老となる肉を渡し共有したのだから、感謝こそされど憎まれることは無いはずだ。
「よし、分かった。俺も俺なりに考えたんだ。一発、殴らせろ。良いな?」
「いや待て、待て、話し合おう、な?」
歌を愛す男はひどく興奮しているようだった。声色は落ち着いていたが、目の中に灯っている怒りの炎を隠せていない。今にも殴りかかってきそうな、しかも一発では済まなさそうな様子だった。
「あんたが……あんたが、あの肉を持ってきたんだろう?俺の、夢を、生きがいを、潰したんだよ!」
歌、喉。なるほど、確かに俺がこの男の生きがいを潰したと言える、が、俺の責任なのか。それは違うだろう。俺も喉に異常が出るなど知らなかったのだ。そもそもの話、不老不死のためにはある程度の犠牲は仕方ないのではないか。
「……一発なら、殴られたらどうだ」
耳を疑った。武術を極めている男の声だった。
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