何年もの時を経て、師は死を選ぶ

若子

第1話

「なあ長命よ。俺を、殺してくれないか」


 なんの前触れもない言葉であった。毎日恒例の、修練の後の木刀を使った手合わせ。相も変わらず手の届かない所にいる師に次こそは勝つと息巻いて熱くなっているところに、冷水を浴びせられたような気持ちだった。自分の父親であり自分の師である人間から、そんなことを言われると誰が予想できるだろう。

 赤く。恐ろしいほどに赤く夕闇がじわじわと広がっていくのを感じながら、私は視線を雑草がいくらか生えている地面に固定した。

「……なんの冗談です?」

 師匠の目を、見ることが出来なかった。もし本気であるならば、私はどうすれば良いのだろう。冗談だと、言ってほしかった。

「………いや、何、弟子は師を超えていくと言うだろう」

「まあ……言いますけど」

「だから」

「だから?」

 その先を言わせないために、遮るように言葉を被せた。顔を上げて、師の顔を睨みつける。師匠が死の願望があることなど、それほどの悩みを抱えていることなど、今までに聞いたこともない。死。それはこの一度きりの生を終わらせることである。これといった説明もせず、この師は死を望むというのか。それは、自分勝手ではないか。残された生きる者の気持ちを、考えていないのではないか。

 ふつふつと怒りがこみ上げてくる。この師を、殴り飛ばしてやりたい。そんな気持ちで、私はぎゅっと拳を握りしめた。

「……夕食にしましょうか」

 そろりと一歩を踏み出した後、足がもつれそうになりながらも出来るだけ早く足を動かした。今、師匠の傍に居たくなかった。心臓が、妙に早く動いている気がする。怒りが体の中で駆け巡っていながら、気を少しでも抜けば涙が溢れ出てきそうな、そんな不思議な感覚が体を蝕んでいた。

 家と稽古場は、山間部にある。何故山を降りればそれなりの村があるのに山の中に住んでいるのかは私も知らない。稽古のための木刀を玄関口に立てかけて、手足を洗うため川へと向かう。その際、師匠の横を通り抜けたがその時互いに何も言うことはなかった。

 地面を踏みしめる音。地面に落ちてしまった枝が折れる音。葉を踏む音。風が吹く音。水が流れる音。いつも耳にしているそれらの音が、今日はやけに遠く感じた。代わりに聞こえてくるのは、キーンという、耳鳴り。

 たどり着いた川は、まるで血が溶け込んだかのように、薄い赤色をしていた。

「……冷たい」

 川の水は、いつも冷たい。その冷たさが今はありがたかった。

 父は、何故死にたいのだろう。何が、苦痛だったのだろうか。私は今まで父と暮らしていて、稽古や特訓が苦しいと思うときもあったが、確かに幸せだった。父は、幸せを感じていなかったのだろうか。

 がらがらと今までの美しい記憶が崩れていくようだった。この記憶は、虚構か。それとも妄想か。自分は自分が見たい幻想を見ていただけだったのだろうか。

 いよいよ夜の帳が下りてきそうな気配がしたので急いで家に戻ろうと家の前の広場に戻れば、未だ父が棒立ちになっていた。ちらと顔を見ればその顔はどこか寂しそうで、そして何かを考え込んでいるように見えた。

「……父さん、日が暮れるまでには家に入って下さいよ」

 手足が砂にまみれていた私とは対照的に、師は砂を洗い落とす必要は無さそうだった。私はまだまだ師匠の足下にも及ばない。そのことはわかりきっていて、師匠もそのことを知っているはずなのに、何故、私にあのようなことを頼んだのだろう。

 何故、とは、まだ聞けなかった。弟子は師を超えていく。だから、殺してくれだなんて、それが本心とは思いたくなかった。そして本心が違うところにあったとして、私には心の準備をするための時間が必要だった。……父にとっては、決死の告白だったのだろうか。例えそうだとしても、今、私はそれを受け止めることが出来ない。その話題に触れてしまえば、怒声を浴びせてしまいそうな、そんな感じがした。

 父は私の声が聞こえていないようであったが、もしかしたら聞こえていて、無視をしているだけなのかもしれない。判断がつかないので、ひとまず日が完全に落ちてしまう前に、夕食の準備をしようと思った。今は夏だから、食べるものに困ることは無い。そろそろ冬の蓄えを考えておかないとなと思いながら、畑でいくらかの野菜をもいで、玄関に行き靴を脱いだ。

 夕食の準備をして、さあそろそろ出来上がるぞというところでトントンと玄関の方から物音が聞こえてきた。父は家の中に入るとき、二度つま先で地面を叩いて靴を脱ぐということを習慣にしている。その音は父が帰ってきたことを示す音として私の中で定着していた。昔父に言われたことがある。「玄関口で普段と違う物音がしたら、まず大声を出しなさい」と。こんな山の中に盗賊がくるとも思えないし、来るとしたら道に迷った人だろうに。そういう人は助けるべきではないのか?と思う。父は過剰に私を大切にしているように見えた。その時は鬱陶しいとさえ思ったんだけれど。

 思いきり息を吸って、ゆっくりと吐いた。出来るだけ、いつも通りを装おう。顔をぐにぐにと手で動かした後に、簡単に作った夕食を持っていく。

「どうぞ」

「……ああ」

 沈黙。重くのしかかるような沈黙である。肺が圧迫されて自由に呼吸が出来ないような、酸欠になってしまいそうな、そんな感覚だった。口に運んだ物の味がよく分からない。ご飯を食べている自分が、夢の中にいる別の存在かのようにも思えた。

 早く食べてしまおうと私が急いで口に運んでいると、父がゆっくりと口を開いた。

「……昔、俺が話したことを覚えているか?」

「どの、話でしょう」

 体が強ばってしまって、無意識に手に力を入れた。みしりと箸が音を立てるのを聞いて、慌てて手の力を緩める。

「八尾比丘尼伝説……七百年を生きた、女の話だ」

「ああ……覚えています。最後は洞窟に入って、姿を眩ました、と」

「その話には続きがあってな。確か本があったはずだから、夕食の後俺の部屋に来なさい」

「はい」

 続き。今よりうんと幼い頃に聞いた話について、何故今更話をするのだろうか。

 再び降りた沈黙の中で、父の顔を盗み見た。機嫌は悪くないようであったが、良いというわけでもなさそうだった。あまり表情の変わらないこの父親は、何を考えているのかよく分からないときが多々ある。口数も少ないから、なおさら。そう考えてみたら、私はこの父親について、知っていることがあまりにも少ないように思えた。

 私が生まれてから、大体十七年が過ぎたらしい。その十七年の間、父は自分のことについて自分からは何も話さなかった。私が知っていることといえば、父としての、師としての性格や振る舞いについてと、週に二回村におりて子ども達に刀の稽古をする仕事をしていること。それと山の中で生活するにあたって必要になる山菜や魚などの食料をとる技術やその他諸々について長けていること。そして数年前まで、近くの学び舎に私をいれてくれていたこと。幼い頃、ちょっとした物語を語って聞かせてくれたこと。父が、師がどのような人生を送ってきたのか、どのような人と出会ってきたのか、私は何も知らない。

 ふと、今まであまりよく考えていなかった畑を思い出した。あの畑は私が全て世話をしているのである。今でこそきちんと整備されているが、私が畑をやろうとした初め、あの場所はひどく荒れていた。荒れていたが、確かに昔そこで畑をやっていたのだろうという痕跡が残っていたのだ。そう考えてみると、そもそもこの家はどう作ったのだろうか。……私の母親は、どこにいるのだろうか。なんとなく生きていて、これほどまでに知らないことが多いとは思いもよらないことだった。……まあ母親は多分もう既に死んでいるのだろう。顔も覚えていないし、居たという記憶すらないのだ。そういえば幼い頃、父に一度聞いてみたことがある。私の母はどこにいるのか、と。その時父は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。何を言われたかは……記憶にない。十年十三年ほど前の記憶だ。忘れてしまうのも無理はないだろう。人間は、ものを忘れる生き物であり、脳の容量には限りがあるのだから。

 忘れるというのはとても素晴らしいことだ、と思う。何年も生きていれば悪いことが多く起こるのだ。全てを覚えていたら、きっと発狂して死んでしまうに違いない。いつまでも引きずっていたら、圧死してしまう。忘れるという自然な行為は、人間がより良く生きていくための、人が生きていくための、救済処置のようなものだと私は信じる。

 父の忘れたいことが、なるべく早く忘れられますように。父が、死という消極的選択をせずに済みますように。これからも、一緒に、長く、親子として暮らせますように。不安よ、絶望よ。どこか遠くに行ってくれ。この場所を、壊さないでくれ。父を、私から奪わないで。

 じわりと涙がこぼれそうになって、慌てて手で目を隠した。そろりと父の方を伺ってみると、もうそこに父の姿は無い。

 一言くらい言ってくれれば良かったのに。そう思ったが、考え込んでいて聞いていなかっただけかもしれない。ともかく、早く食べて本とやらを受け取りに行こう。

 温かい夕食は、もう冷え切ってしまっていた。

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