慈愛に至る病

サトウ・レン

慈愛に至る病

 三年ほど前から、私は趣味でweb上にいわゆる実話怪談と呼ばれるものを書いているのだが、趣味と能力は直結しない、というか、残念ながら私自身が霊的なものに出くわした経験は人生で一度もなく、web上に載せられた作品のすべては知り合いからの伝聞をもとに、多少の脚色が加えられたものになっている。


 いつもは会社から帰宅した後、深夜にせっせと書いているのだが、その日は夕方から台風が直撃するという報せと、朝から強めの風が吹いている状況の中で、昼過ぎには全員帰宅するよう指示があり、私は昼間からパソコンの前に向かって、先日会社の後輩で霊感が強いと言われている佐藤くんから聞いた、【一人暮らしの部屋でストーカーのように監視を続ける霊】についての怪談を作っていた。


「先輩も気を付けてくださいよ」


「なんで?」


「先輩も独身じゃないですか」


「私の場合は残念ながら、佐藤くんみたいに霊感がないから、会いたくても会えないんだよ。だから私の場合はストーカーに気を付けたほうがいいのかもしれないね。……あ、あと、独身だから一人暮らし、という考えは短絡的だよ」


「あぁ、恋人と一緒に暮らしてたんですね」


「冗談にしてもそういう言い方は好きじゃないな。まぁ……、恋人ではないけど、可愛いな、とは思うね」


「ペットですか? 人間じゃないなら、一人暮らしですよ」


 ふと彼が、そんなことを呆れたように言っていたのを思い出す。本当に霊に会えるものなら会ってみたいものだ。なんで会いたいと思っているひとの前には現れないのだろう。怖がらないからか……?


 その時、雨風が窓を叩く音が強くなって、思わず肩が上がってしまった。幽霊なんかよりも、私は特に最近、音に恐怖を覚えてしまう。風の音はまだましで、怒鳴り声はもちろん公共の場の他人の急な笑い声も怖かったし、ガムをくちゃりくちゃりとさせるような不快な音も耐えられない。自宅にいる場合だと電話の音も嫌いだが、何よりも嫌いなのが、急に鳴り響くインターフォンの音で、私のそう考えるタイミングを見計らったかのように、来客を告げる音が室内に鳴り響いた。


 こんな台風の日に誰……、と溜め息とともに玄関のドアを開けると、立っていたのは隣の部屋の太田さんだった。


「今日、台風が来るけど、ベランダに余計な物とか置いてない? 風で飛びそうなものはしっかりと部屋の中に入れておくのよ」


 太田さんは三十代なかばの女性で、十歳ほど年齢の若い私に色々と親切にしてくれる。悪いひとではないのだが、親切というのは時にお節介にも繋がり、わずらわしさに感じることもあった。


「今日、朝のうちに片付けたので大丈夫ですよ」


「そう……? あ、あと、最近、夜中に話し声がすこしうるさい時があるよ。前々から一度言おうと思ってたんだけど……。誰も呼ぶな、とまでは言わないから、せめて声の音量には気を付けてね」


「すみません」


 これは私に非があるので、素直に謝ることにした。


 部屋に戻ると、私はひとつ息を吐いた。書きかけになった文章の続きを書こうとして、またパソコンの前に座るが、一度書いた手が止まると、次に書き出すまでに時間が掛かるのが私の悪い癖だ。


 お菓子を買い込んでおいたコンビニの袋に手を入れて、ちょっと休憩でもしようかな、なんて思っていると、ふいに背後から視線を感じて、後ろを振り返ると、私をじっと見据える女の子と目が合った。


「こんにちは。今日は、いつもより早いんだね」


 私は昔から笑顔を作るのが下手だが、このお姉さん怖い、と泣かれてしまったら、さすがに私でも傷付くので、できるだけしっかりとほほ笑みを意識する。この子はなんだか他人に思えなくて、特に嫌われたくない、という気持ちもあった。


 女の子はその黒と茶の間にあるような色をした綺麗な瞳を私から逸らさず、その凛としたとも感じ取れる少女の佇まい、後ろにひとつ束ねた髪、日焼けなど一度もしたことのなさそうな白い肌……まるで人形のような、という表現はひどく陳腐だと思うが、そんな褪せてしまった言葉がまだ色付くことを実感させてくれるような美しさが、少女にはあった。


「また、聞きたいの?」


 最初に会った時、それがいつだったかはもう忘れてしまったが、少女が私に物語をせがんだのだ。とはいえ少女は話せないみたいで、一方的な私の言葉に、首を縦か横に振る、という形のやり取りなのだが。物語なんて怪談しか知らない私の語り聞かせた怪しい物語を少女は思いのほか気に入ったようで、定期的にこの部屋を訪れるようになった。少女が何号室の娘さんなのかは知らないが、ちゃんと帰れているなら、私が心配することではないだろう。


 そしてまた怪談をいくつか語り終えると、少女が手でお腹を押さえて、唇を尖らせていた。


「お腹、空いたの?」


 と聞くと、少女が頷いた。この子が好きなものはなんだろう。分からなかったので、ガムをひとつ手渡すと、少女は嬉しそうにそれを両手で持って、帰っていった。


「帰った、って、どこに、ですか? 消えたんじゃないんですか? ふっと」


「幽霊じゃないんだから」


 この話を後日、佐藤くんに話すと、彼は困惑した表情でそんな不思議なことを言った。それじゃあ幽霊みたいじゃないか。変なことを言うやつだ。まったく。


「それからも、その、ゆう……、その女の子は部屋に来るんですか?」


「うん。来るよ。そう、それであの日から物語だけじゃなくて、ガムまでせがむようになってね。その子は礼儀正しいから、そこでは食べないんだけどさ、最近なんか夜中にくちゃりくちゃりとガムの噛む音がうるさいんだよ。太田さんかな。部屋と部屋の壁ってあんなに薄かった、っけ。まったく、あの子を見習って欲しいもんだよ」


「なんか、僕は先輩が心配になってきました。今日、先輩の家に行ってもいいですか。あぁもうはっきり言っちゃいますね。僕が幽霊かどうかちゃんと確かめてみます」


「何、言ってるの。あの子がそんな幽霊なわけがないじゃないか」


「まぁ、それは行ってみて、僕のほうで判断しますから」


「……ま、来てくれるのは嬉しいんだけどね。ありがとう、じゃあ今日は一緒に帰ろう」


「はいはい。まっ、その鈍感さがあるから、僕は――」


「んっ? 何か、言った? ……もう、そうやってすぐ逃げる」


 気恥ずかしそうな表情を浮かべて、逃げてしまった彼が見えなくなると、私はひとつ息を吐く。そろそろ彼に告白しないと、たぶん待っていても奥手な彼は自分からは言ってくれないだろうから。


「あ、もう会議はじまるよ。休憩時間、とっくに終わってるのに、どこに行ってたの?」


 と同僚の香奈が戻ってきた私に開口一番、そう聞いてきたので、


「うん。ちょっと総務部の佐藤くんと、ね」


「佐藤くん……それって、佐藤省吾くんのこと?」


「なんでフルネーム……? うん。前、ここの部署の後輩だった子」


「すみません、課長! ちょっと席、外します!」


 普段のマイペースな雰囲気からは考えられない、怒鳴るようなその声に、私は思わずびくり、と身体を震わせたが、香奈は気にした様子もなく私の腕を強く掴んだ。引っ張られた腕は思いのほか、強くて、「痛い!」と叫びたくなったが、香奈のあまりの剣幕に私は何も言えなかった。本当にどういうつもりなんだろう。


 トイレの前で立ち止まり、香奈は何も言わず私を見つめている。


「どうしたの、香奈?」


「私だって、こんな経験、初めてだから、なんて言っていいか分からないけど、やっぱり言わないことのほうが耐えられない」


 香奈は泣いていた。何故、泣くのだろう。もしかして香奈も佐藤くんのことが好きなのだろうか。……それは困る。いや友達の恋は応援してあげたいが、私自身が関わってくる、となると話は別だ。こればかりは譲れない。


「ごめん、香奈。香奈の気持ちにきづ――」


 私の言葉はさえぎられた。香奈の言葉によって、それはまったく意味不明で、理解できなかった。


「佐藤くんは、もう死んでるのよ!」


「な、何、言ってるの……。そ、そんな、わけ。冗談でも――」




 救急車の音が聞こえる。まるで私に何か言うのを拒むかのように。うるさい、うるさい、うるさい。病室のベッドだ。お医者さんが何か言ってる。ご臨終です。わけ分からないことを言うな。そんなの誰が認めるか。うるさい、うるさい、うるさい。




 あれっ、ここ、私の部屋だ。さっきまで香奈と話してたはずなのに。香奈と何、話してたっけ。忘れちゃった。あぁでも、今日、佐藤くんと一緒に帰る約束してたのに、ひとりで帰ってきちゃった。どうしよう。怒ってるかな。家に来てくれるよね。


 こんばんは。先に帰らないでくださいよ。


 佐藤くんだ。彼に抱きしめられる、と安心する。体温のある抱擁にいつもどきりとさせられる。好き。大好き。


「本当に、大好き」


 言ってくれるの、あの事故の日以来ですね。僕も好きだよ。この気持ちは変わってない。だから甘え続けていたけど、もう先輩を同じ時間に縛り付けていたくないから。僕は死んでる。もういないんだ。


 身体が冷たくなる。そこには誰もいない。いるはずのひとが、いない。なんで、なんで、なんで。


 だけど私の目の前に、美しい人形のような少女がいて、私は力強くその少女を抱きしめていた。


『自分が親になる、って想像したこともないんですけど、一個だけ昔から願い、っていうのかな……、もしも子どもができて、女の子だったら、付けたい名前があるんです。もし奥さんになるひとから反対されたら諦めますけど』


 あぁナズナだったんだ。そうか、ナズナなんだね。ごめんね。気付くのが遅くて。


「ナズナなんだよね。ねぇお母さん、って呼んで」


 娘は、何も言わなかった。だけど、この子はナズナだ。さらに強く抱きしめる。体温がしっかりとある。彼の生を実感させてくれる。ナズナが生きているのに、彼が死んでいるなんて嘘だ。


 愛してる。私は彼を愛している。彼が私を愛してくれる。私たちがナズナを愛している。それのみが真実で、それ以外は嘘だ。信じるな。信じるな。信じるな。


 スマホの着信が鳴り響く。香奈、と書かれている。


 突然の音だが、もう怖くない。すべての真実を知った私に怖いものは、もうない。


 ナズナの頭を撫でる。


「ナズナ、ガムでも食べて、うちでゆっくりしていてね」


 ナズナが首を縦に振る。さすが、私の娘はお利口さんだ。


 ごめんね、ナズナ。すこし遅くなるかもしれない。


 私は嘘つきから真実を取り戻しに行かないといけないの。

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