「君」の恋は悲恋じゃない

「私と宅守様の恋はどうなったと思いますか?」

 その日、俺は家に帰ってからも佐野さんのその言葉が脳内でずっとリフレインしていたのだった。

 どうして彼女はそんなことを俺に聞いたんだろう。彼女は「本人」なんだから、そんなの俺に聞かなくても分かっているはずだ。彼女なりのクイズなんだろうがそれにしてはその声はやけに悲痛な響きを伴っていて、その雰囲気に飲み込まれた俺はおずおずと言葉を返したのだった。

 少し考えさせてくれ、と。

 我ながら情けないとは思う。それでも彼女に適当な答えを返すのは不誠実だと思ってのことだった。そうすれば佐野さんはきょとんとしたあと「わかりました」と笑ったのだった。

 次の部活は三日後の金曜日である。それまでにどうにか答えを探さなくちゃいけない。さてどうしたもんかな、と思いながら俺は彼女に借りた万葉集をぱらりとめくった。

「天地の底ひの裏に吾がごとく君に恋ひらむ人は実あらじ……か」

『天にも地にもどこにだって私のようにあなたに恋してる人なんていないのだ』

 解説を見れば、そこにはあまりにも一途な恋情が記されている。ここまで激しい恋をしながら、娘子は……佐野さんは宅守に会えなかったのだろうか。

 それならあんまりにも辛すぎる。けれど万葉集のどこを探しても二人が会えた、なんて記述はどこにもない。気になってスマホで娘子について調べても、その恋心の美しさを取り扱っているのみでただただ「悲恋」として扱われていたのだった。

 悲恋は、悲恋としてしか愛されないのか。

 その事実に佐野さんの切なげな顔が重なって、胸がぎゅうと軋む。

 それなら、俺は……

 俺は小さく決意すると、スマホの画面にある文章を打ち込んだのであった。




 それから数日後、俺は大荷物を持っていつもの部室へと足を運んでいたのだった。けれど肝心の佐野さん自体がいつも来る時間を過ぎてもなお来ない。

 いつもだったらこの時間には着いていて、楽しそうに万葉集のうんちくを語っている頃だった。

 別に絶対こなきゃいけないわけでは決してない。それでも何かあったんだろうか、という疑念が胸の内に巣食った結果、俺はおせっかいにも彼女の教室に向かっていたのだった。

 こんなことをしても鬱陶しがられるだけだろうか。彼女が来なくなったらついに幽霊部員以外は俺だけになるな、なんて自嘲しながら進む廊下で不意に見慣れない人物が視界に入る。

 年の頃からして誰かの母親だろうか、と思って横を通り過ぎようとしたときにぱちりと目が合った。なんだか見たことある顔だな、なんて考える俺に対し、その人は驚愕の表情を浮かべて俺を見つめる。

 まずい、なにかおかしかっただろうか。とりあえず軽く会釈をしたあと、俺はちらりと顔を覗き込んだ。

「あの、なにか?」

 そうすればやっと我に返ったその人は慌てて笑みを浮かべると「ごめんなさいね」と謝罪の言葉を述べる。

「その、知り合いに似ていたものだから」

 その言葉に、古びた記憶のドアがノックされてぶわりと蘇ってゆく。そのセリフはいくらか前に聞いたことがあった。そのセリフを言ったのは……

「もしかして、佐野橘花さんのお母さんですか?」

 考えるよりも早く、俺の口から言葉が零れ落ちる。そうだ、俺と佐野さんが初めて出会った一年前、佐野さんはこの文芸クラブに見学に訪れた新入生の一人だった。その時の佐野さんも俺の顔を見てひどく驚いたような顔をした。

 そしていぶかしむ俺に言ったのだ。

 知っている人によく似ていたんです、と。

 部活を決めかねていた彼女は何かの縁だから、とそのまま文芸クラブに入ってくれて今に至っている。

 その時とそっくりそのまま同じことの繰り返しに、俺はある種の確信をもってその人にそう訊ねたのだった。

 一方その人はますます驚いた顔をした後、「ええ」と端的に答える。そう言われてみれば少したれ目がちの瞳や雰囲気がどことなく佐野さんに似ていた。

「佐野さんの所属する文芸クラブ長の守谷正臣です。いつも佐野さんにはお世話になってます」

 そう言って頭を下げれば、佐野さんの母親は眉を下げて笑う。そして困ったような口ぶりで言葉を連ねた。

「こちらこそいつも娘がお世話になっております。うちの子はその、変なことを言い出すから困ったものでしょう?」

 その言葉にはまあ同意しておく。それでも俺がひとりきりでクラブの時間を過ごさなくて済むのは彼女のおかげなのだ。だからあいまいに笑えば、ふと彼女の瞳に郷愁の色が浮かぶ。

「でも、そうね……あなたが先輩だって知ったら、おばあちゃんも喜んだかもしれないわ」

 おばあちゃん?

 突然出てきた単語に惚けていれば、佐野さんの母親は事の次第を理解したのか慌てて口をつぐむ。

 けれど膨らんでしまった好奇心を抑えきれず、俺はつい彼女に詰め寄ったのだった。

「それって、どういうことですか?」




 佐野さんが部室のドアを叩いたのは、それから十数分後のことだった。

「すみません、今日三者面談があるの忘れてて……」

 いつも通り無邪気に笑っていたが、俺が口をつぐんだままなのに何かを察したのか表情を硬くする。

「あの、守谷先輩……?」

 おそるおそるといったようにこちらを窺う彼女に、俺はゆっくりと言葉を紡いだ。

「君は、娘子じゃないんだってな?」

 緊張で思ったよりも硬い声が出てしまったのだけが悔やまれる。おかげで佐野さんは顔を真っ青にしながら震える声で弁明を始めた。

「それ、どこで……」

「君のお母さんから聞いたよ」

 なるべく優しい声色を作ってそう告げれば、今度こそ佐野さんは唇をわななかせる。罰してやろうとかそういうんじゃあない。それでもきっと今彼女は裁かれる前の罪人の気分なのだろう。

 へたりとその場にしゃがみこむと、彼女はつっかえながらも謝罪の言葉を口にした。

「ごめんなさい。ごめんなさい、先輩。先輩はただの私に優しくしてくれたのに……でも、」

 そうして涙ながらに告げられたのは、決定的な一言。

「おばあちゃんの夢をかなえてあげたかったんです……」

 佐野さんが娘子だというのは嘘だったのだ。

 本当の娘子の生まれ変わりは、彼女の亡くなった祖母の方である。

 幼いころから祖母の「前世」の話を聞いていた佐野さんはいつか祖母と生まれ変わった宅守を会わせようとして、それで俺に近づいたのだった。

 祖母の描いた宅守の覚え書きと俺があんまりにも似ていたものだから。

「嘘ついて、ごめんなさい。でも、おばあちゃんと宅守様を会わせてあげたかったんです……!」

 そこからはもう言葉にならなくって、佐野さんはしゃがみこんだまま泣きじゃくる。だから俺はすっかり参ってしまって、彼女の目の前にしゃがみこむと少々乱雑に袖で涙をぬぐった。

「泣くんじゃない。別に怒っている訳じゃないんだ」

 それでもまだひっくひっくと泣きじゃくる彼女をなだめるべく、俺は佐野さんの背中を優しく撫でてやる。そしてゆっくりとした口調で訊ねた。

「なあ、本当に娘子と宅守の恋は悲恋だったと思うか?」

 そうすれば、涙に濡れた黒瑪瑙の瞳が悲しみに緩められる。

「わからないです。おばあちゃんはいつもそこをぼかしてしまったから……」

 けれど、口にしないということはそういうことなのだろう。そう察した彼女は決して悪くない。けれど諦めるにはまだ早いのだ。

 だから俺は佐野さんの手を取ると椅子に座らせてやる。そうして鞄からいくつかの資料を取り出すと、コホンと大きく咳払いをした。

 俺に佐野さんの真似ができるかどうかは分かったもんじゃないけど、やるしかない。

「今日話すのはおなじみ万葉集巻十五だ。『帰りける~』の和歌はこの前佐野さんが教えてくれたな?」

 そう問いかければ、まだ鼻をぐずぐずといわせながらも彼女がこくりと頷く。

「その時のことが、歴史書である『続日本紀しょくにほんぎ』に載っているんだ。長ったらしく書いてあるがつまり……宅守は都に帰さないって言ってるんだな」

 そうして図書館で印刷してきた続日本紀の該当ページを彼女と覗き込む。そこには天皇の恩赦……つまり特別事例として罪を許される人々の中に宅守ら数名は含まれなかったと書いてあった。それに呼応するのが「帰りける」の和歌なのだろう。

「でも、そのあとのことは何も書かれていないんだ。もし宅守が何年も許されずに帰ってこれなかったならそのあとも恩赦されなかったって書いてあるはずだろ。つまり……」

「数年後には宅守様は帰ってきてたってことですか?」

 さすが勉強しているだけあって呑み込みが早い。その事実に佐野さんはしばらく瞳を揺らしていたかと思うと、ゆっくりと俺の方へ振り返る。俺もこくりと頷いてそっと希望を口にした。

「そうだ。つまり、宅守は帰ってきて娘子と会えた可能性が高いんじゃないかと思う」

 離れていたのは数年単位であって、一生じゃない。

 そのあときっと宅守は娘子と一緒に生きられているはずだ。

 そう言った瞬間、佐野さんは花が咲くように笑った。その目には涙が浮かんでいるけれど、けれど決して悲しみの涙ではない。

 声を上ずらせながらも、佐野さんは少しずつ言葉を紡ぐ。

「ずっとね、そう言ってほしかったんです……みんなこの物語は悲劇だっていうけれど、他でもない先輩にちゃんと二人は幸せだったんだって……」

 ああ、だからこの前佐野さんは俺に訊ねたのか。

 望む答えが返ってこないと知りながら、それでも望みを捨てられずに。

 だから俺ははげますように彼女の手を握って言い聞かせる。

「きっと佐野さんのおばあさんは、物語を大事にしたかったんじゃないか?」

 悲恋というのはいつの世も人の心をひきつける。それが実はなかっただなんて知ったらきっと落胆する人も生まれるだろう。

 だからきっと佐野さんの祖母は、口をつぐんだのだと思う。

 その方が物語としては美しいから。

 自分と宅守が幸せに生きた記憶は、自分だけが覚えていればいいのだから。

「佐野さん、前に言ってただろう。俺たちは真実を知りようがない。だからどっちにも捉えられる。それはとっても楽しいことだって」

 つないだ手に力を籠める。そうすれば彼女の桃色がかった瞳が大きく見開かれる。

「彼女たちの物語を、信じよう」

「……はい」

 佐野さんが応えるように俺を手を握り返した。

 こうして、佐野さんと俺の万葉集の日々は終わりを告げたのだった。

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道の長手をへし折って 折原ひつじ @sanonotigami

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