「私」の恋は結ばれない

「そういえば佐野さんって誰の生まれ変わりなんだったか?」

 いつも通りの放課後の穏やかな時間、万葉集についてのレクチャーを受けながらふと気になったことを訊ねれば、佐野さんはピタリと動きを止める。

 そしていつも明るい笑顔を浮かべている顔を精一杯強ばらせて俺に向かって声を荒げた。

「知らなかったんですかッ?」

 さっきまでニコニコしていた彼女の怖い顔に半ば気圧されつつ「すまない」と謝れば、まだむぅっとした様子はあれど佐野さんは納得してくれたらしい。

「私もおっきな声出してすみませんでした」

 そう言って着席するとカバンから万葉集巻十五を取り出してパラパラとめくり始める。そしてもうすっかり折り目のついたページを開くとその白魚の指でぴしりと指さした。

「『私』の前世は狭野茅上娘子さののちがみのおとめです。私たちが詠んだ和歌は万葉集屈指の贈答歌群なんて言われています」

 贈答歌。たしかやりとりをワンセットにした和歌のことだよな。

「相手は旦那様の中臣宅守なかとみのやかもりという方です。宅守様は罪を犯して流罪に遭い、その時に私と宅守様の間で交わされた和歌六十三首が万葉集に収められています」

 ろくじゅうさん。圧倒的な量に言葉を失っている俺に向けて佐野さんはにこにこと誇るような笑みを浮かべている。

「自分で言うのもいいですけど、先輩が気になった和歌を解説したいです」

 そうリクエストを受けたものだから、俺は彼女から本を受け取るといくつかの和歌に目を通す。その中で一つ目を惹くものがあったから、「これなんかいいな」と言って指さした。

「どれですか?」

 横からひょっこり覗き込んだ佐野さんの髪が首をくすぐって、思わず笑みをこぼせば彼女もそれに気づいたのだろう。くすくすと笑いながら擦り寄ってくるものだからたまらない。

「こら、続きを話してくれ」

 笑いながらそう急かせばやっと佐野さんが俺の手元を覗き込んだ。そうすれば明るかった笑顔に僅かに影が差す。けれど俺が何か口を挟むよりも前に彼女はそっと朗読を始めた。

「帰ける人来たれりと言いしかばほとほと死にき君かと思ひて」

 その声は今まで聞いたどんな声より淋しさの滲んだ声だった。こころなしか、少し震えているようにさえ聞こえる。それでも佐野さんは言葉を続けた。

「流罪から帰ってくる人がいると聞いて、もう少しで私嬉しくて嬉しくって死んでしまうところだったのよ……あなたかと思ったの」

 あまりにも切ない別れの歌に、きゅうと心が引き絞られるような心地がした。

「この時私は宅守様に会えませんでした。期待して期待して、それを裏切られて……あんまりにも悲しかったです」

 どうしてそんなにも切なげに俯くのだろう。好きな人のことを話しているはずなのに、どうしてそんなにも悲しげなのだろう。

 もしかして、という予感が胸を貫いて俺は口早に彼女へと問いかける。

「佐野さんは、最後は宅守様と会えたのか?」

 そうすれば、佐野さんの頬に僅かに笑みが浮かんだ。そうして距離を詰めるとじっと俺の顔を覗き込む。

「守谷先輩はどう思います?」

 それは、シンプルな問いだった。桃色がかった黒い瞳が俺を掴んで離さない。

 ごくりと唾を飲む俺に、すがるような声色で佐野さんは囁いた。

「私と宅守様の恋はどうなったと思いますか?」

 

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