忘れたいけど忘れない
「先輩はおまじないってしたことありますか?」
滑らかな声が、俺の耳を優しくくすぐる。
今日も今日とて佐野さんの万葉集講義の始まりの時間らしい。俺は読んでいたヴェルヌをぱたりと閉じると、椅子に座って楽しそうにふんぞりかえる彼女に向き直った。そうすれば彼女の白魚の指がつんと俺の鼻をやさしくつついた。
「ふふ、隙あり」
「あのなあ……俺はそういうのはあまり縁がなかったな」
小学生の頃にクラスの女子がやれ運命の人は誰だとかあの子が私を好きだとか言ってはしゃいでいたのを思い出す。男でもそう言うのが好きなやつはいるだろうが、あいにく俺はそういうのにはとんと疎かった。
「そういうのは佐野さんの方が詳しいんじゃないのか?」
なにせ彼女は「万葉歌人の生まれ変わり」であることを信じているくらいだ。そういうオカルトチックなことには造詣が深かったりするんじゃないだろうか。
そう思って話を振ってみれば、少し困ったように眉を下げた後「あったら素敵だなとは思いますよ」と彼女は囁いた。
「今回の和歌はおまじない……どちらかというと願掛けに近い内容の和歌です」
「ああ、奈良時代や平安時代の人って物の怪とか信じてるくらいだもんな」
今日は運勢が悪いから出社しない、みたいなことがまかり通った時代だ。占いや願掛けに対しての信仰も篤く、そういう和歌が残っているのもうなずける。
「そうですね。占いや呪いと共に生きていた、って感じです」
そう言いながら彼女が取り出したのはいつもの万葉集の文庫本。ただし前回とは違って今回は巻三だ。そしてお目当てのページを見つけた佐野さんが小さく息を吸い込んだかと思うと歌う様に和歌を朗読した。
「忘れ草 我が紐に付く 香具山の
古代の人、香具山好きだな。
それほどまでに愛された山だからこそ今も名前が残っているのかもしれない。
「忘れ草、か。ワスレナグサなら聞いたことあるけど反対もあるんだな」
「はい。忘れ草は身に着けると忘れたいことを忘れることができるというおまじないの植物です。今でいう百合の仲間ですね」
横から万葉集を覗けば、そこには「大伴旅人」と作者の名前が書かれている。大伴、といえば家持くらいしか知らないけれど、きっとその人の親戚か何かだろう。
「この人はそこまでしていったい何を忘れたかったんだろうな?」
「もしかしたら、何か悲しい思い出があったのかもしれませんね……」
そう呟く佐野さんの横顔は、なんだかうっすらとした憂いに満ちていた。触ったら今にも壊れてしまいそうなはかなげな様子に思わず俺は手を伸ばして、そうして彼女の頬をつんとつつく。
「へ?」
そうすれば彼女のくりくりとした瞳が驚きにさらに丸められた。そしてきょとんとした様子でこちらを見据える。
「いや、その……」
なんとなしにしてしまったことだから特に意味もなく、あえて言うなら寂しそうな顔をやめてほしかったから、という理由だがあまりにも気障で口に出すのもはばかられる。
「……さっきのお返しだ」
だから俺は逡巡のあげく当たり障りのない返答を口にしたのだった。
俺の言い訳を聞いて、佐野さんはと言えば不快そうな様子もなくくすくすと笑うと「お返しされちゃいました」と嬉しそうに呟く。そして何事もなかったかのように万葉集の話に戻っていった。
「こうやって和歌から当時の様子を想像したり、うかがい知れるのも万葉集のいいところなんですよ」
いつも通りの、元気で明るい彼女である。
けれど、俺は佐野さんの先輩だ。だから余計なおせっかいかもしれないけれど聞かずにはいられないのだ。だから椅子を引いて少し距離を詰めると俺はまっすぐ彼女の目を見て問いかける。
「……佐野さんも忘れたいことってあるか?」
さっきの寂しそうな様子が頭から離れなくって踏み込んだ質問をすれば、今度こそ佐野さんは眉を下げて笑った。
「あるけど、忘れません」
その様子がひどく大人びて見えて、こんなに近くにいるのに全然彼女のことを知らないのだと思い知らされる。
だって俺は、彼女の先輩でしかないのだ。
「ほら、忘れたらまた失敗しちゃうかもしれないでしょう?」
茶化すような彼女の言葉にぼんやりと頷けば、佐野さんは小さな子に言い聞かせるようにゆっくりと俺に語り掛ける。
「大丈夫です。何かあったら先輩に言いますから」
「そうか、それならいいんだ」
それなら今はとりあえず俺の口出しすることじゃないだろう。
そう思って前のめり気味だった姿勢を正せば、佐野さんがえらそうに胸を張る。
「でもまさか先輩がそんなに私の話を聞きたがっているとは知りませんでした」
「は?」
まずい、何かこれは勘違いしてないか?
俺が訂正するよりも早く、佐野さんは花が咲くように笑ったのだった。
「たっくさん聞かせてあげますからね。万葉集の話!」
そんなことだろうと思った。
その笑顔の前だと訂正する気にもなれなくって、俺は大きなため息を吐くとがっくりと肩を落としたのだった。
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