悲劇は悲劇じゃ終わらない

「今日は三角関係について教えてあげます、先輩!」

 俺が部室に入るなり、佐野さんはずずいと顔を近づけてこう言い放った。後ろから訝しむような目線を感じて、慌てて扉を閉じる。頼むから人聞き悪いこと言わないでくれ!

「……万葉集の話だよな?」

「もちろん!」

 俺の物分かりが良いのが嬉しいのか、彼女がその場でくるくると回る。そうすれば制服の長めのスカートが舞い上がって、お姫様のドレスのようだった。とはいえ、はしたないぞ。

「ほら、踊ってないで今日の講義を始めてくれ」

 窘めるためにそう言って席につけば、俺が乗り気なのがますます彼女を舞い上がらせる。今にもおさげがぴょこぴょこと動き出しそうな勢いだ。

「勿論です!」

 講義代、と言うわけではないがカバンからいくらかクッキーを取り出せば、彼女は「いいんですか?」とこちらを少し伺うように覗き込んで、嬉しそうにクッキーを一枚つまんだ。

 そうして小さい口で歯をたてたあと、さくさくと小気味よく咀嚼していく。

「美味しかったです。ありがとうございます」

「まあ適当に食ってくれ。まだあるからな」

 一枚平らげた彼女は満足そうに笑ってこちらへ頭を下げた。そんな彼女を見届けてから俺も一枚つまんで口へと放り込む。うん、バターのいい香り。美味い。

「それで、えっと……三角関係だったか?」

「はい、今日は三角関係の歌です」

 お互いにさくさくとクッキーを食べながら会話する様はきっとなんだか間抜けだろう。けど他に見る人もいないだろうし、いいか。

 佐野さんはそう言うとティッシュで手を拭ってから本を取り出す。今日も万葉集巻一だ。

 そして彼女はこほんと一度咳払いをすると朗々と歌を読み上げた。

「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相あらそひき 神世より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき」

 耳に慣れた五七五のリズムとは違う、変わったテンポで繰り出される歌になんだか引き込まれてしまう。

「ずいぶん長いんだな」

「はい。こう言うのを長歌って言うんです。よく知ってる五七五七七である短歌の反対ですね」

 なるほど。なんで短歌と呼ぶのか不思議だったがそういうことだったのか。また一つ彼女のお陰で和歌の知識を蓄える。

「しかし……山が出てくるだけだったな。どこが三角関係なんだ?」

 男女がどうとかを想像していた俺としてはなんだか拍子抜けだ。そう素直に口にすれば佐野さんは自慢げに胸を逸らして言い放った。

「これは山の三角関係なんですよ!」

「山の?」

 確かに擬人化という手法は昔っからあるが、まさか山自体に恋をさせるとは……

 発想のスケールの違いにただただ驚いていれば佐野さんが現代語訳を唱え始める。

「香具山は畝傍山を雄々しくて素敵だと見染めて耳梨山と恋を争った。こんなことは神の時代からあったらしく、昔からこうなのだから今でも現実でも人は愛を争っているようだよ」

 香具山、といえば持統天皇の和歌を思い出す。「衣ほしてふ天の香具山」ってやつだ。

 彼女のイメージに引きずられてか、どうしても女性的な印象を受けてしまう。そして雄々しいと褒めているくらいだから畝傍山は男だろうか……

 なんて空想にふけていれば、不意に彼女の顔が間近に迫っていることに今になって気づく。慌てて飛び退けば、佐野さんはにっこりと嬉しそうに笑った。

「先輩もどんどん万葉集にハマっていますね。いい傾向です!」

「一応俺はSF好きなんだが……」

 俺の主張も虚しく、佐野さんが誇らしげに笑うものだから諦めて頷けばますますうすっぺらな胸をそらす。

「さて、この三角関係の歌ですが……実は作者は天智天皇なんです」

 天智天皇といえば、前回の講義で三角関係の疑いがあったうちの一人じゃないか。

「作者と和歌の内容も相まって、これを天智天皇と大海人皇子、そして額田王のことだと捉える人も少なくないみたいですね」

 彼女の言葉に頭がこんがらがってゆく。「あかねさす」は宴席での戯れの歌で、でも他でもない天智天皇が三角関係の和歌を詠っていて……

「先輩は、本当はどっちだったと思いますか?」

 気づけば再び、彼女の顔が眼前に迫っていた。じっと見据えるように彼女の丸っこい瞳が俺を捉えて離さない。しばらくの逡巡のあと、俺はノロノロと口を開いた。

「それは……当人たちにしかわからないんじゃないのか」

 結局どんなに俺たちが議論しようと所詮は紙の上でしか物事をはかれない。彼らがどんなに愛していても憎んでいても、それらは全て等しく紙の上のインクの一滴にしかならないのだ。

 その時感じた愛は、当人たちだけしか知り得ない。

 それはひどく虚しいけれど、同時にとても素晴らしいことだ。

 だからそう答えれば佐野さんはキョトンとして見せた後、一瞬ちょっと寂しそうに笑った。その顔にどきりと胸を高鳴らせている間に、彼女はすぐさまいつも通りの明るい笑みを浮かべてみせる。

「そう、私たちは真実を知りようがない。だからどっちにも捉えられるんです。それってとっても楽しいことだと思いませんか?」

 物語は読み手によってどんな姿にだってなれる。それは全ての読み手にとっての自由であり、救いだ。

「だって、捉えようによってはどんな悲劇もハッピーエンドにできるんです。そんな素敵なことってないでしょう?」

「……佐野さんは、ポジティブだな。眩しいよ」

 俺は悲劇は悲劇として捉えてしまうから、彼女のその前向き加減が羨ましい。だから素直にそう伝えれば、ますます佐野さんは眩しく笑ってこう言ったのだ。

「だって私は歌人ですから!」

 今日も「生まれ変わり」の彼女は万葉集を愛して笑う。

 だから俺はほんのちょっぴりそのおこぼれをもらうべく、今日も部室に足を運ぶのだった。

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