全てが恋とは限らない
そうして迎えた佐野さん主催の万葉集の会in文芸クラブ。参加者は中学部長の彼女と高校部長である俺のみである。だからいつも通りお菓子でもつまみながら……なんて考えていれば不意に彼女が口を開いた。
「先輩は、恋の歌はお好きですか?」
そう囁く桃色の唇が、やけに大人びて見えて思わずどきりと胸が早鐘を打つ。
落ち着け。いくら黙ってれば美人といっても相手は中学二年生だ。高校一年生だから実際には二つしか変わらないけれど、それでも中学生に邪な目を向けるのは違うだろう。
だからコホンと俺は小さく咳払いすると「そうだな」と頷いた。
「あまり聞きはしないけれど、名曲は多いよな。最近だったらアイドルグループの……」
そこまで口にしたところで、佐野さんがガタリと椅子から立ち上がる。垂れ目がちのまなじりを吊り上げて、二つ結びのおさげを揺らして勢いよく頭を振った。
「違います。私は万葉集の話をしてるんですよ!」
わかるか、そんなの。
恥ずかしさに耐えてコメントしたというのに批判を受けるなんてひどいじゃないか。けど今の彼女に何を言っても無駄だろう。
だから俺が大人しく「悪かった」と謝罪の言葉を口にすれば、彼女はちょっと怯む様子を見せたあと「こちらこそ……」とぺこりと頭を下げた。こういうところはやけに素直なんだよな。
そうして気を取り直して彼女に向き合って話を聞いてみる。
「万葉集もだけど、和歌って恋の歌が多いイメージがあるな。今日はその話か?」
百人一首なんて過半数が恋の歌だったような気がする。だから素直な感想を述べれば彼女はニンマリとした笑みを浮かべると薄っぺらな胸を精一杯逸らしてこう言った。
「そのイメージは間違ってはいませんけど、あってもいません。万葉集は恋の歌だけじゃないんです!」
えへんと嬉しそうにしている彼女はすらすらと清水が流れるように言葉を続ける。
「もちろん恋の歌もたくさんありますよ。けど万葉集にはクスッと笑えるようなユニークでおかしな歌もたっくさんあるんです!」
微笑んだ拍子にツインテールがふわりと揺れる。黄昏に照らされた髪が光を受けてきらめいた。
「だから今日は、恋じゃない歌について学んでみましょう」
そう言って彼女が開いたのは、万葉集の一番初めの巻だった。そして透き通るような声で朗々と和歌を諳んじた。
「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」
俺でも聞いたことがあるくらい、有名な和歌だった。確か中学の時に授業で聞いたような……
「夕暮れに染まった紫草の生えている、その禁じられた野原をゆくあなた。そんなに袖をおふりになったら野守が見咎めたりしないかしら」
彼女の口から紡がれる現代語訳は俺が知っているものとは随分違っていた。きっと彼女なりの解釈なのだろう。和歌を読む彼女の横顔は生き生きとしていて、愛しさに満ちている。
ああ、本当に万葉集が好きなんだな。
そのことが感じられて、つられて俺の頬も一人でに緩んだ。けれど一つの疑問が胸を占める。
「それって恋の歌じゃないのか?」
大海人皇子と額田王の禁じられた恋の歌、とかなんとかいってクラスの女子がはしゃいでいたことを思い出す。
すると佐野さんはにっこりと笑って一つの事実を口にした。
「そういう設定で読まれた和歌、という風に最近では解釈されています」
「ああ、佐野さんが生まれ変わりって言ってるのと似たようなもんか」
そうからかい混じりに言ってやればむっとして彼女が唇を尖らせる。
「言いたいことはあってますけど、私は違いますからね!」
ほんとに本物ですからね、なんて騒ぐものだから「わかったわかった」と宥めすかしてやれば、すぐさま彼女は機嫌を直してまた説明へと戻ってゆく……ちょっと単純すぎやしないだろうか。
「この歌は天智天皇……額田王の旦那さんが御幸……公的にお出かけをした時に額田王がついていって詠まれたと言われる和歌です。つまり天智天皇がいる前で詠んだわけです。それに返したのが天智天皇の弟さんの大海人皇子です」
彼女の白魚のような指が次の和歌を指し示す。
「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆえに吾恋ひめやも……紫草のように可憐なあなたを愛していなければ、今は人妻であるあなたにどうして恋をするだろうか、という意味です」
恋、と囁く彼女の目はなんだか寂しそうで、ふとまさか本当に彼女は生まれ変わりなんじゃないかと思わされてしまう。それほどまでにたまに彼女は大人びた目をして見せることがあった。
「これは先程言った通り、一般的には禁じられた恋の歌だとされています。大海人皇子と額田王が昔夫婦だったから、というのがそれを後押ししてるんでしょうね」
なるほど。だからこそ昔の妻に秘めた恋心を伝える男の歌として人気があるのか。しかし、それだと佐野さんの「恋の歌ではない」といった主張とまるっ切り逆じゃないか。だから正直に尋ねてみる。
「これがどうして恋の歌じゃないって言えるんだ?」
内容も境遇も何もかも、恋をするにはおあつらえ向きだろう。これを恋の歌じゃないというのは少し難しいんじゃないか。
そう俺が純粋な疑問をぶつければ、佐野さんはいたずらっぽくくすくすと笑った。
「実は、万葉集って和歌をいくつかのグループに分けているんですよ。恋の歌は相聞歌、でもこの歌は……」
そう言って彼女が指し示す先に目線をやれば、そこには確かに「雑歌」と書かれていた。
「これはどのグループにも当てはまらなかった和歌が集まるグループです。主に宴会とかで詠まれた歌なんかが多いですね」
「つまり、この和歌は恋の歌として見なされていないってことか?」
「そういうことです!」
俺の目の前に彼女の人差し指が突きつけられる。こら、行儀悪いぞ。咎める意味で握ってやれば、すぐさまそそくさと膝の上に手のひらを収めた。わかればよし。
「え、えっと……それでですね、そもそも先程言った通りこれは天智天皇の前で詠まれた歌だとされています。もし本気だったとすればそんな危険な真似を犯すでしょうか?」
「俺だったら絶対にしないな」
もし本当に好きな人に想いを伝えたいのなら、しかもそれが許されないのなら、わざわざライバルの目の前でする馬鹿はいないだろう。
「そう、そもそもこの和歌を詠んだときの額田王は三十代だと言われています。十代で子どもを産むことが当たり前だった上代ではおばあちゃんといっても過言ではないでしょう」
三十代でおばあちゃんなんて聞いたら今の人はひっくり返りそうだけど、そういう時代だったのだろう。
「そんなおばあちゃんにそれよりもっと年上のおじいちゃんが恋の歌を贈る。しかも禁じられた恋の歌を、なんて考えるよりは昔を懐かしんでおふざけで詠んだ、と考える方が自然じゃないですか?」
「なるほどな」
一眼見るだけじゃわからない面白さを見せつけられて、胸の内にたしかにワクワクと知識欲が湧き上がる。
「こういうのなら、たしかに万葉集を読むのも悪くないかもしれないな」
そう、つい口走れば途端に目の前の彼女の瞳に輝きが増した。
「でしょ!そうでしょう?さすが先輩、話がわかる!」
しまった。どうやら彼女のやる気にますます火をつけてしまったらしい。
「恋の歌もそうじゃないものも面白かったり趣深かったりするものがたくさんあるんです。ですからどうか、敬遠せずに読んでみてください」
俺の手の上に手を重ねてぐいぐいと食い入るように見つめながら、満面の笑みの彼女が言った。
「先輩に、好きになって欲しいんです!」
……わかってる、万葉集のことだよな。
ともすれば勘違いしそうになってしまうお年頃な自分の頭が憎い。そんな俺の苦悩なんかつゆ知らず、佐野さんは目を細めると嬉しそうに囁いた。
「来週もまたお願いしますね、先輩!」
どうやらまだまだ万葉集講座は終わりそうにないらしい……
俺は小さくため息をついた後、はしゃぎ回る彼女を宥めるべくまた口を開いたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます